9
†
瞼が重い。四肢もどこかだるく、頭もいまいちすっきりしない。丁度、休日に二度寝から目覚めてみたらもう昼前だった、そんなときの気分に良く似ていた。背中に感じる、恐らく布団であろう、柔らかい感触が余計に起き上がる気力を奪い、ともすればそのまま沈み込んでしまいそうな気さえする。
「……のか」
「みた……だね」
そこに、プールに潜って声を出した時のような、くぐもった声が聞こえる。
なんだ……という思考さえない。ただ、その声に促されるように、亮はその動く気のしない瞼をゆっくりとひらいた。
「ん……」
容赦なく目に飛び込んでくる明かりの眩しさに思わず声が漏れる。反射的に瞼も二、三度小さく瞬いて、ようやく視界がまともに開けてくる。
「あ」
「やっとか」
話し声もそろそろまともにきこえるようになって、視覚で得た情報ともあわせて、それが男女一人ずつのものであると理解する。一方は、その長い金髪が否応なく印象的にうつる少女。もう一方は革ジャンにジーンズ姿、腕を組んで亮を見下ろす男。
「っ……!」
なんでこいつがここにいる!
体が跳ね起きた。
だって、目の前の男は亮があの村を去る時、最後の前に現れた相手で、直後駆けつけたあの世界の主たる少女の反撃に倒れたはずなのに。それがどうして……。
と、そこまで考えてふと気付く。
ここ、どこだ?
見渡してみても、これと言って記憶に結びつく糸口らしき物は見当たらない。一般的な家庭用というよりは病院か学校の保健室あたりにありそうな金属フレームのベッドにも、やや赤みを帯びて温かい印象のある蛍光灯の灯りに照らされた、部屋のなかの壁紙、床のフローリング、朝五時を指す壁のデジタル時計にも、これと言った見覚えはない。
どうなってる?
警戒は解かずに眼だけで部屋の中を観察。対抗手段になるような武器はないので、せめてすぐに飛び出せるように脚の筋肉を緊張させるだけはしておく。何かの手違いで別の俗界にでも来ているとすれば、
……ん?
そういえばなぜ、自分はこうして寝かされているのか。目の前にいるのが力ずくでも神界への脱出を試みる流れ人であるならば、亮を寝かせてその目覚めを待つような必要があるとも思えない。その疑問に行き当たって、亮の警戒が緩んだ折、
「とりあえず、互いに情報を交換する余地を、与えてくれると助かるんだけどな。渡来亮くん?」
困ったように首の後ろに左手をやりながら、男が言った。
†
『ようやく帰ったかこの放蕩息子』
「あなたの血縁になった記憶は僕に……」
『まあ、そこにいる二人は信用して問題ない』
「はあ」
『じゃあ、早く面倒ごとは片付けてくれたまえ』
「あ」
がちゃん。
「……終わった?」
「まあ、一応」
尋ねる男、徹に答えて、電話の子機を返す。通話の相手は芹山。念のため、自分たちの身元を保証するためにということで徹が電話を書け、亮がその受話器を受け取ったものの
「ずいぶん短い電話だったね」
徹のすこし後ろで少女、凛が言い、
「いつもはうっとうしいだけの長話ばっかりするやつがな。……まあ、座ろうか」
徹の言葉でそれぞれに書斎机の傍の椅子に適当に腰を下ろす。
実際のところ、亮はここが神界であることを新聞で確認し、徹と凛が芹山のある癖、毎日午後三時丁度に入浴することを知っている事がわかった時点で、取り敢えず二人への警戒は解いていた。神界の人間ならば、少なくとも流れ人ではありえないし、午後三時などと言う時間に入浴する人間がそもそも珍しければ、まして毎日そうする人間など滅多にいるものではなく、あてずっぽうで口に出来るとも思えない。
ならば、徹に対して警戒する必要はもはやないように思えた。芹山の知り合いであることも考えれば、大方勝手にあちら側に飛び込んだ亮を連れ戻しに来たところを、タイミング悪くも流れ人と誤認され、撃墜されたといったところだろう。
