24

それは放たれた「飛鳥」がアルテメネの持つ大盾に弾かれた音。当然それは彼女に危害を及ぼさず、突撃槍も当初の予定通りの軌道を真っ直ぐに突き進んでいて。
「この程度か」
 最初に口を開いた智の、右手に持った細身の剣が、アルテメネの左肩にその身を埋めていた。突き出された突撃槍を半身開いてかわし、同時に突き立てた剣は真正面から刺さっていて、刃が塞き止めるために傷口からの出血は溢れるというより滲み出るといった観があり、かすかながらも確かに黒いドレスを濡らしていく。そして、
「面白くも無い」
言った智が、剣の柄を握り締めたまま、腕を内側へ捻りこんだ。
「……っ、ああああああああああっ!」
 自分の身に食い込んだ刃が廻り、体が抉られ、肉が千切れて擦れあい、無理矢理作られたばかりの傷口の表面を刃が舐めていく。その激痛に、アルテメネが一瞬首を震わせ、息を呑んで、直後絶叫した。その悲鳴に智は片頬を吊り上げて、乱暴に剣を引き抜く。
「これでお前は俺に傷つけられた。創った俺がいらないと判断した物までは、さしものフィルターも受け止めない」
 膝を折り、へたりこみ、口を魚のように開いて荒い息を繰り返す彼女の耳に、その言葉はどれほど届いているのか。亮は尋常でなかったアルテメネの叫び声にまだ耳の奥が震えているような心地がして、一方ではもう治ったはずの左脚が疼くような気がして、そしてなにより、そのアルテメネを嗜虐的な笑いを浮かべて見下ろしている智の表情に鳥肌が立つような感覚を覚えて。
「これに懲りて、二度と俺の前に姿を見せるな、よっと」
「あ、っか……」
 すこし、顔を上げて抵抗の色を見せたアルテメネの、急に出血量の増した傷口を智が革靴のつま先で蹴り飛ばす。もんどりうって倒れたアルテメネのすぐ下には、あの沼地のような黒々とした円、「空門」が口をあけていて。
「……さて、話を戻そうか」
 沈んでいくアルテメネの、無意味な抵抗のそぶりを見せた体を踏みつけ、「空門」に確実に沈めてから顔を上げた智が、亮と「暁の巫女」を順に見やった。その顔につい先程まで浮かんでいた暗い笑みは影を潜め、表情など一切浮かべない真顔が、とぷり、という音を最後に「空門」に沈んだアルテメネの手との対比で一層不気味に思えて、亮は反射的に半歩脚を引いて、体が自然に身構える。だというのに、
「ご説明を、頂けますか、智様」
 それでもなお、「暁の巫女」たる少女は一切身構えることなく、体の前でその両手を重ね合わせて、自ら智のほうへ一歩踏み出した。
「一体今回の件は何がおこっているのですか?」
 改めてもう一度、尋ねた少女に、智は涼しい顔で言ってのけた。
「何を今更。大量の流れ人が突然この『暁の村』にやってきて、世界が耐え切れずに崩壊し始めた。それだけだろう」
 この期に及んで……。
 白々しさに、亮は奥歯を噛み締める。
 アルテメネと智の会話を聞いていれば、部外者の亮にだって二人の間に何らかの協力関係があったことぐらいわかる。そもそも、あの会話にはそれを隠そうというそぶりもなかった。それで、ここにいたってなお見え透いた嘘を吐く智の声が、やたら耳障りに思えた。
「それでは先程の……」
「さっきのは」
 ためらいがちに言葉を繋いだ少女を遮って、スーツの襟を整えながら智が続ける。
「さっきの会話は、相手の寝言に途中まで話をあわせてやっただけ。男の方だって、だれかの創造物なのがわかったから嫌がらせついでに消してやっただけだ。そしてお前に手を上げたのは、管理者のくせに任された世界を護りぬけなかったことへのけじめだ。別に他意はない」
「っ……」
 ふざけるな。
 今度は、拳まで握り締める。智が「暁の巫女」たる少女にしたことは、そんなにやすやすと水に流していいようなことではないし、けじめなどという言葉で片がつくほど生易しいものでもなかった。大体、どんな考え無しなら、面識もない、本来なら利害の一致もないはずの相手を、本人のいる前で「仲間」だなどという嘘をつくのか。それでも
「……そうですか」
 少女は了解の言葉を口にして、あり得ないその言葉に亮は思わず息を呑んで彼女の方へ振り向いて。
「なんてな」
 そこに、それまでの呟くような声とは打って変わって声量を増した智の声が辺りの空気を震わせて、亮の意識も再び智へ捕らえられた。
