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「私にはこの村の管理者で無かった頃の記憶がありません。というより、恐らくそのような時期がそもそも存在しなかった。きっと私は初めから今の私のような姿かたちで、この『暁の村』の管理者として智様に定められて存在していた。俗界を創られた智様に定められた『暁の巫女』こそが私で、だから他の呼び名など必要無かった」
 亮の脳裏に、名前を尋ねられて、名前は無いと答えた少女の姿が思い起こされる。その時にも彼女は似たようなことを言っていた。
「その名に恥じるところの無いように、私も管理者としての職務に忠実に生きてきました。不法にやってきて神界を侵そうとする輩は打ち払い、『村』が平穏であり続けるように気を配り、時折智様が訪れることがあれば身の程をわきまえて、出来うる限り忠実に尽くしました。稀に破った流れ人の苦し紛れの捨て台詞にどうして管理者などをしているのかと問われることもありましたが、私にしてみればそもそもどうしてそのような問いが生まれるのかが分からなかった。一度など、ならばどうしてあなたは足で歩くのですか、と問い返したこともありました。それほどに、そこに疑いの目を向けたことなど一度としてなかった。ですが……」
 視線を落とした少女の肩が強張る。
「ですがもし本当にもう智様が私を必要としていなかったのだとすれば、私はどうなるのですか? 私は『暁の巫女』であって、それ以外の何物でもない。その『暁の巫女』が他でもなく智様に否定されるならば、私は一体なんだというのですか? 私に何が残るというのですか?」
 誰へとも無く、少し語気の強まった声で尋ねる少女の問いに、亮は何も答えらない。
どれほど少女が「暁の巫女」たることを強く自覚し、また実践したとしても、その根底を確かに支えているのは、智にそのように定められたという事実でしかない。少女はそうあることこそが自分、とまで言い切る「暁の巫女」としての存在を唯一保証する智に否定されてしまえば途端に管理者としての彼女はその足場を失い、そしてそれは少女にとって、自分が自分である裏づけを全て取り払われたに等しかった。
ふと、ただ少女を見守るしかない亮の視線の先で、今度は一変して少女が「ふふ」と軽く笑った。
「どうした?」
「いえ……」
 少しだけ、視線を上げて少女が続ける。
「不思議な物です。今まで私は死自体を恐ろしいと思ったことなど無かった。もともと並みのことで命までは落とさない私のような管理者がそれでも死ぬような事があるとすれば、それはきっとどうしようもない私の力不足の故でしょうし、それほどまでこの世界のために戦えるならば管理者としては十分名誉なこととも思っていました。今回だって、自分の命のあるうちにどこまでこの『村』を守りきれるか、ずっと考えていました。それなのに、智様に目の前で屋敷を壊されて気をやって、次に気が付いたとき、何も見えず、聞こえない中でとにかく死が恐ろしくなったのですよ。管理者として死ぬことなら微塵も恐ろしいとは思わない。ですが、今私が死ぬとしたら、私は何として死ねば良いのでしょう? いえ、死ぬだけではなく、私は何として生きればよいのでしょう? 考えれば考えるほど自分の存在が揺らぐようで、まるでその揺らぎの具現のように身を裂かれるような痛みが体中を走って、そのまま自分が消えてしまうような気がするのが他の何にも増して耐えがたく恐ろしくて……」
 言葉を紡ぎ出すほどに、少女の顔に浮かんでいた微笑は深い沼に沈み込んでいくようにその影を潜めて、初めは穏やかさを取り戻した声の調子も再び落ち込み、かすかに震えさえ伴って、またも俯いた少女の両の拳が膝の上で、袴の生地ごと握り締められる。その手の甲に、二、三雫が落ちた。
 え……。
 「暁の巫女」が泣いていた。