だから、言った。
「あの、なんかすいませんでした」
「はい?」
「なんか助けに来てもらった挙句、面倒なことに巻き込んじゃって……」
「……ああ、いや大丈夫だよ」
いうほど大したことじゃないし、と手を振る徹の横で、凛が視線を上げてジッと自分を見ていることに、亮は気付かない。ただ、その徹の笑顔がどこかぎこちない事が若干気になって、
「でも、怪我とか大丈夫でした?」
と、問うたその声に、
「ストップ」
「え?」
答える徹の声の調子が変わった。
「怪我って、なんのこと?」
「え?」
誰も、何も言わない。凛は徹の顔を目線で見上げ、徹は亮の顔を見つめ、亮は逃げ場もなく徹の視線を受け止めながら、視線を目の前の空間に彷徨わせる。
まさか、何のことか、などと返されるとは思ってもみなかった。だって、徹はあの少女の操る鳥を正面から喰らっていたはずで、むしろ亮にしてみれば今、徹が何事も無かったかのように振舞えていることの方が不思議で。
「……オーケー。とりあえず、記憶の答えあわせから始めるか」
沈黙を破って言った徹の言葉に、亮は戸惑いながらも頷いた。
「凛、先準備しといてもらえるか?」
「はいはい」
軽く目線を横に流して言う徹の声に軽く答えて、凛が半ば椅子から飛び降りるようにして立ち上がる。そのまま、金髪を揺らしながら、空になった自分のカップを片手に部屋を出て行く背中を見送って、徹が机の一角に手をやる。その場で何か指先で操作すると、ばね仕掛けだろうか、机の天板の隅が持ち上がって、その裏側に備えられたモニターが姿を現した。
「俺はこういうの好きじゃないんだけど、君も知ってるどっかの耄碌ジジイはこのあたりの遠慮がなくてな。念のため、データだけもらっておいたんだけど」
徹が机の下でなにか、カタカタと軽い音を立てながら操作すると、応じて画面は一端白く染まり、次いで暗転。そしてその黒の中央に、ある風景が映し出された。
「これ……」
「そう、『暁の村』だ。撮影は日本時刻で今日の午前三時半」
言って机に肘をつき、指を組んだ手の上に顎をおく。
「しばらく、見ておいてくれ。再生」
と、その声に反応して、画面の中で景色が流れはじめる。映されているのは白い壁と板張りの床、その中央には青白い光を放つ円が描かれた部屋の中。わからないはずがない、あの部屋だ。部屋の中に未だ人の姿はなく、時折、隙間風でも吹いているのだろうか、襖が小さく震えているのが、写真ではなく動画が写されていることを示している。
「そら、来たぞ」
そう、徹が言った直後、画面の隅で襖が開いて、亮が部屋に駆け込んできた。
「え?」
思わず声が漏れる。
俺、一人?
映し出されるその光景は、亮の記憶に反したまま進んでいく。振り返る亮の姿の前には、ひとまずの別れの言葉を交わしていたはずの少女の姿はなく、しばらくの静止の後に亮が光の方へ向き直り、何かに引き止められるかのように、さらにもう一度亮が襖の方を振り向く。
何、これ。
こんなものは知らない。じりじりと後ずさる自分の姿を見ながら、亮は思う。自分は少女と共にこの部屋に入ってしばらく言葉を交わした後で、彼女に見送られながらあの円の中へ飛び込んだのだ。
しかしそうは思っても映し出される映像は、音声こそ伴わないものの、鮮明で、一見する限りその内容は実際の出来事を撮影したものであるように思われて。戸惑う亮を他所に、画面の中で再び襖が開いて
「っ……」
部屋に入ってきた少女のその姿に、思わず小さく息を呑んだ。
傷つき、部屋の床に倒れ伏す少女。駆け寄る亮の姿。勝手に進んでいく映像を呆然と見つめる亮の脳裏で、一筋記憶の糸が垂れていた。
あれ?
