個人的に時間が無いので、とりあえず

ガジェット通信(http://getnews.jp/archives/52171)さんからまんまコピペ。グラフ等画像はガジェット通信さんのほうで。
 
 
 
 


目に見える形で反論を提示する
2010.03.19 14:00:38 by ガジェット通信 category : エンタメ ガジェ通 Tags : 寄稿
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本日採決か継続審議かが決まる東京都の「非実在青少年」規制について、今回は山本弘さんのブログ『山本弘のSF秘密基地BLOG』から転載させて頂きました。

目に見える形で反論を提示する
規制賛成派の意見を見ていて思ったのは、彼らは「表現の自由なんて踏みにじってかまわない」と思っているらしいことだ。

だって“自由”は目に見えないから。

“自由”は空気みたいなものだ。そこらじゅうに存在しているのに、漠然としていて、目に見えない。人はそれに支えられて生きているにもかかわらず、普段、そんなものの存在を意識していない。だから「ちょっとぐらい減っても生きていけるでしょ?」と勘違いする人間もいる。

空気と同じく、“自由”も欠乏したら窒息するということが、彼らには理解できていない。

だから「表現の自由」を錦(にしき)の御旗として振りかざしても、その大切さが分からない人には、アピールしないんじゃないかと思うのである。彼らにはもっと目に見えるものを突きつけなくちゃだめだ。そこで、こんなアピールの方法を考えた。

日本の少年マンガの中で、性的描写や暴力描写が頻出するようになったのは、1960年代末からである。その牽引(けんいん)役が永井豪氏であることは言うまでもない。もちろん他にもエロいマンガやバイオレンス・マンガを描いていたマンガ家は何人もいたのだが、最も有名で、当時の子供たちに最も影響力があったのは、この人だと思って間違いなかろう。

 主要作品   連載期間
ハレンチ学園』 1968〜1972年
『あばしり一家』 1969〜1973年
デビルマン』 1972〜1973年
マジンガーZ』 1972〜1974年
キューティーハニー』 1973〜1974年
バイオレンスジャック』(週刊少年マガジン版) 1973〜1974年
『イヤハヤ南友』 1974〜1976年
けっこう仮面』 1974〜1978年
へんちんポコイダー』 1976〜1977年

永井氏の人気の絶頂期が60年代末から70年代後半であったことが分かる。
この時代を生きた人なら、『ハレンチ学園』が巻き起こした一大センセーションをご記憶のはずである。これらの作品のどれも、未成年の全裸、セクハラ、下品なギャグ、暴力描写、残酷描写などがてんこ盛りだった。『けっこう仮面』なんか全裸で「おっぴろげジャンプ」をやるのだ。正直、今の少年マンガのエロ(『To LOVEる』 *1 とか)なんて、永井豪作品に比べれば生ぬるいぐらいである。もちろん当時、PTAなどに「有害だ」とさんざん叩(たた)かれた。 規制推進派によれば、こうした作品は「青少年に対し、性的感情を刺激し、残虐性を助長し、又は自殺若しくは犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」ということになろう。つまり永井豪作品のような不健全なマンガが増えることによって、青少年の性犯罪、自殺、殺人などが増加していたはずである。

実際はどうだったか。青少年によるレイプ、自殺、殺人の推移を見てみよう。

強姦(ごうかん)被害者数 *2

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-youjyoRape.htm#G-youjyoR1-2
60年代後半から急降下している。

各年齢層10万人当たりの若者自殺率 *2

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Jisatu.htm
1965年からほぼ横ばい。

未成年の殺人犯検挙人数 *2

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm
60年代後半から、すごい勢いで急降下!