「こんな見え透いた嘘でも、とりあえずお前はそれに素直に従うだろう?」
「……え?」
 少し遅れて聞き返す少女に、アルテメネに対したときと同種ながらもまだ控えめな、頬を吊り上げた笑みを浮かべて智が言った。
「お前は管理者としての『暁の巫女』という呼び名以外に名前を持たない。知っている世界も、狭苦しいくて人間らしい人間なんか一人だっていやしないこの『暁の村』だけ。そこを傷つけられたら、お前は何でもなくなってしまう。だから、俺がお前を裏切るようなことはあってはならない。あれば、全ての前提が瓦解する」
 それが楽しくて仕方ないとでも言うように、智の言葉は次第に早口になっていき、亮の見守る「暁の巫女」の背中は身じろぎ一つせずその声に耳を傾ける。
「だがあいにく、あれは、嘘だ」
「……」
「おい……」
 決定的なその一言が発せられてなお、少女は固まったように動かず、亮の呼びかけにも応えない。それを智は鼻で笑って、一歩、「暁の巫女」ではなく、まして亮でもなく、本来なら村の風景を一望できたはずの石段の際のほうへ歩き出す。
「この『村』への通路をいくつかの俗界に空けて、流れ人が勝手にこの世界を訪れるのに任せて、確実にその防御を弱めておいて、その間に俺は流れ人を集める。あのアルテメネもその一人だ。どこぞの俗界で奴隷をやっていたが、自分の声帯の形質を変化させるなんて芸当が出来たから、奴隷仲間に裏切られて慰み者にされてたところを拾って、能力の使い方を教えてつれてきた」
 慰み者って……。
 考えてもみなかったアルテメネの背景事情に、智に「あなたも」裏切るのか、と叫んだ彼女の台詞が思い出されて、少し、胸が疼いて、智の背中を睨む視線が僅かにぶれる。それでも、そんな亮にのことになどかまうはずもなく智の言葉は続いて。
「後は知っての通り、流れ人を送り込んだのは良いものの、お前が案外簡単にこの世界に残ってた流れ人を一掃して、屋敷にこもって世界の解れを直しに掛かったからな。仕方ないから俺自らここの村やら林やらを削り取って、この世界を再起不能にした。その結果が、これだ」
 最後に、上着の長い裾を翻して、何もない、ただ黒い空間だけが広がっている、村や林であった場所を背中に智が振り返る。その顔に浮かんだ笑みはもはや控えめなどとは言えるはずも無く、そして振り返りきったその視線が少女を捕らえた瞬間、それまでの表情が崩れるように、顔中に広がった。
「その顔だ! 本当に、なかなかいい顔をする!」
 その叫び声につられ、少女の方を窺って。その視線の先、言うなれば、抜け落ちようとする表情をなんとか止めようとして、ぶれて、一定に定まらない。どこか引きつったような少女の顔に、そんな不安定さそのもののような表情が浮かんでいた。
 横から呼びかけようと口を開きかけたところに、それを封じるように少女が呟く。
「嘘、ですよね……?」
「いいや。全部俺がやったんだ。この『村』を壊すつもりでな」
 それを嘲笑うかのように、至極楽しくてたまらないとでも言うような調子で智が応じる。目の前の男が「暁の巫女」たる少女の体を貫いた時から亮は彼を信用していなかったはずなのに、それでもその様子に怒りが湧いて、腹の底が波打つような感覚に、奥歯を噛み締め、拳を握る。
 「暁の巫女」がどれほどその「役割」と「暁の村」のことに心を砕いていたか、亮でさえ、今更「『村』が自分を置いて変わろうとしているのではないか」と膝を抱えて俯いた彼女の横顔を思い出すまでも無く、十分に思い知っている。
「世界が自分の存在を否定しようとしている」とまで言った彼女にそれほど「暁の巫女」であることを強いたのが、そもそも彼女をその位置に据えた篠沢智であることは確実で、そればかりか彼女はその智に対しても、自身が傷つけられてなお「敵ではない」と言うほどの、ほとんど非常識なまでの信頼と忠誠を示していて。
それなのに、それを全て理解した上で、こともあろうに智が彼女を裏切った。少女の方は、信頼する智に命じられた勤めを全うするためにこそ、流れ人襲来の増加に独り不安を抱えながら戦っていたというのに、その信頼に応えるべき相手こそが全ての糸を裏で操っていた。
「どうして……どうしてですか?」
