20

  ‡ 
「っ……あ、くっ……」
 灼熱に似た痛みに喘ぎ、地に着いた手で意味も無く木の根に爪を立てる。投げ出された足の下には石畳があって、踵から伝わるその堅さは骨を伝って患部に響き、出来る事なら柔らかい土の上に移してしまいたいとは思うが、それ以上の痛みを与える根源たる突撃槍で貫かれたままのその脚を動かせるはずも無く。結局身じろぎ一つろくに出来ないまま、亮は地に伏していた。
 アルテメネが何か言っているのが聞こえる。ただ、もっと別なことに占拠された亮の意識には、その声がどこかノイズじみて聞こえた。
 どうして……。
 意識を主導する痛みの、時折訪れる合間を縫って、疑問が浮かんだ。
 亮の目の前には、否応なく視界に飛び込んでくる、暗い金属光沢を宿した突撃槍の姿がある。それは、その円錐形の底面の辺りを少しだけ外に残したかたちで、確かに青い膜状の盾の内側を、外から貫いていた。
 本当であればこの盾の内側にいる限り、その外からの危害は受けないはずで、だから本来ならば疑問はその「はず」にそぐわない現状に向かうはずだった。しかし、亮の疑問はもっと別の場所に向かっていた。
 亮には、アルテメネの槍に自分の盾が抗えると思った理由がわからなかった。それは例えば間違えた数学の問題を見直して、最初にその問題を解いた時に確信を持って1+1=3と書いているのを見つけたときのような感覚で。我事ながら理解のしようの無い重大な間違いに、思わず内心で疑問を投げかけざるを得なかった。
 どうしてあんな……。
「つぁっ……!」
 だって、あの槍は全てのものを貫く槍なのに。 
「アッぐ……!」
 突然アルテメネが槍の柄を握って、左脚から全身に走った痛みに声を漏らしながらも続けた内心の独白の後、勢い良くその槍が引き抜かれて、先の比でないその衝撃に思わず跳ねるように身を折った。取り合えず自由は取り戻した左脚はどこか軽く感じられて、急に感じた吐気のような気持ちの悪さを、自ら痛みに意識を集中することで押し流す。特に努力するまでも無く意識は簡単に激痛に占拠されて、盾の外の会話は音としての認識もあやふやになって。自分の思考までもが飲み込まれそうになるのだけは、それを反芻することで防ぐ。
 そうだ。あの槍に貫けないものは無い。あんな盾を用意しても何の意味も無かったんだ。大体、だからこいつはあんなに自信満々で俺に向かって槍を突き出したんじゃないか。あの時点で変だと思っても良さそうなものなのに。畜生馬鹿か、俺は。
 左脚の虚無感を無視できる程度には痛みを意識しつつ、同時にともすれば脳髄を埋め尽くされるのではないかというその勢いに、取り止めのない思考で対抗する。
「っ……!」
 そこに突然、一度引き抜かれたはずの槍を眉間に突きつけられ、思考が停止した。直後、意識が猛烈に痛みを認識して、拳を握り、歯を食いしばってそれに耐える。
 っ……、ん?
 それを押さえ込んでいくらか平穏を取り戻した亮の意識に、別の疑問符が浮かんだ。
 何でそんなことを知ってるんだ?
 ふと思えば、亮はアルテメネの槍が槍である以上にどのようなものかなど、一度も聞いていない。知る由も無かったはずだ。なのに、どうしてそれを知っている?
 勘違い、例えば盾の存在を無視して自分に危害を加えたその槍を前に咄嗟に行った合理化の産物を、そうと意識せずに受け入れていた。どう考えても自分がアルテメネの槍の持つ能力など知るはずがない、という事実に、そんな可能性を思いつく。しかしそれを認めることは自分が知らずの内に理性を捨て、いわば妄想にとらわれていたことを認めることで、そこには直感的な抵抗があって。
 そうだ。
 他のものならどうか。アルテメネの創造した槍について「分か」るなら、ほかの創造物についてもなにか「分か」るかも。あるいはそこに手がかりがあるかも知れない。そう思い至って、刃を突きつけられている手前首は動かさず、視線だけで周囲を探る。そして、程なく、視界の上部に向いた視線が、「飛鳥」の光を手に宿した、この世界の管理者たる少女を見止めた。思わず目を細め、意識をそちらに集中させようとする。
 しかし駄目だった。既に見て知っている、光の鳥が飛び、閃光を放ち炸裂し、翼で切り裂く、そういったことは分かっても、目に見えない何かが「分か」ることはない。
 じゃあ何だ。
 突然知り合いの写真を見せられて反射的に思い浮かべるその相手の名前。それぐらい自然に「この槍は全てのものを貫き通す」という知識が当の槍を目の前にして意識に浮かんでいるものだから、なかなかそれを捨てられない。だがそれが事実だとして、それを亮が得られた理由は考えられず、また手がかりも無く。
 やっぱり勘違い? ……というか、大体それが本当だったところで、問答無用で突き刺されるなら防ぎようもないし、……ん?
