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「っ……!」
 突然、腿の辺りを微かながらも確かな痛みに襲われて、亮は飛び起きた。
 横倒しになるように、石畳の上に身を横たえていた亮は、既に反射で凛から与えられた盾を張り出していて、その球体の内側で痛みの大本へ右手と視線をやる。場所は、左の肩。そこに、衣服共々真新しい切り傷が刻まれていた。
 何だ!
 慌てて傷口を右掌で押さえ、出血の感覚を肌で感じながら意識を外へ向ける。動き出した視線は、真っ先に、なにやら随分と明るいように思える頭上へ向かって。
「何だよ、これ……」
 純粋な破壊力そのものが、無数に夜空を飛び回り、好き勝手に舞い降りていた。それも、亮の周囲に限ったことではない。文字通り、視界に入る空の全てが、「飛鳥」に埋め尽くされ、彼方此方で「飛鳥」がさながら彗星の嵐のように降り注いでいた。破壊それ自体が無数に飛び回っているという事実も、赤、白、青、黒の四色に埋め尽くされた世界の光景も、悪趣味で、不気味で。
「やっと起きたか」
 時折「飛鳥」に身体を素通りされながら捕われたように空を見上げていた亮の耳に、鼻にかかった、妙に耳につく声が届いた。
 こいつ……!
「返事の一つもないのか。礼儀の基本だぞ」
 すかさず立ち上がって身構えた亮の視線の先、智は自分の頭上に幾重にも水流を盾のように張り出して、一枚が「飛鳥」一羽と共に崩れ落ちればすぐに新しい一枚を張り出して身を守りながら、空を見上げていた。
「なかなか、いい眺めだろう。この小さな世界の最期には、立派過ぎるくらいのはなむけだ」
 楽しくて仕方ないと言わんばかりの弾んだ声で言う智に奥歯を噛み締めながら、亮は周囲に視線を走らせる。足元には玉砂利、周囲を囲う白塗り青煉瓦の壁と、視界の一角に小山のようになった瓦礫があって、その反対側には破壊された鳥居の残骸。恐らくは智によって、「暁の巫女」の屋敷であった敷地の中に連れてこられたことは一目瞭然で、これもまた恐らくは智によって、壁の内側には等間隔に、高い脚のついたランタンのような物が、ぼんやりと白い灯りをその中に点して、庭全体をまんべんなく照らしていて。ただ、その灯りに照らされる中に、亮が意識を失う少し前に倒れ、亮が駆け寄った、そして今「飛鳥」の群れを降らせているはずの「暁の巫女」たる少女の姿が見えなかった。
「そんなにきょろきょろして、あの頑固女のことが気になるか?」
「……彼女はどこだ」
「ほう、やっと、まともに口をきいたな」
 ついさっきまで蚊帳の外でだった亮を茶化すように智が言う。その言葉に、このような状況においてなお、初対面の智に対して自分から口をきき、彼と少女の間に干渉することに、理屈抜きの抵抗を覚えている点まで指摘された気がして、そんな自分への苛立ちを誤魔化すように、智を睨みつける。それに、智は厭味ったらしく片眉を上げて、「まあそろそろ飽きたしな」と呟いて。
「消えろ」
 その智の一言に従うように、一瞬で世界から「飛鳥」の群れが消えて失せた。そして、一瞬前まで一番「飛鳥」が密集して舞い降りていてもはや何かそこにあってもわからないような状態になっていた辺りに、少女の姿はあった。その身は、背の高い十字架に鎖で四肢を固定されて磔にされ、頭部には鼻から上を完全に覆い隠して目も耳も塞いでしまう、奇妙な形のヘルメットのような物がかぶせられていて。さらに身体には真新しい傷がいくつも刻まれているのが、智を間に十メートルは離れた亮にもはっきりと分かった。
「……っ、おい!」
