7

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 足どりは酷く重く、一つずつの歩幅も小さい。それでも、亮は進んでいた。
 一歩、社の庭に敷かれた玉砂利を踏みしめるたびに、月影の下うっすらと夜闇に浮かび上がる鳥居が近づいてくる。
 少女の背中が消えていくのを見送った亮は、そのまま指定された部屋に向かわなかった。
理由など、つけようと思えばむしろ少女の言葉に従ったほうが楽につけられる。彼女はそうしろといったし、自分が向かったところで何ができるともわからない。苦戦をほのめかすようなことを少女は言っていたが、今の彼女は二人の流れ人を同時に相手にしても優位に立っていたし、仮に前回のような、彼女でも本当に苦戦するような相手が現れたとすれば、自分はむしろ足手まといにしかならない。
 それだけいろいろな理由が独りになった頭の中を駆け巡って、それなのに動いた足は確かに前に、少女の走っていった方向に踏み出していた。そして、動き出せば遅いながらも確かに体は前に進むもので、気付けば鳥居の下まであと数歩というところに辿り着いていた。
 止まるなよ……。
 ともすれば迷いが停滞、後退に繋がりそうになるのをこらえてまた一歩踏み出す。その強く握った手の中には、社に残しておくに忍びなく持ち出したあの鈴が、その脳裏には、前の晩に見た少女の背中があった。
 かつて小川で見た背中とも、傷ついた背中とも違う、白い衣に覆われて、亮の前から去っていく背中。彼女が鈴を鳴らし、部屋の襖を閉め、亮の前から立ち去っていったその時から、あの背中が思い出されて、そして言いようもなく不安になった。どんな理由をつけてみても、ここで彼女を追わないことが何か重大な過失であるように思えて、彼女の言葉に従うことは出来なかった。そして部屋の前を去る際、急に襖の向こうにかつての大破した部屋の姿が重なって見えて、僅かに迷った末、三方の上から鈴を取り出して社を出た。
 ここじゃまだ無理か。
 鳥居の下に立って、胸の内で呟く。鳥居の先、階段の方にはまだしばらく踊り場ように平坦な石畳が続いていて、そこからでは夜闇を纏った空と、視界の両脇にそびえる木々の上の方が見えるだけだ。
 しかし、それでも感じる物はあった。肌を撫でていく熱気に、あちこちから遠く響いてくる爆音やら炸裂音やら。空を覆う夜の帳も、心なしか明るいような気さえする。
「……」
 無言。今更何を考えるでもなく、ただその光景に引き寄せられるように、もう一歩。勢いに任せて二歩。余韻を引きずるかのように三歩踏み出して、
「居た……!」
 見つけた。宙に円弧を描く黒髪。たなびく緋袴、衣の袖。夜闇の中で照らし出されて、どこか神聖な雰囲気さえ感じさせる、舞にも似たその動作。見まごうこともない、管理者たる少女の後姿。階段を降りきった先にあるもう一つの鳥居の下にそれを見止めた瞬間、それまで体を戒めていた縄か鎖かがすべて解けたかのように足が軽くなり、そして直後、より一層強く、その場に釘付けにされた。
 なんだ、これ。
 思わずそんな問いが漏れそうになる。ひとたび注意を広げれば、少女の姿を照らし出しているのは穏やかな月明りではなく林の木々をもやして煌々と輝く炎であり、空をうっすらと明るくしているのは村の家々から立ち上る火の粉であり、時々響くのは、時に少女をめがけ、時に少女の方から放たれ、土やら、地に倒れ伏した村人やら、あるいは流れ人の体やらを吹き飛ばす光弾、爆発物の爆音、炸裂音であった。
 平穏な夜の姿などどこにもない。むしろ争いと火の粉が彼方此方で爆ぜる音とは互いに加速させあっているかのようにさえ思えて、亮の意識も、身体も、完全にその場に釘付けになった。
 十字槍を腰に構えた、全く同じ姿をした三人の男。少女を中心に正三角形を描くその三点から同時に突き出された白刃に触れる直前、膝を折り、身を屈めてそれをかわした少女の身体が滑るように疾駆する。すれ違い様、同時に鳩尾に貫き手を受けた二人の男は、像を映した鏡が割れるかのように砕け散り、
