12

  †
「で、盗み聞きはたのしかった?」
「なかなかスリリングだったわよ? あんたは、そういうわけでもなさそうだったけどね」
 後ろ手に扉を閉めた凛のすぐ右隣で、問いに答える声があった。
 凛の背丈からみればそれなりに上の方から聞こえてくる声に、しかし凛は見上げることもせず、ただ自分が今閉じたばかりの戸に背中を預けて、視線を、つい、と一瞬、声のしたほうに投げる。丁度凛の目の前にある階段の、すぐ脇で足元を照らすために備えられた小さなランプの明かりで、昼間であればうっすらと茶色が混じる、黒々とした短い髪と、その下の顔が窺えた。
「いつからいたの?」
「あんたがこの部屋に入った時から。日曜日でも、主婦の朝は早いのよ」
嘯きながら欠伸をする巴が、つ、とフローリングの床と裸足の裏の間で小さな摩擦音を立てて、凛の長い金髪を冬物のパジャマの厚めの生地が揺らした。
「それにしても、あんたも巧く言うようになったわね」
「……」
 広げた掌の向こうで、くあ、と開けた口を閉ざしがてら、どこかこもった声で巴が言った。対する凛はその言いように合わせるのでもなければとぼけるのでもなく、ただ何も言わずに正面の闇を見つめる。と、
「……そんなんじゃ、あんたも彼のこと言えないんじゃない?」
 その沈黙を揶揄して、どこかわざとらしい問いが投げられる。
 あえて凛が横を振り向かずとも、巴がただ凛の応答を待って、じっと視線を向けていることは気配だけで十分にわかった。凛であれば激高して一気に本題へ切り込んだところを、あえて、相手がそれを望まないのを承知した上でなお、相手に応答を求める。そういった巴の、真面目な話をするときの手法が凛は苦手で、
「ふぅ……」
 思わず、細く吐いただけのつもりだったため息に、小さな声が伴った。
「言いたいことは……」
「わかる?」
「……なんとなくは」
 小さく付け加えた凛に、そう、とだけ答えた巴が、不意に一歩、前に踏み出す。自然と横に流れた凛の視線の先で身を翻して、階段のすぐ横、凛とは反対側の壁にもたれかかって、暗がりの中でほぼ正面から相手を見据えて、右手で左腕を抱く。凛の方も流石に視線を外すのははばかられて、お互い見つめあう形になった。
「じゃあ、一応彼の代わりに訊くけど、『なんで、出来ないの』?」
「……」
 凛が下唇の端を少し噛んだ。
「あんた、さっきこの質問から逃げたでしょ。でも、彼の言うとおり、少し考えたら気になるじゃない? それこそ、あんなに怒るくらいなら自分でどうにかすればいいもの」
「だからそれは……」
 そこで、言葉が詰まって沈黙が流れる。そのまま暫しお互い眼を見詰め合って、
「ねえ」
 凛が、口を開いた。
「また、するの?」
「また、させるんでしょ、あんた達が」
 もうそれなりに繰り返したやり取りをまたも行うのか、と、窺うように尋ねた凛に、目尻を薬指で拭いながら巴が答える。その答えに、容赦はなかった。
 凛が亮には伝えなかった事実。このとき既に、「暁の村」は、現状でこそそれを生かす対処療法となっている、情報の部分放棄と保護によって実質的に止めを刺されていた。
 そもそも篠沢智によって創られた仮想世界である俗界において、世界の一部が欠けているということは、あらゆる事象――極当たり前の運動から、プログラムに干渉することによる物体の創造、消滅に到るまで――の土台に不備があるということだ。例えば自然災害による甚大な被害を被った、などと言うことであれば、例え地形の一つや二つが変わったところでその後には「災害被害」としてしっかりと筋の通る、新たな世界の姿が展開され、変化の結果はあっても欠落は生じない。ところが世界そのものが消去された場合、そこには歴然とした欠落の後が残る。それが例えば、流れ人のいささか無茶な能力の行使によるささやかな欠落などであれば、例えば一つの岩が消滅させられたあとに更地のデータを適応するなど、個々の対応が可能になるが、今回の場合は消滅した部分が大きすぎた。修正が不可能なほどの欠落を負った俗界は、いわば世界として未完成な不良品と見なされる。そのような俗界は俗界全体を統括するシステムにとって、そのまま捨て置いても一応は存続できるものとしてではなく、不完全であるが故にすぐさま消去しなければならない異物として見なされ、その俗界は自壊を促され、結果初めに欠落が生じた場所に近いところから順々に、さながら布が解れた糸から連なるように崩れていくように、その俗界の情報を消去されていく。今の「暁の村」において、智が欠けているのであろう一時的なプロテクトが解除されれば、必ず「村」は跡形も残さず崩壊する。
