15

 ズン……。
 背後から聞こえた、腹の底に響くような重低音に亮の足が止まった。
 何だ?
 思わず振り返るその耳に、乾いた枝を纏めて折る時のような音が届く。しかし音ばかりが聞こえたところで正面にあるのは今しがた自分が抜けてきた林の木々。音源の正確な位置などわかるはずもなければ、まして音源の正体などなおのこと、知る由もない。それは果たして徹や凛か、はたまた別の流れ人か。
 ……ここからじゃどうしようもない、か。
 これでようやく少し回復した、決して好ましくはない賑やかさを耳に感じながら、ざらつく気持ちを抑え、再び視線を背後に戻す。その目の前に、ずらりと一列、根元を茂みに覆われた針葉樹の並木が連なり、その奥に鳥居の朱色が覗いている。
結果的に徹や、誰ともつかぬ声の主は正しかったようで、いまや亮は「暁の巫女」たる少女の居城、社のすぐそばまで迫っていた。それだというのに、
 静かだな。
 やはり、あたりの空気には、どこかいやな落ち着きがあって、そして何より、騒音らしい騒音は今、亮の背後からだけ聞こえてきていた。すぐ右手には紛うことなき社の白塗りの壁があり、目の前の朱色ももはや疑うべくも無いというのに、肝心の、今もどこかで戦っているはずの、この世界の管理者たる少女を含む、一切の人の気配が感じられなかった。 
 もう全部片付いた、とか?
「……まさか、な」
 違和感に、ふと浮かんだ自身の思考を、相変わらずどこからとも無く漂ってくる熱気を肌に感じながら否定し、もう一度周囲に目を走らせる。その視界に、やはり人影の一つも映らないことを確かめて、一歩、並木の向こうに脚を踏み出した。
 やっぱり。
 平坦な石畳の上に姿を現してなお、周囲で物音一つしない事を確かめる。徹や凛、管理者の少女に流れ人。誰がいたところで、いきなりこれだけ平坦なところに人が出てくれば、それなりの反応はあってもいいはずで。それは殊に件の少女ならばなおさらのこと。
 まったく、どこに……。
 誰にとも無く胸中で問いを投げかけながら鳥居の側へ向けた視線が、それを捉えて、視線の後を追うように振り向いていた体も、胸中の問いかけも、その場で静止した。
 笠木に貫、本来ならば両者が繋ぎとめているはずの柱に逆に繋ぎとめられるようにして、鳥居の最上部にあるべきそれが鳥居の内側に無残に転がっていた。
 反射的に視線を上げれば、揺ぎ無くそびえる二本の朱塗りの柱も、八割方を地上に残したところで、荒々しい、無理矢理に折り取ったような切断面から、朱の衣を剥がされた木の色を晒していた。
「なんだよ……」
 社の象徴とも言うべき鳥居のその姿に思わず言葉が唇から漏れる。と、
 ほう、と
 包み込むような、しかし決して心地よくはない熱風に誘われ、背後を振り向く。
 そこに、地獄があった。
 中央に川が一筋流れる村を、ぐるりと取り囲むように山が連なり、その山々の最上部に、長い石段と立派な鳥居とを伴った社が建つ。そんな構成であったはずの「暁の村」の、村の部分全てと山地の実に半分が、全く跡形もなく消えうせて、天地の有無さえ判断のつかない空間がそこに広がっていた。残されたのは、亮の背後に建つ社を中央に、半円状の弧を描く山脈だけ。その山脈でさえ、虚空との境目では林の木々が轟々と燃え、さながら両者の間に炎の境界を引くかのような有様で熱気を上げている。
 「田舎っぽい」という言葉などどこにも現れない。全てが舞い踊る「暁の巫女」の舞台のように思えた、不気味な高揚感すら感じられない。それは、全てが今更取り返しようもない形で終わってしまった、いわば「暁の村」の亡骸のように思えた。
この世界が崩れる、と語ったあの少女の言葉が蘇る。凛は「安心して大丈夫」と言ったが、亮の目には今この瞬間にでも、この亡骸が崩れ落ちて消え失せるかに思えた。
 くそっ!
