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「あんなんでよかったよね?」
「……上々」
 両手を腰にあてて尋ねた凛の言葉に、ようやく徹が振り向いて応じた。
「ちゃんと壁は出来たし、これでこの壁の向こうでぼけっとしてるようなら、それはむこうが馬鹿なだけだ」
 つまり、亮が馬鹿でさえなければ、これで凛の狙い通り、徹の思惑を亮に説明する手間も猶予も与えず、亮はこの世界の管理者のもとへと駆けつけられる。
「流石に大丈夫だと思うけど」
「まあ歩き出したかと思いきや、回り道してこっちに、ってのもありえなくは無いが」
「その時は私が張っ倒す」
「……死なない程度にね」
 直後、徹の頭に、凛が創造して振り下ろした木槌で真新しい瘤が出来た。
 倒木は、凛の仕業だった。林の木々の間に新しく十数本の木を創造し、それが全て一方向にむけて倒れ始める状況までを想像力だけで作る。後は慣性に任せればいいというわけで、迫力の割に、能力さえ使えるのであればそう難しい所業でもなかった。
「っ……。それにしても、またけったいな物作ったな」
 しばらく固まって頭を抑えていた徹が、しっかり盛り上がった患部を擦り口を開く。
「なんだ、あのボールは。一体どうなってる? まさか彼が突然使えるようになったわけじゃないだろ」
「……驚いたり、何かに身の危険を感じたときって、瞬間的に緊張して身構えるでしょ?」
「だな」
「彼がそういう行動をとると、あの盾が自動的に発動して、その内部にあるものが『部屋』に移動するの。映像だけはその場にも残されて彼の動きどおりに動作するし、彼も、光や音についてはもとの位置にいた場合にと全く同じ感覚信号を受け取るから、盾が出来た以外はお互い何も変わらないように見えるけど、実際は元の場所には何もないから、一切の物理的干渉がありえなくなるってわけ」
 「部屋」はもともと智が俗界を作り上げていく過程でその拠点とした場所であり、テストランも大概はそこで行われた。その時の利便性のために、あらかじめ「部屋」かあるいはコンピューターの外から通路だけ指定しておけば、俗界のどんなものも立ち入れるようになっていた。
「ふうん。道理で、すり抜けるわけだ」
 その、先刻すり抜けた右手をぶらぶらと振りながら言う徹に、凛が頷いてみせる。
「彼がちゃんと地に足をつけてたのは?」
「『部屋』の床の形状を彼の周りの地理情報と同期させてるから。剣山とか火砕流とか、普通に立っただけで危ないものの上にいない限りは、だけど」
「ほう……」
 ため息にも似た声で、そう言って、
「まあ、良くやったな」
「……意外。怒られるかと思ってたのに」
「ん、そりゃまあ……」
 凛が亮に与えた「盾」の出来は、徹にしてみても、賞賛せざるを得ないものだった。
まず、「盾」の名のとおりにただ物理的に攻撃を受け止める、という様式を取らないため、衝撃の大小によって防御能力の限界が突破される事がありえない。そして、その発動を「身の危険を感じる」という盾に見合った、人間の至極本能的な部分に依るので、必要な場面で確実に発動できる。加えて、その構造は凛の手により正確にプログラミングされており、一般に想像力を糧に生み出されるその他の能力に比べて確実性でも優れている。「存在の否定」に対する耐性も、自ずと高くなろう。正直、この仮想世界における防具としては、完璧と言っても差し支えないように思えた。
「……確かにな。あの『盾』自体は大したもんだよ。良く思いついたもんだ。あれで彼はどんだけ勝手にぶらついてもまあ無傷でいられるだろう」
 だから、ため息が漏れた。
「でも、それでどうするんだよ?」
「自分で言ってたじゃない。ここの管理者のところに行くんでしょ?」
「それで?」
 徹が両手を軽く広げてみせて、問う。
「それで最後のお別れでもさせるのか? 亮君がどんなに足掻いたところで彼が助けようとしている相手が管理者で、この世界を離れられない事実は変わらない。加えてここはこの様だ。この場は凌ぎきっても、いずれ崩れる。彼が自分じゃどうしようも無いからって泣きついてきたって、俺が手を貸す……」
「わけは無いだろうね」
「じゃあ……」
「でもさ、彼がこのまま一人で全部解決できれば、なんの問題も無いんでしょ?」
 徹を遮って、凛が何の問題もないとばかりに、確認するような口調で逆に問い返す。その真意を掴みかねて、徹の視線が左方へ、凛の視線を離れて流れた。
 確かに、凛の言うような力が亮にあるならば、徹の助力は必要ないばかりか、そもそも今徹が凛に向かって問うていたことも、意味を成さなくなる。ただ、徹はそのような可能性を考え付かなかった。そうであればこそ、彼が「盾」を手に入れたところで結局いまさら為せる事など無いと思えばこそ、問うた。