 しかし、たとえそのような状況にある世界に管理者が拘束されていようと、その拘束を本当に解けるのが件のコンピューターを操作できる人間だけである以上、徹は、自ら課した禁止ゆえに、手出しをするわけにいかなかった。
「どうせ、徹がまた意地張ってるんでしょ?」
「……ノーコメント」
「で、あんたはその意地っ張りにいちいち付き合ってあげてる、と」
「ノーコメント」
「それは図星っていうこと?」
「……」
「逃げなさんな」
「っ……」
 ふい、と視線をそらそうとしたところを制止されて、思わず勢いで開きかけた口を、閉じる。巴がその否定的な言葉で示そうとしている事態そのものに注目すれば、きっとその予測は正解で、かといって凛の方も、表現を含めてそれに素直に頷くことは出来かねて。そして大概この辺りが巴の追及の核であるために、幾度かこのやり取りを繰り返すうちに、こうやって逃げようとするのも半ば常套手段となっていたのに、
「今日はまた厳しいね」
「当たり前でしょ」
 その常套手段にすら言及する、いつに無く意地悪な追及に、脚を組んで、腰の後ろに腕をまわして、表情を取り繕いながら漏らした凛の意見に、巴はにべも無く応えた。
「別にね、あんた達二人の間だけのことならいいのよ、あんた達がどんだけ馬鹿らしいやり取りしてても」
「……」
 その割には……、という類の応答が求められていないのは巴の表情を見ればわかったから、凛は何を言うでもなくただ耳を傾け、視線は相変わらず絡ませたままにする。
「でもね、その馬鹿の挙句に他人様にしわ寄せをやって、あまつさえ当り散らすなんていうのは、感心しないわけ」
「え?」
「彼のことよ」
 慣れない角度からの、意図の知れない切り込みに思わず疑問符を浮かべた凛に、巴が顎で、その背後の扉を示して続ける。
「他人でしょ? 彼は。あんたと徹、徹とあたし、あたしとあんたは、身内でもね」
 言いながら、巴が壁にもたれていた背中を起こす。
「わかる? 身内なのよ」
「ん……」
「えい」
「たっ……!」
 念を押すように顔を近づけて尋ねた問いに、声というより音で応えた凛の額を指で軽く弾いて、離れる。突然のことに、前髪の上から額を押さえた凛が驚いているようにも、不満げにも見える視線を投げるのを一瞥して、
「締めはいつもと同じよ。いつまでも変な遠慮すんの、やめなさいってこと」
 巴はぱらぱらと手を振りながら、凛に背中を向けて階段を降りていって、
「……それでも、けじめは要るでしょ」
 凛の独り言が闇に溶けた。
  †
 相変わらず整然、という形容とは程遠い有様の部屋だった。
 床にはコード類が、多少片付けたなりに這い回り、部屋の一辺はずらりと並ぶ電子機器類に占拠されている。言うなれば徹と凛の仕事部屋であるその空間に、今はさらに異質なものが設けられていた。
 たとえるならば金属製の電話ボックス、果たしてその実は俗界へのゲートの役割を果たす、部屋の中では際立って大きな機器三台が、モニターの列と向かい合うように並び、部屋の隅の方で椅子やらサイドテーブルやらが肩身も狭そうに固まっていた。
「一応、確認をしておこうか」
 徹の台詞で、ついその「電話ボックス」に釘付けになっていた視線が眼前の話し手に戻る。
 迷いが完全に吹っ切れるはずもなかった。確かに、身を守る術は手に入れた。これで自分にも出来る事が生まれたかもしれない。それに、あの少女を助けたいという思いにも嘘はない。だが前提としての状況の好転と、結果としての成果の如何は別の問題。その認識は凛が流を残して部屋を出て行った直後から芽生えて、亮の胸中の新たな蟠りとなっていた。
 全く……。
 ため息を面には出さず、ただ内心で呟いて、視線を、ふ、と自分の脚にやる。そこに、もう拘束帯はなかった。あれほどの拘束をする以上、てっきり亮は、ベッドに寝かされたままどこか別の部屋まで通されるのだろうと思っていたのに、部屋に戻ってきた凛は特に何を言うでもなく、手早く亮の拘束をといて、あまつさえ「行くよ」の一言で、自分で歩け、と促してきさえしたのだ。
 『もう大丈夫でしょ』
 部屋を出る際に肩越しに投げられた凛の台詞は、もう覚悟は決まったものと信用されたということなのだろうか、と勘繰りながら、未だにどうもどこか痺れたような、まだ何かに締め付けられているかのような心地のする、先程まで拘束帯のあった位置にそれとなく手をやったところを、
「……」
 手が触れる直前で止めて、軽く、
 ぽん
 軽く腿を叩いて、腕はそのまま適当に下ろす。
 不安も迷いも確かにある。ただ、それに捕われてまた肝心の彼女のことを意識の外に排除してしまうような真似は、したくなかった。そして、彼女は今もまだ戦っていることを思い起こせば、脚の違和感など気にするべくもないように思えた。
