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 肩に剣を担いだまま、亮は少女を見上げる。
 十字架に掛けられた「暁の巫女」たる少女。いざ彼女を助け出そうにも、丁度亮の胸の辺りに彼女の足が来るような位置にその身を吊るされたままでは、亮にはどうしようもない。幸い亮の右手には手放す機会をつかめないままにしていた智の剣があり、同じく幸い、十字架は木製で、それを根元で切り倒すことがまず必要だった。
 迷いのような、感情の蟠りはまだ確かに胸に残る。そもそも亮は、凛の言葉に完全に納得したわけではない。目の前に吊るされた少女のために身を捨てられなかったことへの怒りと、悔しさと、後ろめたさとに、自ずと剣を握る指の力が萎えそうになって、それに逆らい一層きつく拳を握る。ただそれでも、やらなければならない。「暁の巫女」たる少女を救い出したい気持ちに偽りは無く、そして計画段階には凛にはぐらかされたその言葉の通り、智という存在がある中で今これができるのは亮しかおらず、加えて、恐らく先程の様子から見る限り、亮に与えられた時間の余裕はそう多くない。
せぇーの。
 胸中で掛け声をかけて、亮は肩に担いだ剣を両手で思い切り振りぬいた。その細身の刃が木板の小口に食い込んで、その衝撃に十字架全体がびぃん、と大き目の弦楽器のような音を立てて震える。
「……!」
 それに、十字架に縛り付けられた少女が息を呑み、大きすぎる歪なヘルメットに覆われた首を跳ね上げて、彼女には聞こえないのであろう振動音の余韻の中で心細げに身体を硬直させ、握った拳に血色が増す。
「っ……。大丈夫、大丈夫だぞ」
 そんな彼女の様子に、無駄と分かっていても亮はそんな言葉をかけずにはいられなくて、今度はできるだけ静かに、少女に衝撃を伝えないように、そろりそろりと、木の繊維の抵抗に逆らいながら剣を十字架の根元から引き抜き、そのまま足元に転がす。八割方刃に食い込まれた十字架の根元はもう素手で引き倒してしまえそうで、丁度少女の後ろ側から手を伸ばす。
「うおっ! とっと……」
 木板を掴んだ拍子、手の甲が少女の膝の裏辺り触れた。途端、彼女がそこから逃れようとするように身をよじって、その揺れに横に傾いた十字架を慌てて支えて、なんとか安静に地面に寝かせる。
 足元に、ところどころ乱れはあるものの、敷き詰められた玉砂利が淡く光を放っているような中、そのうっすらと白い光の上に寝かされた少女はやはり怯えたように身を硬くしたまま、その身を小さく震わせて、照明にくっきりと浮かぶ陰影は少女の口元を一層強張らせて見せる。その少女の頭のすぐ隣に亮は腰を落とすと、鉄化面にも似たヘルメットの脇に三つ並んだ留め金を、一つごとに少女が肩を強張らせてびくりと震える中、外し、反対側の蝶番で繋がれたヘルメットの前面に手をかけて、ああ、でも本当に、彼女になんと声をかけるべきなのだろうという自問への答えは出ないままに、それをゆっくりと開けて。
「亮……」
「……よう」
 苦し紛れに、そんな言葉で応える視線の先、きょとん、と呆けたような、あるいはどこか安心したような少女の顔があった。その瞼はどことなく重く下がったように見えて、そんなところに疲労の色がちらついて。
「鎖、外すぞ」
「……有り難うございます」
 反射的に身を起こそうとした少女が四肢を縛る鎖に動きを阻まれるのを見て、冷たく重い拘束具に手をかける。見れば、少女を縛る鎖は複雑に絡みついてこそいるものの解こうとしてできないほどのものではなく、それでも、決して尋常な負担ではなかったであろう智の責めに晒されてきて、その目元に浮かぶ以上に疲労しているであろう少女の身体を間違っても締め付けてしまわないように、丁寧に彼女を解放していく。
「……状況は、どうなっているのですか?」
 自由になった手でそれとなく着物乱れを正しながら身を起こした少女が、注意深く周囲を囲う壁を見渡す。その手が軽く、揉み解すように目元を押さえる。