「飛鳥!」
 距離のため亮には聞こえないその声と共に放たれたのであろう、四色の鳥を足元に受け、残った男もその場に倒れる。それを見届ける間もなく、反転した少女は、一瞬前までの背後から放たれた矢を避けて、何事か叫びながら右手を前方へ。亮が、何か光った、と思った次の瞬間には、弓を構えていた少年及びその周囲に居た男女四、五人が顔を抑えてうずくまっている。
「これは……」
 すごい。
 雰囲気に飲まれて、思わず息を呑む。さながら一つの舞台のように、奔る姿も、跳ぶ様も、周囲の勢いを圧倒していて、彼女が傷を負うそぶりなどなければ、亮の位置からでは知りえない事実として、その衣にさえ未だ彼女は傷一つ負っていなかった。
 しかし、同時に亮は思う。
 これは、おかしい。
 燃え盛る炎も、巻き上がる土煙も、少女の動きを追えば追うほど、それを害するどころかむしろ援けているかのようにも思える。しかし、一方でその一連の動作のどこにも、いずれそれらが終わる気配が感じられないのだ。少女の一挙手一投足、舞い上がる火の粉の光、光弾の炸裂音。全てが互いを持ち上げるだけ持ち上げて、とどまるところを知らない。まるではじめからやめるつもりなどないかのようにさえ思えて。
 理性が、前に踏み出そうとする足を押し留めた。
 思念の形にすらならない漠然とした意志。しかし確かに、亮は一瞬、目の前の階段を駆け下りて、今すぐにでも目の前の、演舞とも言うべき様相を停止させようとしていた。もちろん、そんな事ができるわけもない。それは、既に理屈の域を飛び越えて、目の前の光景を一目見たその時から身体が理解している。だからこそ、今亮は傍観することしかできていない。
 しかし、自分自身でも何がしたいのかわからないままに亮をここまで連れてきた、えもいわれぬ不安感がここに来てひどく自己主張を始めていた。
 遠く前方で宙を舞い、緋色の円をかたどり、白い弧を描いて黒髪をたなびかせる、あの少女の姿は、かつて亮の前で白い衣を赤く穢していた彼女の姿とは似て非なるもの、むしろ似ても似つかぬ別物だ。あの時は、彼女が自分を守ろうとしてくれていることが明らかだった。しかし今、これだけの状況で、自分に向けられる刃さえも自分の纏う雰囲気の中に同化してしまう彼女が何を見据えているのか、亮にはまるで見当がつかない。まるで、ここで彼女の意識を一度捕まえておかなければ、助けるとか、役に立つとかいう以前に、そのまま亮の知覚、理解の外へと彼女自身が消えて行ってしまうかのような、そんな予感を、今の彼女、そして亮の脳裏に浮かぶ昨晩の彼女の背中は感じさせるのだ。
 でも、だったらどうする。
 そしてまた自問する。
 例えば今までだって彼女のことを理解できていたときがあったのか、とか、あるいは自分がこの先彼女を理解できるようになれるのか、とか、いつものように浮かんでくる自分自身への追及はさておくとして、どうしたら彼女の意識を、あの戦闘の只中から自分のもとへ向けさせられようか。考える間にも少女の身体は宙を舞い、地を駆けて、炎を纏い半ば倒れかけた木の幹を蹴って、着実に周囲の流れ人を制圧していく。その姿は恐らく、彼女が自分を「『暁の村』の主」と称する限り在って当然の姿であって、正直、亮が割り込む隙などありそうもない。
 そんな、折だった。
「奴に用か?」
 聞きなれない、嫌な感じは無いのにどこか耳につく、落ち着いた声がした。
「誰かに用があるなら、素直に相手に呼びかければいい」
 亮の応答を待たず、またその隙も与えずに続けるその声。振り向けば、やや大きい襟が立ち、長めの裾はところどころ敢えて擦り切らした感のあるスーツ。同様に使い古した跡のような皺がところどころに見える革靴で小気味のいい足音を立てながら、すぐ横で男が立ち止まった。
「こんなふうに」
 そして、もともと細い目を、重力に従うばかりの長い髪の下で細めた男が、何事か呟いた。少なくとも、亮にはそう見えた。確かにその口は動いているのに、音らしいものは亮の耳にはなにも聞こえなかったのだ。
 だというのに、
