11

  †
 懸案は時に意外すぎるほど簡単に片付くことがある。
亮の思考は、泥沼に沈み始めればキリが無く、自責とも悔恨ともつかない感情の只中で、その一点に拘泥したまま動きを停止するという、亮自身が強く自覚している事実をなお、まざまざと自分に見せつけられている最中のことだった。
「ちょっと確認、いい?」
 まるで唐突に、部屋の扉が開いて、颯爽と、その金髪とタータンチェックのロングスカートを、軽く後ろにたなびかせるほどに早足で部屋の中に入ってきた、凛の第一声がそれだった。そして、
「あなた、『暁の村』自体の存在が危ないっていうのは理解してると思って大丈夫?」
「あ、うん」
 それらしい兆候もなく、意図もいまいち定かでない問いに戸惑いつつも頷いた亮に凛は、
「それなら、まずいいニュースから。確かにいい状況じゃないけど、少なくともあの『村』そのものはこのまま行っても昼過ぎくらいまではもつ。それで時間の余裕は十分のはずだから、そこは安心して大丈夫」
 立ち止まって、そう告げた。
 時間にして一分にも満たない間のこと。たったそれだけの間で、まさに先刻亮が徹、凛に助けを求めようとした「村」の崩壊の話題が唐突に出てきて、唐突に片付いてしまったのだ。正直何が起きたのかよくわからなくて、とりあえずの応答の機会さえつかめない亮を他所に、部屋の中を一週見渡した彼女は、ベッドの傍にあるサイドテーブルやら椅子やらをてきぱきと片付け始めた。
「ただ申し訳ないけど」
 丁度ベッドから部屋の扉まで続く広い通路を作っていく凛の様子をただ見守っている亮に向かって、なおも彼女は続ける。
「私たちはあなたの中に今入り込んでる人を外に出すところまでしか手伝うことはできなくなりそうなの。でも、出来ないのは直接的な手助けだけ。そのかわりにこっちで身を守る道具は用意するから……」
 そして一通り部屋の小物を隅に押しやった彼女が手を叩きながら亮のほうへ振り返り、ベッドに歩み寄ろうと一歩を踏み出して、
「……どうして、そんな顔をしてるの?」
 目が点。あるいは頭の上にクエスチョンマーク。そんな表現がきれいに当てはまりそうな表情なのであろう亮の視線に、凛が初めて尋ねた。
「どうして、って……」
 鸚鵡返しに答えて、言葉に詰まる。そもそも亮にしてみれば、突然部屋にやってきて、自分が何か言う前に知りたかったことに答えた上に、「安心しろ」とまで言われた事実に多少面食らっているのと、何が「まで」で「だけ」なのか、そもそも凛が何を言おうとしているのかがわからないというのが現状で。
「あなた、あの子を助けてくれるんでしょ?」
 だから、その問いの意味するところも、分かっているはずなのに、反応にあえてわずかに間を挟まなければならなかった。
 あの子って……。
 そして、遅れて、世界の管理者、逃げ場のない世界で今も定められたままに戦っているという彼女の姿が蘇って、それから凛の問いを反芻して、言葉を失った。
「……違ったの?」
 返答がない事に、す、と凛の声の温度が下がっても、亮には口にできることがない。
 自分が無力を通り越して何を為したかは凛が入ってくるほんの少し前までずっとかみしめていたから、もう嫌になるほど理解していること。そしてそのたびに、いっそ何もしない方がましだということも、いい加減辟易するほどに自分自身に言い聞かせられている。それどころか先程、徹や目の前にいる凛に助けを求めようとしてそれすら出来ない自分に怒ってさえいたというのに、ここに来て示された凛の認識は亮の思考に逆行して、今更な感や、果ては悪意さえ感じるまでに真正面からぶつかってきた。
 今更、何ができる。
 漠然としながらも確かに亮の頭を埋め尽くして、他の思考をどこかへ押し流していくその思いを凛が知るはずも無く、だからその、マリンブルーの瞳から、じっと注がれる視線が亮には痛い。かといって、臆病な亮の心は、その思いを露呈することを許さず、結果、生まれる沈黙が一層亮の気を重くする。
 未だにか。
 視線は凛のそれに捉えられ、離したくても離せないままで、軽く奥歯を噛み締めた。
 正直いい加減嫌気も差してきていた。四年半前と、今と。そのどちらにおいても、亮はその怖気のためにあの少女一人を傷つけ、自分は守られる一方に止まった。それはもう、いまさら事細かに確認するまでも無く明らかなのに、この期に及んで自分の非力を告白して認めることすら拒もうとする、その救いようのない臆病さが、心底憎かった。憎くて、
「冗談じゃないわよ……!」
