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「『アダム』を通してみる限り、少しは面白そうだと期待したのに、他人に恵んでもらった盾が使い物にならなくなった途端に何も出来なくなるのか。えらそうに俺の前に立ちふさがってアレを守る振りまでしてみせておいて、いざアレが悲鳴をあげだしたら何もしない? 随分と情け無いな」
 こちらを小馬鹿にした、妙にイントネーションをつけた声で畳み掛けてくる言葉に反感はあるのに、実際その通りだから反論のしようが無く、視線が落ちる。
 思い返してみれば、智が現れたとき、あるいはアルテメネを退ける前後、亮の意識の中に恐怖はあっても、およそ逃亡に類する衝動は無かった。それどころか、自分の死を当然と語る「暁の巫女」に何も言い返せなかった亮が、彼女の言葉を無視し、彼女を守って前に立った。少なくともあの時、亮は表面的には、自分から何もできない臆病者ではなかった。そのことに、亮はなんら疑問をおぼえることもなく、それを当然の自分の感情として扱っていた。
 しかし、なんのことはない。それはただ、盾があったからに過ぎない。凛からもらった盾が機能し、今まで彼女の背中を見ながら守られるばかりだった「暁の巫女」を自分が守る事が出来た。それに安心し、気を大きくして、「暁の巫女」をして圧倒する智を相手に、恐怖は感じながらも立ちふさがった。でもそれは、凛がいて、彼女の盾があったこらこそと但し書きのつく結果だ。亮自身の力によるものでは断じてなく、ましてそれだけ亮の覚悟が座ったとか、そうな立派な物ではありえない。ただ、丁度ちょっと良いものを手に入れて、浮かれていい気になっていただけだ。それどころか、その盾が使えなくなった途端に、傷つく少女を目の前にして立ち止まり、自分に何が出来ようか、などと考えて行為を放棄してしまっては、亮自身が「暁の巫女」を助けたいと思った事実さえも嘘にしてしまうも同然だった。本当に、情け無い。
 そう思っている端から、それでも、できることが無い、身を守る術もない、と自分を正当化しようとする意識が首をもたげる。ただ、亮にとってそれを「仕方ない」と受け入れることはただの逃亡であって、なんら正当性を持たない。大体、自分には何も出来ない、だから仕方が無いなどと言うのは、それでもなお向かっていくだけの勇気の無い、必要次第ではその覚悟ができない、弱い自分の保身の口実に過ぎないではないか。そうでないと言うならば、無力ゆえに立ち止まった亮の心が、その場から動くことを拒絶して立ち尽くしているわけがない。動きたくとも、無力ゆえに自分では何も出来ないと、理性で心情を押さえつける苦痛を感じていないわけが無い。
 結局、四年と半年前から何も変わっていないのだ。結局亮は、傷つく「暁の巫女」を前にして、自分の無力を理由に彼女を助けに行くことを拒む臆病者に過ぎない。今度こそ、後がない事も重々承知の上で、明確に彼女を助けるためという目標を持ってきたにもかかわらず、それはやはり変わらなかった。
 そう、全く、相変わらずなのだ。
「……『相変わらず』?」
 どこまでも沈み込んで行こうとしていた亮の意識が、ふと思考の泥沼を掻き分ける手を止めて、振り向いた。
 おかしな話だった。一体智は何をもって相変わらずだなどと言うのか。亮と智は今回が初対面のはずではないか。しかし、そのうちの何をもって「相変わらず」なのか。
少し考えて、「暁の巫女」に「早く帰れ」といわれて、頬を叩かれて、何も言い返せなかった自分を思い出す。確かに、あの時も亮は臆病だった。彼女に「死ぬ」とまで言われておいて、それでも彼女に真正面からぶつかっていくことへの抵抗感に、ただ口を噤むことしかできなかった。
