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 時刻は数十分遡る。
 目覚めた徹の目には、世界が霞んでいるように見えた。そのまま二度、三度と瞬きを繰り返して、ようやく視界が鮮明さを取り戻す。同時に自分が体を横たえていることに気がついて、立ち上がろうと、下にある右前後肢に力をこめて、直後胴部に走った鈍痛に、かすかに歯を食いしばって、僅かに牙を剥く。
「クッソ……。全感覚神経、接続解除。全変数を初期値へ修正、適用。差分修正、矯正適合」
 濡れた毛皮のせいで重く、不愉快だった自分の体の感覚が消失し、数秒の後にもっとコンパクトで身に馴染んだものになって戻ってきたのを確かめて、改めて徹は、人の姿で立ち上がった。ひとたび俗界における体を作り変えてしまえば、前の体で受けたダメージや溜め込んだ疲労は解消されてしまい、身体的には快調そのものでなんら問題は無い。それだけに、精神的な疲労感が余計に際立って感じられて、視線は落ちがちになって。
 だから、徹の目の前数メートルのところで手足を投げ出して横たわっている凛の姿が、捜そうと思うよりも先に視界に飛び込んできた。
「凛! 大丈夫か、おい、凛!」
 すぐに駆け寄って、ぴったりと張り付いた衣服から、そこに透いて見える肌から、長い金髪の毛先まで、びしょぬれの彼女の体を抱き起こす。
「大丈夫か……って、息!」
 すっかり身体を冷やしきった凛は呼吸をしていなくて、慌ててその小さな身体を寝かせ、顎を上げさせ、鼻を塞いで口から息を吹き込んでやる。
 忘れるはずもない。徹と凛は、智の創造した洪水を相手にろくに抵抗も出来ず、飲み込まれた。その後の記憶が無いからどのような飛ばされ方をして地面に転がっていたのか定かでない。ただ、一つだけ確かなのは、徹が記憶をなくす直前、徹の前には、自身が創造した壁の後ろに控え、彼を庇っていた凛の姿があったということ。獣の姿になっていた徹でさえ意識をなくし、身体ごと飛ばされるような水流を、例え壁があったとはいえ一身に浴びた凛のダメージが大きいことは考えるまでもない事で。
 これが徹であれば、俗界における身体は所詮偽物であって、その身体が心肺を停止させても、それがよほど急で、現実の身体をショック死でもさせない限り、それほど問題は無い。ただ、もともと智によって俗界に生み出された凛のばあい、今の体こそが彼女のいわば本体で、それだけに現状にはあまりに余裕が無かった。
 糞っ! 俺はどれだけひっくり返ってた? どれだけこいつは呼吸を止めてた?
 自分では答えようのない問いを自問しながら、数秒に一回、膨らんでいく彼女の胸に視線をやりながらゆっくりと息を吹き込んで、口を離すことを繰り返す。
 ようやく見つけた智にはまんまと逃げられ、挙句こんなところで凛を失うなど、考える期も起きないほどに悪すぎる冗談だ。
 息吐けよ、ほら!
 念じながらもう一度息を吹き込んで、反応を待って彼女の口の前に頬をかざす。と、
 ほぅ
「っ! よし! おい、凛! 起きろ!」
 呼吸が戻ったのを確認して、もう一度その身体を抱き起こし、彼女のぬれたワンピースのおかげで自分の革のジャンパーやジーンズまで濡れるのを気に留めず、肩をさすりながら呼びかける。カクカクと揺れる彼女の頭を自分の肩に、背中側から抱きすくめるようにもたれかけさせて、呼びかけながら、せめて少しは暖めようとその真っ白い肌をこすり続ける。それが十数秒は続いた頃、
「凛! おい、凛!」
「ん……」
「おい、起きろ!」
 短く、小さく、しかし確かに声を漏らした凛に、呼びかけながらも徹の表情に目に見えて安堵の笑みが広がった。凛の方も身体を擦られる感覚と振動とにうっすらと開いた瞼の向こうで瞳にゆっくりと光を戻して。
「とお、る……」
 震える声で言う凛の顔を覗き込む。
「大丈夫か? 気がつい……」
「このバカァ!」
「おぅ!」
 そこに突然顎に頭突きをくらって、奇妙な声を上げて徹の体がのけぞり、仰向けに倒れる。顎の中心から顎関節にかけて、痺れを伴った痛みに顔をしかめながら打撲点をさすりつつ身体を起こしてみれば、流石に仕掛けた側にも辛かったと見えて、徹から少し離れたところで頭を両手で抑えてしゃがみこむ凛の姿があって。徹が起き上がると、地面の落ち葉が擦れる音に凛が顔を上げて、きっと鋭い視線を徹に向けて、立ち上がり、
「徹のバカ!」
 叫んだ。
「あれだけ突っ走るなって言ってわかったって応えたくせに、どうしてまた一人で突っ込んでいくのよ! このバカ!」
「んなバカバカって……」
「バカよ!」
