22

「っ……」
 息を呑む亮の視線が刺すように向かう先で、少女が確かに自分を貫いている智の腕に視線を落とし、それを見て、ゆっくりと智の顔を見上げる。
「どうしてですか……」
 その声が掠れる。白衣の背中に血の色が広がって、いくらか下向きにつきこまれた智の腕を伝い、赤い雫が石畳の上に模様を描いて。
「……」
「はぁっ……!」
 少女の問いに何も応えず、ただ鼻で一つ息をついた智が、何の前触れもなくその腕を引き抜いて、息を吐き出した「暁の巫女」の体がくの字に折れる。その折れた胴に直後、一度引き戻して拳を握った右手が下から抉るように叩き込まれ、もはや声を発することも無く、息を詰まらせて座り込む彼女を見下ろした智がその右足を後方に振り上げて。
「まっ……」
 駆け出そうとしたのが、そもそも遅すぎる。手を伸ばした亮の目の前で、智の革靴にしゃがみこんだ「暁の巫女」の体が蹴り飛ばされ、少しだけ、低く宙を飛び、二、三度石畳の上を転がって、亮の足元に横たわる。
「おいっ! 大丈夫か!」
 そんなわけがあるかっ……!
 見当違いな自分の言葉に胸中で罵声を飛ばしながら、しゃがみこんだ勢いで彼女の体に手をかける。その、白衣越しの細い肩は微かに震えていて、喉になにか詰まらせたような粗い呼吸を繰り返しながら、白い額に玉のような汗を浮かべて。そんな有様で、少女の視線が亮を捕らえる。
「御免、なさい、亮。大丈夫です……。退いて、ください。お願い」
「大丈夫ってその傷……」
 自然と押さえつけようとする亮の手をそれ以上の力で、あくまでやんわりと押しのけ、「暁の巫女」が立ち上がる。その背中を今も赤く染めていく腹の傷の痛みに耐えてか、押し殺したようなその声は途切れながらもどこか力強くも感じられて。しかし、立ち上がったその膝が笑っているのが、ところどころ破れた袴の裾から覗く脚でわかる状態では、そんな虚勢は何の意味も持つはずがない。
 信じ難い光景だった。今まで亮の知る限り、「暁の巫女」はいつだって相手を圧倒していた。例外は、初めて亮がこの「村」を訪れた時とつい先程のアルテメネとの交戦中、亮を庇って遅れを取った時。一度だけ、まともに身動きも取れないほどに傷ついた彼女の姿も見たが、それがアルテメネによる変身であったことは既に知れている。
 その彼女が、いくら抵抗していないとはいえ、なす術も無く劣勢に立たされていた。
 それに、訳も分からなかった。目の前にいる男、智は、その結果の是非はともかくとしても、今亮の前にふるえながら立ち上がる少女に「暁の村」の管理者たることを命じた張本人ではなかったか。それ故に彼女はこの世界と最後まで運命を共にすると主張し、智もそれを肯定する様子を見せたではないか。それがどうして、その守るべき世界が致命的状況にある今、彼女を襲うのか。
「いかにも、それでこそお前らしい」
 襟を正して、智が一歩近づく。その声に亮の肩が跳ねる。
「俺に対する忠誠の度合いと言い、職務への実直さと言い、管理者の鏡だな。……ああ、傷のことなら大丈夫。管理者なんてのはこの程度で死んだりしない」
 目を閉じ、そんなことをうそぶきながら近づいてくる智に警戒して、亮が立ち上がる。すかさず「暁の巫女」が「亮」と釘を差してくる、その肩越しの視線からわざと目をそらして、その奥の、「暁の巫女」を圧倒して見せた、智を見据える。
「……ほう」
 張り出された青い盾に、智の足が、盾の一メートルほど先で止まった。
「亮……っ!」
「おいっ」
 抗議の声をあげて振り向いた少女がバランスを崩し、亮が慌ててその両肩を支える。耳から落ちた黒髪が、いくらか彼女の頬を伝う汗に吸いついて乱れる。
「智様は、敵ではありません……っ。この盾を、消して下さい」
「でもその傷……」
「いいから早っ、く……! 私はただ、智様から、この理由を聞きたいだけ、です」
 そんな場合かよ。
 顔を上げて、いくらか声量を増した途端に言葉を詰まらせる少女に亮は胸中の言葉を口にせず、智のほうへ視線をやる。仮に彼女の「智に理由を聞きたい」というのを認めたとしても、この盾自体はなんら障害にならないはずで。何より、どう見ても亮には重症としか思えない障害を何の前触れもなしに与えてくるような相手に、なんら警戒なしで挑むなど、考えられない。
 向かいあうその相手を、恐ろしいと感じているのは、紛れもない事実。亮にとって「暁の巫女」を圧倒するような相手が脅威たりえない訳がない。
 それでも、逃げ出そうという気は無かった。初めて亮に「暁の巫女」を守ることを可能にし、彼女に頼られさえした盾を通して見る青みがかった視界は、腰が引けそうになりながらも、亮をその場に踏みとどまらせていた。
 加えて、「暁の巫女」の傷のこともあった。智の言葉の真偽はともかくとして、放っておいていい状態でないことは、彼女の衣服に滲んだ血の色や、今でも、智の方へ振り返ろうとするのに、支えとした亮のパーカーを掴んだまま離し切れていないことからもわかる。少し下目気味に彼女の背中を見れば、そこには白衣の真新しい破けた跡の奥に生々しい血を流して白い肌を汚す傷口が。
 傷口が……?
