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 そして、今。
 亮の目の前には黒々とした毛皮纏った巨大な獣の姿があった。姿かたちから大きさまで、まるで未知のその姿と、そこに確かに感じられる強靭さに亮の視線は釘付けになって。
「よかった、まだ生きてて」
 そこに別な声が投げかけられた。
 見上げれば、それは獣の背中の上から。毛皮の上に座り込んだ、白いワンピースにウェーブの掛かった金髪の少女。凛が、亮を見下ろしていた。
 てことは……。
もう一度獣の姿を見直して、その前肢の有様が、未だ新しい記憶の一こまに合致した。
「春日……さん?」
「おう。助けに来たよ」
 振り返らず、人の声で獣が答え、ついで凛が亮の目の前に飛び降りる。
「一応、もう殴ったりしないから、安心して大丈夫よ」
 そう、付け加えるように凛は言うのと同時、亮の脳裏にも目の前にある獣の腕に殴りかかられた記憶が蘇る。やはりその衝撃は強烈で。加えてもともとその意図がわからない以上、凛の言葉はその点で亮の警戒を完全に解くにはいささか上辺に寄りすぎて。ただ、それを置いても、今では少なくとも智の存在を考慮すれば何十倍も信頼に足る味方の登場と、事実、自分と智の間にたった徹が智の方を向いていることに、亮の緊張が若干緩んだ。
 同時、亮の意識は別な方へ向かった。
 亮の右手、僅かに斜め前方には十字架に吊るされた「暁の巫女」たる少女の姿がある。そして亮と彼女の間に立ちふさがっていた智には、今徹が相対している。その首筋にあてがわれていた氷柱も、足を覆っていた氷も、徹の出現の直後に智が消していて、傷も回復した彼女の姿は一見する限りでは平穏無事そうにも見えるが、ここに到るまでの過程を知っていれば、むしろすぐにでも駆け寄りたいのが心情で。ただ、
「またお前か」
 ため息混じりの、鼻にかかった智の声が、徹の身体越しに亮にも聞こえる。
「一応、そうやすやすとは入れないようにして置いたつもりだったんだがな」
「馬鹿にすんな。ただの水鉄砲だろ」
 亮の知覚しない事ではあるが、屋敷の外壁の外側には無数の水流が張り巡らされていた。極細、高圧かつ研磨剤を添加された水流は、ダイヤモンドの加工さえ可能な威力を持つ。今、それに匹敵する、砕いた石畳の欠片を内に含んだ無数の水流が網目のように張り巡らされ、ドーム状に、社があった空間を覆っていた。
「しかも創造するだけ創造して、あとは更新もせずに放りっぱなしだ。そんなものでどうするって?」
「ほう……」
 余韻を残す智の呟きが、その場の緊迫感を際立たせる。他でもなく、その張り詰めた空気が亮の身体をなおもその場に繋ぎとめていた。
 智には徹が当たっている。だから、大丈夫、と理屈では思うのに、それでも、さながら蛇のようにまとわりつく緊迫感に亮の意識は捕われて、少女の方へ駆けつけたいとは思うのに、せいぜい彼女の方へ小さく一歩踏み出すことしか出来ない。と、
「なにしてるの」
 凛が、言った。
「さっさと動きなさいよ! 何のためにここにいるのか、わすれたわけじゃないでしょ?」
 ほら、と腰の辺りを叩いてくる。それが引き金になった。
 まるで、動きたいのに動けない鬱憤が破裂してあふれ出したかのように、与えられた勢いのままに亮の身体が駆け出した。
「勝手にどこに行くつもりだ?」
 すかさず、智の操る水流が襲い掛かってくるのを、凛が創造した白銀色の壁が受け流し、水に打たれた玉砂利が跳ねる。それを合図に智に飛び掛った徹は、正面から別な水流が襲い掛かるのを、宙に創造した足場を蹴ってかわし、そのまま爪をむき出しにした右前肢を振り下ろす。
「で?」
 その爪を、分厚い氷の塊で受け止めて、智が言った。
「お前は何しに来た? 俺は、もう飽きたって言ったはずだぞ? もともと俺には、お前にさしたる用事もなかったんだ。それをあえて相手してやってたのに、この期に及んで何の用だ」
