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 刃渡りで大の男二人分はあろうかという巨大な刃が、さながら翼のように、左右から水平に奔った。その細腕ではそれを握ることさえとても叶わないであろう凛が、存在から軌道まで全てを想像し、創造することで振るう刃は、途上にあった木々をなぎ倒し、互いに切先を交えたところで塵と消える。と同時に、丁度今刃が交差し消えていった地点を目掛けて、上空から五本の爪が振り下ろされた。
「不意打ちとしてはいまいち利口な手じゃないな」
 それをそう、得意気に評す智の姿があった。空中にいながら、地面を踏みしめている感覚を想像することにより、空に立つ。そんな単純な、能力を使った芸当によって宙に浮きながら見下ろす視線の先には、今振り下ろされたばかりの猛々しい獣の腕があって、その主である徹の視線が、はばかることなく睨み、見上げていた。 
「大振り。手数も多い。周りの木まで巻き込んでこんな広場まで作ってるんじゃ、相手に気付かれて当然。不意打ちなら、もっと静かで機敏な技であるべきだ」
「こういうこと?」
 特に何か表情を浮かべるでもなく、感情をむき出しにした徹を見下ろしていたその背後で、突如として凛の金髪が舞い広がる。順手に小刀を握ったその右腕が、智の首を巻き取るようにして彼の左頸部に刃を押し当てようという折、
「惜しいが、残念」
 言いながら、智の指が刃を両の鎬から挟み込むと、そこでぽっきりと、小枝か何かのように白刃が折れる。すかさず距離を置こうとする凛など気にも留めず、智はさながら階段を上るように高度を上げ、それを徹は、宙を滑るように戻ってきた凛の肩を抱き、見上げる。
「なんなんだ、一体?」
 智が手にしていた白刃を放り捨てながら尋ねた。
「久々の再会で、ろくな挨拶の一つもなしに殴りかかられるいわれが俺にあるか?」
「白々しいのも大概にしろ! 一方的にいなくなって、いつ和解したつもりになってるんだ?」
「和解? 今更何についてそれを求める事がある?」
 苛立ちも露に叫ぶ徹の声が空しく思えるほど、尋ねる智の声は静かだった。
「俺は飽きて荷物になった遊び道具を処分して、お前は惚れた女に加えて、引き取り料には多過ぎるほどの他人の資産まで手に入れた。結構な取引だろう」
「そんな話をしてるんじゃないだろ!」
 叫びながら繰り出した徹の右腕は、一気に身長の倍ほど浮かび上がった智にかわされ、宙を掴む。その腕を引き戻すこともせず、徹は続けた。 
「お前がそれまでにやってきたことは、そんな風に水に流せることじゃないだろ!」
「可能不可能ではなく、向き不向きの問題だな、それは」
「何?」
「どこに疑問を挟む余地がある?」
 追及に対する妙な角度からの応答に、口を突いて出た徹の問いに、片手を差し出して首をかしげた。
「過去の遺恨などというものは、忘れると決めればそれでもう解決する。なら問題になるのは忘れるべきかどうかだ。そして、少なくともこちらには、今更それを話題にすることで何か面白い事があるとも思えない。ゆえに、こちらはそれを忘れ、拘らない。単純な理屈だろう?」
 さらに尋ねる智のその声に、悪びれた風は無い。
 面白い、楽しいから何かをし、面白くも楽しくもないならばあえてそこに向かうことなどありえない。智が凛を産み出した時、あるいはそのもっと前から変わらない、そんな単純すぎる快楽主義に依る行動原理と、それをこうして当然の如く示し、平気な顔で他人をそこに巻き込む態度で、かつて智は凛を散々好きなように嬲り、そして今、その過去を全て忘れ、無かった物とすると、一方的に言い放った。
「アイツ……」