 亮の意識が持ち前の臆病さを発揮して白旗を揚げようとした折、意気と並んで高度を下げた視線がそれを捕らえ、捕らえられた。
 端的に言うなら、それは少し歪曲した鉄板だった。アルテメネの持っていた大盾、今は半分になって彼女の腰の辺りに吊るされているそれの、片割れ。もともと亮の後ろにあったはずのそれが、亮が倒れ、さらに一度だけ派手に身じろぎするうちに、くの字に体を折った亮の腹のすぐ前に転がっていた。
 そして、なにより一目でそれは「分か」った。
 「受け止めた全てのものから必ず持ち主を守り抜く」
 ……いや、これは……。
 あらゆるものを貫く槍に対して、あらゆるものから守り抜く盾。「矛盾」の故事を地で行く組み合わせに、亮の意気は高揚するどころか脱力した。確かに突撃槍以外にも分かりはしたが、これはいくらなんでも出来すぎている。逆に、本当に自分が妙な方向に想像力を発揮してしまっているのではないかと、不安にさえなる。
「っ……!」
 自棄じみて気が緩めばすぐさま左脚の傷痕が存在を主張して、走る痛みに盾やら槍やらどころではなく歯を噛み締める。出所不明で確証のない知識に頭を抱えてみたところでそれ以外に今亮の手元にあるモノなど、そのありがたくも無い脚の傷と底から来る激痛くらいのもので。自分の体の向こう側を見透かすことはないように目を閉じて、気持ち体を丸め、細く意気を吐いて、痛みを散らすことに集中する。
 その首筋が引掻かれた。
「ぐぁっ、っ……!」
 目を閉じていたが故にまるで接近に気付かなかった突撃槍が首筋に触れた途端、何か強く引掻かれたような感覚に丸めていた背筋が伸び、閉じていた目は声を吐き出した口とともに開かれて。かと思えば急な動作に刺激された左脚から遅れて痺れのような痛みが走って、反射で展開した盾が瞬いて消える中、すぐに再び背を丸めることになる。そのように創造することによって焼き鏝のように過熱された突撃槍はその痕跡をくっきりとした火傷として亮の首筋に残し、その周囲が痺れたような、あるいは引きつったような痛みが鈍く尾を引いた。
 くっそ……。
 柄にも無く胸中で悪態をついた。左脚と、首筋と。鋭いながらも周囲に広がっていく痛みと、鈍く局所的な痛みと。さらに、それに耐えようとするほどに度合いを増す偏頭痛のようなこめかみの痛みも相まって思考の意識に閉める割合が目に見えて低下するのを感じつつ、視線を盾の外に向ける。
 まずは、亮が首筋の火傷に飛び上がっている間に再び眉間に向けて突き出された槍が、次いでそれを握るアルテメネの笑みが目に入る。それはもはや「浮かべる」などと言ったものではなく、笑みを下地に少しだけ真顔をかぶせてみたようなもので、真っ二つの大盾、それを柄にかけられたナイフの上下に平行に並ぶ、ところどころ破損したナイフの鞘、汚れ、乱れた黒いドレス等々が逆に彼女の立姿を際立たせて見えた。
 え?
 その堂々とも言うべき気風に違和感を覚えて、視線を横へ、「暁の巫女」に移す。そして、違和感が決定的になる。歓喜と言っても良い笑みを浮かべたアルテメネに比して、「暁の巫女」たる少女の表情は苦々しげの一言に尽きた。その手に宿した「飛鳥」の光はどこか、先に亮が見たときよりも小さくなったような気さえして。
 何があった?
 間抜けにもそんなことを一瞬考えて、即座に理解した。
 そもそもアルテメネの目的はこの世界を通じて神界に行くことで、管理者の少女や亮などはその途上にあった障害に過ぎない。そして今、亮は手負いでまともに動くことさえ敵わず、その護りは意味が無い事がわかっていて。その亮に未だに槍を向けて少女二人の様子に妥当な現状など、一つしかない。
 亮を人質に、アルテメネが神界へ行かせるよう要求している。
 脚をアルテメネに貫かれ、痛みに倒れたその時から亮の頭にあったのは突撃槍のことだけで。それはきっとやっと登った戦線から、負傷したことで早くも離脱したようなつもりになっていたからで。そんな亮は、自分の存在がこのような意味を持とうとは思いもしなかった。
 こっ……の、糞……!
 気付いた途端胸中で漏らした自身への悪態も、痛みと怒りが相まってまとまりの欠片もない。盾で「暁の巫女」を護る事が出来て、自分は彼女を助けられるつもりになっていた。しかし例えば自分が今こんな状況に無ければ、この世界の管理者である少女はなんのためらいも無くアルテメネに向かっていって、現状をひっくり返してみせる。これでは結局……と、いつもならそのままずるずると自責の泥沼に沈んでいくところなのに、脚と首筋の傷がそれを許さず、行き場をなくした感情が怒りとして発散されることさえなく、蟠りとして亮の内に渦を巻く。
「何を迷うの? なんならもう一回くらいさっきのしてあげても良いんだけど?」
 痛みにも多少慣れてきたのか、あるいはようやくまともに亮の意識がそちらに向いたということか、アルテメネの声は亮の耳にも聞き取れて。その台詞に何を言い返すことも無く、ただ様子を見るように佇み続ける「暁の巫女」の姿がもどかしい。
もういっそ、そのまま無言で飛び掛ってくれれば良いのに、と思った時だった。
「……あなたからも何か言ってくれない? ずっとこうしてるのも疲れるのよね」
 思いがけず、アルテメネから声が掛かった。それに意表をつかれたのは亮だけではなかったらしく、「暁の巫女」がそれまでの彼女にしては露骨に目を見開いて、視線を亮に投げる。
「さっきから大人しいし、ずっとこっち見てるし、状況は理解できてるでしょ?」
 ほら、とアルテメネが槍の穂先で少し額に触れる。思わずのけぞった亮の予想に反して熱くは無かったものの、亮が突然動いたことで額が切れて、一筋血が鼻を伝った。
 そしてその痛みに、傍には促されるままと映るであろう拍子で亮の唇が薄く開いた。