無論、大勢のレイプ犯の中には、永井豪作品に刺激されて犯行に走った者が何人かいた可能性は否定できない。だが、それは実証できない。たとえ何人かそういう奴がいたとしても、この時代の急激な犯罪率低下の波に飲みこまれ、データからは見えなくなっている。

3番目のグラフから分かるように、日本で少年による殺人が最も多かったのは、戦後の混乱期を除けば、1961年である。マンガは『鉄腕アトム』や『鉄人 28号』の時代。少年や少女の読むマンガにエロい描写や残酷描写などまったくなかった。エロゲやエロアニメどころか、テレビゲームやテレビアニメというものすら無かった時代である。

さらに、規制推進派の主張からすると、青少年向けマンガの表現規制が日本よりはるかにきびしいアメリカやイギリスやカナダや韓国に比べ、日本の犯罪率は高いはずである。

現実はこうだ。

人口1000人当たりのレイプの件数
『NationMaster.com』「Rapes (per capita) (most recent) by country」
http://www.nationmaster.com/graph/cri_rap_percap-crime-rapes-per-capita
日本は65ヶ国中54位。韓国16位、イギリス13位、アメリカ9位、カナダ5位。

人口1000人当たりの殺人
『NationMaster.com』「Murders (per capita) (most recent) by country」
http://www.nationmaster.com/graph/cri_mur_percap-crime-murders-per-capita
日本は62ヶ国中60位。イギリス46位、カナダ44位、韓国38位、アメリカ24位。

人口1000人当たりの若者による殺人
『NationMaster.com』「Murders committed by youths per capita (most recent) by country」
http://www.nationmaster.com/graph/cri_mur_com_by_you_per_cap-murders-committed-youths-per-capita
日本は57ヵ国中57位!イギリス52位、カナダ&韓国39位(同率)アメリカ14位。

少ねー! 日本の犯罪、少ねー!
(ちなみにこの統計には、中国や北朝鮮、アフリカの多くの国が入っていない。それらを入れれば、たぶん日本の順位はもっと下がる)

これは世界に誇るべきだ。日本はこれだけエロマンガエロゲーが氾濫しているにもかかわらず、世界の中でも、とてつもなく犯罪の少ない国なんである。

さらにアメリカのデータを見てみよう。

アメコミ・ファンならご存知だろうが、アメリカでは1949年ごろから、精神科医フレドリック・ワーサム博士が、コミックスが青少年に与える害を説きはじめた。当時のコミックスには、残酷なシーンやセクシャルなシーン(斧(おの)で切断された首、目をナイフでえぐられようとしている女性、ムチで打たれている女性、きわどい衣裳(いしょう)で踊る女性、下着姿で縛られた女性などなど)が多かったのだ。こうしたコミックスは青少年を堕落させ、犯罪に走らせると考えられた。全米で激しい反コミックス運動が起きた。出版社やニューススタンドには「俗悪なコミックスを売るな」という抗議が殺到。一部の地方では、大量のコミックスが学校の校庭などに集められて燃やされた。

1954年、合衆国議会の少年非行対策小委員会は「コミックブックと非行」と題するレポートを発表、青少年に悪影響を与える可能性のある表現を規制するよう、コミックス出版界に勧告した。これを受け、全米コミック雑誌協会は「あらゆるコミュニケーション・メディアの中でもっとも堅苦しい」と彼ら自身によって評されたコミックス・コードを制定した。1954年8月26日のことである。

その内容は次のようなものだった。

以下、『Wikipedia』「コミックス倫理規定委員会」より引用
――
「犯罪者を魅力的に描いたり、模倣する願望を抱かせるような地位を占めさせるような表現を行うべきではない」
「いかなる場合においても、善が悪を打ち負かし、犯罪者はその罪を罰せられるべきである」
「残忍な拷問、過激かつ不必要なナイフや銃による決闘、肉体的苦痛、残虐かつ不気味な犯罪の場面は排除しなければならない」
「いかなるコミック雑誌も、そのタイトルに『horror』や『terror』といった言葉を使用してはならない」
「あらゆる、恐怖、過剰な流血、残虐あるいは不気味な犯罪、堕落、肉欲、サディズムマゾヒズムの場面は許可すべきではない」
「あらゆる戦慄(せんりつ)を催させたり、不快であったり、不気味なイラストは排除されるものとする」
「歩く死者、拷問、吸血鬼および吸血行為、食屍鬼(しょくしき)、カニバリズム人狼(じんろう)化を扱った場面、または連想させる手法は禁止する」
「冒涜(ぼうとく)的、猥褻(わいせつ)、卑猥(ひわい)、下品、または望ましくない意味を帯びた言葉やシンボルは禁止する」
「いかなる姿勢においても全裸は禁止とする。また猥褻(わいせつ)であったり過剰な露出も禁止する」
「劣情を催させる挑発的なイラストや、挑発的な姿勢は容認しない」
「不倫な性的関係はほのめかされても描写されてもならない。暴力的なラブシーンや同様に変態性欲の描写も容認してはならない」
「誘惑や強姦(ごうかん)は描写されてもほのめかされてもならない」
――
などなど、まさにがんじがらめの規制。今の日本のマンガ雑誌、軒並みアウトですな(笑)。

