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 突然の出来事に智は歓喜の笑みの残滓のような物を僅かに、不気味に頬のあたり残したまま動かず、亮も、「飛鳥」を放った「暁の巫女」たる少女も、何も語らず、動きもしない。それは徹と凛にしても同じことで、奇妙な静けさが辺りを覆った。
 さすがと言うべきか、凛が亮と少女を守るために創造した壁は、四羽をまとめた「飛鳥」を持ってしても一度では破れず、二度目でも内側に小さく亀裂が入っただけだった。そして三度目にかかろうか、という折、ふと亮が少女を制止した。
 外に出て行ったところで、智に対して何も打つ手が無いのでは話にならない。どうにかして、あの触手のように動き回る水流に抗わなくてはならない。その方法を、先に考えなければならなかった。
 しかし、どうすれば良いのか。亮も、少女も、智に対してまともに抗えていないし、それだけの力があるとも思えない。ならば、どうすれば良いのか。
 その自問に答えらしい答えは見つからなくて、その代わりに一つだけ、打開策が思いついた。
 智が操っている物は、紛れもなく水だった。それは五感で感じて判断した、と言ったものではなく、亮が知識として確実に知っているもの。智の攻撃の最中、凛の説教を聞いている最中、ふとかぶった智の水の雫に触れた瞬間分かった事実。
 そしてまた、少女の「飛鳥」は亮の知るような科学法則では説明しようの無い、ただ純粋な破壊力の塊だった。それも、一度智によって気を失わされた後、右腿の脇を「飛鳥」に掠められた瞬間に知ったこと。
 誰に聞いたわけでも、何を読んだわけでもないのに、突然知識が頭の中に飛び込んでくる。奇妙すぎて、亮自身にもいまいち信じがたいその感覚も、ここまでくると本物と信じないわけに行かなかった。それだけの現実味が、その既知感には伴っていた。
 しかし、本当に「ただの水」だけだろうか。本当にその通りなら、亮には到底智に太刀打ち出来る気がしなくて、だから、行き止まりの可能性から目をそらすために、何とか他の可能性を思いつこうと頭を捻って。
 ならば、確かめれば良いではないか。
 ふと、そう思った。
 事情は分からない。しかし自分は誰かが創造したものに触れることでそれそのものについての知識を手に入れられる。それを智の水流にも用いられないだろうか。
 考えてすぐに怖気が襲ってきて、胸が絞まるような心地がした。屋敷を叩き壊すほどの破壊力を持った水流に触れるなど、恐ろしくないはずが無い。しかしすぐ、智は亮のような、神界から来た人間に死なれては困ると言っていたことを思い出す。また一方で、きっとあの調子なら、再び「暁の巫女」たる少女が目の前に表れれば、必ずまた彼女を標的に選ぶはず。ならば、亮が彼女に変装して飛び出していって、途中で正体を明かせば、致命傷にはならないままに智の水流についての知識を得られるのではないか。
 いつもならば、初めに怖気を感じた時点で思考が止まってしまって、とてもここまで考えることなどできず、まして到底実行になど移せるはずも無かった。全身が固まってしまって、意識の方向を問わず、身動きが出来ないのだ。
それなのに、今回は少女を説得できたことへの達成感があった。緊迫感と硬直とを直結させない、あの奇妙な感覚もまだ残っていた。そして、せっかく少女の説得に成功したのに、ここで立ち止まっていては帰れない。帰るためには智をどうにかするほか無く、そのためには今のところ他に手が無い。そう、筋を通すことが出来れば立ち止まらず、緊張をそこに乗って進む推進力に変えることが、まだ今の亮には出来た。
 ただそれでも、万が一盾を展開してしまって正体が露見することの無いように、襲われるであろう方向には目も向けず、ただひたすら走り抜ける、というのは想像以上のプレッシャーがあって、今更ながら、身が震えるような心地がした。
「大丈夫ですか、亮」
「ああ、ちょっと痛むけど……」
 控えめに、しかし早足で歩み寄ってきた少女に応えつつ肩の傷を見やる。実際、深手とは言わないにしても掠り傷と呼ぶにはいささか無理がある傷の程度に、血はすぐに止まる気配は無い。それでも、アルテメネに負わされた足の傷やら、智に蹂躙されていた少女のことを思えば、大したことはないと思えた。それに、亮が脱いだ、元は少女が新たに想像した巫女装束の白衣を裂いた布で少女の細い指が傷口の辺りを縛ってくれるのは、どうしてなかなか、悪い気がしなかった。
「……どう、なってる?」
 そんな中、静寂を破った徹の言葉に、亮は少しだけ息を整えて、応えた。
「あの水の蛇みたいな奴は、分銅をつけた鎖のイメージで出来てたんです」