僅かに芽生えた違和感に背を押されるように、その記憶の糸に手を伸ばして、つかみ、
「あ……」
瞬間、記憶が塗り換わった。それはさながら切って落とされた幕の後ろから壁が姿を現すときに似て、背後から浮き上がるように思い出された記憶は、直前までの思い込みを呑みこんで掻き消した。
どうして……。
こんなことを忘れていたんだ、とか、あんな思い込みをしていたんだ、とか、疑問の向かうべき先が多過ぎて、思考する言葉も曖昧なままに意識の中で霧散する。その亮の疑問さえもやはり無視して映像は流れ、やがて、その手に爬虫類に似た鱗と爪をつけた徹が天井にしがみつくようして現れ、亮が、傷ついた少女を抱きかかえたまま円の中に飛び込み、取り残された徹が天を仰いで何か怒鳴っているところで、映像は途切れて画面も暗転した。
「……さて、と。どんなもんかな」
指を組んだ手を解いてモニターを元の場所に収めた徹が、再び指を組みなおしながら言う。
「思い出して、もらえた?」
「ええ、でも……」
「なんであんな記憶違いをしたのかがわからない、と」
「……はい」
やや俯き気味のままで答えて、少しは冷めた紅茶のカップを口元に運びながら気持ちを落ち着かせようと試みる。
なんともおかしな物で、いざ思い出してみれば、一度徹や凛に語った「記憶」は偽りに他ならず、事実はいま映像として映し出されたものに違いないという事が、今は何の疑いもなく信じられた。しかし一方で、事実として、なんの疑いも持たずに他人に語ってしまえるほどに、件の「記憶」は鮮明で真実然としていた本当で。何が起こったのかが把握しきれずに、眩暈のような感覚すら、亮の脳裏には渦巻いていた。
「あの、それに……」
それでももう一度、頭の中で記憶と、今見た映像とを反芻しながら、尋ねる。
「あの女の子は……どこに?」
自分の記憶云々よりも、亮にとってはこちらの方がむしろ大事だった。
先程までの「記憶」がどれほど真実味を帯びているかは別にして、亮は、確かにあの少女を連れて「神門」を通ったはずだ。だというのに、目覚めてからここに至るまで、亮は一度も、彼女の姿を見るどころか声すら聞いていなかった。
「抱きかかえてあの円に飛び込んだのは確かに覚えてるんです」
そしてそれは、今見た映像にも映っていたこと。なのに、どうしたのか。空にしたカップを机に戻す亮の目の前で
「ああ……、それねぇ」
と、答える徹が頭を掻きながら口を曲げて、視線を斜め下に泳がせる。それが、何か思案している顔であろうとは亮にもわかったとしても、それ以上のことを推察できるはずもなく、
「確かに」
ただ亮が返答を待って黙っているうち、徹はため息混じりに口を開く。
「さっきの映像は事実だし、それで無事にいろいろ思い出してもらえたのは幸いなんだけどね。それとは別に、君はもう一つだけ勘違いしてるんだよ」
そう、言って立ち上がった徹が、半ば振り返りながら、視線を肩越しに亮に投げる。
「ついておいで。全部見せてあげるから」
†
「ほれ、ここだ」
極一般的な住宅の廊下を、亮の先に立って歩いていた徹が、家の一番奥にあたる一つの扉の前で立ち止まった。別段何の変哲があるわけでもない、ただの木の扉についた金色の取っ手に手をかけて、ゆっくりと徹が静かに扉を押し開く。
「ここが、君の言うところの『俗界』だ」
「ここ……って」
言葉の意図がつかめずに、ただぼんやりと部屋の中を見渡す。
もともと窓が無いのか、それともカーテンが引いてあるのか、日の光は一切入らない、廊下から差し込む淡い光だけが頼りの暗い部屋の中、図書館の本棚のような大きな黒い影が浮かび上がり、その表面の彼方此方で赤やら緑やらの小さな灯りが点滅し、その背後で小さなモーター音のようなものがよどみなく流れ続けている。
