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 全く突然に、一度身体を離れた五感の全てが纏めて帰ってきた、そんな感覚を覚えた直後のことだった。
「うっ……」
 周囲の状況を理解するよりも先に後ろからパーカーの襟を無理矢理に引かれて、亮の体が宙に浮いた。そして、
「ちっ!」
 わざとらしいほどの舌打ちと共に、黒い何かが、動力源から解放され、高度を落とす亮の視線のすぐ先を一瞬で横切っていった。
「痛っ」
 木の葉やら小枝やらが散らばる地面に勢いのまま背中から、滑るように落下した亮の前に、ジーンズに革ジャン姿の男、徹が、亮に背を向けて立つ。その背中の向こうで、黒い布地が、心持ち熱気を帯びた微風に揺れた。
 あいつ……!
 その姿を、亮は知っている。真黒いドレスに肘までを覆う手袋。その服装とは対照的に、白銀色の輝きを帯びるシルバーブロンドのロングヘアー。手にした得物こそ掌におさまりそうな両刃のナイフであったが、見間違うはずも無い。亮が、実に四年と半年振りの再会を果たすその若干前、その再会の相手である「暁の巫女」の追撃から逃走していた二人組みの片割れが、木々の中、亮と徹を見据えて立っていた。
「お前が俺達を攻撃する目的は?」
「当然、適当に弱らせてもっかい門を開かせるのよ!」
 軽く脚を開き、重心を落とした徹が尋ねる問いに、一声、叫んだ少女の体が極端に沈んだ。次いで亮の視界に映ったのは静めた重心を一気に正面めがけて蹴り出す少女の姿。風圧で後ろに流れた前髪、見開かれた目に思わず体が強張り、脚を引き付け、立ち上がって逃げようと腕に力が入る。奥歯を噛み締めて、
「そうじゃないでしょ」
 直後、耳元で別の声が聞こえて、白い物が視界の隅を掠めていった。第一撃を亮に叩き込まんとしていた黒装束の少女も、亮の脇を通って迫り来るそれの方にちら、と眼をやり、既に十分にあった勢いに任せて、真っ直ぐに得物を新手の方へ突き出した。
 そして、金色の円が宙に描かれた。肌寒い空気には不釣合いな白いワンピースに波打つ金髪。走りこんだ凛の体は突き出された白刃にかすりもせず、伸びきった腕の下にもぐりこみ、薄手の手袋の腕からそれを両手で掴むと、彼女の体に塞き止められた相手の勢いを巻き込んで受け流すかのごとく、その場で百八十度廻り、肩越しに相手の体を放り投げた。
 投げられた少女は、地面に叩きつけられる前に自ら片腕をついた反動で飛び上がり、その銀髪を風圧に乱しながら着地。そしてその反動が死ぬ前にもう一度とばかりに、得物を握る右手に左手を添えて、後退の慣性が残る両足の膝を軽く折る。
「残念でした」
 しかし、それが再び伸びきるのよりも、凛が一足飛びに追撃を仕掛けるほうが速かった。得物を構えた拳のすぐ横に凛の顔があることに少女が思わず眼をむいた次の瞬間には、彼女の手首の関節を目掛けて凛の腕が振り下ろされ、関節から骨を伝う痛みに思わず抜けた握力を彼女が回復するよりも先に、切り返した凛の腕がナイフを弾き飛ばしている。そして次の得物を彼女が手にするのよりも先に、少女の首筋には、まさにその瞬間凛が創造した片刃の小刀が当てられていた。
「凄いだろ?」
 唖然として二人の少女の姿を眺める亮に、肩越しに振り向いた徹が言う。
「あんな風に迫られたら、俺でも敵わないんだよ、凛には」
 わざとらしい小さなため息をつきながら差し出す徹の手に捕まって、亮もようやく起き上がる。背中と、尻と、掌やら肘やらについた木の葉や小枝を叩き落としながら辺りを見渡して、ようやく自覚した。
 戻ってきたのか。
 随分林の奥にいるのか、周囲には立ち並ぶ木々しか見えないが、それでも熱気は風に乗って伝わってくるし、なにより、まるで代わり映えのない月と星が並ぶ夜空が、ここが「暁の村」であることを無言で告げていた。
「一度だけ」
 亮と徹の視線を右手から受けて、小刀を手にした凛が少女に言う。
「ここでこのまま引き下がるなら、私達はあなたに用はない。でも逆らうようなら、この腕を引く」
 少女の皮膚に軽く食い込むほどに刃が押し当てられたこの状況で凛が腕を引けばどうなるかは、亮にでもわかる。当然徹や凛、そして選択を迫られた少女は言わずもがな。しばらく鋭く凛を睨んでいた少女はそのまま、両手を開き、両腕を左右に広げて立ち上がる。凛の方もやはりそのまま、少女の首筋には刃を押し当て、相手が一歩下がるのにあわせて一歩前進。視線はお互いに切らないまま、二歩目で半歩、すぐさま続いた三歩目はもはや追わず、四歩目で少女が踵を返して走っていくのを見送った。
「上出来」
 パンパンと軽く手を叩く徹の声に、凛が小刀を下ろして振り返る。そのまま凛が手首を捻るようにして刃を振るうと、まるで砂が風に吹かれて散るように、小刀が切っ先の方から崩れて消えていった。
「追う必要は無いんだよね?」
「ああ、そこまでは」
「私達の仕事じゃない」
「……その通り」
 出鼻をくじかれて言葉に詰まった徹が首を傾げ、肯定する。その後ろで、改めて亮はあたりを見渡した。
 静かになっている気がした。間違っても平穏無事といった様相ではない事は、今しがた流れ人の少女との衝突を鑑みるまでも無く、林の空気にも満ちる熱気が伝えている。ただ今は、熱気があるばかりで騒音が無かった。亮が数時間前にこの世界を離れた時には破砕音、爆発音があちこちから聞こえて、あの社の壁でさえも震えるほどだったというのに、今その類の音は耳を澄ませば時折聞こえてくる程度のものだった。
 どうした……?