「あ」
 瞬間、少女が息を呑んで動きを止めたのが、亮にもわかった。
 ここぞとばかりに長い棍棒のような物を構えて駆け込んだ女の足を払い、倒れ際に「鳥」の追い討ちをかけ、少女が振り返る。
 まさか。
 隣に居る男の呟きが、少女に聞こえるなどということはありえない。わかっているから、その少女の反応を訝しく思って、その視線が横に流れた頃には、
「……」
 そこには誰もいなかった。思わず反対側を振り向いてみても、そこにあるのはただ石畳と夜風や時折混じる熱風に揺られてざわめく木々の影だけで、人影らしい物は見えなかった。
 そして、はたと気がついて亮が視線を前方に戻そうとしたのと、その視界の片隅で少女が身を低く落として、すさまじい勢いで亮の方へと階段を駆け上りだしたのがほぼ同時だった。
「よ……」
「来て下さい!」
「うっ!」
 一体どれほどの速度が出ていたというのか、瞬く間に階段を上り終えた少女にかけようとした亮の言葉は彼女に遮られ、止まりもせずに亮の腕を掴んだ彼女に半ば引かれ、ほとんど宙に浮いているかのような状態で鳥居を潜る。まさしく跳ぶように、黒い髪を、衣の袖を、袴の裾をたなびかせて、体重を感じさせない足どりで鳥居の先に続く庭の飛び石を滑るように蹴っていく少女に対して、青白い玉砂利を足が地につくたびに蹴り上げながら辛うじて転ばないように引かれていく亮の体は、そのまま社の縁側に駆け上がり、正面にある襖を開け、さらに一つ奥に入った部屋まで辿り着いたところで強制的に停止させられた。
「うおっ」
 そこまで走ってきた勢いをそのまま流すかのように、急に立ち止まった少女の身体を軸に、つかまれていた腕が急に引き寄せられるようにして、そのまま今ちょうど駆け込んできたばかりの襖の横の壁に背中から叩きつけられる。
「っ……」
その衝撃が胸に抜けて、思わず息が漏れた。
現状の理解が追いつかない。ただ、痛みが余韻を引きつつ消えていくのを感じながら荒れた息を整えて、背中を打ちつけた拍子に思わず閉じていた目をゆっくりと開き、固まった。
目の前、手を軽く前に出すだけで触れそうなところにかの少女の姿があった。細い右腕は亮の右肩に添えられたまま亮の身体を押さえつけて動かさず、あれほどの数の流れ人を相手にしていたところから石段を駆け上がり、亮を引いてここまで走ってきたことなど、その乱れたところのない佇まいからは僅かにも見て取ることは出来ず、鋭い視線が亮の視線と交わったまま、それを捉えて逃がさなかった。
亮の知らない、少女の顔だった。かつてこの村を訪れた時、幾度か彼女に叱られた記憶はある。しかしそのときの彼女の視線にあった諭すような、どこか優しい雰囲気が今の彼女にはない。亮の知る限り最も険しい表情を少女が亮に向けていた、あの前回の帰り際でさえ、このような、ただ見つめられているだけなのに拒絶感さえ感じて、思わず唾を飲み込むようなことはなかった。
「どうして、あんなところに居るのですか」
低く、押し殺したような声で少女が問う。
「私は帰るように言ったはずです。まさか部屋の場所がわからなかったわけでもないでしょう」
 一言ごとに細められていく目は睨みつけられているかのような印象を亮に与えて、ただでさえ言葉を発し辛いこの状況で一層亮の口を重くする。しかしかといって対する少女がそれを知ろうはずもなく、
「……」
「……」
 嫌な、沈黙が降りた。
絡み合う視線がかわすのは探り合いなどという生易しい物ではなく、むしろ一見した険しさを伴わないだけの睨みあいに他ならず、視覚がそこに引き付けられれば引き付けられるほど、触覚の意識は肩にあてがわれた少女の掌に集中し、それ以外の感覚は薄れて、足元がおぼつかず、宙を漂っているような感さえあった。と、
ズン、と
何かが倒れでもしたかのような、腹に響く音が響いた。
「……!」
「大丈夫です」
 振り向こうとした亮の体を、あてがった掌に僅かに力をこめて少女が止める。
「貴方も乗った、風鳥が居ます。先程石段の下にいた連中程度なら心配要りません」
