1990-04-01から1ヶ月間の記事一覧

一口に思い出と言ってもいい思い出といやな思い出があるというものだが、時々ある、そのどちらとも判別できない思い出は性質が悪い。いい思い出ではあるから忘れられず、ふとした弾みに思い出されて、そのくせ悪い思い出でもあるから次の瞬間には後悔にさい…

温暖化にヒートアイランド。気温の上昇が日々熱心に、どこか空しく叫ばれる中での大都会であったとしても、師走の夜ともなればそれなりに寒い。だから彼方此方の建物の中では空調がせっせと働き、世界の電力消費量は今日も上がっていく。 都内にあって、決し…

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‡ ……ほう。 案外、残っている物だなあ、となんとなくぶらついていて見つけた、柱の角に目を凝らす。 餓鬼の行動力は余計なところで旺盛なもんだな。 つい、と指でなぞるところには刀傷のように楔形の傷が二つ。亮自身が四年と半年前、ここの台所から拝借した…

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† 「つくづく悪趣味だな、あんた」 いい加減慣れてきたとはいえどこか肌寒いのは相変わらずの、大小さまざまな電子機器が並ぶ部屋のなか、その一辺にあたる、例外的に何もおかれていない壁に掛けられたモニターを前にして、腕組みをして嬉しそうにそれを見つ…

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† 「おや、驚いたな。最初君一人で来た時点で、こちらのお嬢さんは関わらせないつもりなのだと思っていたんだがね?」 「ああ、そうかい」 整然と机と、椅子と、電子機器の類が並べられた部屋の透明な扉を開けるなり、コートを脱ぐより先に、わざとらしく眼…

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‡ 「なん……」 なんだありゃあ。 思わず言葉が漏れた。 少女についてきた亮は、あの鈴のある部屋にいた。狭く、人が二人も入れば息苦しささえ感じるような部屋の中、その壁に据えられた格子つきの窓から亮の視線は外の空を見つめていた。 天を、鳥が覆ってい…

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‡ 足どりは酷く重く、一つずつの歩幅も小さい。それでも、亮は進んでいた。 一歩、社の庭に敷かれた玉砂利を踏みしめるたびに、月影の下うっすらと夜闇に浮かび上がる鳥居が近づいてくる。 少女の背中が消えていくのを見送った亮は、そのまま指定された部屋…

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気分は沈むところまで沈んで、重くてたまらないのに、足は、まるで端から感覚などなかったかのように、さながら宙をあるいているかのように、ふらふらとして軽かった。 つい、数分前までは。 今、亮は走っていた。辿るのは、忘れもしないあの道。ただその眼…

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† 瞼が重い。四肢もどこかだるく、頭もいまいちすっきりしない。丁度、休日に二度寝から目覚めてみたらもう昼前だった、そんなときの気分に良く似ていた。背中に感じる、恐らく布団であろう、柔らかい感触が余計に起き上がる気力を奪い、ともすればそのまま…

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† 『申し訳ないけど、勝手に一つ実験させてもらった』 何故か何かに打ちつけたように痛む肘と首筋と、鈍く響く頭痛を抱えながら、ベッドの上で目覚めた亮に、徹はそういった。 『順を追って話すと、実際君がやったように、こっち側から俗界の中に入る時、俺…

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† 懸案は時に意外すぎるほど簡単に片付くことがある。 亮の思考は、泥沼に沈み始めればキリが無く、自責とも悔恨ともつかない感情の只中で、その一点に拘泥したまま動きを停止するという、亮自身が強く自覚している事実をなお、まざまざと自分に見せつけられ…

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† 「で、盗み聞きはたのしかった?」 「なかなかスリリングだったわよ? あんたは、そういうわけでもなさそうだったけどね」 後ろ手に扉を閉めた凛のすぐ右隣で、問いに答える声があった。 凛の背丈からみればそれなりに上の方から聞こえてくる声に、しかし…

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‡ 全く突然に、一度身体を離れた五感の全てが纏めて帰ってきた、そんな感覚を覚えた直後のことだった。 「うっ……」 周囲の状況を理解するよりも先に後ろからパーカーの襟を無理矢理に引かれて、亮の体が宙に浮いた。そして、 「ちっ!」 わざとらしいほどの…

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‡ 「あんなんでよかったよね?」 「……上々」 両手を腰にあてて尋ねた凛の言葉に、ようやく徹が振り向いて応じた。 「ちゃんと壁は出来たし、これでこの壁の向こうでぼけっとしてるようなら、それはむこうが馬鹿なだけだ」 つまり、亮が馬鹿でさえなければ、…

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ズン……。 背後から聞こえた、腹の底に響くような重低音に亮の足が止まった。 何だ? 思わず振り返るその耳に、乾いた枝を纏めて折る時のような音が届く。しかし音ばかりが聞こえたところで正面にあるのは今しがた自分が抜けてきた林の木々。音源の正確な位置…

