8  ‡

 気分は沈むところまで沈んで、重くてたまらないのに、足は、まるで端から感覚などなかったかのように、さながら宙をあるいているかのように、ふらふらとして軽かった。
 つい、数分前までは。
 今、亮は走っていた。辿るのは、忘れもしないあの道。ただその眼前に傷つきながらも亮の手を引いて走る少女の姿もなければ、その背後から追ってくる男の姿もない。ただ一人、亮だけが、壁の蝋燭に照らされた廊下を走っていた。
 まだ、頬に痛みが残っていた。その左頬に手が伸びる。
 心の揺れは、ある。
 あれでよかったのか。
 という問いは、抑え付け
 では何が出来ようか。
 という問いを投げかけ続けて、亮は走る。
 結局のところ、彼女にとって最大の感心事はこの世界なのだ。前回も、今回も、亮は彼女にとってふらりと現れた部外者でしかなくて、また前回も、今回も、亮を逃がしてくれたのだって、邪魔な部外者を追い出したに過ぎない。その彼女を助けようにも、亮にはそれを実行する手段がなく、死地へ向かおうとする彼女を止めることなど出来ない。絶望的なまでに、亮は無力だった。
この世界にいる限り。
 彼女の背中が見えなくなったしばらく後、判然としないまま渦を巻く思考の泥沼の中で、ふと気がついたのだ。
 一つだけ、自分にも出来る事がある。
 現状、自分の唯一持てる強みがあるとすれば、それは今すぐ帰る事ができるということだ。帰れば、あの芹山という老人が居る。彼に問い詰めれば、この「村」の現状を招いた原因も知れるだろうし、少女の「神界」と「俗界」の説明のとおりであるならば、この世界を救う事だってかなうはず。そうすれば、彼女もまた、救うことができる。
 不安はありすぎるほどにある。耳を澄ませずとも、社の外の音は耳に届く。それが不安感をあおりたて、背後からそれがまとわりついて亮の足を止めようと、背後を振り返らせようとするのを振り切るように、また一歩前に蹴り出す。
 ここだ!
 道順に絶対確実と言い切れるまでの自信はなかった。しかし、その部屋の目の前に立てば一目でわかる。他の部屋よりも明らかに大きく取られた間取り。襖の全面に描かれた絵画も社の他の例に漏れず質素ながら、その内に際立つ優美さがあって、襖の隙間からはかすかに青白い光が漏れている。
 襖の取っ手に指をかけて、一気に開いた。そのまま勢いで部屋の中に足を踏み入れる。
 板張りの床、四方を囲む白い壁。何もない、ただ広いだけの部屋の中央で、青白い光を放つ円が、床に描かれていた。近づいて覗き込めば、その光はその円の先、どこに続くとも知れない空間から発せられていて、光の強さに直視しているうちに眩暈すら覚える。
 それが「神門」、すなわち、俗界の一つである「暁の村」から神界へ至る道の入り口であった。この円の淵を跨いで光の中に身を投じた後、何がどうなるかは亮には定かでない。ただ気付けば、目覚めて、ありふれた光景の中に帰り着いている。
「……さて」
 少しだけ深呼吸をして、振り返る。もとより時間の余裕はない。ただそれでも勢いのままにその円の中に足を踏み入れることは出来なくて、一度だけ、この世界の風景の一部でも、眼に焼き付けておきたいと思った。
 そこに、
 ゴトン
 外の戦闘音とは明らかに異なる、何かが倒れるような音が、この社の中から聞こえた。
何事か、と身構える。次いで、もしや流れ人が紛れ込んだのでは、という考えに辿り着き、左足が僅かに、床の上を後ろに滑って、踵の下から床の感覚がなくなる。しかし、仮にその音の主が流れ人であるならばあの少女は……。
トン
考えている間に、先程よりは控えめな、しかし確かに板の間を踏みつける音が響く。
トン