 亮が拳を握り締めたところに、押し殺したような凛の声が迫った。思わずびくりと肩を震わせた亮の目の前で、その手は布団の上の亮にも震えが伝わるほどに強く、ベッドの縁を掴んで、身を乗り出して亮の目を覗き込む。
「あなた、一度はあの子を助けようとしたんでしょ……!」
部屋に入ってきたとき以上に突然のこと。徹の横で時々相槌を打つだけだった凛が、押し殺した節があるとはいえ語気を荒げたその姿に、亮は意識を奪われたまま咄嗟に応答することさえ叶わない。そんな亮の様子など歯牙にもかけず、凛は続ける。
「徹から管理者のことも聞いたんでしょ……! それで、今私達はあなたの手伝いが出来ない。なのに、何で今更黙ってるのよ! あなただって、あの子は助けたいんでしょ! 違うの?」
 問われて思わず亮の視線が下に流れれば、ベッドの縁を掴む凛の手の甲はうっすら赤くなっていた。徐々にボリュームの上がっていく凛の声とその映像に理由の知れない怒りを見て取って、一層亮の口は重くなり、それゆえになおも続く沈黙に対してか、凛が歯噛みする音が小さく耳に聞こえた。
当たり前だ。
 見た目にも明らかなほど、随分と年下の凛に圧倒されたまま思いは言葉には出来ず、ただ胸中で亮は確かに同意する。
 今更凛に言われるまでもない。亮だって、できるならあの少女を助けたいと思っているのは紛れもない真実だ。それはきっと小学生の時分のあの一件以来心のどこかで、多少形は変われども思い続けていたことで、ある意味今回はその明確な思いがあったという点は、ただ現状に呑まれるままでいた小学生のときからの進歩とも言えるはずだ。ただ、状況をある程度理解してかつ成し遂げたい思いをもってなお、亮には状況を悪化させることしかできなかったのも事実。それなのに、これ以上亮に何をしろと、何ができるというのか。
 それに……。
 ふと、視線をずらして視界の隅に凛の口元辺りまでを収める。
 亮にはわからなかった。なぜ凛が突然これほどまでに怒るのか。そしてなぜ、徹と凛ではあの少女を助けられないというのか。少なくとも、「できなくなる」という言葉を使った以上、もともとどうしようも無いわけではなく、手段はあるのだろう。そんな風に考えた折、
「何?」
 感じ取った亮の視線を、ちょっと身を沈めて、意図的に捕まえて、逃げ場をなくしてから問うた凛のタイミングが、悪かった。
「何で、出来ないの?」
 別の思考をはさむよりも先に、思考がそのまま問いになって口に出た亮の言に、凛の表情がかすかに曇ったのは本当に一瞬のこと。そして、亮がそうと気付くよりも先に、その表情が一気に冷え込んだ。
「……それは、どういう意味?」
「だって、さっきの言いようだと、その気になれば出来ることはあるんでしょ?」
 熱く勢いづくわけでもなければ冷たく突き放すわけでもなく、あくまで平静に尋ねるその声に、素直に、引き出されるように、亮の口がさらに問いで答える。対して凛は、またも応答に間を挟んだ。その表情はまるで、納得、といわんばかりの様相を呈していて、亮がかすかに戸惑いを覚えた直後、
「それはつまり、私達に丸投げしようってことでいいのね?」
 思ってもみなかった問いが、念を押すように投げかけられた。
「そういうことでしょ、今のは? 自分じゃあ自信が無いから、代わってくれってことでしょ?」
「それは……」
違う、と否定する事が出来ない。出来るはずも無かった。たとえどれだけ、凛のその直接的な物言いに反感を覚えようと、彼女の言っていることはきっと真実で。
「自分が行くからフォローしてほしいって言うんならともかく、その様子じゃそういうわけでもないんでしょ?」
 それも、真実。亮自身、「これ以上何ができる」と、問いを模した諦めの台詞を胸中で吐き続けていた自分を忘れるわけが無い。
反撃のしようも無く、ただどこまでも正確に内心を追及される気分は、少し前、やり場の無い怒りを布団にぶつけていた時と同じくらいに酷いもので、それでも逃れることを許さず尋ねる視線に、せめて内心の肯定が伝わらないように、取り繕おうとはしてみる。
「一度やってみて失敗した自分じゃあもうどうしようもないから、代わりにやってくれっていうことで、いいのね?」
 決して先程のように語気を荒げるわけではなく、ただただ最後の念押しとばかりに静かに、しかしはっきりと問いかけ、そのマリンブルーの瞳でジッと見つめる。