暴力表現や性的な表現にきびしい規制が設けられた結果、コミックス界全体から活力が失われた。ニューススタンドがコミックスを置かなくなったこともあり、読者の多くがコミックスを買わなくなった。コミックス・コード制定前、コミックス誌は650タイトルもあり、毎月1億5000万部も発行されていたのだが、ほんの数年で半減してしまった。多くの出版社がコミックスから撤退した。フィクション・ハウス社やベター社など、倒産した出版社もいくつもある。

その結果、アメリカの犯罪は減っただろうか?

これを見ていただきたい。アメリカの指標犯罪(凶悪犯罪や窃盗犯)の件数をグラフにしたものだ。

まさに一目瞭然(りょうぜん)! コミックス・コードが施行された54年以降、アメリカの犯罪は減るどころか、急カーブを描いて上昇しており、1980年には3倍にもなっている!Wikipediaの解説にもあるように、80年代頃からコミックス・コードを破る作品(『ウォッチメン』や『バットマン/キリング・ジョーク』など)が次々に出てきて、現在ではほとんどコードは形骸(けいがい)化している。

ちなみにこのアメリカの指標犯罪のグラフは、前田雅英『少年犯罪』(東京大学出版会)という本から引用したものである。そしてこの前田雅英氏こそ、今回の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の改正案を出した東京都青少年問題協議会の専門部会長なのである。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/2010/01/40k1e101.htm

どうなってるんだろうか。前田氏は自分の本に載せたグラフの意味を理解していないのか。

つまり、マンガの表現と青少年の犯罪の間には、規制推進派が主張するような正の相関関係ではなく、負の相関関係(表現が過激になれば犯罪が減る)があるのだ。

無論、相関関係があるからといって因果関係があるとは断言できない。相関関係はあっても因果関係のない事例はいくらでもある。だが、少なくとも、相関関係が存在しないところに因果関係を求めるのは無茶だということは、子供でも分かるだろう。それに、もしかしたら本当に因果関係があるのかもしれない。海外では「ポルノが性犯罪を抑制している」という研究があることもつけ加えておく。

Porn: Good for us?
『TheScientist.com』「Porn: Good for us?」
http://www.the-scientist.com/article/display/57169/

規制推進派の人たちはこうしたことを知らないのだろうか?

そんなことはない。彼らは知っている。第28期東京都青少年問題協議会議事録(第10回専門部会)には、こんなくだりがある。
http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/09_28ki_menu.html
―――
○吉川委員 (中略)特に、答申案の46ページに、そうした図書が自由に流通していることによって、子どもたちがこのような性交をしても構わないという認識を青少年が持って、健全な性的判断能力が大きくゆがめられることになると言い切っていますが、ここについて、その根拠はどこかと言われたら、それあくまで我々としては、たぶんそうだろうという認識であるとしか言えなくて、私自身、別に過激な漫画、子どもポルノについて容認する立場では全くないのですが、こうした指摘に対しての見解案としては、少しピントがずれていると言われても仕方がないのかなと危惧(きぐ)しております。
―――
『東京都青少年・治安対策本部』「第28期東京都青少年問題協議会議事録(第10回専門部会)」より引用(P16)
http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b10giji.pdf