 いかにも智らしい、図々しい言動に、徹の眉根に不愉快そうな皺が深く刻まれる。
「飽きて、だからこの有様か」
「ああ、その通り。今だって、そこの臆病者で少し遊んでやろうってところだったんだ。そこに、何のつもりで邪魔しに来たのかと聞いているんだがな?」
 そんなやり取りの最中、亮と凛は少女を吊るす十字架の下までたどり着いて、「臆病者」という単語に敏感に疼く心情を誤魔化すように、亮は叫び、呼びかける。
「おい! おい、大丈夫か!」
「そいつには今何も聞こえてないって言ったのを忘れたか?」
 言いながら、亮目掛けて放たれた水流は、再び凛によって受け流される。
「それとも何か? 臆病なだけじゃなく馬鹿だったか? 親切で人が教えてやったことをすっかり忘れ去ったか?」
「五月蝿い上にしつこいっ!」
 智が一方では氷塊の盾で徹に対しながら操る水流は、さながら頭足類の触手のように幾本にも分かれ、二度、三度と追撃をかけてくる。それに、毎回少しずつ壁の角度を変えながら対処する凛に余裕がない事は、亮の目にも明らかで。
「そんなものでいつまでもたせるつもりだ?」
「くっ……」
 程無くして、先端に巨大な氷柱を据えた水流が凛の壁を穿ち、破って、そのまま突き進んでくるそれを避けようと身体を捻った凛が転がる。
「凛!」
 叫んだ徹が、次の瞬間には跳んできて、凛と亮とを庇うように立ちふさがる。その先に、さながら大蛇の如く、渦を巻く水流を幾本かに分けて自分の周囲に侍らせて立つ智の姿があった。
「人の楽しみ邪魔しに来ておいて、結局この程度か」
 前髪をかき上げながら、智が言う。
 亮の、徹達の登場による安心感など、とっくに消えていた。智が強いのは分かっていた。ただ、徹や凛でさえ敵わないとは、亮は思ってもいなかった。それが、蓋を開けてみれば、目立った打撃の一つも智に与えられないまま、一方的に追い詰められていた。
 どうする……。
 内心で呟きながら、背後を軽く見やる。視線のすぐ先には十字架と、そこに吊るされた少女の姿がある。もともと破損のあちこちに見えた巫女装束は、緋袴の両脛、白衣の両腕に新たに直径で3,4センチはありそうな穴が開き、白い肌を露出させ、ことに脇腹に他の倍ほどの大穴を開けられた白衣は、もともと開いていた穴と相まって右側の襟がはだけ、胸にまいたさらしやら、くっきりと浮かぶ鎖骨の線やらが覗いて見える。しかも近づいてみれば、その身体は小さく震えていて、それを抑えようとでもするかのように、拳は硬く握られて、それが彼女の姿をどこまでも脆く見せている。
何分肌が綺麗なものだから、見ようによってはなにか掻き立てられる思いもあって。それでも、そこに人並みの感情を覚える以上に、亮にはその姿が痛々しく、知れず顎に力がこもる。ただ、今、もう手を伸ばせば届く距離にいる彼女をこの場で十字架から下ろして解放し、心身の具合を気遣うような悠長な真似が許容されるような状況では到底無かった。
 大体、亮は彼女になんと言って声をかければいいのか。彼女が自制しようとしてなお収まりが付かないほど震えるまで追い詰められるまで亮は何もできず、こともあろうに、彼女のためにと飛び出しかけた足を自ら止めてしまった。そんな臆病者に、揚々と彼女を救い出す権利がどこにあり、この期に及んでぬけぬけと、何を言う資格があるというのか。
 自分への不甲斐なさに、自然と剣を握る手が力む。直後には亮の臆病さを嘲りながらそれを投げ与え、恵んでやる、と言った智の台詞、それに何を刃向かうでもなく従うしかなかった自分自身の事が思い起こされて、途端に手の中で剣が異物感を増したような気がして、それを押さえつけるように腕にも一層力がこもって。
「だからさぁ……、何やってるのよ」
 そこに、凛が口を開いた。水流をかわしきることは出来なかったのか、その頬には細く切り傷が残っていて、それを人差し指の関節で拭いながら、立ち上がる。
「大丈夫か」
「このくらい、当たり前」
 気遣う徹に答えながらも視線は亮から離さない。その表情に、亮は既視感を覚えた。