 当の被害者である凛が低く呟いて、肩に置かれた徹の手に触れ、押しのけようと力を込めたのを感じた。もう一方の手には、既に新たに刃が創造されようとしていて。
 しかし彼女がそれを完遂して飛び上がろうとするより先に、徹の方が動いていた。
「ああ、全くだ」
足場の上昇を想像し、徹がほとんど真上にいた智の目と鼻の先に立つ。手を伸ばさずともまず息が触れる。徹の「腕」を振るうにはいささか近すぎるが、一方が短刀でも創造すれば他方には防ぐ暇など無いというその間合いで、どちらも動かず、視線が絡まった。
「確かに、いかにもお前らしい、単純で、ふざけた理屈だよ」
「こちらはそれなりに真面目なんだが?」
「真面目にあんなことが言えるところまでひっくるめて、ふざけてるって話だ」
 にらみつけられた智が、無言で、始めてその口元に薄い笑みを浮かべる。その挑発的にも思える笑みも、きっと智にとっては、ただ現状を楽しんでの物に違いないのだ。
 考えてみりゃ、これを相手にまともな応対を期待するのがそもそも間違いだったか。
 あくまで正攻法で詰め寄っていた自分が馬鹿らしくなって、加速する苛立ちを抱えたまま、「腕」を元に戻す。
「でも、そういうことならこっちにも言うことはあるんだ」
「ほう……」
 「どんな?」とばかりに余韻を残す智の表情に、警戒の色は一切無い。
 舐めやがって。
 細く開かれた瞼の奥の瞳を見つめながら、あくまで腹の底で思うに止めて。
「別に、真新しいことじゃない。初めて会ったときと同じだよ。あの時だって、お前はそんな風に人を小馬鹿にして、ろくな会話にもならなかった」
 言いながら、全ての感覚を臍の辺りに落とし込むつもりで意識を想像に集中する。
「だから、今日も同じだ」
もはや、自制して掛かる謂れがなかった。
「そっちの事情がどうであれ、俺はしたいようにするだけだ」
 言い放った徹の体が、直後、自身が創造した黒塗りの箱に一瞬で閉じ込められた。
「全感覚神経、接続解除。身体情報を変数として定義。引数入力、適用」
 怪訝そうに眉を潜めた智の耳に、小声で早口に呟く徹の台詞は届かない。
「差分修正。強制適合」
 ボコ、と黒い箱が内側から押し広げられるように歪曲して、初めて智が回避行動をとって、三メートルほど滑るように後退する。その直後、急激に広がった箱は限界まで膨らまされた風船のように破裂して、
「切断済み神経再接続。感覚、開放!」
 叫ぶ徹の声と共に、あの獣じみた右腕が智に迫った。
「代り映えの無い……」
 呟いた智が、直立したまま落下するように地表付近まで高度を下げる。と、
「逃げ切れたつもりか?」
 聞こえた声は確かに頭上から。しかし、あえてそちらを振り向く必要も無かった。
「くっ……」
 目の前に迫っていた巨大な脚の直撃を受けるような格好で、智の身体が、後方の、徹がなぎ倒した木々を飛び越えて茂みに飛び込んだ。
「様見ろ、まずは一発だ」
 徹の声で吐き捨てるそれは、もはや人の姿すらしていなかった。いまや前肢と化した件の獣じみた腕に留まらず、頭部は狼のそれを巨大にしたようなもので、荒々しい牙が覗き、脚は多く肉食獣がそうであるような跳躍力を感じさせる形態に前肢同様象牙色の爪を備え、揺れるその尾でさえも、四肢に劣らない強靭さを感じさせた。
「徹」
 と、凛がその、爪だけで自身の膝から先までの長さはあろうかという左前肢のそばに立って、
「約束破り」
 言った。
「や、別にまだ破ったわけじゃ……」
「何よ、一人で突っ走って。人のこと置いてきぼりにして。あれだけ釘刺したら大丈夫と思ったのに、まさかそれでも忘れられるとは思わなかったよ」
「忘れてないって……」
 弁解する徹の視界に入らないところ、凛の背後では、彼女の手にいつの間にかどこにでもありふれた金槌が握られていて。