「呼びかけたって聞こえないぞ」
 駆け出そうとした足が、止まる。
「あれをかぶってる限り、アレには何も見えないし聞こえない。縛り上げて起こしたのは良いが、まだ何が悪かったのか説明しろ、謝らせろって五月蝿いもんだから、目と耳ふさいで黙らせてから少し痛めつけたんだがな。ちょっとやりすぎた」
 少女を消すと言った智の言葉が蘇って、すぐに思いなおす。今の今まで「暁の村」の空には「飛鳥」が飛びまわっていた。だから、少なくとも今はまだ最悪の場合ではありえない。それでも、一度止まった足はそこに縛り付けられたかのようで、加えて立ちふさがる智と一度目を合わせておいて、その横を素通りする勇気もなくて、その場から動けないまま、亮は生唾を飲む。
「そもそも管理者はそれぞれの受け持つ俗界を守る最後の砦だ。連中が死んだらもう誰もその世界を守れない」
 智に曰く、それ故に管理者はまず普通の俗界の住人達よりも生命力が強く、並みの負傷では命に別状はない。そして、万が一それでも命に危険のあるほどの傷を負った場合には、管理者には全ての行動、思考に優先して自己の安全確保と回復に努める事が、彼らが管理者として定められた時に智自身の手によって強制されている。元来管理者達はそれぞれに自分の世界の破壊された部位を修復する能力を持っており、管理者自身もその世界の一部とみなされるが故にその修復の対象となる。普通なら一分と掛からず死に到る重傷を、一分とかからず、回復することもありうる。
実際、ふと亮が視線を智の肩越しに投げれば、巫女装束の、智の貫手に空けられた穴から覗く少女の腹には傷一つなく、それがとても奇妙に映った。
「そんなだからな、管理者殺すのは楽しくて仕方ないんだ。そうでなければ……アルテメネとか言ったか。あいつにつけてた『アダム』にアレが重傷を負ったら助けるように言ったりもしない。まあ最も、管理者にとっての重傷の基準を伝え損ねてたせいで余計な邪魔になったけどな」
 うっすらと笑みを浮かべて、平然と快楽殺人を公言する智に、亮は今更ながら怖気を感じた。確かにこの一時間足らずで亮も智の普通でない嗜虐性を、理解はともかく認識はしていて、ただ改めて一対一で語る言葉にその燐片を見ると、明らかに異質な存在に対して、意識の底がざわつくような、嫌な心地がした。
「時に、大概の傷じゃ致命傷にならない管理者をどうすれば殺せるか、分かるか?」
 そんなもの、分かりたくもない。ただ、質問されたことで半ば反射的に、考えて。
「……ショック」
「ほう。その通りだ。よくわかったな」
 瞬間、閃いた答えをあくまで独り言として呟いたのに、智が亮が初めて聞く声の調子で言った。
 傷自体は致命傷にはなり得ないという共通点に、もう一度「暁の村」に戻る前に凛に聞いた、例え本当の体でなくとも、損傷の程度次第ではそのショックで命に関わることもあるという話を思い出しての返答だったが、褒められてもまさか嬉しいと思うはずも無く、むしろ嫌悪感にかすかに智の顔から視線をそらす。
「連中は確かに傷は治す。だがその傷を負ったときの痛みも間違いなく感じる。だから、どんなに回復しても嬲り続けて、さっきのアレ同様、埒が明かないっていうんで無意識に周囲の敵の掃討を図っても、どんなに叫んでも全部無視し続けて、とにかく普通なら死に値するだけの痛みを与え続けるんだ。最後には回復と痛みとを処理しきれなくなった頭が焼ききれて、死ぬ。なかなか壮絶で、見物だぞ?」
