コンテンツ文化史学会

http://www.contentshistory.org/2009/09/14/528/
コンテンツ文化史学会 第二回例会「ライトノベルと文学」

 こんなものに行ってきました。最初に知ったのはまいじゃー推進委員会さんで宣伝されていたのを見て。どうせなんも予定ないし、面白そうだし、500円で参加できるなら行ってみてもいいか、ということで。
 なお余談ですが、会場だった芝浦工業大学豊洲キャンパスの会議室の、妙に凝った造りの椅子は、肘掛の位置が高かったです。なかなか高さの調整も上手くいかないし。お陰で今は肩が固まったように凝って、痛いです。困る。

 で、まあ僭越ながらせっかくなので各プレゼンごとの感想など。



大島丈志さん:
 ライトノベル論というよりも宮沢賢治論の延長線としての「ライトノベルにおける宮沢賢治」といった印象を受けた。その中で述べられていた、取り上げられ方の教育的、道徳的傾向や、社会全般にむけて書かれた作品を個人、等身大のものとして再構築する傾向あたりが興味深かった。つまりそれは、社会全般などよりもあくまで個々の視点から見た世界(哲学的、論理的なその欺瞞性などはおいておいて、そのように見えるもの)へのライトノベルの指向性の強さや、また一方でライトノベルから見た純文学の記号的印象、「なにかお行儀の良いもの」の条件反射的な東映なのではないだろうか。
 なお、氏のまとめにおいて、記号化されたキャラクターを使いながらも、(セカイ系としてでなく、社会の他者という中間項をはさんで)文学的に葛藤する個という存在が描かれていたことにはやや疑問。セカイ系とは別に他者を排除してそれらとのつきあいを無視した主人公を描くのではなく、むしろ不可知な周囲と自己の欲望との間で葛藤するあまり、周囲をより小さなグループに細分化してとらえることができない、追いつめられて思考停止した主人公を描いているのではないか。彼らは確かに、もしかしたら他のどんな者よりも悩んでいる。ただ、そのあり方が幼稚な故に現実にそぐわなず、あまつさえその苦悩を解決を目標としない(無自覚な)快楽ととらえる傾向があるからこそ忌避されるのではないか。……ああ、だから意図的な思考停止→考えない、苦悩しないってことになるのか。

井上乃武さん:
 テキスト読解のペースについていけなかったことと、論の肝になっていた東浩紀の論への理解不足から消化不良気味。何となくだけ書き出すと、
岡田淳のファンタジー性を最終的に破壊しなければならないという論を、「頭堅いなぁ」というのは分かるような気もするけど、でもそういうとき、作者の立場は考慮されていますか? という筋でいいのかしら。
・児童文学というもののもつ教育的性質の性もあるのかもしれないけど、たしかに岡田淳の論は気負いすぎなきがするよね。
・ただ論を通じて対象を子供に限定し、「象徴としての子供」が最後になるまで出てこなかったおかげで、聞いてる間ややもどかしかった。
・「そう君」とか「暁の〜」なんて書いていると、ちょっと創造者、作者の視点についての言及には思うところがあった。まだ旨くまとまらないのだけれど。自己の周囲から、周囲への影響性とそれによる個の欺瞞性、及びその大小あたりで解決できるかな?

山中智省さん:
 ライトノベルの評価の変遷。これだけ調べ上げるって大変なことでしょうね。個人的に一番思うところが大きかったのは、この人の発表中、ラノベへの評価の変遷を扱っていた部分。宇野常寛ライトノベルをそれまでの文学にあった「文体」への拘りをなくし、代わりに表層においてキャラクターを肥大化させた小説と言う定義が実にしっくりきた。そもそも自分は、何か本当に伝えたい思想な李なんな利があるなら哲学書なりエッセーなり書けばいい、小説はそこに物語という媒体を挟むことで必然的に冗長さを帯びた表現形態だと、特に『あなたのための物語』を読んだ以降思っているのですが、それにこの宇野常寛の定義と、さらに『文学少女』の野村美月の「ライトノベルは(表現上)なんでもできる」という言葉をあわせて考えると、ラノベは、それまでの文学ではどんなにあけすけな感情も文体というベールに包むことで少なくともその表現の妙が評価の対象になっていたものを、あけすけなものをあけすけなまま、むしろそれを描きやすい設定とキャラクターを自由に持ち出すことで時折肥大化させつつ表現する文章作品形態なのかな、と。これが旧来の文学評価的視点から見ると、それまで評価のより所にしていたものを持たない、ただ書きたいことを書きたいように書いただけのものに移るから、「軽い」と見なされる。ところがその実、ラノベ側にも記号的なキャラクターや非現実的な設定を用いることによる表現技法やその可能性がある。また一方で、旧来の文学のいう文体だってきっと、本来は別になくてもいい物語を主張や思想に付与する際に、様々な背景から必要とされて、あるいはそのような物語を「面白い・楽しい」ものにするために意図して用いられていたものが、次第に形式として整うにつれ、「かくあるべき」という規範であり崇高なものになった結果にすぎない。
 そうするとひょっとするとラノベといういま1ジャンルとされているものは文学作品群のジャンルでなく、文学作品を描く上での表現法のくくりの方にむしろ近くて、それなら様々な作品形態がラノベの中に混じり、なにが「ラノベ」なのかの定義が難しいのも当然なのかな、と。これは山中さんがプレゼンの最後に言っていた内容にもつながるのかな?(ラノベをこのようにとらえるなら、キャラクターのかわりにプロットを肥大化させたと宇野常寛が指摘するケータイ小説についても考察しないといけないのだけど、今日の所は……)
 あと気になったのは、少なくともラノベ読者は文章よりもまず先に表紙のイラストを受容し、さらにそのようなイラストの存在に一般的にラノベは特徴付けられるのだから、そのイラストも含めたラノベ考察がされなければならないという論。確かにそうだし、質問の時にも言われていたように一般小説においても視覚的な部分が持つ影響力は無視できないのだろうけど、一方でアウトプットする側はやっぱり最初原稿を作っている段階では、せいぜい段落の切り方とか文の配置(c.f. 西尾、甲田、入間その他作品)を考えるくらいでイラストの中身まで念頭にないわけで。まあ、これについてはだからどう、というアイデアまでがあるわけでは無いのですが。


 うん、こんなところでしょうか。帰りの電車で携帯に書いたのを殆どそのまま張り付けただけなんで手落ちがあるかもしれませんが……。
 まあ、上記のとおり幾分消化不良な部分もありますが、面白かったです。こんな世界もあるんだなぁ、というか。