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 反応はすぐにあった。
「自分が言っていることの意味は、お分かりですか?」
「勿論」
「馬鹿な!」
はっきりと頷いてみせた亮に、一度は声のトーンを落とした少女が吐き捨てる。
「仮にも管理者を務めてきたこの私が、自ら率先して神界と俗界の別を破るなど、ありえません! 論外です!」
 正面から反発してくる少女の言に、妙に口の中に唾がたまって、それに舌の根が絡め取られて痺れるような心地がして、それに抗おうとするほどに、心臓を握られたかのように動悸が激しく感じられ、息が詰まるような気がして。
「じゃあどこか別の俗界ならいいか?」
 それでもその圧迫感を逆にそこから逃れようとする勢いに変えるつもりで、舌が動かなくなるよりも先に次の言葉を紡ぎ出す。
「いいわけがないでしょう」
 そして、それに応える少女の声はやはりにべもない。
「どのような俗界であれ、その外からの来訪者の存在を授与すれば、それだけその世界の本来の姿からは外れます。それ故に管理者は流れ人を許さない。まして私が流れ人と同様の異端に成り下がるなど、許容できるはずがありません」
「……じゃあ」
 その先を口にしたときの返答は分かりきっている。それでも、ここで少女への問いを止めてしまえば、亮の意識の足は止まり、底なしの、内向きの志向の渦に落ち込んでいくことも明らかで、珍しく外への発露を惜しまない意識の勢いを殺がぬよう、亮はあえて続きを問うて。
「じゃあ、どこならいいんだ?」
「……この暁の村のほかのどこに、私の居場所があるというのですか?」
 少女への配慮と言うよりは、そこまでの自己主張を亮自身ができないがために、穏やかな口調になった問いに、僅かな間を置いた少女は予想通りの返事をよこした。
「言ったでしょう。人には従うべき本分という物があります。そして、私にとってそれは、智様の命に従い、『暁の巫女』として管理者の努めを全うすること。亮、私にはそれしかない。他に、何もないのですよ? それなのに守るべき世界を自らはなれるなど、ありえないでしょう?」
 そういった少女には、それが現実との間にあまりに大きな齟齬を生じてしまい、もはや何の役に立たないと知っていてなお、惰性などではなく、ただ純粋にその言葉にすがるほかに自らを支える術がなくて、その顔では微かながらにも目元、口元を震えていて。
「……違うだろ」
 ついに亮の心情が耐えかねて、いつになく回りの良い舌にその言葉を乗せた。
 初めから抱いて拭いきれない違和感だった。
 自らを「暁の巫女」という枠だけに押し込めて、必ずかく在らねばならぬと自律する少女の態度、人が必ずある在り方をしていなければならないという考えを、亮は大枠の理解こそ出来ても、ずっと共感できなかった。目の前に未知かつ恐らく望ましい結果を導く道があったとしてもそこに一歩を踏み出す勇気の持てない亮には、その道を進むだけの力を持ちながらそれを完全に封じ込め、それが最後の逃げ道となってなお近づこうともしない事がまず感覚的には信じられなくて、それでいながら今にもまた目尻を涙に濡らすのではないかという様相を呈して立つ少女を前についにその違和感が頂点に達して、言葉が漏れ出した。
「他に何も無いだなんて、そんなわけないだろ」
「……何を言い出すのですか」
 対する少女の方も、数度目を瞬かせて、まるでその意図が分からない、とでも言いたげな怪訝な表情を新たに顔に浮かべる。
「『暁の巫女』として生まれ、『暁の巫女』としてのみ生きてきた私に、一体他に何があるというのですか」
 だから……。
 もどかしさに苛立ちまで混ざる中、訂正の台詞をわざわざ再び口にするのも馬鹿らしく、かわりに亮は意識を軽く記憶の中に巡らせて。