「スーパーコンピューター?」
「そのとおり」
実物を見るのは初めてでも、知っている。あけっぴろげに言ってしまえば、大きくて、その分処理能力も格段に優れたコンピューターだ。それ自体は、それ以上でもそれ以下でもない。それなりに値は張るはずのそれがこんな一軒家にある事がまず不思議で、しかもそれを指して「俗界」と呼ぶその真意をはかりかねてただ黙り込む亮を一瞥して、徹は続ける。
「『俗界』はこっちから見れば、俺のある知り合いがコンピューターの中に作ったでっかいプログラムの集合体なんだよ」
篠沢智はある日、姿をくらました父親の部屋の書庫の奥で一台のスーパーコンピューターとモニター、そしてその中に一つだけ、保存されていたデータを発見した。そのデータは三次元空間を仮想的に再現するプログラム及びそれに関するテキストを一括して圧縮したもので、そこには小さな山間の村落の情報と、家具、食料、衣類等々、おおよそ全ての日用品の三次元データが記録されていた。そしてそれら情報が外見的なものにとどまらず、味覚や嗅覚に関わる情報までもが含まれていた事が智の興味を引いた。そのデータの全てがただの視覚的な観賞用を超えて、仮想的に体験することを前提としていると考えた智は、早速俗界のプログラムの構築を始めた。さまざまな地理、物体、その他の情報を取り込む一方で、父親の残したテキストを頼りに人間を作ることを始めた。まず一組の男女、そして情報の取り込みを進める一方で俗界における時間のすすみを早め、彼自身の設定による影響をほとんど持たないといえるまでに個別性を確保した人格が現れるのを待った。そして再び時間の進行を元に戻した後で、その中から何人かのデータをコピーして不老の管理者を別に作り出して各世界に一人ずつ配置。他の個体のうち、人間味が生まれるにいたらなかった個体は「暁の村」に閉じこめ、残る個体は様々な世界の住人としてばらまいた。それが、そもそも俗界の始まりであった。
「勘違いしないでほしいのは、たとえプログラムであったとしても、俺はあの世界やその住人が嘘だとかなんだとかって言うつもりはないってことだ。確かに一番最初はただのプログラムだったかもしれないが、それをつくった奴自身が、それじゃあつまらないと考えた。今、俗界の連中は確かに人として生きて存在している。もちろん、君がいた『暁の村』の管理者もだ。君にも、そこのところは理解しておいてほしい」
「ええ……」
答えつつ、さすがに混乱気味の頭で徹の言葉を反芻する。
コンピューターの中で機能するプログラム。たしかにその存在とコンピューターの外側との関係は、あの少女の言っていた神界と俗界の関係にもよく符合する。俗界がコンピューターのプログラムであるならば、当然その情報は外部に保存されることになるだろうし、逆にコンピューターの外にある神界がコンピューターに完全に統御されるということにもなるはずが無い。神界から俗界を操作する事だって、当然できるだろう。
でも……
と、何故だかまとまらない蟠りを感じながら、胸の内でなんとなしに呟いた折り、
「よくわからないか」
釈然としない亮の返事に対してであろう、徹が問いを発する。
「はい、まあ」
「そりゃあ、かくいう俺自身、未だに完璧にこのシステムを理解してる訳じゃあないからなぁ」
うーん、とうなりながら徹は頭の後ろに手をやって、言葉を探すようにしばらく視線をさまよわせた後に、
「でもまあ、この説明が簡単に頭に入ってこないっていうのは良いことだよ」
そんなことを口にした。
「たとえばこの説明をなんでもない文章として誰か適当に聞かせれば、文章の意味は理解できると思うんだ。それでも素直に飲み込めないのは、プログラムっていうのが引っかかってるからだろ」
