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  †
『申し訳ないけど、勝手に一つ実験させてもらった』
 何故か何かに打ちつけたように痛む肘と首筋と、鈍く響く頭痛を抱えながら、ベッドの上で目覚めた亮に、徹はそういった。
『順を追って話すと、実際君がやったように、こっち側から俗界の中に入る時、俺達はあのボックスの中で身体のデータだけをいろんなカメラを使ってあっちに投射して、そこに脳からの信号を直接繋ぐことで擬似的に、俗界の中に居る状態を体感しているんだ』
 だから逆に向こうから帰ってくるときには、本来は脳の電気信号の接続を現実の身体そのものへと再度スイッチするだけでいい。一方、俗界の住人がこちら側に出てくる場合には、同じボックスを経由してまずは純粋なデータである彼らの受け皿に接続し、その中に彼ら自身をインストールすることになる。
 ところが、今回の亮のケースのように、両者が同伴して俗界から移動することになると、俗界の住人のデータの処理が、脳の回路の切断、再接続より先に行われることで、ある人間の脳内に別の人間が存在するという状況が作り出されてしまう。
『だから、もし本当に流れ人が君と一緒にこっちに来てるなら、ああやって俗界の情報がどこにあるのかを見せたあとで化けの皮をはぎにいけば、どっかで尻尾を見せるんじゃないかと思った』
 そして実際そのとおりになった、と付け加えたのは紅茶のマグカップを持って部屋に入ってきた凛。具体的な仕組みは徹たちにもはっきりとはわからないというものの、脳内に居る以上、その気になれば亮の脳内の流れ人は亮の肉体に対する主導権を握ることもできるらしく、亮の記憶の変質は、できれば真相を亮に気取らせないまま静かに事を進めようとした流れ人が、亮の意識を「村」のことから遠ざけるためになしたことであろうとのこと。亮も、意識が途絶える直前の、思うように動かない体を思えば徹の言葉を疑う理由が無く、
「……畜生」
 とりあえず流れ人の処理の準備をしてくるから、と部屋を出て行った徹と凛に従って大人しく独りで居るうちに、悪態が漏れた。
 結局何の役にも立ってない。
「……や、もっと悪いか」
 役に立たないままならいくらかましだったかもしれない。しかし、自分があの村の主たる少女だと思ってつれてきたのは、よりにもよって彼女が最も神界から遠ざけようとしていた流れ人。最後の最後で、彼女を救えたつもりになって、むしろもっと状況を悪くしてしまった。
「なれない事、するもんじゃないな……」
 呟いて、俯く。その視界に入る腰と足首は、万が一再び亮の身体の自由が奪われたときのために、と拘束帯でベッドに固定されていて、自由になる手には冷めて湯気の立たなくなった紅茶。それを一気に飲み干して、ベッドの脇の棚に置く。思わず、その動作も手荒になった。
 結局自分は何をしたのだろう、と考えてみる。
 何がしたいのかもよくわからないままあの少女の言に背き、結局なにも出来ないまま彼女に拒絶された。その後だって、「戻ってくれば出来ることがある」など、本当は言い訳に過ぎない。そう自分に言い聞かせながらあの場を逃げ出して、挙句最後の最後で流れ人を自分と一緒にこちら側に連れ帰っただけ。大体、徹の説明に従うならばあの少女は、たとえ亮の行為が成功していたとしてもあの世界を出れないわけで、ならばそもそも亮の行いは状況を悪化させることはあっても改善する可能性ははじめからなかったということで。
 どうしようもないな……。
 こんなことなら、まだただの臆病者であったほうがましだ。そうであれば、きっと自分は素直に少女の言に従っていて、彼女の手を余計に煩わせることも無く、まして余計な人間をこちら側に連れてくることもなかったはずで。それに芹山ならいざ知らず、徹や凛のような人間が居るなら、きっとあの少女のことも、自分が何をしなくても救ってくれたはずで。そうすれば彼女が一人、あの世界に取り残されることもなかったはずで。
 ん?
 そこでふと、意識がその世界での記憶に及んだ。
 『この世界が崩れるって?』
 自分自身の台詞を思い出して、はっとした。
 また肝心なことばっかり忘れて……!