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‡ 刃渡りで大の男二人分はあろうかという巨大な刃が、さながら翼のように、左右から水平に奔った。その細腕ではそれを握ることさえとても叶わないであろう凛が、存在から軌道まで全てを想像し、創造することで振るう刃は、途上にあった木々をなぎ倒し、互い…

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‡ アルテメネの掲げた大盾の表面で、黒白の閃光が瞬く。その光が消えきらないうちに、大盾を構えたまま地を蹴ったアルテメネの体は宙を駆けるように跳び、着地と同時、盾の背後に忍ばせた突撃槍の切先を相手の方に突き出して。 「……!」 一瞬で盾との前後を…

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‡ 「重……い、なっ!」 「無駄口利く余裕があるなら言ってくれ。いまいちどのくらい加減したらいいのかわからないんだ」 象牙色の鍵爪が地面に食い込んで、その周囲に畝のようになった土の嵩が増す。その爪をさながら堅牢な鉄格子のように地面に突き立てた力…

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‡ 「っ……あ、くっ……」 意味も無い音が、亮の口から漏れていた。左膝の少し上から全身へ広がるその感覚は痛みと言うよりむしろ体内で炎が燃えているかのような熱さに近く、その灼熱をどうにか紛らわそうと、肩は強張り、息は荒く、言葉も意識を離れて垂れ流さ…

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‡ 「っ……あ、くっ……」 灼熱に似た痛みに喘ぎ、地に着いた手で意味も無く木の根に爪を立てる。投げ出された足の下には石畳があって、踵から伝わるその堅さは骨を伝って患部に響き、出来る事なら柔らかい土の上に移してしまいたいとは思うが、それ以上の痛みを…

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「あなた……」 「智様!」 目にするのはまだ二度目でも、その格好は一度見ればそう忘れるものでもない。それに、その声だけなら、耳元で囁く奇妙で独特な声として亮の耳に染み付いていた。 ただその主が目の前の色白の男であることに、本人を目の前にしてよう…

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「っ……」 息を呑む亮の視線が刺すように向かう先で、少女が確かに自分を貫いている智の腕に視線を落とし、それを見て、ゆっくりと智の顔を見上げる。 「どうしてですか……」 その声が掠れる。白衣の背中に血の色が広がって、いくらか下向きにつきこまれた智の…

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「貴方達……!」 その声は、すぐさま身構えた「暁の巫女」のもの。その表情は、既に「暁の村」の管理者として流れ人に対するときの、あの毅然としたものに戻っていて、亮もそれにならう。そして、 「よう。今頃戻ったのか」 その声が、亮と「暁の巫女」の背後…

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それは放たれた「飛鳥」がアルテメネの持つ大盾に弾かれた音。当然それは彼女に危害を及ぼさず、突撃槍も当初の予定通りの軌道を真っ直ぐに突き進んでいて。 「この程度か」 最初に口を開いた智の、右手に持った細身の剣が、アルテメネの左肩にその身を埋め…

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‡ 「っ……!」 突然、腿の辺りを微かながらも確かな痛みに襲われて、亮は飛び起きた。 横倒しになるように、石畳の上に身を横たえていた亮は、既に反射で凛から与えられた盾を張り出していて、その球体の内側で痛みの大本へ右手と視線をやる。場所は、左の肩…

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「『アダム』を通してみる限り、少しは面白そうだと期待したのに、他人に恵んでもらった盾が使い物にならなくなった途端に何も出来なくなるのか。えらそうに俺の前に立ちふさがってアレを守る振りまでしてみせておいて、いざアレが悲鳴をあげだしたら何もし…

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‡ 時刻は数十分遡る。 目覚めた徹の目には、世界が霞んでいるように見えた。そのまま二度、三度と瞬きを繰り返して、ようやく視界が鮮明さを取り戻す。同時に自分が体を横たえていることに気がついて、立ち上がろうと、下にある右前後肢に力をこめて、直後胴…

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「で、判定は?」 「……六十点」 「低っ!」 落ち葉を払い落としていた手を思わず止めた徹の台詞に、凛が「当たり前でしょ」と応じながら額から手を離す。 「『お前がいてくれなきゃ、俺が困る』って。他に言うことあるでしょ? せっかく人が素直に甘えてるの…

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‡ そして、今。 亮の目の前には黒々とした毛皮纏った巨大な獣の姿があった。姿かたちから大きさまで、まるで未知のその姿と、そこに確かに感じられる強靭さに亮の視線は釘付けになって。 「よかった、まだ生きてて」 そこに別な声が投げかけられた。 見上げ…

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‡ 肩に剣を担いだまま、亮は少女を見上げる。 十字架に掛けられた「暁の巫女」たる少女。いざ彼女を助け出そうにも、丁度亮の胸の辺りに彼女の足が来るような位置にその身を吊るされたままでは、亮にはどうしようもない。幸い亮の右手には手放す機会をつかめ…