傷を負ってなお、歯を食いしばって亮を守り、早く帰れとにらみを利かせ、あるいは自ら死地に赴くと名言しておきながら亮を平手打ちにした、時には無茶が過ぎるように見えるほど、断固として自分の道を進むかに見える少女が、声を震わせ、涙をこぼして泣いていた。
そして、それに亮は、亮自身が驚くほどに動揺していた。
その脳裏には反射的に、縁側で膝を抱えていた彼女の姿が連想される。あるいは、その思考は強烈過ぎる記憶として残る、少女の叫び声と痙攣する身体を思い起こす。しかし、それらでは到底、亮が落ち着きを取り戻すにはたりなかった。縁側の心細そうな少女の姿以上に、今目の前にいる彼女は、何か決定的な脆さをさらけ出して見えて、大概尋常ではなかった苦悶する少女の姿よりもよっぽど異常な光景が展開されているように思えた。
そして、臆病者の亮には、こんなときに自らの同様をさておいて気の利いた一言を投げかけてやれるような度量もなくて。
何か……、何か無いのかよ。
空回るばかりの何とか言葉を探そうとする思考に、腹立たしく奥歯を噛み締めて。
……ちょっと、まて。
思ったのとほぼ同時、とりつくろうように、あるいは気をとりなおすように、少女が控えめに深呼吸をして、目の下の涙を指の背でぬぐって、
「本当に、私はどうすれば良いのでしょう」
『私はどうすれば良いのでしょう』
少女の発言と、亮の回想とが完全に重なって、亮は小さく息を呑んだ。
その言葉を聞くのは二度目だった。一度目は昨晩、屋敷の縁側で「暁の村」の現状を訴えてきた少女が最後に心細そうに口を開いた時のこと。今ほどではないにしろ、膝を抱えて視線を落とした彼女の姿も十分、彼女にしては頼りなさげで弱弱しく、きっとその一言は何かしら助けを求めてのものであったはずで。そして流派その一言に、苦し紛れに開いた口で、何の役にも立たない言葉を吐くことしか出来なかった。
同じじゃないか。
現状も似たようなものだった。涙を流すまでに追い詰められて、再び助けを求めてきた少女を前に、亮は動揺するばかりで何も出来ていない。彼女の涙に感じた亮の印象に従えば、あるいは昨晩以上に酷いかもしれない現状に、度でも過ちを繰り返す自分への苛立ちで胃が引き締められるような心地がする。彼女の求めに応えられなかったことへの反省は昨晩のうちに済ませているはずで、その一環のうち、初めの一歩のつもりで彼女のために朝食を作りもしたのに、それがまるで活かされていない。
でも……。
幸い、当の少女と二人きり、周囲から隔離された空間に閉じ込められた現状では亮の自責もそれ以上先に進まず、意識が思考の泥沼に捕われることもない。その代わり、今は周囲に竈があるわけでもなければ、料理など悠長にしていられる場合でもなかった。目の前で少女は、亮の無言にも関わらず、俯いたままそれ以上の言葉を紡ごうとせず、それが一層亮の内心の焦りに拍車をかけて、その分だけ、本当に何をしたものかと思案を巡らす亮の思考は上辺だけを空回って。
「……っ!」
 丁度その時、地面が大きく震えた。凛の創造した壁によって辺りの様子は窺えないが、それが徹や凛と智との先頭によるものであることは明らかで。
「く……っ!」
 かみ殺した声に振り向けば、半ば立ち上がった少女が、自分は出て行っても良いのか、出て行ったところで何をするのか、丁度亮がそんな思考に足を絡め取られた時のように、進退窮まって立ち尽くしていた。それに追い討ちをかけるようにもう一度、大きく地面が揺れて、その振動に少女の膝が折れ、その場にへたり込んで。
「お……」
 咄嗟に腰を浮かせて、差し伸べた腕で少女の両肩を支えて、その掌に、彼女の肩甲骨の硬さが伝わって。
「……一緒に、神界に行こう」
 気付けば、何かに引きずられるように、その一言を、いずれ言わなければならない、亮の最大本来の目的を呟いていた。