「たぶんそうだろう」というのが根拠なのだそうだ。

―――
○吉川委員 私としては、性犯罪の減少も目的の一つであると言ってしまって、ただ、そうした創作物が性犯罪の発生と密接な因果関係があるかどうかを、必ずしも統計を示してまで立証する必要はなくて、逆に、関係がないという根拠もないわけなので、だから、統計的なデータがないから犯罪との因果関係がないとは別に言い切れないと突っぱねたらいいと思います。
―――
『東京都青少年・治安対策本部』「第28期東京都青少年問題協議会議事録(第10回専門部会)」より引用(P19)
http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b10giji.pdf

立証する必要はないし、データがなくても「突っぱねたらいい」のだそうだ。ふざけるな。

お分かりだろう。彼らは自分たちの主張を支持する根拠がないことを知っている。にもかかわらず、規制を主張するのだ。これはもう、「データなんかどうでもいい。俺(おれ)たちは規制したいからするんだ」と自白しているようなものである。

まとめよう。

【規制によるメリット】
・表現を規制すれば青少年への悪影響が少なくなって犯罪が減る(ただし証明されていない。データは正反対の相関を示している)

【規制によるデメリット】
・表現を規制すれば逆に犯罪が増える可能性がある(因果関係は証明されていないが、相関関係はある)
・出版業界、アニメ業界、ゲーム業界が打撃を受け、多大な経済的損失が生じる可能性が高い
・冤罪(えんざい)事件や言論弾圧に悪用される危険がある

グラフを提示するとともに、「このメリットとデメリットを比較してください。あなたなら規制に賛成しますか?」と問いかけてみるというのはどうだろうか。

表現の自由」という抽象的な概念に頼らなくても、これぐらい具体的に、目に見える形で提示すれば、理解してくれる人は増えると思うのだが。

編集部注

アムリタ

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)

 なんか、わけのわからないものを見た。感じとしては、穏やかな中編映画を見たような感じ。
 ファニーな要素もあるけど決してファニーな話ではなく、哲学、思想的にインタラスティングな要素もあるけどやはりまたそういう話ではない。なにか、もっとファジーで、五感的にインタラスティングな話。感覚的には、初めて断章のグリムを読んで、文章に痛覚を刺激されて震えたあの時に近いのかもと思うけど、それとは何か(確実なのは五感の介在の有無だけどそれとは別に)違う。読み終えた後の悔しさで言えば海の底とか空の中、シアター!と通じあうものもあるけど、これもやはり、作者のプロット構文に慣れているかどうかというところもひっくるめて何かが違う。文章に引き込まれる感覚が、どことなく文学少女に似てる、とは思う(その引き込まれ方の質も、やっぱりなにか違うんだけど。文学少女はほわほわしながらキャラクターに感情移入していく感じ。アムリタは仲の良い知り合いのような、緊張感を持った近さで傍観しているうちに隙を突かれて捕まっているような……?)。
 少しだけあった文章、文面の視覚的な効果も、乱発せず、要所で来るからすさまじい。

 要素を拾い上げていけばもっと言えること、言いたい事はあるし、あるのだろうけど、ここいらで。面白かった。
 
p.s.この作品の設定がすっと身に馴染むか、トンデモ、とかなんでもあり、と思ってしまって少なからず抵抗感を覚えるかどうかの差は、自然主義的でない物語に対する慣れの有無によるのかなぁ、などと、同じくこの本を読んだという友達と話して思ったり。

はやいなあ

 いつ以来かと思えば、コンテンツ文化史学会行って以来の更新ですよ。
 無精者にも程がある。
 こんなじゃあ妹にニート扱いされても文句言えません。というか、最近それが心地よいのは内諸。

 と、いうわけで、開きましておめでとうございます。
 2009年、まあほどほどに色々あった年でした。
 執筆的には、『暁の巫女がうたうころ』のリライトに追われ、さらにその結果できあがった物がなんか、まあアレで(これについては近いうちに後述)。
 現在はそれをひっくるめて自作以降の改善策を模索中。一応、書いてはいますよ。

 また、もうちょっと範囲を広げて振り返れば、昨年はピアノ方面で随分世界が広がった年でした。
 東方幻楽祭で初めてちくちゅーさんにお会いし、先日のC77ではDenkoさんにもお会いしたのが筆頭。
 その丁度中間くらいの位置に2月にある某イベント(これも近日中に後述)に誘われ、混ざらせていただくことになったり。