 自分自身を叱責して、それでも、ここでのんびりしている暇はないと、身を捩ろうとした。亮自身はあの少女から、どれだけあの世界が保つのかを知らされてはいない。しかし、楽観視はできないことは、燃える木々、舞い踊る炎の記憶が伝えていた。だから、せめて今からでも徹達にあの世界の現状を伝えて、早く手を打ってもらおうと、彼らならきっとなにか手段があるはずだと、そう考えた。
「っ……」
 それなのに、動けなかった。当然と言えば当然のこと。下半身を拘束帯でベッドに縛り付けられた現状で、亮にそこから逃れることなどかなうはずもない。
 こんなときにまで……。
 せめて動ければ、自ら悪化させた現状を、いくらかましにできたはずだった。いいわけにすぎなかったことを現実にできたかもしれなかった。
「この……」
 その先に続けるべき言葉は「臆病者」でも「役立たず」でもなく、
「……クソッ」
 言葉が思いつかず、握った拳を布団にたたきつけた。
  †
「これで、おしまい」
「ほいおつかれ」
 締め、とばかりにエンターキーを人差し指ではじいて、ふう、とため息をついた凛の横から、徹がカップを差し出す。
 相変わらずコード類が地を這う乱雑な部屋の中、壁際にずらりと並んだ電子機器の列の中、一目見て真っ先に目につくコンピューターのファンの音をBGMに、三台のモニターがそれぞれに、画面を埋め尽くさんばかりの文字列を展開していた。
 凛ならばいざ知らず、もともとコンピューターの外側の人間である徹は、流れ人やら管理者やらといった一部の特殊例と対等であろうとする際にはそのままでは多少力不足。だからそこに、自前のプログラムを介入させて恣意的に諸能力の増強を図るのだ。
「プログラミングについては、俺はからきしだからなぁ」
「おかげで私にも出来る事があるんでしょ」
 なんでもかんでも徹にやってもらうわけにいかないんだから、と付け加えて、もう大分冷えてしまった紅茶を呷った凛が眉間にしわを寄せる。
「毎度毎度、濃すぎ」
「そうか? 俺はこれくらい苦いほうが……」
「コーヒー淹れてるんじゃないの! これじゃ苦いばっかりでおいしくない……」
 そんな不満を漏らしつつももう一度、一気にカップを呷って空にする。時間のせいもあるだろうが、実際相当濃かったらしく、白いはずのカップの中が、はっきりとわかるほどに茶色く染まっていた。
「で、具体的にはどうするの?」
 尋ねた凛が事務用の椅子ごと後ろに振り向けば、すぐそこに徹が、同じ型の椅子の背もたれを抱くようにして座っていて、二人が顔を付き合わせる形になる。
「やっぱり最初は流れ人?」
「ん。まあこれはこっちから追い出せばお終いみたいなもんだから、彼をつれて『村』に入っちゃえば一件落着なんだけどな」
 こちら側への通路は、徹たちか管理者が開かない限り存在しないし、仮に流れ人が徹たちにそれを開かせようと迫ろうものなら容赦なく応対する、というのはすでに了解済みのことなのでどちらもあえて口には出さない。
「で、その後は?」
 尋ねる凛に徹は答えず、二人の視線が絡み合ったままで静止する。
 そして、そのまましばし沈黙。
「……徹」
「今日の夕飯……」
「もう少しマシなぼけ方ないの?」
「じゃあ色々やって寝る」
「乗らなくていいの」
 呆れ顔で言って、ぺち、と徹の頭をたたいた凛が、再びモニターの方に向き直る。そのままキーボードの上に指を走らせて
「ほら、これで良いんでしょ?」
 ため息と共にエンターキーを弾いてモニターに映し出されるのは、飾り気の無い白い文字列。
「『暁の村』の情報更新履歴。ついさっきだよ。十分前に地理情報の七割が破棄されて、残りの全部にプロテクトが掛かってる」
 例えばパソコンに一度に処理力を超える仕事をさせればフリーズするように、一つの俗界でその割り当て以上の仕事量が何らかの原因で課されるようなことになれば、最悪同じコンピューターの中の周辺の俗界の機能までが停止する可能性もある。だから、本来俗界は情報の書き換えなどで処理量過多が起こった場合、世界自体が自壊することでほかへの影響を排除することになっている。だが、そのような状況下でも、たとえば世界の一部を切り離して負担を減らし、さらに残る部分の消去をあらかじめ禁じる事ができれば、その世界を残したまま、段階的な対応策も取れることになる。
「これで今日の日中はもつだろうけど、こんなこと、流れ人にはできないでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど」
