35

「かっ……!」
 玉砂利を敷いた地面に叩きつけられ、空気を吐き出す智の身体を、潰さない程度に徹が押さえつける。徹の背中に乗っていた凛も智から目を離さず、とん、と身軽に地表に降りて、亮と少女も控えめに、その数歩後ろまで近寄って状況を見守る。
「はぁ……。これで、俺を拘束したつもりか? 手足を縛ったって氷は作れるぞ? その腹に風穴だって開けられる」
「そんなことしてみろ。俺が……」
「徹! そのために私が下りてるんでしょ? またあんな氷柱作ったら、砕いた欠片で頭殴ってあげるわ」
 徹を制止しながらも一方で刺すような視線を浴びせる凛の台詞に不愉快そうに鼻を鳴らしながらも智にその気は無い様で、顔を横に背けたその視線が亮と少女を捕らえた。
「おう、まさかあそこで『飛鳥』を撃たれるとは思わなかったぞ」
 薄い笑みを浮かべて言うその声に少女が居住まいを正す。そのかしこまった姿はどこか怯えているようにも見えた。
「……その方たちは亮の恩人と聞いていましたから。お助けしなければ、と」
「この俺を敵にしても、か」
 涼しい顔で、そう智は応じた。
 こいつ……っ!
「この期に及んでどの口が!」
 亮が思い、拳を握ったその内容を、そのままに徹が叫び、地面に押え付けられる力の増した智がかすかに苦悶の声を漏らす。今度は凛も何も言わず、徹のなすに任せるだけで。そこに、
「待ってください!」
 「暁の巫女」たる少女が割って入った。
「私は少し智様と話がしたい。その手を除けてはいただけませんか?」
「様って……、あなた、こいつがあなたに何をしたか分かってる?」
 どこか、信じられない、とでも言いたげな凛の言葉に少女は軽く下唇を噛んで。
「……ええ、そのことで、少し」
 そう応じて、頷く。それに凛は何もいわず、意見を求めるように視線を徹のほうへ移して、対する徹はジッと少女の方を、その大きな目で見つめて。
「……除けはしない。緩めるだけだ」
「っ、かっ! はっ……」
 言葉通りに徹が少し前肢を持ち上げると、急に肺に入ってきた空気の多さに、智が咳き込んだ。それを視界の端に見ながら亮は視線を横に向けて。
「おい?」
「御免なさい。亮にも、いちいち手間をかけますね」
「や、別にそんなことは……」
 つい、癖で言葉尻を濁した亮に軽く頭を下げて少女は一歩前に出て、亮は言葉の先を続ける機を逃して、その背中をただ見守る。
 話すって……何を?
 智のことを未だに「様」付けで呼ぶことも、凛が言うまでも無く引っかかっていたが、加えて一度は亮を信じるといっておきながら智と話がしたいという少女の心境をはかりかねて、彼女を見守る視線にかすかに覚える不安感が混じった。
「で? 何の用だ」
 そう、智のほうが先に口を開いた。返答を待つ智は当然のこと、少女が何を言うのかが気にかかってならない亮も、恐らく少なからず亮と同じ心境であろう徹と凛も少女の方へ耳を傾けて彼女の言葉を待って、独特な静けさの漂う中、少女は少し俯いたままで軽く息をつくと、顔を上げて問うた。
「本当に、智様にとって私はもう必要ないのですか?」
 何を……。
 今更、と思ってもそれを口にして少女の言を途切れさせるようなことはしない。その選択は徹と凛も同じと見えて、相変わらずの空気の中で少女は続ける。
「私は初めから『暁の巫女』としてこの村を守るために智様に創られ、それに従うほかの私の在り方などあるはずも無く、実際私はその役目に背くことの無いように日々暮らしてきたつもりです。『暁の巫女』が私の全てで、それを奪われれば私は何になればいいのか、私自身にはまるで見当が付かない。ですから、訊いておきたいのです」
 そこまで言って、少女は言葉を切り、何か覚悟を決めるように一呼吸挟んで。
「本当に、智様はもう、『暁の巫女』たる私のことも、『暁の村』のことも、必要としていらっしゃらないのですか?」
 改めて尋ねた。その声にはどこか切なげな緊迫感が伴っていて、
 ……ああ、違うんだ。
ふと、亮はそう思った。
 今更、ではない。今だから、なのだ。
凛の創造した壁に囲まれた空間での少女は、自身の言葉を現実との齟齬を認識した上で、それでもなお頑なに自分を「暁の巫女」として捉え、「暁の巫女」として動こうとした。それは彼女自身言うように、そうするほかに自分がどうすれば良いのかまるで分からず、選択のしようが無かったから。