 そして、いざ口にしてみれば、それは最良の選択に思えた。何ということは無い、少女が自分のまもってきた俗界を追われ、道に迷っているならば、新たに迎える場所があれば良い。そしてそれが確かに存在するならば、後はただ彼女をそちらへ迎えいれれば良い。
 しかし、それでも、そんな思い以上に亮は、思いがけずもたらした状況への緊張に意識の大勢を占拠されて。
「……は?」
 耳を疑う、とでも言いたげに少女が聞き返してくる。
「いや……、だから」
 予想は出来すぎるほどに出来た反発に、臆病な心が首をもたげる。しかし一方で、ここで退けば自分が何も出来なくなることは経験でわかっていて、それが許される状況にない事も明らかで、亮は何とか怖気を抑えつけようと下腹の辺りに力をこめて。
 そんな胸の内に、まだ記憶に新しい感覚が蘇った。
 それは、ある手目に対していたときの感覚。緊張はしているのに、それが同時に高揚感にかわって、足がと待ってしまうことの無い、亮には不思議で新鮮な感覚。あの感覚を、勢いを自らのうちに再現できれば、まだ疼き始めたばかりの怖気など簡単に押さえ込める気がして。
『意気地なしの臆病者』
思い出した智の言葉に、意識を元の高さまで引き戻される。あの時の高揚感は、決して亮の力でなければ、亮の力によってもたらされたものでもない。単に凛からもらった力に浮かれた亮がいい気になっていただけで、実際の亮は傷つけられる少女を目の前にして何も出来ない臆病者のままだ。それを思い出した途端、蘇りつつあった高揚感はそれまでの倍の速度で一気に冷え込んでしまって、それに比例するように舌も重くなったように感じられて。
「……亮?」
 言葉の途中で黙ってしまったことに、流石に少女が怪訝そうに声をかけてくる。その声に振り向いて、初めてまた自分の視線がいくらか下に落ちていたことに気が付いて、そんなところに内心でうんざりしながらも、こちらをのぞきこんでくる少女の目を視線を合わせて。その少女の睫毛がかすかに濡れていた。思えば先程まで泣いていたのだからそれは当たり前のことで、それでもどこか艶めいて見えるそれに一瞬視線を奪われて。その流れで、はた、とどこか重そうに見える彼女の瞼に目が行った。初め亮は、眠そうにも見えるその瞼を、疲労のせいだろうと考えた。しかし今、ふと別な可能性に思い当たった。
 これは、瞼を泣き腫らした結果ではないのか。
 何も見えず、聞こえず、ただ痛めつけられることがどれほど恐ろしかったかは、既に少女自身の口が語っている。ならば、それを思い出しながら涙を流す彼女が、ただ身もだえ、叫ぶばかりでいたであろうか。あの鉄仮面のようなヘルメットの下で、人知れずずっと涙を流して耐えていた、その結果がこれではないのか。
「ちょっと、待って」
 「どうかしましたか?」と尋ねてくる少女に断って、一つ、生唾を飲み込む。
 アルテメネと戦っていたときの高揚感が真に亮のものであったか否かなど、今はまるで問題にならない。今必要なのはもっと別なことで、そんなところで一人で亮が二の足を踏んだところで、なんら問題は好転しない。危うく、亮はまたここでも昨晩と同じ過ちを犯すところだった。
 その内実がどうであったかは別にして、亮の中には、あの、緊張感はあってもそれに怖気づいて足を止めることは無い、独特の興奮の残滓が残っていて、それを再現できれば状況を一つ先へ進められる。今はそれだけで十分であるはず。
「もう一度言うぞ」
「……はい」
 どんなにアルテメネと戦ったときの感覚を思い出したところで怖れや緊張が消えるわけではなく、むしろこれからその中央に飛び込んでいこうというのだからなおさら臆病な自分自身からの抵抗は大きくて。それでも、亮に合わせて心なしか背筋を伸ばした少女に全力で意識を集中して、抵抗感からは必死になって目を背けて。
そして亮は、最後のためらいを吹き飛ばすつもりで、胸いっぱいに息を吸い込んで、
「一緒に、神界に行こう」
 言った。