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「そら、腹ががら空きだぞ!」
 巨大な獣の身体が宙に放物線を描き、そのまま墜落して辺りの玉砂利を撒き散らして、跳ね上がった砂利がいくつか、四肢に当たって弾かれる。
「これでもう何度目だ? 他人に空飛ばしてもらうのがそんなに面白いか?」
「うるせえな……」
 悦に入った高い声で笑う智に、悪態をつきながら立ち上がる徹の、首の後ろに豊かに蓄えられた毛の中に埋もれるようにうつ伏していた凛が、きっとにらみつけた視線の先に右手を振るい、投げはなったスローイングナイフを空中で肥大化させる。
「また、それか」
 自身目掛けて飛び掛ってくる刃を眺めてつまらなそうに呟く智の死角となるその背後には、ちょうど彼の立つ位置に鏡でもおかれているかのように、凛の投げはなったナイフと対称な起動、同じ速度で飛び掛る別のスローイングナイフの姿があって。
「分かり安すぎるんだよ」
 言った智の身体が一瞬、意識から切り取られたように消え失せて、次の瞬間には空中で衝突した二振りの刃が、切先同士を飲み込みあうかのように、崩れて風に散っていく。
「いくら後ろが死角だからって、前か後ろかしか狙ってこないなら何の意味も無いだろう」
 自分が立っていた空中の真下に当たる地面に足をつけた智の声にはっとして徹が見下ろしたのと、智の振るう指の動きにあわせて二筋の水流が放たれたのがほぼ同時。
「徹っ!」
「間に合う!」
 応じるや否や、力強い後脚で玉砂利を蹴散らしながら徹が飛び上がり、その後を追うように、さながら鎌首をもたげた蛇のように捩れた水流を、凛が後方に張り出した白銀色の壁で受け止め、受け流す。
「大丈夫?」
「ああ……この程度、どうってことない」
「……そう」
 そういいながらも、いいかげん疲労感の溜まった筋肉に、徹が四肢を軽く振るう動作を凛は見逃さず、しかしすぐさま視線は油断無く智の方に向けて、短く応じる。
 徹には、文字通り人間離れした強靭な肉体こそあるものの、逆にそれしかないが故直接突撃していく以外に能が無く、凛には徹など到底及ばない、能力者としての力があるが、それで間に合わないような状況に追い込まれたときに彼女の身体能力は頼りなさ過ぎる。その欠点を相互に補いあうために行動の多様性を犠牲にしたのが、凛が獣と化した徹にまたがるこの戦闘姿勢であったが、これは徹への負担が、二人が別個に行動するのに比べて確実に大きかった。比率にして蚕豆と人の拳ほどの大きさの差がある二人が固まっていれば、当然攻撃は徹に集中し、また移動も全て徹が足となってなされるため、疲労も溜まりやすくなる。いかに徹の獣としての身体が現実のものではないとはいえ、そのまま行動を続けるには限界があった。
「つくづくしつこいな。良いだろう、いい加減、あの壁を取り払っても」
「良いわけないでしょ!」
 下方に見える、「暁の巫女」と亮を守る、ピラミッド状に組み合わされた白銀色の壁を見下ろしながらいう智に、凛が刃を投げ放つ。それ水流で弾き飛ばして、智はあからさまなため息をついた。
「何でそんなにアレを気にかける? ここに固執するしか脳のない頑固者と、手のつけようの無い臆病者だぞ? 何か面白い事があるわけでもあるまい」
「お前の基準で物を語るな!」
 今度は、徹が叫び、飛び出した。正面にむき出しにして突き出した爪は難なくかわされ、勢いを殺して踏みとどまったその背後を狙う水流を受け止めた凛の壁の表面から、その水流の中を割っていくように細長い刃が創造され、すぐさま飛びのいた智の姿を追えず、空しく突き出されたまま、その中程から水流に叩き折られる。