しかし、それは今目の前にある光景と比べるにはあまりに矮小だ。あの時確かに少女は「死ぬ」と明言した。しかしあの時まだ彼女は平然として、傷らしい傷の一つも負っていなかったし、事実その後の戦闘も苛烈な物ではなかったという。それを智がどこかで見ていたとしても、今ここで引き合いに出すとは思えない。
「『相変わらず』って、どういうことだ……?」
「なんだ、『アダム』を見てそれとなくは気づいてると思ってたんだがな」
 顔を上げた亮に答えた智が、身体ごと振り返りながら、すぅ、と右手を顔の前にかざす。その指先で額から顎にかけて、ゆっくりと滑らせて、その指の通ったところが、丁度粘土の表面を撫でながらかたどっていくように、智の顔が変わった。そこには、智が「アダム」と呼んだ男と同じ顔があった。
「そら、自慢の盾の出番だぞ」
 見とれたように智の顔に視線を捕われる亮に、言った智が軽い動作で右腕を振るう。次の瞬間、さながら今、智の右腕に放られたばかりのように、空中に金属塊が現れて、風を切って飛来するそれが自分の顔を目掛けて飛んでいるという事実を認識した途端、反射で張り出した青い盾の中を、鎖を尾に引く質量の塊が通り抜けていく。
「これで、思い出したか?」
 そう、言われるまでもない。今亮を目掛けて飛んできた、チューリップの花に似た金属の塊は、四年と半年前、突然現れた流れ人が「暁の巫女」に対して使っていた武器に他ならない。そして今、それに連なる鎖は智の左手に握られ、空いた右手は鎖を引き戻しもせず、代わりに智の首から下をすっぽり覆ってしまえそうな、黒いマントを握っていた。
「五年前、お前が初めてここに来た時の流れ人は、俺だ」
 言いながら両の手に握った物を手放して、もう一度右手で顔をなぞり、元の自分の顔を取り戻す。
「本当はあの時、もうこの世界にはとっくに飽きてて、あの日は暇潰しがてら、アレで遊びに来た所だった。そしたら、丁度お前がいた。神界の側から人がくるだけで珍しいのに、ましてそれがただでさえ人の出入りの少ないここっていうのも面白かったからな、お前がどんな反応するか、楽しみにしてたんだぞ。それなのに早々に逃げ出しやがって。結局それで興が冷めて、あの時は俺もそのまま帰って終いだ」
 吐き捨てて、足元の玉砂利をつま先で穿ち、蹴り飛ばす。
「それでも、もしかしたらお前が何か思うところを得て、またここに戻ってくるかもしれない。そうなれば面白い。だから、これまで待った。だが結局お前は来なくて、お前の年の程を考えても、そろそろ俺がこの俗界に来たのと同じくらいだろう? それで来ないならもう望みは無いだろうと思って、最後に派手な締めを用意したところでその真っ只中にお前が戻ってきたって言うわけだ。全く、最高のタイミングだ。舞台の準備は整ってる。今度こそ、面白みのある反応を期待した。それなのに、だ」
 智の手が、足元の鎖を握り、薄れ掛けていた亮の盾が改めて張り出す。
「お前は相変わらず……そう、意気地なしの臆病者だ」
 同時、鎖が引き戻されて、勢いに浮き上がった金属塊が亮の身体をすり抜けて。その行く手を見送る亮の目の前で、智は鎖を肩に担ぐように踵を返して、
「ぅ……かっ」
 花弁を開いた鉄の花が、磔にされた少女の腹に食らいつく。それに亮は、びくり、と肩を震わせ、それでもなおその場を離れようとしない自分の脚に、歯を食いしばる。
「まあお前がそんなでも俺はこうして勝手に楽しめるんだけどな。せっかくの珍事なのに、楽しみがいつもと変わらないなら、お前がここにいる必要は無いわけだ」
 再び智がつまらなそうに鎖を放り出すと、鎖が、金属塊が、霧散して消えた。
 ちょっと、待てよ……。
 驚きながらも自分に言い聞かせて、気持ちを落ち着けて、事実の全体像を整理する。