「例えば、昔俺と初めて会った時」
 反例は、思った以上にすぐに出てきた。そもそも亮の中で、今少女自身が言うような「暁の巫女」としての彼女は、なにか自分ではどうしようもない疎外感こそが第一の印象となる相手で、それだけならば亮が四年以上も心のどこかしらで彼女を気にかけることも多分ありえなくて。亮の中には、それはもう引き出し始めれば切りが無いほどに、「暁の巫女」ではない「暁の巫女」たる少女の姿があった。
「初めて俺と会った時、林の中で水浴びしてたのは、管理者の仕事か?」
「……例え管理者とて、食事もすれば睡眠も取りますし、入浴だって当たり前にします」
 応じる少女の声には、そんなことか、と言ったようなため息混じりの響きがあって、その反応につい亮は身構える。
「風呂に湯を張る手間をかけるだけ、管理者としての職務がおろそかになることをさけての……」
「じゃあ、昔俺と一緒に村のいろんなところを散歩したのは?」
 少女のそれ以上の言葉を封じて、次の記憶にピントを移す。
 それでも、少女の反応は変わらず。
「当たり前でしょう。いくら神界からいらしたとはいえ、当時の亮は私にとってまるで見知らぬ部外者。目の届く範囲においておくのは当然ですし、ついでに村の整備と警備もかねられる」
「じゃあ俺のつくった朝飯一緒に食べたのは?」
「食事は必要だといったでしょう。その上で、どうして作っていただいたものが有るのに、新たに何かを作る手間をかける必要が?」
「昼間と夜に二人で話したのは?」
「異常の中、情報があるならば、手に入れておくに越したことは無いでしょう」
 繰り返される質問に少女はまるで既に回答を用意していたかのように言葉を返してきて、いささか屁理屈じみて聞こえるその中身も、あながち本当なのではないかという焦りが僅かながらに亮の内に芽生え、応じて亮の尋ねる声は早口になり、少女の言葉に声を重ねる様にも次第に余裕がなくなって。
「じゃあ何回も俺のこと助けてくれたのは? それも、今日俺が一回帰る前なんて、他の流れ人無視してまで飛んできたじゃないか」
「当然でしょう。神界の住人の肩に危害が加わったとあっては管理者の名折れ。あなたに限らず、神界からいらした方を危険に晒し続けるなど管理者としてありえませんよ。私も初めて貴方と出会った時、そうと知らずに神界の方を張り飛ばしてしまったことで随分苦心しました」
 少女が言い切った。そこに、今度は亮の言葉が重ならない。
「……全部、ですか?」
 控えめに少女がそうたずねてきて、そこに
「……じゃあ」
若干遅れて被さる亮の言葉に、少女の言葉が再び対手の様子を伺い待ち構えるような、心なしか硬いものになって。
「じゃあ、お前の肩を掴んだ俺を平手打ちにしたのは?」
 一目で、その問いの効果が分かった。
 管理者は神界から来た人間の身を守ることもその職務とするならば、管理者自ら神界人に手を上げるというのはどうにも説明がつかない。それでもなんとかそこをおさめようとするように、少女はしばらくその上下の唇をつけたりはなしたり、何か言葉を発するような素振りをみせたりもして。
「……ごめんなさい。痛かったですか?」
「ん……まあ、そこそこに」
「ああ、それは本当に御免なさい」
 折れた少女が言葉を区切り、軽く息をついた。
「亮の言うとおりです。あれだけはどうしても管理者としての道を外れていました」
 その一言に、亮の方でも胸中の不安感が薄れて解放感に変わる中、細く小さく嘆息する。それを待つように、あるいは自分の中で言葉を選ぶように、きっかり亮の細い呼吸音が薄れて途絶えるまで少女は口を閉じていて。
「もともと、亮、貴方は私にとって、撃退すべき流れ人でもなければ、従うべき智様でもない、初めての、特別な相手でした。正直に言えば、あなたがこの村にいてくれるだけで妙にいい気分がして、嬉しかった」