 幾分抗議の色合いも持たせつつなだめにかかった徹の台詞に凛がかみつく。
「突然勝手に飛び出していって、挙げ句あんな真正面から返り討ちにあって! 私が出て行かなかったらどうなってたと思ってるのよ!」
「それは……」
 確かに徹が智の創造した水の竜の直撃を受けたのは何よりもまず徹の警戒不足が原因なのは明らかで、もうすこし相手をよく見ていれば少なくとも一撃目をかわすくらいの余裕は作れたはずで、その痛いところを突かれて、徹は言葉を濁す。
「大体……!」 
 勢いのまま追い打ちをかけるように凛が口を開く。そのまま徹の方へ一歩踏みだそうとして、不意にその足がもつれた。
「うぉっと……」
 手を伸ばし、斜めに倒れそうになる凛の体を受け止める。その肌は相変わらず冷たく、衣服も髪も濡れたままで。たとえそうとは思わせないほどの気迫があったとしても、紛れもなく彼女はついさっきまで気を失っていて倒れていた身で。彼女自身だってとても万全とは言い難い状態のはずなのに、開口一番飛び出した怒声は徹のみを案じるからこそのもので。
「……ごめん」
 そうせずにいられず、膝を折って、受け止めたその体の後ろへ手を回す。
「ごまかさないでよ」
 ふてくされた口調でそんなことを言いながらも、凛に離れようとする気配はなくて。
「ごめん」
「なにが?」
 試すように、凛が問う。
「後先考えずに勝手に飛び出して、ごめん」
「……本当だよ」
 徹の応えを吟味するかのようにしばしの沈黙をはさんで、凛も徹の肩に顎を預けてきた。
「私だって、一回くらいアイツのこと殴ってやりたいんだよ? 思いっきり殴って、蹴飛ばして、ちょっとくらい仕返ししてやりたいんだよ? でも徹があんなに一人で前に出たら、私は後衛に専念するしか無いじゃない」
「ああ……」
 応えて、呟くように言う凛の肩に、何とはなしに手を回す。濡れた手に、時折気まぐれに吹く夜風が冷たくて、彼女を庇うように、抱きすくめる腕に力がこもる。
「後ろで見てるだけって言うのも怖いんだよ? ただでさえアイツが何してくるかわからないのに、徹までぽんぽん飛び出していくから倍気を使わなきゃいけないしさ。その上、前で好き勝手に飛び回ってる徹のこと見てると、時々そのまま置いてかれそうな気がして……」
「おい!」
「わかってる!」
 流石に、聞き逃せなかった。自分が凛をどこかへ置いていくなど徹にはあり得ないことで、思わず咎めるように語調を強めて、彼女の肩に置いた手で体を引き離し、真正面から相手の顔を見ようとして。それを、一層抱きつく腕の力を強めた彼女に阻まれた。
「わかってるよ、徹はきっとそんなことしない。それでも不安なの」
「……」
 消え入るようなその口調に、凛の肩から手を離すと、彼女はそこに空いた空間をなくそうとするかのように、心細そうに抱きしめてきて。その濡れた金髪に何となく指を絡ませたりしながら徹は逡巡する。多分今にぴったりの台詞ならもう頭の中にはあって、でもそれを直接口にするのはいささか躊躇われて、舌の根が乾くような感覚に、一度開いた口を閉じて。
 ふと、落とした視線の先に凛の足があった。その、濡れたワンピースに透いて、あるいは裾から覗いて見えるその細いふくらはぎに目が行って、止まった。そこに、一つ大きな痣があった。きっと智が創造した水の奔流に飲まれたときにどこかにぶつけたのであろう、徹にはその痣にまるで見覚えがなくて。
「……ああ、もう」
 迷ってる場合か、と、内心で自分に檄を飛ばして口を開いた。
「それはお前を信頼してるからだよ」
「……」
 凛が腕の力を少しだけ緩めて、横顔に視線を送ってくる。
「俺だって一人で先走らないように、それなりに気をつけてはいるけど、それでも気付けば飛び出してる。でも、後ろに不安があったらそうも行かないだろ」
「……どういうこと?」
「だから……」
 ただでさえ気恥ずかしい台詞をあれこれと引き伸ばして話すのがもどかしくて、もう一度凛の肩に手をあてて、少し押し戻すように彼女の体を自分の正面に据えた。落としたところから上げた視線に飛び込んできたマリンブルーの瞳を真っ直ぐに見つめて。
「いざとなればお前がサポートしてくれると信じてるから、俺は好き勝手に出て行けるんだ。お前がいてくれなきゃ俺なんか、あの馬鹿に言いくるめられてそれで終いだ。お前がいてくれなきゃ、俺が困る。それなのにお前を置いてどっか行くわけが無いだろ。馬鹿なこと言うなこの馬鹿」
 それだけ言って、最後に頭突きの仕返しに、額同士を少し強めに打ち付けてやって、「痛っ」と額を押さえる凛の身体から手を離し、立ち上がる。徹の額にも燻るように残る痛みは、気恥ずかしさを紛らわせるようで、むしろ心地よかった。