 四年と半年前、亮が遭遇した流れ人が実は智だった。そして今も、その智が亮の前で前髪をかきあげながら立ちふさがっている。そしてどちらにおいても、「暁の巫女」たる少女は傷つき、亮はただそれを見守るばかりで何も出来ていない。どちらの時も、何も出来ずにいた亮の目の前には「暁の巫女」を傷つける智が立ちふさがっていた。勿論最大の問題は亮自身の臆病さに他ならない。ただそれでも、その事実を認識して改めて目の前の智を見ると、何か眩暈がするような心地がした。
「ただな、俺も五年待たされてる。いくらお前があい変わらず面白みが無いやつでも、それで諦めるのは割に合わない」
 もう一度、亮のほうへ振り向いた智が、宙で右手を握り、その手の内に創造した剣を亮の足元目掛けて放った。
「拾えよ。さもないと……」
 言葉を切った智が親指で指し示す先、「暁の巫女」の肩口の辺りに新たに氷柱が創造されて、その鋭利な切先は、すぐにでも突き刺せるといわんばかりに少女の首筋に向いている。
 まるで智の意図が分からなかった。亮に武器を与えて、それでどうしろと言うのか。
 しかし、ためらう暇も無かった。
「五、四……」
 智のカウントにあわせて、氷柱が掘削ドリルのように回転を始める。氷柱の表面は決して平坦ではない。それが突き刺さったらどうなるか。考えて、脳裏に少女の悲鳴が蘇る。
「三」
 それでもなお固まって動作を躊躇う亮の脚、あるいは亮自身を嘲笑うようにカウントは進む。
「に……」
「っ……!」
 亮が思い切って腰を落とした。現実的に智を止める術が亮になかった先程と違い、今回はそうするだけで智の側が自ら手を止めてくれる。その差が、亮に踏ん切りをつけさせ、そのまま足元に転がる剣の柄に手をかけて、直後
「うっ……!」
 わき腹に走った衝撃から一拍遅れて鈍痛が響き、それに応じて盾を張り出した亮の身体が玉砂利の上を滑る。一体いつの間にか、気付けば智は亮の目の前からすぐ右側へ移動していて、そうと知る間もなく亮の身体は智に蹴り飛ばされていた。
「ほら、これでお前も守るだけってわけじゃないだろう? せっかく武器を恵んでやったんだ。さっさとそれで斬りかかってこい。来なかったら、五数えるごとに一つ、アレの身体に穴が開くぞ?」
 言って、再びカウントを開始する。
 無茶苦茶な話だった。目で追うことも出来ないような動きを見せる智を相手に、剣など触れるのも初めてで、その見た目以上の重さにかすかな違和感さえ覚えている亮が何をできるというのか。しかも智には亮の盾は通用しない。どうせ、今のように蹴り飛ばされるなり、殴り飛ばされるなりするのが良いところだ。
 しかし、今の亮に出来ることは唯一それだけだった。今更再認識するまでもなく、他に亮に出来ることは何もない。そして同時に、智の言葉に従えば、少なくともその間「暁の巫女」を助けることは出来た。そしてさらに、「五数えるごとに」という智の言葉を忠実に解釈するならば、亮が智に向かっていくのをやめたとき、「暁の巫女」がゆっくりと、確実に蜂の巣にされて、それが多分彼女の最期になる。
 どう考えたところで袋小路でしかない、酷い提案だった。しかし亮がそれに反発できるわけが無かった。それは別に少女を見捨てられないとかいった立派な感情によるものではなく、ただ、他人の苦痛を、果ては他人の命を背負わされて、それを捨てるような勇気は亮になかった。自分に実現可能な行為の有無が「暁の巫女」の受難の有無に直結して、そこに亮はどうしようもない脅迫感を覚えていた。
 だから、そのまま従ったところで先に何もない事は直感で分かっているのに、亮はそれ以上何も考えず、手にした剣の柄を握り締めて、駆け出しながら立ち上がった。
 そこに、
「はいよ、お邪魔〜!」
 亮にも確かに聞き覚えのある声で叫びながら、巨大な影が屋敷の外壁を飛び越えて、玉砂利を蹴散らしながら駆けてきて、智と亮の間に横滑りしながら立ちふさがる。
「やっと追いついたな」
 春日徹が、そこにいた。