「……うん」
 唐突な、取りよう次第では随分と意味合いの変わりそうな告白に、亮の心情が現状も忘れて僅かに揺らぐ。
「しかしそのあまりに管理者としての職務を忘れてはならない。いつであれ、管理者としての道から外れてはならない。そう思って、他の管理者としての職務外の事同様かそれ以上に、貴方と、あるいは貴方にしたこと全てに常に暁の巫女として漏れなく筋を通してきたつもりだったのですが……、アレばかりは駄目だった」
 少女が悔いるように下唇を噛んで、しかし一方ではどこか切なげながらも確かな笑みを目元に浮かべ、ゆっくりと左右に首を振る。
「一刻も早く亮には安全な場所に逃れて欲しいのに、なかなか亮がかえろうとしないものですから、あれ以上放っておくとこちらまで離れがたくなりそうで、つい、手が出てしまいました」
「ごめんなさい」と少女は頭を下げて、慌てて制止する亮にかまわず、ゆっくりと視線を上げる。そして、
「しかし、それで?」
 つづけた。
「たしかに管理者らしからぬところは私にもありましたし、雑念も混じったかもしれませんが、それはただ失態、余剰でしかない。そんなもの、誰も求めてはいませんよ。そんなところに、なんら価値などありはしない」
「……なんでだよ」
 躊躇いつつも、その言葉を聞き流すわけには行かなくて、口を挟む。亮にしてみれば、思いがけず、少女が雑念と呼んだ思いの内を知れたことは嬉しくて、正直今亮の意識の中でそのことの占める割合が大きいのは紛れもない事実で。しかし、それをさておいても、水の雫をその肌の上に転がして息をついてみたり、湯のみの中身をすすりながらうっすらと微笑んで見せたり、あるいは初めて知る料理の味に頬をほころばせてみたりする、当たり前に人間染みたところが彼女にはあって。
「それが、お前だろ。『暁の巫女』ていう器を越えた、お前自身なんじゃないのか。余計だとか、失態だとか、そんなんじゃ、無いだろ」
 亮が時折、傷つき血を流す少女の背中を思い出して悔しさに拳を握り締めたのも、泉に晒した少女の生身の背中を思い出して人知れず頬を緩めたのも、その根底にはそんな日常の彼女をこそ想い、守りたいと願ったからであるはずで。それを不要な物と一括されていい気がするはずも無く。
 それでも、彼女は自分に厳密で、ひいては亮にも手厳しかった。
「それでも、それは誰にも求められていない。初めから管理者として在るという目的を持って求められた私が、勝手に別な物をそこに持ち込んで、それがどうして余計でないなどと言えますか?」
 なんといえば彼女が納得してくれるのか、点で分からなかった。
 少女が、智に特定の目的をもって作られた存在であるが故に否定する、その目的とは直接の関係を持たない人間性は、管理者もあくまで人間として創られていることを考えればむしろ持っていて当然の物。ただ、それを行使する環境にない世界に在って、いまや自らの存在価値を模索し、声高に叫ばなければやっていられないまでに追い詰められた彼女にとってそのようなことは知る良しも無い。それは亮にとっても同様で、彼から見れば物心がついたときから当たり前に保持し、謳歌してきた物に対し、突如その価値を証明しなければならないところに追い込まれたところで全く、どこから思考すれば良いのかも見当が付かず、いまやいつ、底のない思考に意識が捕われてもおかしくないところまできていて。
「誰かに求められて生まれたものに誰にも求められていないものが付随したとなれば、それは余分なのですよ」
 辛うじて外向きの志向性を失っていなかった亮の意識が、その一言を捕まえた。
 まずは、すぐさま脳裏に少女の言への反論が浮かび、直後には、多少屁理屈じみるかも知れないが、その反論が一つ、答えとなりうることに気付いてしまった。