「痛い! なにすんだ!」
「約束破りかけた罰。次やったら二回だからね」
 飛び上がり、後肢で立ち上がった徹の横、凛の右手には風に散り始めている金槌が。
「こんな体でも痛いものは痛いんだぞ」
「そうじゃなきゃ罰じゃないでしょ?」
「だからまだ罰を受けるようなことは……」
「それにしても、触り心地のいい毛皮だよねー。ベッドにしたら気持ち良さそう」
 耳に掛かった髪をかきあげながら徹の不満を聞き流し、徹の毛皮を撫でながら嘯く。そんな凛を横に、右前肢で左前肢を庇う徹の視線が、にわかに険しさを取り戻した。
「その馬鹿なやり取りはいつまで続く?」
 耳元で聞こえるその声は、智のもの。それ自体には徹は取り合わず、
「凛。正面左側の細い木。なんか投げてやれ」
「ん」
 応じた凛の手には三本のスローイングナイフ。廻るような動作で投じられたそれは、直後には凛自身と同じくらいまでに肥大し、軌道上にあった木を五、六本切り倒して消える。
「なるほど、ちゃんと鼻の具合まで獣並なわけか」
「随分復帰が遅かったな。案外、一発でも響いたか?」
「本当にそう思っているなら、そちらの状況判断力を疑うところだ」
 声に見上げた徹の視線の先、先程徹が指摘した木の真上に当たる空間に智がいた。その左手には分厚い板木から切り出してきたようにしか見えない円形の、辛うじて盾と呼べそうなもの。常識的に考えれば徹の一撃が防げたとも思えないが、堅さか、緩衝性か、何かしらの特性を想像し、付与していたとすれば、十分に防具たりうる。それを、智は軽い動作で徹目掛けて投げつけ、凛がそれを睨みつけ、存在を否定し、塵に返すのを気に留めるそぶりも無く、口を開いた。
「しかし、それはいささかずるくはないか? 大方、あらかじめ完全な形で用意して置いたその馬鹿げた身体データを呼び出して、もともとの自分の身体データと差し替えたといったところだろう?」
「俺が自前で身体を作り変えたとは思わないのか?」
「ありえないな」
 試みに問うた徹に即答。もともと耳につく声が、潜めて笑うかのように、鼻にかかって一層不快さを増していた。
「生身の肉体はその主体の意識の根底にあって全ての認識の前提となるが故に、本人さえ意識できないほど本源的な部分で、そのようにあることを当然と思う認識が何重にも現状維持の創造を行ってる。そこに本来の世界の法則を無視した方法で割り込んで肉体を作り変えようなんて、荒業もいいところだぞ。もしそんなことを想像だけでできるほどの力があるなら、俺が現れた時点で、馬鹿みたいに腕を振り回す以外に、もっとマシな手がいくらでもあったはずだ」
「……まあ、流石ってところか」
 仮にも智が作り上げた物である以上、俗界そのものについての知識量で徹や凛が彼に敵うはずも無い。実際、智の指摘は図星で、徹の変身能力は、想像力を頼りにその場で一から情報を書き換える一般的な能力発動の過程には従わない、凛がキーボードで設計したデータを呼び出し、徹の身体データとして適合させる物であった。
「しかも、他にいくらでもやりようがあるのにいきなりそんな大技に走るところを見るに、お前、そもそもまともに何かを創り出す事が出来ないんじゃないか?」
「……」
 一呼吸、小休止をはさみたくなる、嫌な切迫感があった。
 俗界を創りかえる能力を使えるか否かは、その仕組への理解に関わらない。当然、徹のような俗界の外側の人間であっても、完全に自然に能力を行使できるとは限らないし、十分な力量を得られるとも限らない。
 例えば、徹が辛うじて宙に足場を作ることだけができるように。
 すぐ隣で、凛が視線を投げてきたのを感じる。見れば、早くもその手には創造した小刀が握られ、その膝は今にも飛び上がらんとするかのように、若干の遊びをもって曲げられている。その視線はもはや上空の智を見据えていて。