 亮は自分の目を疑った。そこに、あるはずのものがなかった。
「なるほど、確かにそれは優秀な盾だ。それは俺も見ていて知っている」
「智様これは……」
「指定した領域の内側を余所に飛ばして守り抜く。万能ではないが有能だ」
「亮……!」
 亮の気付いたことに智は気付かないのか、その独特の声で、押し殺したかのような淡々とした調子で、「暁の巫女」を無視して語る。言葉に詰まって亮を呼ぶ少女の傷ついた背中を見つめながら、亮はなにも言えず、ただ身構え、智の動作に目を配る。
「だが、残念ながら、俺にとってはなんの意味もないんだ、その盾は。まるで意味をなさない」
 言った智が、自分の真横に一文字、右手を振り払う。その指先が通った跡に、インクのように黒い筋が一本残ったかと思うと、それが見る間に上下に厚みを増し、黒々とした四角い壁となって現れる。
 何を……?
「智様……!」
 眉を顰める亮と叫ぶ少女を余所に、智は何も言わずその壁にもたれ掛かるようにして、ふっと、その中に飲み込まれた。
 その、直後。
「ほら、意味なんか無かっただろう?」
 嫌に耳につく声が、首のすぐ後ろで聞こえた。息の吹きかかるその感覚に亮はぎょっとして振り向いて。
「な、んで……」
「なに、転送先のこの場所は、元々俺の根城にしてた俗界でね。こうしてどの俗界からも、どの俗界へでも行ける道さえあれば、自由に行き来できる」
 視線のすぐ先、亮の背後、丁度今、盾の青い幕から亮達の方へ出てきたような格好で智が立っていた。咄嗟に逃げようとして、まともに動く間もなくその肩を捕まれる。振り解こうとすればいっそう強く智の指が食い込んで、顔がゆがむ。
「待って、下さい、智様。亮は……」
「まあ、狭苦しいのは良い気がしないからな」
 止めようと、スーツの袖を掴む少女の言葉にはやはり耳も貸さず、一人そううそぶいた智がその場で地面を軽く蹴ると、途端に泥沼にでも入ったかのように足下がぐらつき、体が沈み込むような心地がして、
「これで良い」
 次の瞬間には、亮は先ほど智が壁を作り出した場所に、智に肩を捕まれたままで立っていた。
「これに懲りたら余計な真似はしないことだ。次はどうなっても知らないぞ」
 智の手が亮の肩を掴む力が増して、恐怖よりも痛みそのものに、反射的に振りほどく。勢いで振り向いた亮に智はただ薄い笑みを口元に浮かべて。
「ん?」
 ようやく、その視線が「暁の巫女」に、正確にはその腹部に向いた。
「ああ、そうか」
「智様……」
「五月蝿い、黙れ」
 すがるような声で言う「暁の巫女」を一蹴して、袖を掴むその手も振りほどく。そのまま身を小さくして大人しく口を噤む彼女にも、まして足が固まったようにその場に居ついて、ただ状況を見守るばかりの亮にも智は見向きもせず、その場で周囲をぐるりと見渡して。
「そこか」
 丁度、亮や「暁の巫女」を間において智の反対側、林の茂みの方を向いて言った智の目線を追い、亮はすぐさま背後を振り向いて、直後、目を見開いた。