「俺がここに戻ってくるのを助けてくれた人たちが外で戦ってる。この壁も、その人たちが」
「……それでその間に亮は私を、と言うことですか?」
「ん、ああ……」
 頷く亮に、「そうですか」と少女が応じて、心なしか視線を落とす。彼女の心情を慮れば、亮には迂闊にそこに言葉を投げかけられず、そのまま暫しの間があって。
不意に、ふふ、と少女が声で笑って、亮の予想もしなかった台詞を吐いた。
「亮も、その方たちも、心配性ですね」
「え?」
 思わず聞き返す亮を他所に少女は立ち上がり、今度は袴の乱れを正しにかかる。それに、亮は思わず言葉を無くしてただ彼女を見上げる。
「あのくらいの拘束なら『飛鳥』で抜け出せますし、傷の方も大したことはありません。ここまで気を回していただかなくとも、私は大丈夫ですよ」
「大丈夫って……」
もともとなんと言ったものかと悩んでいたのに、まず存外に少女の口調が軽く、穏やかで、疲労の色が薄いことに驚いて、それどころかよもや少女が「大丈夫」などというとは思ってもみなくて、本当になんと返したらいいのか分からず、仕方なしにその言葉を反芻する。
「何か?」
 少女は振り向かず、続ける。
「そうでしょう? 事実、私の身体には今傷一つ無い。こうして平然と立って亮と話をしていることもできる。どこに、これほどの防備を固める必要がありますか? それに、そこの磔架や鎖だって『飛鳥』で破壊できないわけが無い。そうしなかったのは、あれが智様によるものだったからですよ。『暁の巫女』たるこの私が、守るべき世界をそのままにして倒れるわけもなければ、智様に手向かうわけも無いでしょう?」
 その言葉はさも当たり前のことを語るように淡々と発せられて、ただ、それをそのままに受け入れるには、亮の意識にこびりついた少女の悲鳴と痙攣する身体は衝撃が強すぎる。今でこそ綺麗な少女の身体は確かに一度、目を背けたくなるような重傷を負ったところから緊急に回復したからこそのもので、今でも、彼女がどんなに袴の襞を調えたところでそれを阻む、両脛の部分に開いた穴がその名残を示している。それに、何より、その言葉自体にはもっと根本的な欺瞞があった。
 ただ、そうと分かってもその欺瞞をあげつらう事が亮には出来ない。自分の論の前提が破綻していることなど、少女自身にも知れているはず。その上でなお彼女が自分自身についた嘘を正面をきって指摘するような度胸も勇気も亮には無くて、もどかしさに唇を噛む。そして、
「……御免なさい」
 少女が折れた。
「流石に、無理がありましたね」
 声の調子は穏やかに、そういう少女の言葉に、亮は肯定も否定もしかねて無言で応じる。少女も袴から手を離すと、気持ち亮の方向から横に向きをずらして、居住まいを正して腰を落とす。
 少女の言ったことは、今までならなんら問題なく正しく、また彼女にとってはこれからも本来そうあるはずであった。全ての俗界を創り上げ、少女に「暁の巫女」の地位を与えた智に従い、「暁の村」を管理者として守り抜くことに全てを掛ける。たとえ彼女自身の命さえもその「全て」に含まれたとしても、そこには一応筋が通っていて、亮には付け入る隙を見つけられなかった。
 しかし、智が彼女の敵にまわったことで、その前提が瓦解した。今少女が管理者としての役目を全うしようとするならば智を撃退しなければならず、智に従い続けるならば「暁の村」を捨て置き、彼女自身も消えるほか無い。少女が自身の行動の両柱としていたものが、互いに干渉して妨害しあっていた。
「……身体は大丈夫なのか」
「ええ、それはもう、今言ったとおりで」
 沈黙が気まずくて苦し紛れに尋ねた問いに、少女が軽く微笑んで首を傾げて。
「そっか」
 そして、再び二人とも黙り込む。喋るのか、喋らないのか、中途半端に力んだまま動こうとしない自分の舌が亮には酷くもどかしくて、同時に無音の圧迫感に軽い眩暈のような心地を覚えて。そんな折
「やはり、私はもう必要とされていないのでしょうか」
 ぽつりと、少女の口から言葉が漏れだした。