「ああ……多分」
当然といえば当然のこと。あの村の主たる彼女の浮かべる笑顔も、視線を落とした横顔も、はたかれた頬の痛みも、怒りを浮かべたその視線も、およそ亮の覚えているそれらすべてを、作られたプログラムとして受け入れることに抵抗がないわけがない。たとえその説明が、世界のあり方を説明する上では理にかなっていて、また似たような内容を他の言葉で説明されたときには素直に受け入れられていたとしても。
「それが、いいんだ」
と、しばしの間をおいて、亮のそれ以上の言葉を待たずに徹が続ける。
「いまの『プログラム』っていう説明が素直に受け入れられないっていうことは、それだけ向こうでの経験に現実味というか、人間性というか、そんなものを感じてきたって事だよ。そうやって感じられるんだとすれば、俗界がどんな風に存在していようが、大した問題じゃない。連中が人として生きてるのは、紛れもない事実だしな。例えば……」
言いながら促す徹の視線に従って亮は部屋を出る。その後ろに徹が続き、後ろ手に戸を閉めると、歩き出しながら続ける。
「凛だ。あの、さっき俺と一緒にいた金髪の小さいのな。アイツ、もともとは俗界の人間だ」
「え、でも……」
「そう、普通に生活してる。脳の代わりに頭の部分に積んだコンピュータに入って、機械の身体を動かして、な。でも、ちゃんと人間してるだろ? そういうこと」
「はあ……」
頷きながら思い返してみても、先ほどであったばかりの少女は外見の特徴を気に留めなければどこにでもいる人間の少女にしか思えなくて、しかし普段芹山の元にいればそんな事があながち不可能でもないように思えて。
この人達、普段何してたら金とか時間とか、そんなにいろいろ余裕ができるんだ?
などと妙な方向に飛んだ思考のベクトルは、徹の問いで修正された。
「ところが、管理者に限っていえばここに一つ問題が生まれる。管理者の仕事については知ってる?」
「俗界の現状維持だと……」
「その通り。世界ごとに差はあるが、流れ人みたいな世界の外からの襲撃に対応したり、世界が機能するためのなにか重要な役割を担うことが彼らに篠沢が課した仕事だ。だから、世界が円滑に回り続けるためには、管理者が老衰して居なくなっても困るし、まして管理者が職務を放棄するようなことがあっても困るわけだ。だから、奴は管理者の成長、老化を止める一方で、一つ呪いをかけた」
「呪い?」
聞き返す亮に、そう、と徹は頷き、続ける。
「管理者は、何があってもほかの世界への行き来が出来ないんだ」
「え……」
「俗界における人間は、その肉体データと人格データが別々に構成されている。管理者の肉体データは、異なる世界の間を移動できないように設定されている。だからもし彼らが世界同士を繋ぐ門を通り抜けようとしても、普通門の側に拒絶されて通れない。つまり彼らは自分の守る世界の外に出ることが出来ない」
「そんな……」
思わず呟やく亮の脳裏に、ふとあの少女の台詞が蘇る。
自分が立ちふさがらなければならない、と彼女が言ったのは、全く違わず真実だったのだ。それは別に彼女の義務感などに関わりなく、はじめからそうせざるを得ないように定められていたのだ。
と、
ん?
思考がそのまま沈み込んでいくより先に、疑問に行き当たる。
じゃあ、あれは誰だ?
確かに亮はあの村を出るときに巫女装束の少女を抱いて、「神門」と呼ばれる円に飛び込んだ。あの、少女は誰だ?
あれは、あの村の主たるあの少女ではないのか?
違うとしたら、自分でもなく、管理者たる少女でもない彼女は……
「そろそろ、気付いたころかな」
呟くように言う徹の足が、なぜか一歩後ずさるのを、落ちていた視線が捉える。その後を追うように顔を上げようとして、
……あれ?