 亮には、この世界から逃げ帰ってから今までの間、何が起こったかがわからない。だからこの、平穏さを伴わない静けさが不気味に思えて、それを誤魔化すように軽く、垂らしていた両の手で拳を握った。
「さて、この先だけどね」
「あ、はい」
 そんな折、唐突に徹から投げかけられた言葉に、思わず亮の肩が跳ね、それを取り繕うように言葉を返す。徹のほうはそれを気にした風でもなく、振り返り様、足元の枝を蹴飛ばした。
「見ての通り、決してここはいい状況ってわけじゃない。君がここの管理者のところに行くつもりなら急ぐに越したことはないから……あの木、わかる?」
 言った徹が、す、と右手を真っ直ぐ前、亮の後方に向けて突き出す。しかし尋ねられても、流石に林の中で後方にある木々の一本を肩越しに振り返るだけで特定できるはずも無く、亮は完全に徹に背中を向ける形で背後の林に向き直った。
「……どれですか?」 
「ほら、あの一本やたら太い幹の……」
「ああ……」
「あのあたりまでいくと社の鳥居が見えるはずなんだ。そこからは鳥居の方に向かって一直線に進めば……」
 言われて見れば、視界前方五十メートルほどのところに、一度それとわかれば見失い得ない、周りの二倍ほどに幹が膨れた木があることに気付く。そのまま徹の言葉に耳を傾けていた亮の耳に、
「盾!」
 不意に飛び込んできた高い声で意識が一瞬停止した。そして
「え?」
 突然何事か、と声の主である凛の方を振り向こうとして、別の物に視線が捕われた。
 振り返った視界の左上方を覆い隠すようにして、獣の腕があった。人のそれなど比べ物にならない、太く、風にたなびく黒々とした毛に覆われた剛腕。その先には腕のサイズに引けをとらない大きさを誇りながら確かに鋭さをも宿した象牙色の爪が五本。図体を取れば熊の腕のようであるが、爪はネコ科のそれをもっと厳つく仕上げた物のようにも思え、何よりそのどちらの腕もこのような立派な毛皮に覆われてはいなければ、これほどまでには巨大でもない。すなわち亮の知るどのような動物の物でもありえない、その出鱈目に凶暴な腕は、確かに、徹の右肩から生えていた。
そして、それが振り下ろされた。
図体が大きい分風を切る重低音も大層な物で、それが地面に叩いて巻き上げた、木の葉、小枝、土煙も、さながら水しぶきか何かのように思えるほどであった。
 徹はただ、自分の腕が通り抜けた空間を無言で見つめ、凛はただ、目の前にある徹の背中を無言で見つめる。しばしその無言を保った後、凛が先に口を開いた。
「そこまですることは無かったんじゃないの?」
「俺だってはじめからここまでするつもりは無かったよ。頭に触る程度で止めてた。それだけでも意識は飛ぶ。で? これはなんだ?」
 これは、なんだ?
