21

「あなた……」
「智様!」
 目にするのはまだ二度目でも、その格好は一度見ればそう忘れるものでもない。それに、その声だけなら、耳元で囁く奇妙で独特な声として亮の耳に染み付いていた。
 ただその主が目の前の色白の男であることに、本人を目の前にしてようやく気付き、そしてなんら脈絡無く、突然再び彼が現れたことに驚いて、呟くように呼びかけた。その、亮の声に覆いかぶさるように「暁の巫女」たる少女が言い、亮の横を駆け抜けて、男の足元に正座した。
「申し訳ありませんでしたっ……!」
 その細い指をそろえた両手を地に着いて、少女の上体が滑らかに、乱れなく折れて、その黒髪が横顔を隠し、石畳に広がった。
「任せて頂いたこの村への流れ人の侵入を許した挙句村自体を護りきることもできなかったばかりか、先程林の中でお姿を拝見した際にもこちらでちょうど流れ人の姿を見止めたため、声をかけられませんでした。どうか、お許しください」
 謝罪の言葉を綴った後に、少女がさらに上体を倒して、その額が石畳にかすかに触れる。ところどころ傷を負ってなお美しい彼女が土下座をしているというのはそれだけでいくらか奇妙な光景で、加えて亮にとって彼女はそんな貧相な姿からは程遠いはずの存在で。しかしかと言って彼女と目の前の男の関係もよくわからない以上口を挟むこともできず、足と首筋の痛みに顔をしかめながら、その様子を見守るほか無い。
「止めろ」
 代わりに、男、智が制止の言葉を発して、少女の顔が少しだけ上がり、亮の視線は男の方へ向かう。
「どれもこれも過ぎたことだ。それよりも、先にすべき事があるだろう?」
 落ち着いていて嫌味な響きは無いのに、妙に耳につくその声で、言った智の視線が亮のそれと交わる。
「随分、手ひどくやられたらしいな? それが本当の体じゃないからまだいくらかごまかしが利くが、もしここらの人間だったらとっくに倒れてるし、ろくに動けもしないはずだ」
 革靴で小気味の良い足音を立てながら、智が亮のほうへ近づいてくる。それに、立ち上がって一度軽く袴の膝を払った少女が小走りに追いついて、彼より先に亮の横に膝をついて座り込んだ。
「有難うございます。丁度、お呼びしようと思っていたのです。ここで流れ人と遭遇する前に、林の中でお姿を見かけておりましたので」
「ああ」
 少女がまた頭を下げて、ゆれる黒髪がその顔を隠す。それを見守る亮の気持ちもやはり落ち着かないままで、気の無い返事で少女に答えながら近づいてきて、左脚の傷を覗きこむ智の様子を遠慮がちに窺う。
「あっちから来た人間に馬鹿みたいに死なれてたらいろいろ面倒で、もともとそのために手元においておいた力なんだ。気にするな」
 言って、智の目が亮の視線を捕らえて、
「再生っと」
「っ……!」
 直後の声にならない悲鳴は亮のもの。全く、何の前触れもなしに額を指で弾かれて、予想以上の、さながらコンクリートに頭を打ちつけたような衝撃に、首が大きくのけぞった。
「これで、こっちの世界のための身体データがリロードされた。傷も火傷も消えた」
「あ……」
 文句を考える間もなく、首を戻しかけたところに言われて気がついた。そういえば、ほとんど天を仰ぐまで首を動かしておきながら、じっとしているだけでぴりぴりと痛んだ火傷がまるで感じられなかった。はっとして、首筋に恐る恐る手をやれば、痛みなどまるで無く、特別滑らかと言うわけではないがまあ普段と大差ない自分の素肌が感じられて、はたと視線を落とせば、グロテスクに抉れたような様を見せていた傷痕どころか、当然一緒に貫かれて風穴を開けたズボンまでが修復されて、当然底にもまた、あの全身が痺れるような痛みは毛ほども残されていなかった。
「有難うございます、智様」
「あ、ありがとうございます。あの……」
 踵を返す智に対し、再び頭を下げる「暁の巫女」に釣られるように、亮も軽く頭を下げて。ただついでに聞きたい事があって、ためらいがちに言葉を繋げる。そこに、
「自己紹介がいるか」
「あ、はい……」
 足を止めた智に先を越され、曖昧な返事で肯定の意を示す。ためしに動かしてみた左脚はなんら支障なく動作して、そうとわかると一人だけ無様に脚を伸ばして座り込んでいるのは居心地が悪く、ゆるゆると、智にあわせて亮も立ち上がる。
「春日徹からこっちの世界の成り立ちについては?」
「あ、大まかには……」
 徹の名前が出て、反射的に緊張する。確かに、凛が与えてくれた盾はおおむね役に立ってくれている。しかし、この「暁の村」について間もないうちに突如として徹に襲われたことも忘れたわけではない。根本的に徹を危険視するつもりは無いが、それでもあの荒々しい獣のような腕の有様はまだ十分鮮明に思い出せるし、その真意が分からないが故の不安もある。それを誤魔化して応えた亮の言葉に、智は何も言わず振り向いて、