 書く方が迷走しつつある中、ピアノ方面がどんどん広がって行くもので、ともすれば足場見失いそうだったりもするのですが……。
 まあ、どうにかしないといけませんし、どうにかなるでしょう、多分。

 ともあれ、今年もよろしくお願いします。

コンテンツ文化史学会

http://www.contentshistory.org/2009/09/14/528/
コンテンツ文化史学会 第二回例会「ライトノベルと文学」

 こんなものに行ってきました。最初に知ったのはまいじゃー推進委員会さんで宣伝されていたのを見て。どうせなんも予定ないし、面白そうだし、500円で参加できるなら行ってみてもいいか、ということで。
 なお余談ですが、会場だった芝浦工業大学豊洲キャンパスの会議室の、妙に凝った造りの椅子は、肘掛の位置が高かったです。なかなか高さの調整も上手くいかないし。お陰で今は肩が固まったように凝って、痛いです。困る。

 で、まあ僭越ながらせっかくなので各プレゼンごとの感想など。



大島丈志さん:
 ライトノベル論というよりも宮沢賢治論の延長線としての「ライトノベルにおける宮沢賢治」といった印象を受けた。その中で述べられていた、取り上げられ方の教育的、道徳的傾向や、社会全般にむけて書かれた作品を個人、等身大のものとして再構築する傾向あたりが興味深かった。つまりそれは、社会全般などよりもあくまで個々の視点から見た世界(哲学的、論理的なその欺瞞性などはおいておいて、そのように見えるもの)へのライトノベルの指向性の強さや、また一方でライトノベルから見た純文学の記号的印象、「なにかお行儀の良いもの」の条件反射的な東映なのではないだろうか。
 なお、氏のまとめにおいて、記号化されたキャラクターを使いながらも、(セカイ系としてでなく、社会の他者という中間項をはさんで)文学的に葛藤する個という存在が描かれていたことにはやや疑問。セカイ系とは別に他者を排除してそれらとのつきあいを無視した主人公を描くのではなく、むしろ不可知な周囲と自己の欲望との間で葛藤するあまり、周囲をより小さなグループに細分化してとらえることができない、追いつめられて思考停止した主人公を描いているのではないか。彼らは確かに、もしかしたら他のどんな者よりも悩んでいる。ただ、そのあり方が幼稚な故に現実にそぐわなず、あまつさえその苦悩を解決を目標としない(無自覚な)快楽ととらえる傾向があるからこそ忌避されるのではないか。……ああ、だから意図的な思考停止→考えない、苦悩しないってことになるのか。

井上乃武さん:
 テキスト読解のペースについていけなかったことと、論の肝になっていた東浩紀の論への理解不足から消化不良気味。何となくだけ書き出すと、
岡田淳のファンタジー性を最終的に破壊しなければならないという論を、「頭堅いなぁ」というのは分かるような気もするけど、でもそういうとき、作者の立場は考慮されていますか? という筋でいいのかしら。
・児童文学というもののもつ教育的性質の性もあるのかもしれないけど、たしかに岡田淳の論は気負いすぎなきがするよね。
・ただ論を通じて対象を子供に限定し、「象徴としての子供」が最後になるまで出てこなかったおかげで、聞いてる間ややもどかしかった。
・「そう君」とか「暁の〜」なんて書いていると、ちょっと創造者、作者の視点についての言及には思うところがあった。まだ旨くまとまらないのだけれど。自己の周囲から、周囲への影響性とそれによる個の欺瞞性、及びその大小あたりで解決できるかな?