 僅かに、しかし本気で考え込んだ。だがここで是と言えば、少なくともあの少女が助かる可能性が生まれる。自分の無力さを思えば亮に選択の余地はないはずで、それなのに未だにそれを認めまいと、頷くことに蟠りを覚えて、首の後ろを硬直させる心を押さえ込んで、小さく呟いた。
「……いい」
「……本気?」
 自分から念を押しておきながら、凛が亮の同意の真を問う。かといって今更亮がおいそれと搾り出した返事を撤回できるわけも無く。
「ああ、そう……」
「……」
 半ばため息混じりに言って、ようやく視線をはずした凛に、亮はやはり沈黙で答えて。
「う……っ」
 直後、急にシャツの襟で首を強く前に引っぱられて、唇から声が漏れた。
「どこまで腑抜ければ気が済むのよ!」
 その一見まるで頼りなさそうな手で亮の襟元をつかんで引き寄せた凛の声に、もはや遠慮した節は微塵もなく、見た目どおりの高めの声とそのあまりの声量に、亮が驚きながら思わず眉間に皺を寄せたのを気にするそぶりも無い。その頬にはうっすらと赤みも差して、先程まではまだ冷静さを手放しきっていなかったのだとわかった。
「いいこと教えてあげる」
 決して声の調子が元に戻ったわけではなく、ただ荒れた様子は残しながらも低く抑えた声で、凛が囁くように言う。
「あなたみたいに頭に俗界の人間が入り込んでもね、そうそう滅多に身体の主導権なんか握られないの。入って来た側も人の頭の中に入ることになんかなれてるわけが無いし、自分の体を動かすっていうことは普段特別意識しなくても出来るくらいに身についてることだから、並の力じゃ本人の脳と神経との接続に干渉することなんて出来ないの。それでも身体を乗っ取られるとしたら、それは乗っ取ろうとしてる側が相当頑張ってて、かつ乗っ取られそうな側の意識が完全にどっか他所に飛んだときくらいなの。あなた、意識なくす直前に何を聞いたか憶えてる?」
「俺が、間違って流れ人を……連れてきたって」
「そうよ!」
 言い聞かせるようにもまくし立てるようにも聞こえる凛の言葉の真意が読めず、おずおずと答えた亮の言葉に凛の声が覆いかぶさる。
「あなたは、自分が良かれと思ってやったことで失敗したって聞いただけで、あんなに簡単に身体の自由を奪われちゃったのよ! 本当に、一瞬で!」
 馬鹿にされているわけではないのは、目の前の幼い顔に浮かぶ真剣さと声の剣幕をもってすれば明らかで、それでもなおも先の見えない話と状況への慣れから亮の表情にも困惑の色が浮かびだした折、
「でも!」
「うぇ……」
「その失敗がそんなにショックなくらい、あの世界の管理者はあなたにとってどうでも良くない相手だったんじゃないの?」
 ぐい、と鼻同士が触れ合うのではないかというところまで亮の頭をひきつけて、凛が問うた。
「それなのに、たった一回失敗しただけで、全部諦めて丸投げしようなんてどうかしてる! 肝心のその相手は今もまだ向こうの世界で戦ってるのよ! 本当に大切なら、あなたも二度でも三度でも足掻いて、自分でどうにかしようとして見せなさいよ! あなたにとって、それぐらいできる相手なんじゃないの、あの人は!」
 叫ぶごとに凛の腕も揺れて、それに襟をつかまれている亮の首も前後に揺れる。その、揺れる視界を他所に、亮の意識がふいと他所に飛んだ。
 色白の、細い背中があった。木々に囲まれた水場のこと、亮とあの少女との初めてであったときの風景であり、亮にとっては初恋の風景。思えば森の中を歩き続けた脚の疲労感は、丁度拘束帯に締め付けられた今の脚の感覚にどこか似ているような気がして、
「ああ……そっか」
 意図せず、気付けばそう呟いていた。
 ただ誰かが助けたいのでも、助けに行くのでもなかった。そもそも今戦っていて、亮が助けようとして失敗した相手は、「暁の村」の管理者を名乗り、あまりにもまんまな巫女装束に身を包んだ、極端に料理のレパートリーが少ないかと思えばこの世の物かと疑うほどに美しい音色を声で奏で、自ら傷を負いながらでも亮を守ってくれた、亮の初恋の相手でもあるあの少女なのだ。その当然であるはずの事実が、罪悪感と無力感ばかりを募らせている間に亮のうちでどこかにその気配を潜めてしまっていた。
 酷いな……。
 他人に改めて回顧を促されなければそんなことさえ思い出せない自分を内心で嘲ったのは、しかし一瞬のこと。目の前のマリンブルーの瞳はそれ以上自責の言葉を脳裏に紡ぐことを許さず、亮のシャツの襟元をつかんだままで、応答を待っている。それに、亮とて彼女が自分にとって何者であり、現状何をしているのかをここまで改まって自覚しなおしておきながら、これ以上の停滞を良しとするつもりも無かった。
「確かに、そうだ」