もう一歩。音から音への感覚はどこか不自然なほどに長く、それが不気味さを掻き立て、鳥肌を立たせる一方で、亮の意識を繋ぎとめて、左足はもう完全に浮かせてしまっている中、右足がそれに続くことを許さない。そして、
トン……カタ
足跡に続いて、襖が押されて小さな音を立てる。
思わず生唾を呑みこむ。大丈夫。状況次第では、すぐにでも飛び込める。そう言い聞かせて、
ツ、ツ、ツ、と、上品に、というよりもどこか力なく、緩やかに襖は開かれて、
「っ……」
声も無く、ただ息だけをのんで、浮かせていた左足を戻して、駆け出す。
「あ……」
 ただ、それだけ呟くように口にして、この村の主たる少女が倒れこんだ。
 その衣の袖が、長い黒髪が、倒れる身体のあとを追う様にふわり、と空中に浮いて、そのまま地に落ちていく。その一瞬見えた肩口には、あるいはわき腹には、どこか赤い色が。
「おいっ! どうした! どうして……」
 口をつくままに言葉を吐き出しながら、生暖かく濡れた少女の体を助け起こす。取り敢えずは仰向けにして、
「くっ……」
 あまりに行き過ぎた現状に、奥歯を噛み締める。左の肩と右のわき腹ではそれぞれ真赤に衣が染め上がり、頬にも赤い色が点々と飛んでいる。袖や裾の布はところどころ焦げたり破れたりしていて。束ねられていた髪は何に縛られるでもなく垂れて、少女の顔にもいくらか、濡れて張り付いていた。
「まだ……居たのですか」
 かすれこそしない、それでも彼女の容態を物語るには十分すぎるほどに力のない声で、尋ねる。
「早く、行ってくださいと、言ったのに……。今、来たのが私でなければ、どうするつもりだったのですか」
 そういう目線は天井を見上げたままで、左目など、眉の辺りでも切ったのか、細く流れる血の筋が閉じられた瞼の上を流れていく。額には汗が浮かび、時折呼吸に喘ぎながら吐き出される言葉には迫力などありはしない。
 何を、驚く。
 自分自身に、言い聞かせる。彼女の言から、こうなるかもしれないとはわかっていたはず。それでも、亮が止められなかったから、結局そのとおりになった。それだけのこと。
 そこまで考えて、すぐさまその思考を頭の中から追い出す。そんなことで自己嫌悪に浸っているような場合ではない。どの程度の出血までなら人間が耐えられるのかは知らないが、このまま放っておけば先は見えている。ひとまずは現状を解決しなければ。でも、どうすればいい、何をすればいい、何があれば……。
「もう、ここも長くもちません。早く……、神門に」
「ばっ……!」
 馬鹿という罵声、その前にやる事があるだろうという言葉はのどで止まって声にならなず、言葉を止めた心地の悪い喉の違和感に奥歯を噛み締めた亮の視線を、かすれた声で言葉を紡ぐ少女の視線が、ここでようやく捕らえて交わった。その間にも、状況が悪くなっているのは、混乱した頭による思考を挟むまでもなくあきらかで、
 ……あ。
 そこでふと、閃いた。そしてすぐに、
 でも……
 と考え直す。それをすることは、確かに現状は解決するかもしれないが、一方で少女の意図に真っ向から反対することになるわけで。しかしそもそもその意図自体、少女の現状を鑑みれば既に実行に移すことは不可能に近いこともまた事実であって。
 どうする……。
「早く……」
 痺れる手で拳を作り、考え込む亮に、投げかけられる声はあまりにも弱弱しく、今にも消え入りそうな気さえして。それで、少しだけ、でも確かに覚悟が決まった気がした。
「……わかった」
 僅かな沈黙の後、短くそれだけ答えて、立ち上がる。
「……」
 深呼吸。
そして、もう一度腰を下ろしなおす。
 左の膝は床について、右ひざは立てたまま、先に左の腕を彼女の首の下にもぐりこませ、次いで右腕は膝の裏に。
「何、を……」
 かすれた声で驚いたように少女が言う。それを無視して、そのまま立ち上がる。振り返れば視線のちょうど三メートルほど先には青白い光を放つ「神門」が。その光を頬に受けて、その意図に気付いたのであろう、少女の表情にかすかに違う色が混じる。