 急にあたりの静けさが数倍不気味に思えて、背を向けていた社の方に振り返る。
 もちろん少女が林の中に入っていることもありうるが、具体的にどこにいるかもわからないまま闇雲に探し回るには、半分ほどに削り取られてなお、林は広すぎる。なにより、決して余裕は無い亮の意識は、今、目の前にある社に向いていた。
 しかし、やはりそこに人の気配は無く、破壊された鳥居が荒れた玉砂利の上に無惨に転がっているだけで。
「おーい! ……」
 叫んではみたものの、そのあとに続けるべき名がない事に気付き、口を噤む。ここに来て所在を確かめる術さえない事がもどかしく、思わず拳を握り、唇を噛み締める。
 そこに、
 ガサリ
 亮の左手、亮が出てきたのとは逆の茂みがざわめいた。
「また、ですか」
 思わず身構えた亮に投げかけられる、淡々としながらも呆れを隠す節の無い澄んだ声。白い肌に、濡れたような、腰まで届く黒髪。
「流石にもう帰ったものと思っていたのですが」
白い衣に緋袴。茂みを踏み越え、木々の間から現れた、あまりにもまんまな装いの少女が、体の前で手を重ね、石畳の上で亮の方へ向き直る。
「この期に及んでまだ残っていたのですか?」
「いや、違うけど……」
 彼女の姿に安堵する一方で、どこか問い詰めるような声の調子に言葉が濁る。その肌にも、着物にも、相変わらず傷らしい物はまるで見受けられなくて、氷解する緊張の裏で、先程感じた不安でさえ、馬鹿らしく思える気がした。
「見たところ、無事なようだから良いようなものの……」
 そう言う少女の右手が、亮の頬に伸びて、触れる。その肌の冷たさに驚いて、
「そっちも、無事そうで……」
 乾きそうな舌で発した。
その声に、背後から、有り得ないはずの声が重なった。
「飛鳥!」
 亮が反応するよりも前に、目の前にいた少女は背後に飛びずさり、その後を追うように眩い光が亮の左右から、少女が立っていた場所目掛けて湾曲した軌道を描き、何も無い空間で互いに交差して、そのまま彼方へ飛び去っていく。
「随分と、物真似の上手な流れ人もいたものですね」
「どうもありがとう」
 やはり背後から、刺すような調子をもって投げられた言葉に、答える声が変質する。その、気味悪ささえ覚える変容に応じるように、片膝をついて構えられた無骨な大盾の後ろで、白い衣と緋袴、黒髪も、黒いドレスとシルバーブロンドに変貌する。
「せっかくいい人質手に入れたと思ったのに。本物が出てきたらお手上げだわ」
「ご心配なく。たとえ人質をとったとて、結果は何も変わりませんよ」
 左手に握っていた、太い釘のようにも見える細身のナイフを腰の後ろに納めて、盾に体を預けながら立ち上がった流れ人の少女に、声が答え、次いで茂みのざわめきが続く。
「貴女は私に敗れ、亮は無事に助かり、帰る。それは変わりようがありません」
 足音が、亮に並んで、止まる。動作の余韻を引きずるように、黒髪が揺れる。
「それにしても、まだ残っていたのですね」
やはりどこか呆れたような、しかし淡々と形容するには抑揚のある声で、その台詞を投げかける。黒髪は、束ねていた帯が無くなって乱れ、白衣、緋袴はところどころ焦げ、破れ、白い肌に赤い飛沫の跡を残し、「暁の巫女」が立っていた。
「あれだけ言えば分っていただけるくらいには亮も物分りがいいはず、というのは私の買い被りが過ぎましたか?」
「いや、だから……」
「残ってたわけじゃないわよ、そいつ」
 亮が弁解しようとしたところに、流れ人の少女が横槍を入れた。
「一度はあんたにどやされて怖気づいて帰ったのよ。でもその時にあんたと間違えて私を連れて帰っちゃったから、慌ててもう一度戻ってきたってわけ」
「……とすると、貴女はこの『暁の村』から神界に行ったわけですか」
「そ。そこのそいつに連れられて。ね?」
「……」
 嫌味な笑みを浮かべた少女に首を傾げられ、言葉に詰まる。
 亮自身が、二度も何もできずに逃げ帰った挙句、流れ人を神界へ連れて行ってしまったということは今更どうしようもない真実で。大事ではなさそうとはいえ、亮の去った後も流れ人たちと戦い、傷を追った巫女装束の彼女を目の当たりにした状況で、内心が毛羽立ちそうな、あの思考の泥沼の表面に触れたような感情が浮かんで。
「ごめ……」
「そうですか」
 まずは謝ろうと、亮が口を開いたところで、つい、と一歩踏み出した少女に再び言葉を遮られた。
「貴女、名は?」
「アルテメネ。それが?」
 そう名乗った彼女の問いを受けた「暁の巫女」たる少女が、ふう、と細く息をはく。たったそれだけの動作なのに、それで場の空気が仕切りなおされた気がした。
「アルテメネ。貴女は私が初めて神界に逃がした流れ人です。あいにく、恐らくこの様子ではこの先私が貴女に対する機会も無いでしょう。ですからせめて、二度と管理者を相手にしようと思わないように、ここでお相手させていただきます」
「……いい気にならないでもらえる? 私はあんたに勝ってもう一度神界にいく気、まんまんなんだから」
 言ったアルテメネが盾を掲げ、背後に回した右手に突撃槍を握る。そのまま一歩、彼女が駆け出したところに、
「飛鳥!」
 「暁の巫女」が操る光の鳥が飛来する。
「亮、少し、下がっていて下さい」
言った少女の口調には端から返事を待つそぶりが無く。かくして亮を傍観者に据える形で戦端は開かれた。