 アルテメネにしてみればこれでさらに「暁の巫女」にプレッシャーが掛かればよし、もし亮が命乞いでも使用ものなら僥倖といったところだろう。しかし、勿論亮にそんなことを口走る気はさらさらない。痛みが感情を安定させず、どこか興奮気味であったことも幸いして、いつもより簡単に、言葉が口を突いて出るような気がした。
「必要ありません」
 そこに「暁の巫女」が割り込んだ。それは丁度亮が視線を再び彼女の方へ向けた直後のことで、出鼻を挫かれた亮は開きかけた口をそのままにするほか無い。
「亮は何も言わなくとも大丈夫です。何か手があるかもしれないと思いましたが、無駄なようですから」
 少女が腕を宙で振って、「飛鳥」の光を霧散させる。
「『神門』を空ければ良いのですね?」
「そうよ」
 分かりました、と応じた少女が体の前で両手を重ね、一歩踏み出す。アルテメネの視線が注意深くそれを追い、用心とばかりに槍を首筋に当てられた亮は、どこか追いすがるような視線でそれを追う。
「……『神門』は屋敷の中の一室でしか開けないのですが?」
「ついてこいって? 冗談じゃないわ。こいつから離れた途端に何かされたんじゃたまらないもの。準備が出来たら、屋敷を壊せば良いでしょ?」
「そう、ですね」
 頷くように目を伏せた少女が、あからさまに身を強張らせたアルテメネの横を何事も無くすり抜ける。
「まっ……!」
 待て、と言いかけたところで、首筋に槍の穂先が触れ、「暁の巫女」は振り返りもせず歩を進める。
彼女を止めたい。これまでも彼女には護られた。自分は彼女に迷惑を掛けた。それでも、これは別格だ。彼女は亮を護るために、自分の命よりも優先した管理者としての職務を放棄しようとしている。そんなことを、望んではいない。それなのに、こんなときに亮にはそれを止められる言葉がなくて。
 どうすれば……どうすればいい?
 自問する声は空しく虚空に投げかけられては消えるようで、それに抗おうと奥歯を噛み締める。それでも考えることにあてはなく、亮の視線は下に落ちる。
その視線が、それを捕らえ、捕らえられた。
 それは、先に亮が見つけた大盾の欠片だった。アルテメネの大盾が「飛鳥」によって両断され、今は地に伏した亮の腹に抱かれるような形になっているそれ。亮が読み取った――ということにすれば――その性質は「受け止めた全てのものから必ず持ち主を守り抜く」。
 よく考えてみれば、その盾としての性質は「矛盾」の故事に登場する盾とは似て非なるものがある。故事の中で商人が売ろうとしていたのは「いかなるものにも貫かれない盾」であったが故に、「いかなるものも貫く矛」と並べて売っていたことの不条理を客に指摘された。しかしそれが「必ず持ち主を守り抜く盾」であればどうか。少なくともその性質は、いかなるものも貫く槍と競合しない。
 ひょっとして……。
問題はありすぎるほどある。持ち主が貫かれないように刃との間の壁として盾が用いられるのであって、その壁が貫かれることと持ち主が傷つくことは違う、などというのは論と呼んで良いのかすら定かでない屁理屈だし、そもそも持ち主というのがアルテメネなのか、その時点での携帯者なのか、それとも別の誰かなのかも分からない。何より、亮のこのどこからとも無く得られた知識が信用に値するものなのか、確証は得られていない。
 いや、でも、と思いなおす。このままなら、この世界からアルテメネが神界に向かうか、亮が人質としての価値を見限られてアルテメネに槍の一突きで放棄されるかの二択あるいはその両方。対して盾を信じた場合、うまくいけば亮はアルテメネの配下を脱し、アルテメネを神界に逃がす心配もなくなる。
「……っ!」
 再び、でも、と失敗の可能性を考える前に意識を痛みに差し出し、思考を中断、ついでに勢いに任せて槍から一度離れるように身をよじり、盾を抱き込むように丸まる。右手に無骨な金属質の表面が触れて、他に手は無いと言い聞かせても指先は震えて、痛みは、ついさっきそちらに意識を集中させたせいか、どこか度が増したような気がする。
「どうしたのよ、突然」
「亮……!」
「あなたはさっさと行きなさい!」
 怪訝そうにアルテメネが声をかけ、それに振り向いた「暁の巫女」には顔も向けず声を荒げる。それに少女がどう応じたのか、亮には見えない。ただ少なくともアルテメネの視線が注がれている事はわかり、生唾を飲み込んで、金属板に左手を添える。
「紛らわしいことしないでくれる? 逃げようとしたのかと思って刺しそうになったじゃない」
 言いながら、アルテメネの槍が首筋に迫る。その気配は亮にもうっすらと感じられて。
「……」
 両手で金属板を握りしめ、強まる動悸を感じながら意識を背後に集中して。
「っああ……!」
 髪が槍に撫でられたのを感じた瞬間、左脚の痛みを犠牲に、反射的に肘の力で無理矢理に体を起こした。起き上がりながら上体を捻り、目を見開いたアルテメネの視線と自分の視線を絡ませる。身体はよりによって左腿を土台とすることになり、上体を捻れば火傷した首も回すことになって、動きを止めた瞬間叫び出しそうな痛みを火に注ぐ油とばかりに勢いにのり、右足を立ち上がらせる。そこに、硬直は一瞬に止めたアルテメネが最短距離で亮の胴目掛けて槍を突き出していて。しかしその行く手を遮るように。
「私の盾……!」
 アルテメネの言葉は金属同士がぶつかる音に混じったのと既に痛みが尋常でなかったのとでよく聞き取れなかった。ただ亮に分かったのは、両手で腹の前に据えた盾が抵抗らしい抵抗も見せずに突撃槍が身を埋めるに任せた光景で。
 ああ、やっぱ駄目だったか。
「亮!」
 その光景にぼんやりと諦めたところに、横合いから割り込むように「飛鳥」が飛来する。それに舌を打ったアルテメネがひとまずやり過ごそうと後ろに飛びずさって。
 うお……?