「拘束がきつ過ぎた?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「なら良いけど」
 徹は小さく首をかしげて見せると、その場で体の向きを変えて「電話ボックス」の方へ近づいていく。その姿を追うように亮の視線も流れて、再び「電話ボックス」に向けられたところで止まった。
「使い方はもうわかるね?」
「はい」
「なら、言うことは一つだけか」
 言った徹が、ふと視線を亮から外した。亮のほうも、何かと思ってその視線を追えば、その先には凛の背中があって、
「なんにせよ」
 亮を連れてきた直後からずっとモニタに向かって何かキーボードを叩いている背中を亮が見止めたところに、徹の言葉がかぶさった。
「一番の目標は君の中に居る流れ人の排除だ。もちろん、ただ追い出すだけなら話は早いんだけど、万が一反撃でもされたときのことを考えると、相手がどんな奴か完全にはわかっていない以上、そう簡単にも行かないかもしれない。だから」
 コツン、と徹の指が「電話ボックス」の壁面を叩いて、鈍いとも澄んでいるともつかない奇妙な金属音がした。
「取り合えず今は、先のことは決めないで置く。最初の段階でどう転ぶかわからない以上、先をどうこうって言うよりも流れ人追放のほうに集中したいからな。その後のことはまた後でってことになるけど……」
「いいんじゃないの?」
 そこで凛が、徹の言葉に割り込んだ。声に徹と亮が振り向けば、先程までキーボードを叩いていた手を膝の上にのせ、体の向きも反転させて、徹と亮の方を向いていた。
「徹がそれで行くなら、さ。丁度こっちも準備出来たし」
 その声に促されたかのように、亮の顔が向いているのとは反対側、「電話ボックス」の方から、
 プォン
 と空気に溶けて広がっていくような音が聞こえて、三機のそれぞれの表面に、一斉に発光ダイオードの灯りが一点ずつ灯った。
「あなたも、それでいいでしょ?」
「え、ああ……」
特に反対する理由も見つからない亮が了解するのを待って、「よっ、と」と呟きながら凛が椅子から立ち上がる。つられて宙で波打つその金髪を軽く押さえながら、背後のモニターの方に向き直り、キーボードを一度だけ叩くと、寝静まるように、モニターの灯りが落ちた。
「よし、じゃあ、行こうか」
 声に亮が振り向いた先で、徹が、後ろ手に「電話ボックス」の戸を開ける。その金属質な外観からはどこか意外なほどに戸はゆっくりと、静かに開き、内部で天上から釣られるようにそなえつけられている、ヘルメット状の装置が暗闇の中に見えた。
「いきなり戦闘になると面倒だから、先に俺が行く。少しだけ待って、追っかけてくること。OK?」
「オッケー」
 ひらひらと手を振る凛に背を向けて、徹が「電話ボックス」の戸を閉じた。その後、しばらく聞こえていた徹が内部の装置を弄る音が途絶え、少しだけ忙しく、小さな電子音が続いたかと思えば、それすらも静かになった。その間がおよそ十秒ほどのこと。
「はい、徹は向こうついた。次」
「ああ」
 あなたの番、と視線で促す凛に応えて、亮も取手を掴んで、引く。最初だけ軽い抵抗があったものの、やはり扉は滑らかに開いて、亮を招き入れるかのように、その内部を曝け出した。
「……」
生唾を、呑む。消えない不安は妙な緊張感として胸に蟠っていて、思わず軽く握りこんだ拳でもう一度、腿を叩いた。
 行くぞ。
 という言葉をあえて思考にすることも無い。ただ奥歯を軽く噛み締めて、右足を「電話ボックス」に踏み入れたところで、
「危なくなったら」
 唐突に凛が口を開いた。
「余計なこと考えずに、とにかくその場で身を守ることだけ考えて」
「え?」
「『盾』の使い方」
「……ああ」
 言われて、「身を守る物は用意する」と言っていた凛の台詞を思い出す。
「ん、わかった」
 左足も「電話ボックス」の中に踏み込んで、振り向いたついでに応える。その目の前で凛の視線が、ふい、と亮の左、徹が既に入った「電話ボックス」の方に流れた。
「結構すごいの作ったからさ、その盾」
 そしてもう一度、そのマリンブルーの瞳で正面から亮を見据えて、
「お願いね」
 駆けられた凛の言葉にはどこか念を押すような響きがあって、
「うん」
 亮自身も、自分に念を押すように、応じた。
 その返事で満足したのか、凛が一歩前に出て、亮の目の前で「電話ボックス」の扉を閉める。ほぼ完全に光が遮断された狭い空間で亮は頭上に手を伸ばし、頭の少し上に釣られているヘルメット状のものを両手で引き下ろす。それをゆっくりと頭にかぶり、花の少し上までが覆われるのを気配で感じながら、体を軽く、背後の壁にもたれかけさせて。
 カチ……。
 背中が何かを押した、と感じた直後、亮の意識は途絶えた。