 半ば、智の言葉に感じた不快感から逃れるように、実際その悪い趣味の犠牲になった少女の方に視線が流れる。その体は磔にされたまま身じろぎ一つせず、襤褸同然と言えなくもない衣服を纏い、黒髪を風に靡くに任せる彼女の姿は頼りなさそうにも、気高くも見えて。
 その少女の左脇腹に、下から突き上げるように、宙に現れた氷柱が突き刺さった。
「なっ……!」
 刀剣の薄刃と違って氷柱の表面はゴツゴツと粗く、その太さも人の腕のそれよりさらに一回りは大きくて。
「うっ……」
 声を噛殺した少女の、引き結んだ口の端から、一筋、血の赤が線を描いた。
「まだ、足りないか」
「あ……っ!」
 少女の方へ振り返りながら智が呟いた直後、比較的細めの氷柱に四肢を貫かれた少女の、口に溜まる血にくぐもった悲鳴が響く。氷柱はそれぞれに、透き通りながら輝くその表面に少女の血を伝わらせ、滴らせて赤く染まる。身体のありえない場所を貫かれた痛みと氷の冷たさとに少女の両手の指は引き攣ったように目一杯伸ばされ、白い肌に不釣合いに、くっきりと青筋を浮かび上がらせて、一度、衝撃に顎を上げた少女はうなだれるような格好で口で粗い息を繰り返す。僅か数秒で起こった出来事に亮は思考でも、行動でもまるで反応できず、完全に状況に呑まれて立ち尽くしていて。
「う……あ」
 その目の前で、今もまだ少女の身体に突き刺さっている氷柱が一斉に、ずるり、と抜けようとした。
 冷たく、粗い凹凸を残した氷柱の表面が体の内側の肉を撫でながら退いて行く感覚に、半開きになった少女の口からかすかに声が漏れる。人体に突き刺さっていた透明な氷柱が、鮮血に濡れながら引き抜けていく光景は生々しく、瑞々しく、おぞましくも艶かしくて。目を離せない亮の視線の先で氷柱は直に完全に抜け落ちるというところまでいって、ぽっかりと開いた傷口からぽたぽたと血が滴る。その端から、智の言ったとおり、滴る血の量は次第に減り、遠目にも十分目立つわき腹の傷口も目に見えてその半径を狭めていって。
 あまりに突然で、異様な一連の光景に、亮の意識は停止したままろくに反応することさえ放棄していて。だから、よもや氷柱が再び少女の身体に突き刺さろうとは露ほども思わなかった。
「あああっ!」
 ほとんど動かないはずの少女の身体が、跳ねた。今まさに回復を始めていた傷口に、一度ほとんど抜け落ちた氷柱が再び飛び込み、閉じかけていた傷口を再び押し広げ、切り開く。かと思えば再び氷柱が後退し、もう一度突き刺さり。その動作が次第に速くなっていく。
「あ、あ、あぁああああああああああああああああああ!」
 さながら自動車のエンジンピストンのように、それぞれのペースで律動する五本の氷柱に貫かれて、「暁の巫女」たる少女が絶叫した。氷柱の出入りの毎に傷口からは血液が飛び散り、普段なら澄んでよく通る少女の声が、ほとんどその面影の無い、ただ甲高いばかりの叫び声として響き渡る。強張った少女の身体は一撃毎の衝撃に細かく、違った風に痙攣し、そこから逃れようとする身体は鎖に絡め取られたまま動けず、そこに次の氷柱が別なところに突き刺さる。その、もはや冷たささえ内側から肉を切り裂く痛みに変質し、反射的に暴れる身体が自ずと別な痛みを生む激痛の嵐の中で、鎖のすりあう音を響かせながら、少女は天を仰いで絶叫して。
「あああああああああっ……!」
 その声が、途切れた。
 危機的な状況に置かれた時に、あらゆる行動をおいて自身の回復を優先することを命じる管理者への定めが、彼女の絶叫という行為をも封じた。
その突然訪れたその視弱に、確かに目の前で起こっているのに、意識の範疇を超えた出来事に縛り付けられたように静止していた亮の身体が、意識が、解放された。
「止めろ! 早く!」