「何であなた、いつまでもそんなふうに突っ立ってるの? まさか、本当にここにきた目的忘れたわけじゃないわよね? せっかく人が庇ってあげてるのに、なんで何もしないでぼーっとしてるのよ」
 問い詰めてくるその姿は、丁度徹の家のベッドで寝ていた亮につめよってきたときの彼女の姿に重なって、ただ、今度は何に凛がそれほど怒るのか、亮にはいまいち見当が付かなかった。
「助けに来た女を目の前で串刺しにされても何もできない臆病者に、無駄な説教だろう。聞いてるこっちの気分が悪くなる」
「っ……! 五月蝿いなぁ……!」
「てめぇの相手は俺だろ!」
 創造しなおした壁で智の水流を受け流しながら、徹が飛び出していく背中を見送って、再び亮の方へ振り向く。その視線が、亮の右手の剣を捕らえた。
「一応聞くけど、なんでそんなもの持ってるの?」
「え? ああ、これはあいつが……」
 いいながら、亮が視線をやる先、凛の向こうでは、先程から一歩も動かずに水を操る智とそれを相手に飛び回る徹の姿があって。いつのまにか徹の背中には見るからに硬そうな甲羅のような物が付随していて、時折それで水流の行く手を阻んでは智に飛び掛り、氷塊に受け止められている。
「そうじゃなくて」
 しかし凛はその亮の視線を追おうともせず、それどころかその台詞にはどこかため息混じりな気もあった。
「そりゃああなたがそれを創ったなんて思ってないわよ。そういうことじゃなくて、どうしてあなたが剣なんかもって、アイツに立ち向かってたのかって聞いてるのよ」
「え?」
 質問の意味が分からなかった。だって、確かに亮は何もできなかったけれど、それでも確かに目の前には「暁の巫女」たる少女を傷つけて笑う智の姿があって、それから逃げ出すという選択肢を考えるまでもなく消すとすれば、当然それに立ち向かうしかないはずで。
「ひょっとして、私が言ったこと忘れた?」
「凛! 二つ行ったぞ!」
 徹の叫ぶ声に振り返った凛が、真正面からぶつかってきた水流を上方に受け流す。その後に撒き散らされた、何の変哲も無いただの水しぶきを顔に浴びながら、亮は記憶をたどって。
「あなたの仕事はここの管理者を無事に連れて返ってくること。戦場のど真ん中に出て行くようなことはするなって、私言わなかった?」
「……いや、言ってたかもしれないけど」
「言ってたならどうして従わないのよ」
「だって、目の前にあいつが……!」
 信じられない、とでも言いたげな凛の表情に、思わず亮の声のボリュームも上がる。それは亮としては至極当然の主張をしただけのつもりで。それなのに、凛は、今度こそ本当にため息でそれに応じた。
「あのねえ」
 どいつもこいつもさぁ……と、言葉を切った凛が呟く声は亮には聞き取れない。
「気遣いだって程度が過ぎたら誰も喜んでくれないの。あなたには初めから、万が一の時に身を守る盾しかあげてないのよ? それでアイツに向かっていくなんて、勇気じゃなくて無謀よ。程度の過ぎた蛮勇なんて、せいぜい余計な死人か怪我人を出すだけなの。何したって敵うわけが無い相手に向かっていかないのは臆病なんじゃなくて判断が賢明なの。本当だったら、アイツが現れた時点であなたはそこの娘つれてさっさと逃げるべきだったのよ。過ぎたことだからそれは見逃すにしたって、あなた、どうせ使えもしない剣握ってそんなふうに突っ立ってる場合? 本当にしなきゃいけない事放り出して、何も出来ない他所に勝手に気を回して。一体誰が喜ぶっていうの?」
 智の登場時点でその判断は出来なかったという反論が亮の内心に浮かんで、すぐさま、ならば智が危険とわかった時点で、と自己完結する。いずれにせよ、凛の言は亮の思考とあまりにもかけ離れていて、予想だにしていなかったその内容に、亮は何も言い返せず黙りこくって。
「で?」
 そこに、もう一度凛が尋ねた。
「改めて聞くけど、今あなたがするべきことは?」