 その時、体と串刺しにされたはずの盾までが何故か強く引かれて、掌の汗に滑り、思わず亮は手を離した。
 おかしな物があった。距離をおいたアルテメネの手が握っているのは先程までと同じ突撃槍の柄。問題の槍も、確かに盾を貫通している。ただ奇妙なことに、盾の裏側に槍が出たところでその先端が滑らかにつぶれ、金属板から槍が抜けなくなっていた。
「こっの……!」
 亮よりも先に事態を把握したアルテメネが、迷わず槍であったものを放り捨てる。
「一対の僕 我が下僕 共に身をこの手に委ね その名の役を果たし通せ!」
 叫んだその手には、完全な形で再現された一対の突撃槍と大盾。それが創造されきる前に既に身を蹴り出したアルテメネは、放たれた黒い「飛鳥」を掲げた大盾で受けて亮に肉迫する。もとより物理的にそれに対応できるはずのない亮が身を強張らせ、反射的に張り出された青い盾のうちに円錐形の先端がもぐりこむ。
「飛鳥!」
 そのまま突きこもうとした槍を止め、アルテメネが飛び上がり、足元に飛来した光の鳥をやり過ごす。僅かに後方、着地と同時に身を屈めたアルテメネの姿は大盾の後ろに隠れ、そこにさらに「飛鳥」が四羽。ある程度散開して炸裂したそれが閃光を上げ、大盾一面を覆う。
「これで……!」
「させません」
 それでもなお、石突の間近を握って、閃光に紛れて槍が突き出される。その横に、「飛鳥」もかくやという勢いで走りこんできた「暁の巫女」の白衣の袖が舞った。細腕で繰り出す掌底が円錐形の側面を弾き飛ばし、空いた胴に緋袴を翻して反対の拳、さらに蹴撃を叩き込む。二撃、まともに下腹部に受けたアルテメネの身体は軽く宙に浮いて、石畳を転がった。
「亮、大丈夫ですか」
「ん、あっつ……!」
 盾を消した亮を背中に、倒れ、咳き込むアルテメネに向き合う少女。その声に応え、平静を装い姿勢を正そうとして、首筋と膝をついた左脚の痛みに平衡を保てず、倒れかけたところを彼女に支えられる。乱れた黒髪が鼻にくすぐったいのも、痛みでそれどころではなかった。
「その傷です、無理はしないでください」
 顔はアルテメネの方に向けたまま、亮の踵の後ろの石畳をつま先で踏みつけ、そのまま垂直に競りあがってくるように創造、そこに亮を腰掛けさせる。屈伸運動にまたも左脚が悲鳴を上げたのに一瞬だけ亮は顔を顰めて、
「ありがとう」
「いえ。本を正せば私の油断が発端で貴方を矢面に立たせてしまった上、その状況を貴方が打開してくれた。せめて後は、私が」
 言って、少女の細い腕が亮を離れ、再び亮に背を向ける。その視線の先で、傍目にも奥歯を噛み締めているのが分かるアルテメネが、おぼつかない足取りで立ち上がる。
「まだ、ですか」
「あたり前でしょ……!」
 流石に二度目、しかも二発くらったのが響いたと見えて、かすれる声で応じる顔色は悪い。それでもアルテメネは大盾を正面に掲げて、一息に横へ放り投げた。勢い良く石畳に落ちた大盾は、それだけで粉々に砕けて散った。
「……」
「共にその身をこの手に委ね その名の役を果たし通せ」
 「飛鳥」を放とうと上げかけた腕を途中で止め、無言で盾の残骸を一瞥した「暁の巫女」を他所に、アルテメネは新たに大盾を創造する。それを杖の代わりにすることなど無く、既に腰溜めに構えた槍を隠すように正面に掲げて。
「これで、仕切りなおし、でしょ?」
 そう言って亮と「暁の巫女」を睨みつける。対する少女も、無言でそれを受け止める。その佇まいに亮が思わず身震える心地がしたのが一瞬のこと、
「赤白青黒四色の鳥 四方より集いてこれを払え 飛鳥」
 呟くようなその声同様に小さく、しかしいつに無く強い光が「暁の巫女」の右手に集い、直後、亮には注視していなければ目で追うことも難しい速度で、四羽の「飛鳥」が放たれる。しかし、いかに速かろうとその軌道ではアルテメネの大盾に受け止められることは亮にも分かって、当然アルテメネも身じろぎ一つしない。
「こんなもの……」
回復してきたのか、未だ苦しそうな顔に笑みを浮かべるアルテメネの大盾に、錐揉み状に軌跡を描くそれは乱れもせず、命中する。ただ、そこに閃光は瞬かなかった。
「え……」
 驚きに声を漏らしたのは亮。四羽の「飛鳥」は盾に受け止められない。そのかわりそのまま金属板に溶け込むように、いとも簡単にそれを突き抜けて、直後、強引に軌道を変え、上下左右へ飛び去って行った。
「ちっ……」
 中央にぽっかりと穴の空いた大盾の向こうに、顔をしかめたアルテメネの顔が覗く。
 二度目だった。一度目は自身を突き破った槍が変形して攻撃性を失い、二度目は直進していた「飛鳥」が突然軌道を変えて飛び去った。どちらも、あの大盾の持ち主は傷ついていない。
 本当に……。
 「受け止めた全てのものから必ず持ち主を守り抜く」。捨て切れずにいた疑念が確信に変わろうかという亮の目の前、
「やはり、当たりませんでしたね」
 未だ手元に光を宿したままでいる少女が言った。対するアルテメネは追撃を恐れてか、元の半分以下の大きさになった盾の残骸を掲げる。
「一切の攻撃を素通りさせて見せた亮の盾も大概おかしなものでしたが、貴女の槍は唯一それを貫いて見せましたね」
「だから何だって……!」
 静かに語る少女の言に応え、前に踏み出そうとしたアルテメネの足元へ、放たれた白い「飛鳥」が飛来する。出頭を抑えられ、アルテメネはせめて槍を構えなおすほか無く、牙をむくように顔を歪めて舌を打つ。