「……やめだ」
 重低音を響かせて地に落ちる刃の残骸を見送った智が、言った。
「追いついてきて、いくらかマシな動きするようになったかと思えば、消耗が早すぎてまるで話にならない。もう、わざわざ相手をしてやるだけ馬鹿馬鹿しい」
「こ……っ」
「動くな」
 踏みとどまった徹の前肢のすぐそばを、氷柱の槍が駆け抜けていく。
「もう面倒だ。あの壁を叩き壊して、最後にもう一遊びしてここは畳む。お前達は割りと大事な労働力だからな、もう諦めてさっさと帰れよ」
「勝手なこと言わないで!」
 叫んだ凛の手には掌におさまりそうな短剣があって、その刃が一瞬で智の肩口を目掛けて伸びて。
 もはや何も言わず、ただ智が作り出した氷の塊に突き当たり、歪曲して折れて、入れ替わるように、同じく一瞬で伸びて来た氷の槍を上方に飛び上がって徹はかわして。
「それでいい」
「あ……」
 言いながら智が一瞬で五本、寄り添うように創造し、直後には亮と「暁の巫女」を守るピラミッド目掛けて解放した水流の行く手を阻む術は徹にも凛にも無くて。かすかに雫の尾を後に引きながら、揺らぐことなく真っ直ぐに、その先端は白銀色の壁の中央の一点を目指して突き進んで。
 ぴき
 と、その水流の一つも壁面にたどり着くよりも先に、そこに勝手にひびが入って、
 ひょうっ
 内側から、黒くくもった感のある光の塊が、鳥の姿を模して飛び出し、飛び去っていった。
「何……?」
「ほう?」
 凛が眉を潜め、徹は身構え、智は面白そうに低く呟いて、三人分の視線が集まる中、歪ながらも放射状に刻み込まれたひびにそって壁は崩れ落ち、ピラミッドの一面が完全に剥ぎ取られたような形になって。
 そこから、腰紐の上下で紅白に分かれた、巫女装束そのままの姿をした人影が駆け出してきた。その姿はまるで背後の何にかから逃げようとするかのように、下を向いたまま、長い黒髪が乱れるのにもかまわず、とにかくただ全力で走っているように見えて。
「なっ……!」
「ハハッ! あの臆病者め、何か馬鹿なことを言って手ひどく振られたか!」
 思わず驚嘆の声を漏らす徹を他所に、笑う智が水流の向きを変え、走る人影を斜め上方から狙い打とうとして。
「っ……間に合えよ! 凛!」
 身体をよじって飛び出した徹の上から凛が水流のいく手に創造した壁は状況の忙しなさによる意識の集中の欠如から強度に欠け、次々と創造される壁をさながら紙切れのように水流は突き破って。
「掛かったな!」
「……っ!」
 その声に、智が目の色をかえて、水流の向きを変えた。
「つぁっ……!」
 それでも、勢いのついたまま目標の間近まで迫った水流は完全に人影を避けることは出来ず、二の腕を切られた痛みにくぐもった悲鳴を上げた人影がその場に倒れる。その声は、誰の耳にも明らかに少年のそれに聞こえて。
「何で!」
「じゃあアレはまだあの中か!」
 凛の悲鳴の裏で声を弾ませる智が、再び水流をピラミッドの内部目掛けて放つ。今度こそ、その軌道は揺らぐことなく真っ直ぐに、四面体に一箇所だけぽっかりと空いた空洞目掛けて突き進んでいって。
「一番先頭を狙え!」
 そこに、巫女装束を真似ただけの簡単な衣装と、細く長い黒い糸を山ほど集めて束ねたような簡単な鬘のようなものを、彼本来の服の上から身に着けた亮が叫んで。
「赤白青黒四色の鳥 四方より集いてこれを払え 飛鳥!」
 直後、口上と共に壁の内側から放たれた光の鳥に、亮の言葉どおり、その先頭を射抜かれた蛇のような水流が、皆一様に、まるで水風船に針を突き刺した時のように、一斉に弾けて散って、辺りに水の雫を撒き散らした。