仮に全ての水流の動きを意識だけで操ろうとすれば、重力に逆らい続けなければならない手前水流のあらゆる部分の場所、動作を完全に認識し続けなければならず、とても何本もの水流を高速で動作させることなど敵わない。それゆえ智は、触手のように伸びだした水流の最先端の一塊を、自分が用いた鎖つき分銅の分銅のイメージに重ね、それ連なる鎖と同じ軌道で、あとに続く水流を想像した。そうすることで、智が多少水流から意識をそらしたとしても、水流は与えられた軌道に従って動き続ける。その代わり、その先端の分銅にあたる部分を破壊されれば、先導を失った鎖は勢いをなくし、その場に崩れ落ちるほか無い。
「……凄いな。そんなこと分かるのか」
「凛の盾のせいだな」
 徹の言にかぶせるように智が口を開いて、他の四人に緊張が走る。
「想像した何かを実際にこの俗界に投影する時、想像している人間の脳と俗界のを管理するコンピュータの間には、想像した情報を送り込むためのブリッジをまず作ることになる。普通このブリッジは実際に必要な時だけ随時形成されるから、形成されている間はフル稼働してそうでないときはそもそも存在しない事になる。ところがそこの臆病者の行動に反応して自発的に展開するあの盾の場合、発動用件がそろったことをすぐに感知できるようにブリッジは常に作られていて、それを通じて常にコンピュータがセンサーを張っている。この場合、情報のやり取りは可能な状態にあるのに、情報のやり取り自体は極端に少ない。そんな時に他人の創造物に接触することでそれを知覚すると、余力のあるブリッジを通して余計な情報まで知覚されるわけだ」
「……随分親切だな。ひょっとして諦めがついたか?」
 獣の口にかすかに笑みを浮かべて、徹が挑発しつつ、身構える。その背中では凛が自分たちを守る壁をもう一度創造しなおし、手には小刀を二振り。「暁の巫女」たる少女も躊躇いがちに身構えて、亮も多少、重心を落とす。
 それを、智は目を細めて見下ろして。
「そんなわけが無いだろう。正体が知れたところでお前達に対処のしようがあるはずもないのに、何を諦める必要がある?」
 いいながら、その足元に創造した小さな渦巻きはすぐさま成長し、軽く四十は越す数の水流の触手となって、
「そら」
 智が右の人差し指を一振りしたのを合図に、圧倒的な水流はその全てが真っ直ぐに空を目指して立ち上り、徐々にその速度を弱め、そして、投げ上げられた分銅の動きそのままに、さながら大津波のごとく亮たち目掛けて降り注ぐ。
「もっかい先頭!」
「赤白青黒四色の鳥 数多集いて虚を満たせ 飛鳥!」
 光の洪水のようになった無数の「飛鳥」が水流群を迎え撃ち、その先頭を破壊する。直後、
「それで、どうする?」
 智に言われて、亮は初めて気が付いた。水流が真上から降り注いでいるのであれば、その先導となる先頭を破壊したところで重力に従う水の勢いは止められない。
 早すぎた「飛鳥」に飛躍を妨げられた徹の巨体が水流から逃れるにはもう遅すぎ、互いに交じり合って亮たちを包み込んでなお余りありすぎるほどの塊となった水流は、水平方向に逃げるにも、凛の壁で受け止めるにも無理があるように見えて。
 どうする……っ!
 亮と少女とは、既に展開した盾の中に居るからいい。その中に納まることの出来ない徹と凛の方に、亮は目をやって。
「調子に乗るのも大概にして」
 軽く呟いた程度のその声は亮には聞こえず、ただ凛の表情に焦りの色がない事に驚かされて、次の瞬間、
「消えろ!」
 叫んだ凛の声を合図に、膨大な量の水流が一瞬にして消え失せた。
「先頭叩かれて崩れるっていうことはその時点であんたの支配下には無いんでしょ? だったらそんなものただ創造されたまま更新されてないただの水よ! 何にも怖くないわ!」
「そういうこった!」
 水が消えた瞬間に飛び出した徹の巨体が爪をむき出しにした前肢を智に向けて振りかざす。その身体を取り囲むように氷柱の刃が宙に創造されたかと思えば、すぐさまその内側に凛が筒状に白銀色の壁を創造し、氷片を全て弾き飛ばす。その最中に智の立つ高度より高くに飛びあがった徹の身体は智の方へ落下を始めて。
「……で?」
 智と徹の間に巨大な氷塊が生まれた。それは、丁度中心に棘を備えた盾のように、智の身を守りながら、一方では巨大ながらも鋭い切先で徹の行く手に立ちふさがって。
「このっ……!」
 正面に凛が新たな壁を創造する。と、巨大な氷柱がさながら筍のように成長してそれを突き破った。氷の伸長は止まらず、そこへ向かう徹の巨体の落下も止まらず、徹がかわせないいならば叩き壊そうと、腕を振り下ろす先の照準を氷柱の先端に移す。
 そこに、
「飛鳥!」
 少女の声が響き、光の鳥が両者の間を駆け抜けて、氷塊を貫いた。その切先を、そして何より土台であり、智を守る盾でもあった氷板を破壊された氷柱は徹に危害を加えることなく崩れ落ちて。
「そら、歯ぁ食いしばれよ!」
 突然のことに息を呑んだのもつかの間のこと。叫び、未だ氷の欠片が宙に漂う中を振り下ろされた徹の前肢に智の体が捉えられた。