「そして、その槍も、そちらの盾を貫いたときには妙に変形して亮に危害を加えられず、私の『飛鳥』もその盾を破った途端に妙な方向へ飛び去った。槍も、盾も、なにか概念的な性質を付与してあるのでしょう? 大方、破られても所持者に危害は及ぼさない盾、と言ったところですか、亮?」
「え?」
 そんな風に推測できるものなのか、と半ば感心していたところに突然疑問の先が自分に向かって、反射的に聞き返した亮に、少女が意外そうに視線を投げる。
「神界人である貴方には少なくともあの盾の性質が分かった。だからあの場であの欠片に頼ったのではないのですか?」
「あ、いや……」
 完全な間違いではないが、かといってそこまでの確信などない博打だったとは言えず、言葉を濁す。
「破られてもっていうか、『受け止めたものからは絶対に持ち主を守りぬく』っていう感じだと……。あ、あと槍の方は多分『何でも貫く』」
 それでも、まだどこかためらいながらもそう答えたのは、彼女もそのように推測するなら、いよいよ本当に自分の見た物は正しいのかもしれないと思ったから。それに、
「なるほど、……どうやら、図星のようですね」
 応えて視線を戻した少女の言葉に目をアルテメネの方へ向ける。そこに、目を見開いて、盾を下ろし、構えもどこか崩れた彼女がいた。
 創造したものに特別になにか性質を付与する場合、最大の留意すべき点はその実状を相手に知られないことだ。使い勝手の悪い性質も使う機会を選びさえすれば、実体を知らない相手には強い抑止力を持つし、逆にどんなに強力な能力もその仕組みが分かれば大概どこかに穴がある。だから能力者はなにより、自分の扱う創造物のもつ性質、能力を知られまいと注意する。
 アルテメネの槍の能力が「いかなるものも貫く」というだけなら、当たりさえしなければ害はないということで、自由に動けるのであれば「暁の巫女」が一切のアルテメネの攻撃にかすりもせずかつ優位に立ちうることを、三人とも知っている。
「……だから何?」
 それでもなおアルテメネはそう言った。
「それだけとは限らないでしょ!」
 一声、槍を持つ右手で背中からナイフを二振り、抜き払い、前方と上方に投じる。刃は宙を走りながらブレるようにその姿を増やし、十数の槍衾となって襲いかかる。その刃の群を前に、「暁の巫女」が右手を振るった。
 「飛鳥」ではない。それは彼女がその場で創造したなんの変哲もない金属塊で。最前線に放り出されたそれが刃の一つと衝突し、互いに軌道を妨げあって、質量で劣る刃がはじき出される。
 それを見止めた少女が、突然、ふらつくように一歩後ろへ退がり、
「おい……」
「亮、盾を」
「え?」
 支えようと伸ばした手が今少しで届こうかと言うところで踏みとどまったその背中から投げかけられた台詞に一瞬呆けて、直後、目と鼻の先に迫った黒刃が視界を掠め、反射で張り出された青色透明の球体の中を、前方から、次いで上方から、刃が亮と少女の体を素通りし、石畳に転がる。金属音が余韻を引いて、それが静まってから、
「ありがとうございます」
 視線を投げてくる少女の言葉を合図に、どこかぼんやりと盾を消す。
 「暁の巫女」たる少女に「盾を」と頼られた。これまで亮を護るために向けられるばかりだった背中に、頼られた。それもあまりに突然で、軽く思考が停止していた。
「どうやら、他の物にその槍のような能力を付与することはできないようですね」
 少女が一歩踏み出しながら言う。
「それとも、その槍に別な能力があると?」
「当たり前でしょ!」
 叫んだアルテメネが石畳を蹴って駆け出す。手には、ナイフの雨を降らせている間に創造し直した突撃槍と大盾。今度こそは「暁の巫女」が狙いなのか、それともまた亮が目的なのか、まっすぐに飛び出してくる。
 ただ、根本的に初動が遅すぎた。あるいはそこまで回復できていなかったのか、勢いに欠いた突撃に、腰に引きつけて構えた槍も、その脇にぴったりと添えて体の全面を守るように構えた大盾もどこか迫力が削げて見えて。それに、
 嘘だ。
 まだどこか思考の鈍い頭で、何の疑いも無く、そう思った。亮はアルテメネの槍と盾に他の能力などあり得ないと思った。それは最初にその能力を知ったのと同じ、出所の分からない、そのくせ妙に確信じみた直感で。ただ、今、亮の気はその直感を信じきれるほどに大きくなっていた。
「亮」
「ああ、あれは……」
 アルテメネが飛び出した次の瞬間、少女に呼びかけられ、直前のアルテメネの発言の真偽を告げようと口を開く。ただ、言葉はそこで途切れた。
「うっ……? おおおおおお!」
「跳びます。掴まって」
 内蔵が全部纏めて下に引っぱられたような心地がした。明らかに警告よりも先に、わき腹に差し入れられた少女の腕に抱えられ、亮の体が飛び上がる。吹き抜けていく風が腿の傷口の内側を満遍なく撫でて、首筋の火傷は叫んだ瞬間に皮膚が引きつって痛みが走り、突然重力に逆らうことを強いられた驚きに口を突いて出た叫びが、次第に痛みへのそれに変わる。一方で、強制的に触れ合う少女の腕は肩に負けず劣らずほっそりとして、こんな場面でもなければ折れてしまいそうだとさえ思えそうで、投げ出された腕で自分も少女を軽く抱き返すような形になった亮の頬を彼女の黒髪が触れていき、すこし首を横にやれば、少女の白い頬と触れ合うのではないかと思えて。
 ふと、息が止まる心地がしたところに間髪を入れずに痛みが腿から全身に走り、ひとまずはそれに歯を食いしばる。その眼下で、先程まで亮が座っていたせり上がった石畳がアルテメネの突撃槍に突き崩される。
「このっ!」
 うっ、お……!