 それでももし、亮が徹の助力なしでもこの世界の管理者を救い出す事ができるとすれば、
「……まさか」
 口元に手をやって考えた徹の視線が、再び凛を捉えた。
「凛、お前、教えたのか?」
「……」
「管理者を俺達の側に連れてくる方法を教えたのか!」
「だって、一番簡単な方法でしょ? 徹も、何をする必要があるわけでもないし」
 返答がない事に思わず声を荒げた徹に、対する凛の声はあくまで淡々としていて。徹の息を吸う音が、あたりの林にも響いたように思えた。
「……その結果も、教えたのか?」
「崩れて行くこの世界から管理者を連れ出せる」
「ああ、その通り。彼の命じたことしかできない生き人形として、だけどな」
 徹のその言葉に凛は答えず、ただじっと、徹と視線を合わせたまま、口を一文字に結んだままで動かない。徹のほうも視線は決して離さず、続ける。
「確かに、俗界の外の人間が管理者と接触した状態で俗界から出たときに限って、管理者は自分の世界を離れられる。でもその間、特に強力な能力を持つ管理者が反抗することが無いように、彼らの行動は一緒に俗界を出た人間に完全に掌握される。こんなことお前だって、や、お前の方がよく知ってることだろうが」
 再び声を荒げるようなことは無く、しかし徹のその口調はとても穏やかとは形容できない剣呑さを持っていて。
「しかもそれを、亮君には伝えなかった? 仮にも助けようと思った相手を、全く知らない間に自分の人形に貶めた彼が後でどう思うか、ちょっとは考えなかったのか?」
「それは……」
 問われてようやく口を開いた凛が、言葉に詰まって口を閉じる。
「なんだ?」
 追って問いかけるとマリンブルーの瞳が揺らいで、徹もそれ以上の追及を中断する。
徹も、まさか凛が何も考えなかったとは思わない。自分に黙って凛がここまで事を進めたのも、彼女なりに思うところがあったのだろうとは思う。少なくともそれすら信じられないほど、彼女を信頼していないということはありえない。
 ただ、俗界の内外での平等を絶対として自制している徹にとって、今まさに、何も知らずにその絶対の線を越えようとしている亮を捨て置くことは出来かねた。
「とりあえず、彼を追うぞ。彼にこのことを教えないでは置けないし、どの道奴を見つけるのに、ここから動かないわけには行かないんだ」
 言って、踵を返し、凛に背を向ける。
 目の前にある倒木の壁は、徹にも処理できないことは無いが、それでも流石に骨が折れる。しかしここで凛に頼るのも気が引けて、
「とりあえず、これを崩すか」
 ぐるり、と一周、右肩を回した時だった。
「それは困るな」
「っ……」
 どこか耳につく、いやに落ち着いた声が、耳のすぐそばでした。
「……お前か?」
「するわけ無いでしょ、あんな奴の声真似なんて悪趣味なこと」
「そりゃそうか」
 反射的に身構え、肩越しに尋ねた問いに、同じく肩越しに睨みつけて応じられ、再び視線を正面の倒木へ。
「……徹」
「奴の声か?」
「うん」
「さよけ」
 応え、視線を周囲に走らせる。
俗界において、誰もいないのにすぐそばで声が聞こえたとすれば、それは能力によって大気を強制的に振動させ、自身の声をより遠方まで、志向性を持たせて届かせる術によるもの。故に発話者がどれほど離れた場所にいるかわからず、場合によっては到底視認できないような距離から離しかけられていることもありうる。しかし、それがこの林のような見通しの悪い空間であれば、相手の位置を確認しながら話しかけられる距離などたかが知れている。
「さぁて、どこだ?」
 見つけた瞬間繰り出せるように、その右手は既に、先程亮を襲った獣じみた姿に変じている。その掌は地面の僅かに上を滑るように左右に揺れ、低く落とした腰とそれを支える両脚は、ともすれば一瞬でその場から八方どこへでも跳ぶ準備が出来ている。そのまま視線を木々の合間、枝葉の陰へ向ける徹の耳に、
「徹っ!」
「何か探しものか?」
 凛の声に重なって聞こえた、先程と同じ声に、背後を振り向きながら飛びずさった。その振り返りの動作に引きずられるかのように空を薙ぐ右腕は、胴体の動きに反して前方へ、勢いのまま風を切って襲い掛かる。それが、
「久々の挨拶にしては、あんまりだな」
「っ……!」
 空を切ったと思った瞬間には、再び背後から声が聞こえる。徹も対応のしようが無く、右手の動作を止めずに適当な木の幹を捕まえて、その反動で一気に前方、凛の眼前まで跳んで、声の主から距離をとった。
「まさかお前の方から出てくるとはな」
「なに、どうにも邪魔そうな阿呆がいたんでな。手間だが、払いに来たまでだ」
 一度、腕を元に戻しながらかけた言葉に、相手は細い目をさらに細めて笑みを作る。
 長い裾が擦り切れた、襟の大きいスーツ。皺がところどころに見える革靴。重力に従うばかりの黒髪とは対照的に白い肌。篠沢智がそこにいた。