「……だったらなんだ」
 問いへの返答を拒否して、凛の目の前に足を下ろす。虚をつかれ、次いで何事かと見上げるその顔に一度視線を投げて、徹の後肢が地を蹴った。避けられるのは承知のうえで右前肢を横に薙ぎ、一歩下がった智と空中でにらみ合う。
「お前の推測が正しいとして……」
「正しいんだろ」
「……お前はその俺に、一発入れられて吹き飛んだんだぞ?」
「たかが一発、しかも木板一枚で防がれての台詞か?」
 鼻で笑う智が、突っ込んだ徹の体を避けて飛び上がり、徹の背後へ回り込む。さらに振り返り際、唐竹割りに下ろされた爪をかわし、軽い動作で左へ跳ぶ。
「いい加減にしないか。馬鹿でかいだけで何の変哲も無いその図体で、これ以上何をするつもりだ? 大人しくして会話に花を咲かせたほうが建設的じゃないか」
「黙ってろ。ちゃんと追い込んでやるから」
 牙を剥き、爪を突き出して飛び掛ったところで、やはり軽々とかわされる。続く二撃、三撃も横に、下にとかわされ、蹴り出した後肢もかするそぶりさえ見られない。
 うすうす感じてはいたことだった。徹の全力など、自制しなかったからどうというほどの物ではない。まして場所は遮蔽物に乏しい空中。初撃こそ様になるかも知れないが、後に続く保障はない。
「……いい加減、合わせてやるだけでも不愉快なんだけどな」
 さらに五撃目を後ろに飛びのいてかわし、飛びかかった勢いで真上に来た徹を見上げながら言った智の表情から、笑みが消える。いよいよ危機感が肌に刺さるように感じられて。しかし、たとえ力量で劣り、相手が攻勢に出るそぶりを見せたといって、そこで退く気などあるはずもなく。
「そういわずに付き合えよ。今、どうやってお前を追い詰めて押さえ付けようか、考えてるんだから」
「客を退屈させる主人に何をいう権利がある?」
 身を低く伏せ、次撃に備える徹に、智が首を傾げてみせる。その拍子に目に掛かった前髪を指先で払いのけ、両腕を脱力したように垂らす。
「それ以上何も無いなら、そろそろこちらも打って出るぞ」
 そしてその右手が、何かを掴もうとするかのように開かれた。その手首に左手を添え、さながら見えない刀を脇に構えるように、左足を後ろに引く。その立ち姿はたとえ正面から見据えずとも十分な気迫をもって。
 丁度その瞬間、全ての智の動作が徹にとって問題でなくなった。
「……何を笑う」
 思わず徹の頬に浮かんだ笑みに、智が眉を潜め、不可視の剣先をゆっくりもちあげていた手首を止め、問う。それには答えず、
「凛!」
「了解!」
 叫んだ徹の声に凛が応じた。その声は、徹と智の真下から。
「っ!」
 すかさず見下ろしたのと同時、凛が指を弾いたのを合図に、地面に柄を埋め込まれた四振りの小刀が一斉に肥大し、その白刃を四方の壁として、智を取り囲んだ。
 客観的に見て、徹独りに智を「追い込んで」「押さえ付ける」ことなど出来るはずが無かった。ただし、唯一逃げ場の無い壁たり得る地表に、確実な誘導路を作り出せる味方を残していれば、事情が変わってくる。
「手遅れだな」
「どこが? ……っ!」
 振りぬこうとした両腕が、何かに引かれて動かない。目をやれば、仰々しい鎖が両肘に絡みつき、その先端が地面に突き刺さる、鉄杭に繋がっていて、
「どこからどう見ても、よ」
 そのそば、刃の壁の外に立つ凛が見上げ、智を見据えていた。
「したいようにするとは言ったからな。覚悟決めろよ?」
 声に、再び智が視線を上げたのは一瞬のこと。直後、徹が、むき出された爪を先陣に、間に立つ智ごと、刃で囲まれた二条ほどの空間に踊り込み、水面に大岩でも投げ込まれたかのように、柱のような土煙が噴出した。