 振り返る勢いで投じられたナイフが自分の背中めがけて突き進む光景に、思考する余地もなく盾を張り、黒い刃が彼方へ飛び去っていくのを見送る。思わず軽く、安堵の息を漏らしたところに、
「上々です」
 少女が言って、ふ、とその場に着地するかのように軽くひざを曲げ、両の足をそろえて居住まいを正した。
 しかしそこは紛れもなく空中であるはずで、だから、少女がいかにも地上にいるかのように背筋をただしている光景はなかなかに不自然で。実際自分は未だ重力が地表まで引きずり下ろそうとするのを感じながら、平然と離れていこうとする少女の細腕に慌て掛けた瞬間、
「亮も、立てますよ」
「え、っ……!」
 疑問符の部分を発音するより先に、突然何かの上に立っているのを感じて、左脚に走った痛みに言葉を切る。
「大丈夫ですか?」
 バランスを崩した亮を支えて言う「暁の巫女」に大丈夫、と応え、そのまま彼女に支えられながら左膝を立て、右足だけで胡坐をかいたその下に視線をやる。しかしそこに足場らしきものは見えず、ただ地面が数メートル下にあるだけで。すぐに眩暈がしてきて、そのまま地面に叩きつけられそうで、慌てて顔を上げる。
「何のつもり!」
 アルテメネが、見上げて叫ぶ。
「降りてきなさいよ!」
 突撃槍を一文字に振るい、どこかかすれた声を張り上げる彼女に「暁の巫女」は応えず、代わりに隣を一瞥して、
「手、ぬきますよ」
「ん、ああ」
 応える亮を、支えた腕を引き抜ききるまで見守って、ようやく視線を下方へ移す。
「ああ、なんだ。逃げるわけじゃないのね」
「まさか」
 構え直して頬を吊り上げるアルテメネに、少女は顔に掛かった髪をかきあげ、
「時に」
 と、目を細めて語り出した。
「その盾、随分と脆くなったとは思いませんか?」
「は?」
「貴女の持っているその盾です。はじめのうちはあれだけ飛鳥を受けても平然としていたのに、先ほどは、いくら言霊に乗せたとはいえ、たった四羽を受け止め切れなかった。それどころか、貴女自身が放っただけで砕け散ったではありませんか」
「……それが?」
「それに、貴女は亮を逃がしたあたりから、その槍と盾を創造するのにいちいち言霊を使っている。はじめは何も言わずにやってのけましたね?」
 確かに言われてみれば「暁の巫女」の言う通り。しかしその意味が分からない亮はただ二人のやり取りを見守るばかりで、いい加減麻痺しながらも、時折走る痛みに歯を食いしばったりするほかない。
「私はそんなことに全く興味、無いんだけど」
「転機は」
 不満の滲み出るような声色で応じるアルテメネの言を無視した少女に、アルテメネが眉を顰める。
「転機は、私が『飛鳥』で貴女のお連れの方を射抜いたときではありませんか?」
「……は?」
「あの直後でしょう、たった一羽の『飛鳥』で、初めてあなたの盾が破壊されたのは」
「そんなもの」
 いかにも「あきれた」と言わんばかりの声で言って、鼻で笑う。
「この盾にだって限界はあるわよ。そのまえにあれだけくらってたら、壊れてもおかしくないじゃない」
「ええ、そうですね。でも、確か貴女の言うところでは、お連れの方は私達に姿を見せる前からずっと『観戦』していたのでしたね?」
 その一言が、何か核心に触れた。そう、亮にも分かるほど露骨に、アルテメネの表情が険しさを帯びる。
「しかも彼は貴女の傷を治して見せた。……能力による生体への干渉は困難を極めます。当然治療も。まして他人の治療など」
「へぇ」
 ふ、と視線を投げられて、最後の方は幾分亮への説明もかねていたのだと気付き、短く了解の意を伝える。
「そして、概念的な性質を被造物に付与することは、その性質が目に見えにくいが故に実現も、維持も難しい。貴女の槍と盾も例外ではないはずです」
「……だから?」
 一言、呟いて、突然アルテメネが構えを崩す。右手に握った突撃槍を、手の内で回して逆手に持ち替え、それを緩慢な動きで肩の高さまで持ち上げて。
「それが何だって言うのよ!」
「亮! 目を閉じてください!」
「え! はっ?」
 槍投げの要領で投じられた突撃槍が、暗い金属光沢にどこか遠くで燃える炎の色を映して風を切り、迫る。それが自分を目掛けて飛んでいると認識するや否やといった折、「暁の巫女」に叫ばれ、訳も分からずそれに従う。
 っ……!