 重ねた手は解け、左右に垂らしたまま、その整った顔には何とかひねり出したといった観のある笑顔を浮かべ、力なくおぼつかない足取りで少女が歩み出る。
「このようなことになる前に、何か私の方で手落ちでもありましたか? それとも何か不敬を働いてしまいまいたか? それとも……」
「別に」
 震える声で、言葉を垂れ流す。それを、智の妙に鼻に掛かった、どこか間延びした声が遮った。
「言っただろう。お前は相変わらず、優秀だ。それは紛れもない事実だよ」
「なら……」
「ただな。そもそも狭い村、管理者が一人だけであとの村人は全部出来損ないだろう」
 二度、立て続けに言葉を遮られ、口をつぐんだ少女の目を、鼻の辺りまでかかった前髪の向こう、細い眼を一層細めて、智の視線が捕らえた。
「正直、飽きたんだよ。で、飽きてみたら邪魔になった。だから、捨てようか、とな」
 いかにも瑣末なことといった様子で言った智が、すっと右腕を真上に掲げて、言った。
「ポセイドン」
 亮は一瞬、智の足下の地面が揺らいだと思った。しかしそれは本当に一瞬のこと。すぐにそれが、智の足下で彼を中心に渦巻く水のせいなのだとわかって。かと思えばそのどこからともなく現れた水は見る見るうちにかさをまして、智の姿もその水の壁の内に消えて、次第にあたりを水流の轟音が満たして。
 ……なんか、ヤバい。
 まさに目の前で竜巻が生まれる光景にも似たそれを目の前に、亮が盾のとどく範囲まで引き寄せようと少女の方に視線を流したそのとき、竜巻の流れから一筋の水流がさながら蛇か竜のように飛び出した。
「うっわ……!」
 後に飛沫の尾を散らして飛び出してきた、人の二人や三人、簡単に飲み込んでしまいそうなそれに、亮はその行く手を確認する余裕もなく身構え、盾を張る。しかし、その水流は亮にも少女にも、掠りさえしなかった。
「え?」
 自分たちの裕に一メートルは上を通り過ぎていく轟流に、盾は張ったまま、背後、水流の行く手を見返して。
 その目の前で、水流が無惨に切断面をさらす鳥居の残骸の上を飛び越えて、その奥に建つ屋敷を飲み込んだ。丁度塀の内側に入ったあたりで何かにせき止められたかのようにその太さを増した水流は本当に一瞬で屋敷の中央にえぐり取ったかのような爪痕を残して、両脇に取り残された残骸も平衡を損なって倒れる。水流の轟音ばかり大きくて、屋敷が倒れる音はろくに聞こえず、ただ、砕けた柱、襖、煉瓦や畳が宙を舞い、あるいははじき出されて転がるのが遠目にもわかって。
「ほら、これで、また邪魔なものが一つなくなった」
 鼻にかかった智の声に、目を見開いて振り返る。
 あの屋敷の中には「暁の巫女」たる少女が毎朝歌ったあの小部屋も、毎晩ならした素焼きの鈴も、あるいは亮が身長を刻んだ柱も、少女が滑るように歩いた廊下も、二人で並んで座った縁側も、おおよそ亮の知る、「暁の巫女」の平時の全てがあふれていて。それを消し去った挙げ句に邪魔だなどといった智の言動に、感情が捩れるような、あるいは足下が大きく揺らぐような、あまり慣れない感覚を覚えて、振り返った。
 ところがその視線が智の姿をとらえる前に静止した。
 丁度亮の視界に「暁の巫女」の姿が入ったのと同時、彼女の体が折れるように倒れた。それはまるで意識が体から抜け落ちたような、体が糸に吊されているとしたらその糸が全部切れたような、そんな倒れ方で。
「お、おい!」
 駆け寄って、その肩を抱き、起こす。息は、ある。それでも、すっかり力の抜けきったその体の頼りなさもさることながら、何よりその顔色の悪さが一層亮を焦らせて、反応のないその身体を揺する動作が次第に大きくなって。
「なんだ、案外脆いな」
「っ……!」
声に振り返れば、いつの間にか、その傍らに智の姿があった。慌てて飛びずさって、智がその範囲に納まらないように盾を張る亮を、智はゆっくりとその視線で追う
「いくらなんでも倒れることも無いだろうに。起きててくれないと、嬲り甲斐がない」
 その右掌を盾の内側にいる亮に向けてかざす。盾はある。智でも、その外側から直接は何も出来ていないし、出来ないはず。そう、思いはするのに、それでも徹は警戒しつつ少女の体を支えたまま後ずさる。それを、智が鼻で笑って。
「ついでだ、お前も寝てろ」
 瞬間、視界が真白に染まったような気がして、そこで亮の意識が途切れた。