 亮も改めて考える。凛の言葉を認めるには、抵抗があった。そもそもその「無謀」をなせないがために自分を臆病者と責め続けてきた亮に、凛の発言がにわかに受け入れられるはずもない。亮にとって「無謀」だなどと言うのは、自分の非力さと、それ故に保身を優先してしまう臆病さに対する言い訳に過ぎなくて、何かをしない事の正当な理由には本来なりない。今だって、それでも、という反論が胸の内で蟠り、胃の辺りに不安定感がある。
ただし、その蟠り以上に、亮の意識は一点、本当にすべきことを放り出してまで他所に気を回すな、という台詞に捕われていた。言われるまでもなく、亮が今ここにいる最大の目的はあくまで「暁の巫女」たる少女を救出することで、戦闘は出来れば避けて通りたいのも紛れもない事実。そして、今は、少なくとも亮よりは断然力のある徹と凛の助けがある。その現状を鑑みて、今自分は何をしなければならないのか。または、この現状のどこかに自分が智との戦闘、あるいは他の何かに身を投じる理由が存在するだろうか。
 僅かな間を置いて、亮の足が十字架に吊るされた少女のほうへ向いた。
「よろしい」
 凛が、頷く。
 次の瞬間。
「ほら、さっさと動く!」
「うっわ……!」
 押されたのか、ひょっとしたら蹴られたのかもしれないというくらいの衝撃に腰の後ろを打たれ、足をもつれさせながら亮は三、四歩前進して。直後、一瞬その視界が真っ暗になったかと思うと、ぼんやりと、足元の方から辺りが照らされて。
 気付けば亮は、凛が創造した壁に幾重にも囲まれたピラミッド状の小部屋の中に、「暁の巫女」たる少女と二人きりで――語感の悪さを無視すれば――閉じ込められていた。
「アイツのことは私達に任せとけば良いのよ。大体こっちはそのために頭の固い旦那説得して来てるんだから」
 その、自分が創造したピラミッドを外側から眺めながら凛が呟く。その隣に、
「聞こえてるぞ」
 と、言いながら徹が跳んできて着地する。いつもならこのまま軽言の一つや二つも言うところも、流石に相変わらず柱のような水流を侍らせて立つ智を前にそんな余裕があるはずもなく。
「長話は終わったか」
 智が、切り出した。
「もう少し待つ人間の身にもなってみたらどうだ? せっかく人がそこの獣だけを狙ってやってたのに、あれ以上待たせるようなら、つい手が滑るところだったぞ」
「徹?」
「癪だけど、あいつの言うとおりだ。そのうえ手加減もされてたな」
 凛の問いに、徹は自分の戦果の虚構性を隠しもせず答える。それを、満足そうに智は鼻で笑った。
「まあ実際は、そう簡単に手を滑らせるつもりは無かったんだがな。そんなことをしたら、面白くない」
「いちいち含みを持たせるな。癇に障る」
「ふん、獣面だと牙を向いてもそれなりに様になるな。……何、言っただろう、今目の前にある事実をどうにかしようと駆けずり回る人間は見ていて面白い。ことに、後一歩で無事に事を終えるっていうところで全部台無しにしてやった時の顔なんか、最高だ。彼なら……そうだな、そこの陳腐な隠れ家を叩き壊して、そのままここの管理者に止めさしてやるなんて、なかなか良いじゃないか」
「そんなこと」
 徹が口を開くよりも先に、その横に並び、そこからさらに一歩踏み出した凛の言葉が発せられていた。
「させるわけ無いでしょ」
「でかい口を叩くなよ。誰に向かって口を聞いてると思ってる、凛」
「今更えらそうに人の名前呼ばないでくれる。……徹」
「はいよ」
 見上げる凛に答えて徹が身を屈める。凛は、その背中に飛び乗り、首の後ろにまたがって、立ち上がる徹のさらに上から智を見下ろす。
「何だ、お前は騎馬にも成り下がれるのか」
「ふざけんな。ちょくちょく尻に敷かれてる気もするけど、成り下がったつもりはねえよ」
「あら? 私はべつにそれでもかまわないけど?」
軽事を叩きながらも、水渦は流れをましてあたりに轟々と音を響かせ、徹の身体は跳躍に供えてかすかに重心を落とし、その両脇には凛の創造する白銀色の壁が盾として展開する。
「……」
 合図らしい合図もなく、突如徹が地を蹴り、水流がそれを迎え撃つ。