 閉じた瞼の裏に、直前に見た光景の続きを想像して、歯を食いしばる。反射で、今は無意味な盾が張り出されたのを感じる。ここで何かできるとすれば、亮の知る限りそれは「暁の巫女」の「飛鳥」しかないが、それを発する声も聞こえない。言うまでもなく、彼女を信用しないわけではない。しかし、一か八かという瞬間に光を閉ざされた亮には、ささやかな不安が幾倍にも膨れ上がって感じられる。
 どうなって……?
 耐え切れず、うっすらと瞼を開いて
「……っ」
 驚いた。直線距離にして恐らく一メートルと少し。亮の臍の辺りの斜め下で、突撃槍がぴたりと静止していた。
「能力が使えれば、当然物体の移動や静止もその下に扱えます。今は槍を制止したのですが……、ごめんなさい、亮。あなたが直進する槍を見続けて自分に向かう槍の姿を意識しすぎるとその認識が障害になるので、少し席を外していただきました」
「うん。いや、いいよ……っ!」
「っと……、引き戻させるわけが無いでしょう」
 槍が空中で動いて、亮が身構える横で、少女が視線を槍に、次いでアルテメネに移して言う。
「それに、今更これを手元に引き戻したところで何の意味もないでしょう。どうせこれは、これから崩れて消えるのですから……ほら」
 言いながら少女が視線を再び槍へ。そしてその最後の一言を合図に、一瞬突撃槍が震えて、次の瞬間、弾けるように霧散する。
「思ったとおり、これで、あなたの槍も盾も使えない」
 息を呑んだ亮が、少女のその言葉につられて視線を落とせば、アルテメネの左手にあの無骨な大盾の姿はなく、全くの空手になった両の掌を唖然として見下ろす彼女の姿があった。
「彼女はあの槍や盾を創造する事は出来ても、それを常に意識し続けて、創造を更新し続ける事が出来なかった。と言うより、先ほどの槍を止めた時の手ごたえの無さから見て、そもそも存在を更新すること自体が出来ないのでしょう。そこで、別の流れ人の協力を得た。他人の傷の治療と言っても、いちいちもとの状態を想像してことにあたろうと思えば、相手の普段の身体のありようを完全に知り尽くしていなければなりません。実際はむしろ、無条件に特定の時点以前の状態にあらゆる対象を引き戻すようなものだったのでしょう?」
 突然少女が言葉の先を亮からアルテメネへ、瞬間的に創造した赤い「飛鳥」とともに向け、ナイフに手をかける彼女を制止する。
「そして貴女は一切の創造物の存在の更新を彼に任せていた。だから、今貴女が創造する物には『存在の否定』に抗う術が無い。終わりですよ」
 静かに告げる少女に、アルテメネは無言で、しかし表情はこれまでになく歪めて、動こうか、留まろうか、どちらつかずといった様子で肩を強張らせ、身震える。
「亮、降りますよ」
「あ、うん」
亮の言葉を受け、少女が顔をアルテメネの方に戻すと、同時に見えない足場がゆっくりと高度を下げ始め、最後には分厚いクッションの上に腰を落とすような、ともすれば沈みこみそうな感覚を残して、亮と石畳の間から消えた。
「もう良いでしょう、アルテメネ」
 さながら獣の威嚇、実は低く唸っているのではないかというアルテメネに、正面から向き合い、一歩ずつ近づきながらあくまで静かに語りかける。
「あなたが何を望んだかは知りませんが、私達は結局俗界の者です。神界で扱える力はあくまで神界の方々の物。その線引きは、決して間違えてはなりません。私達は、自分に与えられた世界で満足するだけの自制心を持つべきです」
「五月蝿い!」
 アルテメネが、咆えた。
「あんな世界で満足しろ? ここに来る前、私がどんな生活してたかも知らないくせに! 人間扱いなんてされなくて、結局ちょっと見た目が他より良いだけのただの道具でしかなくて、他所の誰かが汚したらもう誰も見ようともしないで……! 管理者なんて偉そうな椅子に座ってこっちの事情も知らずに片端から切り捨てて、五月蝿いったら無いのよ! 黙ってなさいよ!」
 片手は勢いのままに振り回し、もう片手はシルバーブロンドの髪を掻き乱し、首を振り、言葉を吐き出す。それが終わって、最後に叫んで、アルテメネが項垂れた時。
「ええ、知りません」
立ち止まった「暁の巫女」の一言に、アルテメネが目を見開き、食らいつくように首を上げた。
「例えあなたが三日と生きられないような世界に生を受けたとしても、それは神界にすがる理由にはなりません。何があっても、俗界人は自分の世界でしか生きてはいけないのですよ。どのような場所であれ、それが自分の世界として受け入れて、そこが気に食わなければあくまでその世界の内だけで対処する。神界に頼ろうな度と言うのは、怠慢と無法以外の何者でもない。そうでしょう」
「……五月蝿い」
「アルテメネ……」
「五月蝿いって言ってるの!」
「っ!」
 叫び、跳ね起きたアルテメネの両手には、二振りの黒刃。それは身構え、「暁の巫女」へ視線を送る亮ではなく、「暁の巫女」たる少女自身へ向けて振るわれて。