 落ち着き払った声で言う少女の様子に、恐らくそのとおりなのだろうと納得する。もとより、仮にその言を疑ってみたところで、少女の制止を逃れられるとは到底思えなかった。
 向かい合う少女のどこか冷たい表情も、亮の乾ききった舌と、それを責める亮自身の有様も変わりはしない。ただ沈黙だけがあって、それを取り巻くように外からは色々と物音が聞こえてくる。そこに、ぽつり、と
「貴方は、死ぬつもりですか?」
少女のそんな一言が投げ込まれた。
 亮の無言は相変わらず、ただ、そこまで考えの及ばなかった一言に思考までもが一瞬、停止した。
「あのようなところにいて、万が一にも流れ弾が当たろうものならどうするつもりだったのですか。流れ人など所詮浮浪者、興に乗って貴方に襲い掛かる者がいないとも限らないのですよ」
「あ……」
 言われてみれば、確かにそのとおり。例えば石段の下にいた流れ人にしても、軽くあしらわれていたのはあくまで相手がこの、亮の目の前に居て「暁の巫女」たる少女であったからこその話。仮に亮があの中の誰かと対峙したとして、なんら対抗手段のない亮に勝機などあろうはずもないし、あの戦闘で流れ弾なり何なりが生じて亮の身に襲い掛かったとしても、やはり亮には対応する術が無い。
「それに、もう帰り道は開かれているのです。貴方より先に流れ人の目に止まるような事があればどうなるとお思いで? 『神門』や『空門』は一度使えば再び開きなおさなければならない。いつ崩れるともしれないこの世界で、そんなことをする余裕はどこにもありませんよ」
 なおも淡々と続く少女の言葉。うなだれこそしないものの力の抜けていく亮の肩。それに配慮してか、亮の肩を抑えていた少女の手からも徐々に力が抜けて、亮の身体を離れていく。
「ごめ……」
 一方的な少女の言に圧されるまま、思わず謝罪の言葉を発しかけて、
 ん?
 ようやく思考が亮の手元へ戻ってきた。
「謝る暇があるならば、早く行ってください。私もいつまでもこんなところに居るわけにはいかないのですから」
 言いながら、亮に前進を促すように少女が半歩退く。そのまま右足を斜めに出して、その視線も亮の視線から離れて、
「……なあ」
 おずおずと、亮の口が動いた。
「この世界が『崩れる』……って?」
 問い返されるなどとは思いもしなかったのであろう、冷たくも平坦な表情を浮かべていた少女が僅かに眉をひそめて、
「ええ」
 首肯する。
「言ったでしょう、この小さな世界では、極端に大きな変化には耐えられない。ところが現状はこの様相。これだけの人数の流れ人が一度に侵入したということだけでも脅威的な異常ですが、ましてそれが各々勝手に能力を使えば? 村と林がどうなっているかは、亮も見たのでしょう?」
「ああ、……石段の上からだけど」
「認めたくはありませんが、あれが全てです。そんなところで『門』を新たに開こうものなら、情報の書き換えに耐え切れず、貴方を送るよりも先にこの世界がいよいよ本格的に崩壊します。ですから早く……」
「いや、……いや、待って」
 だんだん、まともにまわるようになってきた舌で唇を軽く一舐め。ともすれば訝しげに眉を潜めた少女の視線に再び口を噤みそうになるのを抑え、細く息を吐いて、口を開く。
「お前は、どうするの?」
「……は?」
 少女が小さく首をかしげる
「だから、俺がその『神門』をつかっちゃったら、お前はどうするの?」
「どうするもなにも……私は私の役割を果たすまでです」
 何を今更といわんばかりの口調、表情で、少女が向き直って答える。
「私に与えられた役目は……」
「いや、だからっ……」
 その一言を吐き出してしまったあとから、だんだんと胸の鼓動が早くなる。決定的な見解の相違の予感と、それを抑えて敢えて自己主張を強めることへのためらい。止めておけ、と心のどこかが囁きかける。しかし目の前にいる少女はいよいよ不可解そうに、あるいは不愉快そうな表情さえ浮かべて見えて、ここで言葉を切ってしまうことも出来はしない。結局、もう一度唾を飲み込んで、肺を空気で満たして、
「お前は、ここで……死ぬつもりなのか」