何もないのに頭だけを上下左右から固定されてしまったかのような、感覚。上げようとおもった頭が、びくともしなかった。
「そもそも相手があの真面目な巫女さんなら、あの場面でわざわざ戻ってきて顔を見せるはずも無い。彼女なら、まだ今もあそこで戦ってる真っ最中だろうさ」
なお続ける徹の声も、気付けばなぜかかすんで聞こえて。
おかしい。
そう自覚した亮の意識を他所に、体は何かに身構えるかのように、勝手に重心を落とし、足を軽く開き、踵をゆっくりと床から離す。その、思考と身体とが分かたれたような違和感に、背筋が冷えるようなことさえなく。
「君が連れてきたのは『暁の村』の管理者『暁の巫女』じゃない。それに化けた、流れ人だよ」
その一言が終わるやいなやという折、亮の意識はふつと途絶えた。
†
徹が言い終えるのとほぼ同時、目の前で亮の頭がかくん、と下がった。
直後、反射的に半歩後ろ、廊下の壁際ぎりぎりに下がったすぐ目の前を、横なぎに右足が通り過ぎる。迫力に圧されて顎を上げたところに追い討ちをかけるように勢い任せの左の裏拳、身をよじったところに今度は右拳が打ち下ろされるのを、膝を折り、床を転がって逃れ、ようやく一息ついて立ち上がる。
「なんだ、ひょろそうな身体で案外動けるんだな」
「褒めてくれるならついでにそこもどいて頂戴よ!」
「ところがそうもいかないんだな、これが」
「じゃあ自分で開くまでね!」
先ほどまでの物静かな様子はどこへやら、攻撃的な笑みを浮かべる亮の口から発せられるのは紛れもなく女言葉で、過去と現在のそれよりも衝撃の強い、視覚と聴覚のギャップに顔をしかめながら、突き出される拳を腕で右にさばき、カウンターを叩き込もうと左足を大きく前に踏み込む。
「ありがとっ!」
と、その動作と入れ違うように、結果的に体を横に開くことになった徹の目の前で、亮の身体が床を蹴り、前に駆け出す。その行く手には今締めたばかりの扉があって。
「やっ……!」
なぜか徹が追う素振りさえ見せないことになど気づきもせず、「やった」と思わず漏らしかけた「亮」の手がノブに掛かり、ドアをそのまま押し開けて。直後、足が不意に掬われて、支えを失った身体が勢いのまま前に倒れた。
「そんな簡単に行かせるわけ無いでしょ」
そこに横から聞こえる声は部屋の角、ドアの淵からドアの前を横切るように引かれたゴムひもを目一杯引っぱったまま立つ凛のもの。そして、
「この……っ!」
「亮」がその姿を姿を見止め、ぐ、っと床についた腕に力をこめた時には
「残念。しばらく寝てろ」
その背後まで歩み寄っていた徹の手刀が「亮」の首筋めがけて振り下ろされ、僅かに逃れようという意志を見せた「亮」はその場に倒れた。
「……お終い?」
「みたい」
様子を見つつ近づいてくる凛に、つま先で軽く、倒れた亮の脇辺りをつつきながら徹が答える。倒れた亮はといえば、二度、三度と繰り返しつつかれてなおうめき声も上げず、かすかな肩の動きで気絶しているだけということが確認できた。
「それにしても、こんな紐必要だったの?」
「まあ、大事を見ておくに越したことは無いだろ。現に思ってたより手ごわかったし。小細工なしでタイマンはって相手を黙らせられるほど、俺も腕っ節が強いわけじゃない。まあ……」
張ったゴム紐を指先ではじきながら尋ねる凛に答えつつ、徹は亮の両腕を自分の肩に回して、ぐったりとしたその体を背中に負う。
「とりあえずはこいつをどうにかしてからだ。その後で、色々準備しようじゃないか」