「諦めなさい」
 彼女は一言、そう言って、直後黒刃は音も無く霧散して。
「朔の夜闇 音無の風 光の射手は天を駆ける」
 歌うように呟く少女の右手は正面に突き出され、すっと伸びたその人差し指が、駆け出した勢いで前に身を乗り出したアルテメネの顔に向けられて。
「光矢」
「あっ……!」
 最後の一言で何かが起こって、あまりに静か過ぎる声を残して、アルテメネが崩れ落ちた。
「何したの?」
「前方にだけ光を発して、意識を刈り取りました。亮に見せるのは初めてでしたか?」
「……どうだろ?」
 首をかしげる亮に「暁の巫女」は静かに笑い、その視線をもう一度アルテメネの方へ落とす。動くものといえば、風に揺れて石畳の上を流れる髪とドレスの裾だけで。
「……念のため、早く済ませておきましょうか」
 言って、少女がアルテメネの脇に屈みこみ、その背中に手をかざす。
「散在する世界の守人共よ 今こそ集いてこれを聴け この罪深き旅人を あるべきところへ導きたまえ 空門」
 呟かれたその口上の終わりと同時に、アルテメネの身体を取り囲むように、石畳の上にくっきりとした円が描かれる。それを見止めた「暁の巫女」たる少女が一歩、退がってその円の外に出ると、ふっ、と円の内側が一瞬で黒く染まり、横たわるアルテメネの体が目に見えてそこに沈み始めた。
「もう、馬鹿なことは考えないことです」
 返事の無いまま穴に吸い込まれていくアルテメネに最後に言って、少女が踵を返す。
「あちらの流れ人も空門を通してきます。もう少し待っていてもらえますか」
「ああ」
 体の前で両手を重ね、滑るような足取りで、もう一人、「飛鳥」に四肢を打ち抜かれたまま倒れている、煉瓦色のコートを着た流れ人の方へ歩いていく。例え白衣や緋袴がところどころ破れ、露になった素肌に血の痕があったとしても、その姿はやはり凛として揺らぐ様子も無く。
 馬鹿なこと、か。
 それを肩越しに見送りながら、亮は内心でため息をついた。
 この世界の管理者、「暁の巫女」を、亮はこの世界を離れ神界に来るよう、これから説得しなければならない。しかし当の彼女は、俗界の人間が神界に行くなど、いかなる事情があってもしてはならないと切り捨てた。
 理解だけならとっくにしていた。何度も彼女自身の口から聞かされ、一度本気で拒絶されてもいるのだ。今更、と言ってもいい。それでも、改めて「馬鹿なこと」などと言われると、胸が狭まるような思いがした。
 でも……。
 視線を、石段の側へ向ける。亮の立つ場所は石段の最上段からはもう少し奥まったところで、だがもはやそんな場所に座り込んだ亮からでも、この世界の現状は見て取れる。ぽっかりと、山も、川も、村も、えぐられたように、あるいは今それに取って代わっている闇に飲み込まれたように姿を消して、ところどころで燃える炎の灯りが、その闇と、本来の夜闇との境をうっすらと照らし出す。具体的に何が起こっているのか、亮は知らないしわからない。しかし、そこにはもう、かつて亮がこの世界の管理者たる少女と出会った静かな泉も、着いてくる彼女を背に走ったあぜ道も、あるいはその下で再会し、ともにその下を飛んだ冬の寒空も無くて。加えて視界の後方に残る鳥居の残骸に、あえて視線を送る気にはならない。
「空門」
 「暁の巫女」の口上が終わり、亮の視線が背後で立ち上がる彼女を捕らえる。その身を覆う白衣には肩口から背中にかけて少し大きな穴があって。そこから、雪のような少女の素肌が覗いていて。もうそろそろ丸一日前と言うことになるのだろうか、風鳥の背中で四年半前とほとんどかわらないと思ったその背中は、徹に聞いた俗界の成り立ちについての話を思い返しながら見れば、四年半前と全く変わっていなくて、そこに、初めてであったときの背中も、亮が何もできず傷つくに任せてしまった背中も重なって見えるようで。
 これが、そもそもの目的だし、な。
 舌が乾きそうなのを唇をなめて誤魔化して、ためらいに胸がざわめくのは少し大袈裟に息を吸って、その圧迫感で押さえ込んで。
「終わった?」
「ええ」
 尋ねた背中が、振り向き応える。
「二人とも、この世界の外へ帰しました。今度は亮の傷を……」
「ご苦労様」
 割り込んだ、すぐ耳元で囁くようなその声は、亮のものではない。ただ、亮にももう幾度か聞き覚えがあった。一瞬目を見開いて視線を辺りに巡らせる「暁の巫女」を視界の隅に見ながら、ゆっくりと視線を正面に戻して。
「『暁の村』の主、『暁の巫女』。相変わらず管理者の努め、ご苦労様」
 多分その位置は亮が徹たちと別れ、この石畳の敷かれた空間に出てきたのと同じ場所。やや大きく、立った襟に、裾はところどころ擦り切れたスーツ。皺がところどころに見える革靴に、長めの黒髪と白い肌。細い目で笑顔を作る、篠沢智がそこにいた。