山中智省さん:
 ライトノベルの評価の変遷。これだけ調べ上げるって大変なことでしょうね。個人的に一番思うところが大きかったのは、この人の発表中、ラノベへの評価の変遷を扱っていた部分。宇野常寛ライトノベルをそれまでの文学にあった「文体」への拘りをなくし、代わりに表層においてキャラクターを肥大化させた小説と言う定義が実にしっくりきた。そもそも自分は、何か本当に伝えたい思想な李なんな利があるなら哲学書なりエッセーなり書けばいい、小説はそこに物語という媒体を挟むことで必然的に冗長さを帯びた表現形態だと、特に『あなたのための物語』を読んだ以降思っているのですが、それにこの宇野常寛の定義と、さらに『文学少女』の野村美月の「ライトノベルは(表現上)なんでもできる」という言葉をあわせて考えると、ラノベは、それまでの文学ではどんなにあけすけな感情も文体というベールに包むことで少なくともその表現の妙が評価の対象になっていたものを、あけすけなものをあけすけなまま、むしろそれを描きやすい設定とキャラクターを自由に持ち出すことで時折肥大化させつつ表現する文章作品形態なのかな、と。これが旧来の文学評価的視点から見ると、それまで評価のより所にしていたものを持たない、ただ書きたいことを書きたいように書いただけのものに移るから、「軽い」と見なされる。ところがその実、ラノベ側にも記号的なキャラクターや非現実的な設定を用いることによる表現技法やその可能性がある。また一方で、旧来の文学のいう文体だってきっと、本来は別になくてもいい物語を主張や思想に付与する際に、様々な背景から必要とされて、あるいはそのような物語を「面白い・楽しい」ものにするために意図して用いられていたものが、次第に形式として整うにつれ、「かくあるべき」という規範であり崇高なものになった結果にすぎない。
 そうするとひょっとするとラノベといういま1ジャンルとされているものは文学作品群のジャンルでなく、文学作品を描く上での表現法のくくりの方にむしろ近くて、それなら様々な作品形態がラノベの中に混じり、なにが「ラノベ」なのかの定義が難しいのも当然なのかな、と。これは山中さんがプレゼンの最後に言っていた内容にもつながるのかな?(ラノベをこのようにとらえるなら、キャラクターのかわりにプロットを肥大化させたと宇野常寛が指摘するケータイ小説についても考察しないといけないのだけど、今日の所は……)
 あと気になったのは、少なくともラノベ読者は文章よりもまず先に表紙のイラストを受容し、さらにそのようなイラストの存在に一般的にラノベは特徴付けられるのだから、そのイラストも含めたラノベ考察がされなければならないという論。確かにそうだし、質問の時にも言われていたように一般小説においても視覚的な部分が持つ影響力は無視できないのだろうけど、一方でアウトプットする側はやっぱり最初原稿を作っている段階では、せいぜい段落の切り方とか文の配置(c.f. 西尾、甲田、入間その他作品)を考えるくらいでイラストの中身まで念頭にないわけで。まあ、これについてはだからどう、というアイデアまでがあるわけでは無いのですが。


 うん、こんなところでしょうか。帰りの電車で携帯に書いたのを殆どそのまま張り付けただけなんで手落ちがあるかもしれませんが……。
 まあ、上記のとおり幾分消化不良な部分もありますが、面白かったです。こんな世界もあるんだなぁ、というか。

読了

 分厚くなって、でももはや分厚いとかじゃなくて「四角い」川上作品が平然と本屋に並んでいる光景を思えばどうってこともないや、と思いつつ読み始めて早一週間。レポートとか課題とかが重なってやや停滞気味になりながらも読了。
 内容は……入間作品オールスターズ? 文庫で出ているみーまー、電波に限らず、MAGAZINEの短編とか単行本までひっくるめて全部読んでいないと全部のネタは拾いきれませんよ、という。というか、一通り読んでても「茸姫」は気付かなかったしね、自分。
 普段だったらこの手のことやられると無性に腹が立ったりするのですが、なんというか、入間作品、特にみーまーについてはもう延々作者の悪ふざけに付き合わされている感すらあるので、今更なんとも思いません。はたから見れば「ばっかでー」という話なのでしょうが、もうそういう刷り込みみたいになっちゃってるんだから仕方ない。
 というわけで、なんとなく本屋で衝動買いしちゃった人はわけのわからなさに大層お怒りのことと思いますが、もうずっと入間作品読んでますよっていう人は、全力で、あるいは「またやってら」と脱力気味に楽しめるんじゃないでしょうかね。