「馬鹿な……何をっ……」
「お前も、このまま、連れて行く」
 自信など、いつものごとくありはしない。こんな状況であっても、例えば腕に感じる彼女の足の感触だとか、あるいはすぐ目の前で喘ぐ彼女の表情だとか、また遠いところでは外から時折聞こえる破砕音だとか、さらに見えないところでは、少なくとも今は彼女が絶対に望まないことをしている事実への自責の念やら躊躇いやら、もろもろに反応して鼓動は早鐘を打ち、それを抑えるように、言葉を噛み締めながら、視線は真っ直ぐ前に向けて、余計な思考は全て停止させて口にする。
「冗談も、大概にしてください……! 管理者が世界を捨てて逃げ出すなど……」
 少女が言っている間に、一歩踏み出す。
「聞いて、いるのですか……!」
 それでも止まらずもう一歩。一度動き出してしまえば、実際的な抵抗もない、その弱弱しい声だけでは亮の足も止まらない。
「私が神界になどいけるはずが……」
 そしてさらにもう一歩。
 いよいよ目前に近づいてきた光を受けながら、少女が身を起こそうと肩を強張らせる。それを、肩にまわした、かすかに震える左腕で抑えて、
「頼むから」
 立ち止まり、一つ深呼吸をして、口を開いた。
「無茶するなよ」
 少女の肩を掴む手に少し力を加えて、指先の震えも止める。
 こんな体でここに残って、何ができるつもりなのか。こうしている間にも、彼女の傷口から滲む血は亮の手を濡らしているというのに。冗談はどっちだ、と。思うだけなら、文句はいくらでもある。そしてまた、決して彼女は望まない行為に出たことへの謝罪の念も、やはりある。でも、それを全部抑え込んで、言った。
「もういいだろ」
「……」
 少女は視線をそらして何も答えない。それにいくらか安心して最後の一歩を踏み出そうとしたとき、
「全くだ。もう、こんな茶番は十分だろ?」
 聞いたことのない男の声が、天井から聞こえた。声の聞こえ方、あるいは気配の伝わり方が、振り返る隙などないと教えてくる。
流れ人……!
それがわかったところでできることなど何もない。亮が単身向かって行ったところで敵いようもないだろうし、まして少女を抱えた状態では不意をついて逃げるのも難しい。せめて、再び身を起こそうとし始めた少女の肩だけを強く抱いて、亮はその場に立ち尽くす。
どうする? どうすればいい?
息はどこか荒く、自問の問いはやはりどこへとも知れず漂って消えていくかのようで。何も出来ずに居る亮の背後で、声の主であろう、何かが床に着地する音が聞こえて、かすかな振動が亮の足の裏にも伝わる。
「悪いけど、その手を離しちゃもらえないか? 用があるのはその女……」
 その時、言葉が終わるのを待たず、社の外で一つ派手に音が響いた。あるいは、社自体になにか直接的に危害が加えられたのか、部屋の四方で壁を支える柱にも震えが走り、板の間から亮の体に伝わるそれは先程の比ではなく。
「あっ!」
その瞬間、体が動いた。衝撃に浮き上がった足はそのまま反射的に前に踏み出していて、青白い光の上に足が掛かり、そのまま円の内側に沈み込む。肩を掴んだ何かから逃れるように、沈んだ足に引きずられて亮の身体、抱かれた少女の体も続くようにして光の中へ。やがて肩に掛かっていた負荷が離れ、倒れこみながら振り向いた先には、革のジャンパーにジーンズ姿の男が口惜しそうに表情を歪めていて。その光景も光の中に飲み込まれ。
 やった!
咄嗟の逃亡の成功、ついで少女を救い出せた事実に喜び、胸を撫で下ろす中でのこと。まるで風が体の中を通り過ぎていくような妙な感触。まるで自分が感覚の塊になったかのような錯覚。爽快感の中で視界が歪み、亮の意識は闇に落ちた。