 世界の半分以上のデータを一度に消去するなど、強い想像力だけを頼りにプログラムに干渉する方法を用いる限り、異なる認識との競合から、流れ人はおろか管理者にとっても身に余る。そんな事ができるとすれば、あらかじめそのような命令を用意しておく事ができるこちら側か「元」こちら側の人間に限られる。
「昨日の夜から、芹山さんのところからじゃこんなこと出来ないし、十分前の私達はそんなことしてなかったよね?」
 ならば、残るのは一人だけ。
「……いいんだな?」
 凛の言葉の意図を解した上で、一足飛びに、そう尋ねる声に
「傍にいて、傍にいさせてくれるなら」
 目を閉じて答える声はそれこそ凛として。
「どうせ、ここまできて退くつもりも無いんでしょ。昨日あれだけ言ったんだし、私も自分の言葉は守らなきゃね」
「かないませんな、どうにも」
「でもさ」
 言いながら、ぽん、と流れるような金髪の上にのせようとした手が上がりきる前に割り込まれて、空しく宙を掴む。
「なにさ」
「ん、彼は、どうかなって思って」
「ああ、亮君ね」
 おろした手をもう一度椅子の背もたれの上に上げて、そこに顎を乗せる。その下がった目線にあわせるように、凛もそばにあったサイドテーブルを引き寄せて、同じく手を顎をその上へ。本当に眼と鼻の先で二人の視線がぶつかって、ためしに徹がついたため息で凛の前髪が波打った。
「彼には、なんていうかね?」
「そういうことを、私は訊いてるんだけど?」
 わかってる、という合図のつもりで、半ばわざと、凛の顔に息を吹きかけて、猫か何かのように目を閉じるその顔を見ながら少しだけ身を起こす。
 徹は自分が凛と対等であるために、できるだけ俗界の住人とも対等たることを自らに課した。それ故に、徹は一方的な監視等々、俗界の住人の権利や存在を無視、卑下することを自ら禁じる一方で、本来どうあっても彼らが得ようも無いものを与えることも、同時に禁じていた。だから、今回も、「暁の村」の管理者を助けようという思い自体が、そもそも徹の思考には存在していなかった。
 しかし一方で、徹は半ば一方的に、面白がってその全てを記録していた芹山から、亮の「暁の村」滞在中の様子を二度も眼にしていて、恐らく自分の選択が亮には受け入れられないことも理解していた。
「相手がお前とかなら、最悪、お互い好きにやるだけなんだけど、今度ばかりはねぇ」
「不安?」
「そりゃあ、なあ」
 徹にとって、亮はたまたま巻き込まれた部外者に過ぎない。それを、いくら意見が合いそうにないからと言って、別行動を取らせることも許容できかねた。それに、確かに俗界に入るとき、肉体は生身のそれではないが、それでも感覚がつながっている以上、最悪俗界で死を体感することで実際にショック死することもありうるのだ。そうなれば、徹たちだけで事後処理を済ますことは不可能といわざるを得ない。
「……手は、あるんだ」
「どんな」
 すぐさま問い返されて、悩むように、片手を頭にやった徹は、指先で頭を掻きながら言った。
「話がややこしくなる前に後ろからぶん殴って眠らせて、ことが片付くまで『部屋』に放り込んでおく」
 「部屋」とは智の父が遺した、最も初めの俗界における空間。智が凛を捕らえたり、俗界の開発過程での実験に使用したりしたその空間は、食料や日用品だけがそろった無人の俗界として今も残っていて、徹と凛は、時折何を思ってかここを訪れる俗界の人間に『部屋』の管理者として接することで他の俗界の情報を得ていた。
「多少荒々しいけど、正直一番無難だと思うんだよなぁ」
「その割には歯切れが悪いじゃない」
「まあ一応、罪悪感ぐらいはねぇ」
 またも椅子の背もたれの上でうなだれる徹を前に、凛からの言葉はない。何も言わず、ただ視線だけを向けてくる彼女の顔に、もう一度悪戯を、というつもりで軽く息を吸い込んだところで、
「じゃあまあ」
 それより先に、凛が口を開いた。
「もっと気分良く片付けられる方法見つけてよ」
 ぽこ、と半ば載せるように徹の頭を叩いて、凛が起き上がる。そのまま、部屋の扉の方へ歩いていく背中を徹は目で追って、
「どうかしたか?」
「ん、ちょっと紅茶の口直し。戻る時、ついでに彼も呼んで来るから、ちゃんと考えといてよ」
 尋ねる声に凛は顔だけ半分振り向いて答えて、そのまま部屋を出て行った。
「そんなに酷かったの?」
 当然、その徹の台詞に応える者はいない。