搾り出すように問うた。舌はどこか痺れたような心地さえして、思わず手は鈴の取っ手を握り締めていた。その割りに、
「……ええ、そのとおりです」
その返答はあまりにそっけなかった。
「あの流れ人たちがこの世界を傷つけ、神界を目指そうとする限り、私は彼らの前に立ちふさがらなければなりませんから。それは、たとえこの世界が崩れ行く中であろうとも、私がこの世界の管理者である限り変わりようのない公理です。その過程で、どんな形であれ、命を落とすことになったとしても」
 ここに至ってもなお少女の声は平坦で、まるでその言に疑問の余地などないとでも言っているかのようで。昨晩、縁側で心細そうに膝を抱えた彼女の姿が嘘のように、今目の前にいる「暁の巫女」は堂々として、むしろ取り付く島も無く。
 ちょっと待ってくれ。
 その一言が言葉にならない。いっそ直接腕を伸ばそうかと思っても、萎えたように肩に力が入らない。なぜか手の中の鈴はやたらと重く、それを握る拳の感覚がどこか希薄に感じられた。
「では、私はもう行きますよ?」
 言いながら、少女が再び視線を亮の横へ。その向かう先は部屋の襖。そこを抜ければ廊下を挟んで隣の部屋があり、さらに一枚襖を開ければ縁側から社の外に出る。
 待って……。
「亮も……」
 その言葉と、空いている亮の右手が少女の右肩を捉えたのが同時だった。
「……」
「……」
 再び沈黙。
 どうする。何を言えば、何を言えば……。
 こんなときに限って、余計で後ろ向きな思考ならいくらでも吐き出す亮の思考回路はろくに昨日してくれなくて。僅かな間を置いて突如、少女が左の肩で亮の腕を払うかのように身を翻し、
 パンッ
「え……」
 右の平手が、亮の左頬を捉えて気味が良いまでに乾いた音が空気を震わせた。
「では問いますが、貴方に何が出来ますか」
 振りぬいた手を戻しながら少女が、痛みが余韻を退く頬に手をあてがい、横を向いたままで居る亮に問う。
「貴方は今のような状況を招いた原因も、解決策も、知らないのでしょう。別にそれを責めるつもりはありません。むしろ亮が、あのころの亮と同じ、ただの来訪者のままで居てくれて、少なくとも変わっていないことはあるのかと、私は昨晩どこかで安心しました。それでも、亮。貴方や神界が変わらず、私が不変を望んだとしても、現実にこの世界は変わろうとしているのです。ならば、私は不変を守らなければならないし、無知な貴方には出来ることなどない。そうでしょう?」
 その声色はだんだんと優しくなっているような気もするのに、その内容は進めば進むほどに亮の応対を許さないものになっていく。変わっていないということ。無知ということ。その事実を亮自身によってではなく少女の口から告げられて、なお亮の口から発せられうる言葉などあろうはずもない。
 その亮の内心を知ってのことか、少女が一度言葉を区切って、軽く息をついた。
「亮。人には従うべき本分という物があります。私にとってのそれは、この世界に生き、管理者としての職務を全うすること。しかし貴方の本分はここにはない、そうでしょう?」
 問われたところで、亮にはまともな返事などできはしない。せめて、情けない音が唇の隙間から漏れることのないように、奥歯を噛み締めて少女の言葉を聞く。
「だから、貴方は早く帰って下さい。貴方にはそのための場所が、世界がある。神界にとって俗界など、醒めれば終わる夢のようなもの。神界に席を置く貴方は俗界に生きることは出来ないし、ましてここに骨を埋める理由などないはずですよ」
 言って、少女が亮に背を向ける。その白い衣も、赤い袴も、長い黒髪も、時折除くうなじも、すぐ目の前にあるのに、もう、決して触れないような気がして、なにか透明な壁越しに少女の後姿を見ているような心地がした。
「それでは、さようなら」
 そしてその後姿が、ひとりでに開いたかに見える襖を潜って廊下に出る。そのまま、襖は再び、誰が手を触れるでもなく静かに閉まり、
 ごろり、と
 襖が閉まりきったのと当時に、亮の手から鈴が、畳の上に落ちて転がった。