 その言葉を、亮も胸中で呟いた。
 その「腕」を見るのとほぼ同時に恐怖心が身体を駆け巡った。意識は思考が可能な状況に無く、脚は竦んでそもそも逃げるという選択が不可能で、出立前の凛の言葉など問題でなく、ただ本能的に身をすくめて、自身を守ろうとした。
 そして、気付けば目の前にその光景があった。
 反射的に身体を縮こまらせた亮の目線は、うっすらと瞼が開くとまずその足元の光景を捉えた。そこには、徹が振り下ろしたばかりの猛々しく巨大な腕が、振り下ろされたままで横たわっていて、一体どうしたわけか、その腕の姿と、亮自身の脚の姿とが完全に重なって見えていた。
「お前の仕業だな、凛」
 徹の声に顔を上げて、さらに亮は自分の足元から頭上までを球形に覆う、青く透明な何かがあることに気付く。今しがた起きた出来事のために心臓と鼓動を共にしているのではないかと思えるような頭の片隅で、これが凛の言っていた「盾」だろうかと考える亮の目の前、徹がその奇妙な腕の生えた右肩に触れると、その触れたところから伝染していくかのように腕が元の人間の右腕へと再度変容し、それに伴って亮の足元にあった獣の腕も引き戻されていった。
「何かしてるような気はしてたんだけどな。『ボックス』の準備にしちゃあ、ちょっと今回は時間がかかりすぎだった」
「……流石にわかったか」
「そりゃあそうだ。俺の目だって節穴ってわけじゃない」
 その目は亮のほうに向けたまま、背後の凛と言葉を交わし、首を傾げてみせる。ただでさえ真意が見えないというのに加えて、目の前でお互いを視線の先に捉えているにも関わらず完全にこちらを無視しているその姿が、亮にはどこか不気味に思えた。
 そして脚を後ろへ滑らせようとして、多少進んだだけで止まった。
 流石に自身を臆病者と謗る亮とて、この状況で恐怖のあまり身動きが利かなくなるほどではない。真っ直ぐに向けられている徹の視線から逃れて、その距離を開きたいという、またそうするほうが無難ではないかという考えが浮かぶ程度には、亮の思考も機能している。ただ、徹の後ろには、凛がいた。手伝いは出来ないなどといいながら、彼女はこうして亮に身を守る術を与えてくれている。少なくとも凛は、信じられると思った。そしてその凛と徹は、亮の見る限りでも互いに「どうでも良くない」関係であるように見えた。だから、本当にここで逃げるのが正解なのかが、わからなかった。
「しかし厄介なことになったな……」
 今はどこか胡散臭くも思えるため息をついて、頭の後ろに片手をやった徹が言う。その足が一歩踏み出すのに応じて、距離を保つように亮の脚も下がる。それを見止めて、徹が手を下ろしがてら、鼻で息をつく。助け舟を求めるつもりで徹の向こうの凛の方へ視線を送ってみても、彼女の視線は亮から少しだけ横にずれた、徹の背中の方にぴったりとあったまま動く気配も見せない。どう動けば良いのか分からないまま、視線を一度徹へ、そして再び凛へと戻す。
 直後、
「危ない!」
 突然、またも叫んだ凛の言葉にふと視線を周囲にめぐらせると、亮の右手にそびえていた針葉樹が一束、緩慢な、しかしどこか雄大な動きで倒れてきていた。
「うぉ!」
 徹が飛びのくのを他所に、亮も後ずさりながら反射的に身を屈める。それだけで、凛の言葉で一瞬揺らいだ亮を覆う殻は再び毅然として復活し、加速の付いた木の幹は亮の鼻先を掠めるような軌道で倒れ、先程の徹の腕以上の粉塵を巻き上げた。
「今度はなんだ」
 顔を上げてみれば、目の前には木の幹が倒れるままに積み重なっていた。飛び出した枝が亮の両脇にも伸びて、ちょっとした壁が亮を包囲し、徹や凛の姿はその向こうに見えなくなっている。とても整然と並べられたとは言えないその木々はともすれば崩れ出しそうで、それを乗り越えて二人の元に行くのは、流石にためらわれた。
 どうするか。
 「盾」が消えたまま、考えて、後ろを向く。その視線の先に、先程徹が示した木が見えた。現状で徹が信用できるか否かという問題を棚上げにしても、今の亮にはそちら側にしか道が無い。どう動くにせよ、取り敢えずは一度正面に向かって歩き、この壁の包囲から出なければならない。その後で、もう一度凛と徹のもとへ向かって真意を問うことも出来なくは無い。少なくとも、二人の会話を漏れ聞いた限りでは、徹にも亮を根本的に攻撃するつもりは無いようだったし、それくらいなら危険とも思えず。
 ……や、必要ないか。
 そこで思い直す。亮がいまここにいる目的は、この世界の主である少女を助けること。考えてみれば凛には「手伝いは出来ない」と言われていたわけで、つまりはじめから亮はこうして一人になったうえで彼女の救出に向かう予定だった。そして彼女は相変わらず戦っているのであれば、実質的に当初の予定と何も変わらない現状で、それよりも辺りの不気味な静けさへの不安の方が先に立っていて。そんな時、あえて「暁の巫女」たる少女を救うよりも先に徹や凛に何を問う暇があろうか。
「とりあえずは、信じてみるしかないか」
 言い聞かせるように呟いて、一歩踏み出した直後だった。
「道は、あってるよ」
「……っ」
 本当にすぐ耳元で囁くような声が聞こえて、足が止まる。しかし、半ば身構えつつ周りを見渡してみても、声の主らしき姿は見えない。
 気のせい?
 そう断定するにはあまりにその声は現実味を帯びていた気がして、かといってならばその声はどこから発せられたのかと問われても、亮の視界にはただ倒れた木々の壁と正面に広がる林があるだけで、判断のしようも無い。
 ……行くか。
 気にはなるが立ち止まっていても何か変わるわけもなく、亮は二歩目を踏み出した。