「俺が、その開発者、篠沢智だ、渡来亮」
 その癖の強い声色で、随分と平坦な口調で、端的に智は言った。
篠沢智って……。
その名前も、彼が俗界を作り上げたことも、亮は徹に聞いて知っていて、ただ、彼が俗界を完成させた後、何をして、どうしているかは聞いていないし知りもしない。だから、緊張のままに、軽く身構えた。
 智が開発した俗界を、今は徹が管理している。妥当な線を推測すれば、この二人は仲間のような物だろうと、亮には思えた。
徹が襲ってきた時も、亮は直前までそんなことを考えてもみなかった。例え傷を治してもらったとはいえ、徹の仲間、しかも凛と違い、ほとんど一方的に言葉を投げかけられたことしかない智が何をしてくるか。それが友好的なものか、敵対的なものか、亮にはおよそ見当がつかない。
「それにしても、これは酷いな」
 そんな亮のことなど気にも留めないと言った様子で、言うだけ言った智が、再び亮に背を向けて、少し、亮の緊張がほぐれる。智はそのままゆっくりと、石段の縁の方へ歩いていき、その後ろを、体の前で両手を重ね合わせた「暁の巫女」が滑るようについていく。
「現状維持どころか、原型をろくに止めてない」
「申し訳ありません。私の力不足です」
「止めろといったはずだ。謝辞なんて、鬱陶しい」
 本当に何も存在しない、ただ広がるだけの黒々とした空間、跡形もなく消えた林や村のあった場所を見て、はき捨てるように言う。その横に控える「暁の巫女」が軽くうつむいて、あわせた手でくっと拳を握る。どこか置いてきぼりにされたような亮は、二人の声こそ聞こえてもそこに割ってはいる余地など無く、ただ二人の背中をやや遠巻きに見守るほかない。
「で、この後はどうするんだ」
「ご命令のとおりに、最後までこの『暁の村』の管理者としてすべきことを全うするまでです」
 その言葉には相変わらず淀みがなくて、何故か智も黙り込んでしまったことによる沈黙の中、またも亮の胸は痛む。何度考えても、彼女に、よりによって『暁の村』を捨てることを提案し、説得するというのはそう簡単に肝が据わることではなくて。
 ……そうだ。
 そこではたと気がついた。視線の先にいるこの男、智ならば、「暁の巫女」を説得できるのではあるまいか。彼女の過剰とも見える対応を見るに、彼の言葉は多分、亮などのそれよりもずっと「暁の巫女」にとって重みがある。それに、彼の「命令のとおりに」と言った彼女の台詞から見て、徹の説明どおり、この世界の管理を彼女に命じ、拘束したのは、俗界の開発者である智で間違いないのであろう。ならば、もし彼がその命令を撤回するような事があれば、彼女はこの「村」に縛り付けられる理由が無くなる。
 あるいは……。
 と、さらに浮かんだその思考の先を意図的に中断した。目の前の男がこの世界を含む俗界の開発者であるならば、全く別の解決策があるはずで。ただそれは、多少罪悪感を覚えても、亮はあまり考えたくなかった。
 とりあえず、どう声をかけようか、と視線を少女から智のほうへ移す。そもそも、彼の協力が得られるかも定かでない。今のところ、徹も、智も、凛でさえも、その真意がどこにあるのか亮には点でわかっていないのであって、どんな反応が返ってくるのかも予測できない。そしてもし第一声で悪い返事が返ってくれば、その智の言葉を理由にして、きっと少女は今以上に頑なになる。だから、できるなら大事を見て、彼女には聞こえないように、智と二人だけで話がしたい。
 首筋を撫で、左のつま先で石畳の小さな段差を蹴りながら第一声を考える。そこに、ようやく智が口を開いた。
「相変わらず、優秀だな」
「当然のことです」
 当然でたまるか。
 胸の内で、抗議の言葉を搾り出す。同時に、その内容に反して穏やかなやり取りに、ここで割り込んでおかなければ話は亮に喜ばしくないほうへ進んでしまうのではないかという焦りが、微かに鼓動を早める。
「でも」
 智の言葉が続いた。
「もう十分だ」
「え……?」
 え?
 控えめな「暁の巫女」の疑問の声に、亮の思考が重なる。
 まさか、はじめから智は彼女を解放するつもりだったと言うのだろうか。凛でさえ、自分たちが直接手伝うことは出来ないと言っていたのに? そう、疑問を抱きながらも、これで彼女を説得しやすくなる、と心のどこかで安堵した。
「『暁の村』が終わるまで、わざわざ待たなくても良い」
 だから、その台詞の不吉さが現実に現れるまでの、智が少女にゆっくりと向き直る数秒の最後の一瞬まで、亮は一切警戒することなく、智の次の言葉を待っていた。
「お前のほうが、先に消えるんだよ」
 そして、その言葉が発せられた時、「暁の巫女」の白衣の背中から、血に赤く染まった人の手の指先が、少女の体を貫いた智の右手が突き出ていた。