 ただ、真顔でそれを言うには亮はあまりに臆病だった。
 意識の大勢が思索に傾いた今では亮の舌もその滑らかさをどこかに置き忘れて、舌先が口の中で上に下に、前に後ろに彷徨って。時間を掛ければ掛けるほどに鼓動が早くなるような気がして、肺がいくらか縮まったかのような息苦しささえ覚えて、それに抗うように目一杯息を吸い込んで。
 そんな亮に、到底、平常心と呼ばれる状態でその言葉を口にすることなどできるはずも無かった。
「……俺が、求めてる」
 だから、胸が苦しくて、頭は重く、平衡感覚が薄れたように思えて、四肢の先はどこかしびれているのではないかと言う、そんな状態で、亮は言った。
「誰にも求められてないなんてこと、ない。さっきも言ったけど、俺はお前が『余計だ』っていうあれこれ全部ひっくるめてお前だと思うし、そういうものまでひっくるめたお前に、俺は死んで欲しくないし、助けたい。……ああ、なんか違うな」
 多分ここで言葉を止めればもう再会できない。不慣れなことに、そんな圧迫感を感じて、思考がまとまるよりも先に言葉がなすがままに流れ出して。
「確かにお前は『暁の巫女』で、『暁の巫女』だったから今のお前なのかも知れないけど、『暁の巫女』だけがお前じゃなくて、『暁の巫女』じゃなくなってもお前で、俺は『暁の巫女』じゃなくてお前のことを助けたいんだ」
 そして気付いてみたら、自分でももう何を言っているのか分からなくなっていた。それでも、やはり止まることは出来なくて。もう、後は半ば自棄のようなもので。
「だから、一緒に神界に行こう」
 言い終えながら、失敗したと思った。言葉が宙を彷徨って、いまいち要点をついていない。しかしもう、これ以上言葉を吐き出すだけの気力は残されていなくて、言いたい事が伝わっているように、祈るような気持ちで少女の両目に視線を合わせる。
 対する少女の表情には、あからさまに状況を理解し切れていない困惑の色が浮かんでいて、どこから何を言った物か、と言った封に小さく開いた唇はそのままに、呆然と行った呈で亮の目を見つめ返してくる。
 その奇妙な緊張感をかき消すように、一際大きく地面が揺れた。
「うわっ」
「……っ!」
 亮と少女とはそれぞれに足元をふらつかせて、直後、それぞれ踏みとどまりながら、亮の両手は少女の肩を支え、少女の両手は亮の胸を支えていて。
「っ……」
 いささか慌て気味に手を離す亮に対して、少女は特別かまうことも無く、壁に隔てられた向こう側に目をやるように振り返る。
「外にいるのは、亮を助けた方でしたか?」
「ん? うん」
「その方々に、十分な勝機があったと、亮は思いますか?」
「……や、あんまり」
 意図の知れない少女の問いに、記憶を探ってから一応は答える。と、「そうですか」と少女は頷くと、その右手をすっと前に突き出して。
「ならば、行きましょう。今の揺れ様は尋常でない。恐らく、助けに入らなければならない程に」
「いいの……か?」
 尋ねたのは、外にいる智への対応のことがあるから。見れば少女もそれは重々承知と見えて、その逡巡が一瞬だけ表情に表れて。それをかき消すように、少女は一度目を閉じた。
「ええ。正直、私もまだ整理が付いていませんし、亮の言ったことも理解しきれていませんが、状況が状況、ここでただ座り込んでいるくらいなら、ひとまず貴方を信じるべきか、と、そう思ったので」
 言いながら、少女の右手には強烈な光が宿り、その中で次第に赤、白、青、黒の四色に分化していって。
「……行きますよ?」
 肩越しに少女が振り返ってそう問うてくる。それに、亮は未だ不安定なままでいた心がいくらか落ち着きを取り戻すのを感じて。
「ああ、行こう」
 そして、「飛鳥」が内側から、凛の創造したピラミッド状のシェルターの壁に放たれた。