 無関心とも見える自然さで立っている智の背中に叫ぶ。
それに応じて振り向く智の表情に、亮は再び意識が凍りつきそうになるのを感じた。
「ああ、確かに。これだけしかしてないのに、叫ぶことも出来ないところまで行かれても面白くないか」
 焦点のずれた返事を返す智は、その垂れた前髪の奥で目を細め、口の両端を吊り上げて、さながら道化の面を貼り付けたかのような笑みを浮かべていて。その言葉と同時、氷柱が律動を一斉に止めて霧散し、少女が糸が切れたようにうなだれ、亮の耳にも音が聞こえるほどに荒い息をつく。その呼吸がろくに整う間もなく、
「……っ! あああああああ!」
 再び少女が、もはや金切り声と言っても良いほどの悲鳴を上げる。その両足首から先は氷の塊に覆われていて、その内側で、棘状に形成された氷が、彼女の十本の足の指全てのつめと肉の間にもぐりこんで、ゆっくりと、しかしよどみなく成長していた。
「面白いだろう。身体を串刺しにされるのと、爪を剥がされるのとでも、随分違う悲鳴を上げるんだ。しかも目と耳を殺して外界への感知能力もほとんどなくしてあるから、痛みに必要以上に恐怖が加味されて、また一層反応が面白くなる」
 嬉々として言う智に舌を打ち、そもそも智を相手に常識的な言葉を弄することの無意味を悟って、自分でどうにかしようと、脹脛の辺りに力がこもる。
 しかし、こんなときに限って、亮の臆病で冷静気取りの意識は彼の邪魔をする。
 出て行って、どうする?
 今亮が少女の元へ駆け寄ったところで、智が意のままに、どこからとも無く創造する氷柱を相手に何が出来よう。もともと亮にあるものといえば凛にもらった盾だけで、それも智が相手では意味を成さない。そもそも、既に氷が少女の身体に触れ、危害を加えているならば、亮の盾に両者を引き離すことは出来ない。
 また、智の背中に駆け寄ったところで、守るしか脳のない亮では何ができるはずもない。大体が、亮にとって「暁の巫女」が既に自分では到底敵いようも無いと言いきれる相手で、その彼女のさらに上を行く智を相手に、直接力でねじ伏せて制圧するなど、できるはずもない。
 そうだよ。何も、できるわけが無い。
 どこか自嘲気味のその思考は、まるで意識の別の部分が亮を糾弾してくるかのように思えて。進退窮まって、その場でたたらを踏んだ姿勢のまま、亮の視線が、未練がましく、前方の、自分では決して手の届かない光景を見つめる。見えない、聞こえない暗闇の中で、脚の先に走る激痛に、少女はいい加減無駄と分かっているだろうに、暴れ、鎖をこすれさせる。じっとりと顔に、首筋に、冷や汗をかき、そこに乱れた黒髪がまとわりつく。その姿は傷つきながらも亮を庇い、あるいは林の泉で水を浴び、またあるいは亮に疎外感に似た不安を与えながら周囲の有象無象圧倒する、どの「暁の巫女」のイメージからも程遠く、それ故にここで手を打っておかなければそういった彼女らしさと一緒に彼女自身が失われてしまうような後の無い不安を亮に与えて。それなのに、肝心な時にまた、亮には打てる手が何もなかった。
「ほら、貫通」
「あっ……!」
「どんな気分だろうな? 目も見えない、耳も聞こえない中で、足の爪がゆっくり、一斉に、少しずつ剥がされていくって言うのは」
 喘ぐような悲鳴の残滓を上げた少女の脚の先を覆う氷の塊は、内側に滲む彼女の血の溜めてうっすらと赤い。一時の小休止に少女は再びうなだれて粗い息を繰り返す。そんな少女から視線を離し、智は肩越しに亮の方へ振り向いて。
「なんだ、なにかしてくるかと思ったのに、相変わらずか」
 ぽつりと、呟いた。