 目の前で叫ばれていた反動か、思いのほか滑らかに声が出て、目の前の凛を他所に、亮自身が若干驚いた。
「確かに彼女は大切だよ」
「そうで……」
「でも、だからこそ俺じゃどうしようもない」
「……どうして?」
 亮自信が驚くほどにまともになった声の調子に凛も配慮してか、シャツの襟手放して、落ち着いた声で尋ねる。亮はようやく解放された首筋をさすりながら、とりあえず自然といえる程度に凛から距離をとって、ふ、と視線を足の拘束帯のあたりに落とした。
「だって、どんなに助けたくても、俺にはその力が無い」
 亮がいかに態度、認識を改めて、一人自責に耽るよりもかの少女の救出を優先し、望んだとしても、亮が無力であることはいまさらどうしようもない事実。まして徹の言ったように管理者が自分の世界からの出入りを禁じられているのならば、亮には本当に、手の出しようがない。亮自信の気の持ちようがどうであれ、彼女を助けるならば徹や凛に「丸投げ」するのが最善策。
 今更先に凛に「本当にいいのか」と念を押されたときに感じた蟠りの所以を理解し、また現に今再びその息苦しさにも似た思いを感じながら、ふう、と細く息を吐いた直後だった。
「人の話聞いてた?」
 今度は本当に、状況さえ違えばおちょくっているのではないかとも取れるような声で、凛が尋ねてきた。
「あなたは、ただ自分が怪我しないように相手のところまで行って、本当に、世界丸ごと片付いちゃうより前に一緒に戻ってくればいいんだよ? それとも戦場のど真ん中で一緒に戦いにでも行くつもり? そんなことして大怪我でもしたら、傷つくのは本当の身体でなくても、痛みでショック死するわよ」
「……ショック死?」
「心配しなくても、無茶しなかったらそんなことならないわよ。変に大立ち回りなんて狙わずに、大人しく自分の身さえ守ってればね」
「いや、だからその方法が……」
「あるでしょ」
 しばらくの、にらめっこ。そして、
「まさか、身を守る道具は用意するって言ったの、本当に覚えてないの?」
「あ……」
 そういえば、と呟く亮に凛は小さな肩を落として少し大袈裟なため息。亮のほうも本当にすっかり忘れていた手前文句も言えず、ただ流石に多少、むっとして、問いが口を突いて出た。
「じゃあ、どうやってつれて帰ってくるのさ。管理者は……」
 流石に自分から言い出しておいて、感傷に意識を占められることはない。それでもどこか誤魔化すように、凛に張り合うような問い方をした疑問に、
「そんなの、簡単よ」
 返ってきた返答に、思わず亮は耳を疑いかけた。
「管理者の世界間の移動が禁止されてるのは、逃げ出さないようにするためでしょ。でも誰かさんにしてみれば、自分が創った世界の人事権は手元においておきたいとも思う」
 手を腰にあてて、少し顎を上げて、どこか自慢げにも見える様で語っていた凛の、閉じていた瞼が開いて、その話の意図をつかめない亮の訝しげな表情を視線が捉えた。
「つまり」
軽いため息のあとで発された台詞にはどこか勢いがあって、
「あたっ……」
 直後、軽く皺のよっていた亮の眉間には、凛の人差し指がデコピンで突きつけられた。
「管理者が移動を禁じられるのは、管理者単体とか、俗界の人間だけで世界間を移動しようとした時。こっちの人間であるあなたが相手と接触した状態で一緒に門を潜れば、それだけで万事解決ってわけ」
「へえ……」
「へえ、じゃないでしょ!」
 少なくとも亮が思うより可能性は大きいらしい。その事実に思わず感嘆の声を漏らしたところに、すかさず凛が、突きつけていた指で亮の額を突き撥ねて突っ込んできて、気を抜いていた亮の首が天井を仰いだ。
「いい? もう一度言っとくよ。私達は、直接あなたの手伝いは出来ない。でも、少なくとも私は応援してるから」
「応援って……」
 指は亮の方にむけたままで言う凛への返事に、僅かに不満の色が混じった。しかし、それでもどうせなら、亮としては徹や凛の力も借りたかった。凛の言いたいことはわかるが、戦いに行くわけじゃない、行って帰ってくればいいのだから盾の一枚さえあればいい、とでも言わんばかりのその論理には、正直不安を感じないわけにいかなかった。
「じゃあ、もう少しだけ待っててね」
 しかし、それを言葉にするよりも前に投げかけられた凛の声は、既に部屋の扉のすぐ前から発せられていた。
「あ、ちょっと……」
 言うが早いか、軽やかにその金髪を宙に舞わせて踵を返した凛は部屋を出て行き、行き場の無い亮の声だけが、扉が閉まる音に重なって聞こえた。