そんな彼女にとって、自ら智に「もう自分は必要ないのか」と問う事は、しつこく相手の言に念を押すような、そんな程度の軽いものではない。それは、一度智が肯定すればもう二度と後戻りの利かない状況に自らを追い込むということで、目の前に突きつけられてなお受け入れることの出来なかった事実に、自分で、真正面からぶつかりにいくということで。そう考えると、少女の胸中は察するに余りあって、それでも、直前に言葉を区切りながら、二度も、堂々とその問いを投げかけた少女のすっと伸びた背中が、亮には随分と力強く見えた。
 今度は智の返事を待って、再び静けさが訪れる。その最中にあって、横たわる智のその細い目から発する視線と、身動き一つせず、身体の前で両手を重ね、軽く顎を引いた少女の視線とが正面から絡み合い、それが一層静けさの粘度を増して。
「……ハッ! ハハハハハハハハッ!」
 突如、辺りの空気を打ち破るかのような高い声で、智が笑った。
「黙れ!」
 低く唸った徹が多少踏みつける力を強めるのもかまわず、その笑い声はしばらく続いて、突如、切って落としたように鳴り止んだ。
「今更何を言っている? お前の五感は何のために備わっているんだ? それとも絶望的に記憶力か判断力が欠けているのか?」
 やはりその鼻にかかった声でとめどなく垂れ流される挑発の文句は随分と腹立たしくて、徹など不愉快でたまらないとでも言いたげに鼻に深々と皺を寄せて。それでも少女は何も言わず、揺るぎもせずにただ続く言葉を待つ。そして
「そうだよ。もう俺には、こんな面白みの欠片もない世界も、そこを頑固にただ守る面白みの無い女にも、まるで興味が無い。さっさと消えて失せろ。在るだけで目障りだ」
「こいつ……っ!」
 激情を押し殺した声でそう言ったのは凛。顎を引き、軽く肩を張った勢いで彼女の長い金髪がふわりと風に浮き上がり、広がって、
「そうですか」
 相も変わらず、透き通ってよく通る少女の声が、凛のそれ以上の動作も発言も打ち切る。しかし少女の方もそれきりで言葉を切ってしまって、あとには無音、無動作の静けさが残る。
 ああ、この場合自分はどうするべきなのだろうか、と、亮の脳裏でいつもどおり、どこかから回り気味の思考が駆け巡る。これで本当に少女は「暁の巫女」であり得なくなった。ついに欺瞞ででさえ、その名を寄る辺と出来なくなった少女に対して、何かしら言葉をかけてやりたいとは思うのに、やはりこんなときに限って亮の舌はその動きを鈍らせるばかりで、儀礼的に「どうするべきなのだろう」という問いばかりを繰り返す思考もろくな返答を見出さなくて。
「……それならば、私は神界に行きます」
 その少女の一言に、亮の焦りは風に吹かれるようにどこかへ運び去られた。
「私自身には、智様に『暁の巫女』であることを否定された私は一体何なのか、まるで見当がつきません。しかし、亮が、『暁の巫女』でない私があると言い、神界へ迎えて下さりました。智様がもう私に用が無いとおっしゃるのであれば、私は亮の言葉を信じて、神界へ行きます」
「……自分でその神界への道を閉ざして、他の連中を問答無用で追い返しておきながら、自分がそこを通るのか?」
「それは、別に問題ないだろ?」
 問いを被せたのは、初めに問うた智を押さえつける徹。その前肢を、智を押さえつけたまま折り曲げ、鼻面を智に近づけ、大きな目に智の顔を映して、続ける。
「管理者が、お前に言われたとおりに神門を封鎖するのは、神界に来て好き勝手に俗界を作り変えようとする流れ人を取り締まって、同時に神界に身元不明の不審者を大量発生させて俗界の存在を一目につかせることを避けるためだ。事情のまるで違う今回と比べるのは筋違いだし、俺たちが入れば監視ついでに色々便宜も図れる。どっかよその俗界に流れて流れた先で別な問題の火種になるより、よっぽど優秀な選択肢じゃないか?」
 徹が獣の口で吹きかけた息に智の男にしては長い髪が靡いて、白い顔が不愉快そうに歪む。そんな二人の傍に立つ凛が肩越しに振り返り、亮に親指を立てて、にっ、と歯を見せて笑うのに、亮もどうも曖昧になりがちな笑みで応えて。
「亮」
「ん、おう」
 呼びかける声に、少女の方へ向き直る。既に智に背を向け、亮の方へ振り返っていた少女は亮の視線を捕らえると一度目を閉じ、軽く息を吸い込んで、
「おお……」
 目の前で、少女が自分の纏う巫女装束の損傷部を新たに創造しなおし、修復していく光景に、思わず感嘆の声が漏れる。足元の草履、足袋から朱袴、白衣と徐々に修復箇所は上昇して行き、最後にばらけていた少女の黒髪の根元を山吹色の細い帯が束ねて、毛先がしなやかに波を打ち、少女は再び目を開けた。
「やはり身だしなみは整っていたほうが心地よいですね。動くにも勝手が良い」
「ああ……うん」
 微笑む少女を相手にぼんやりとした調子で答えながら、気の利いた返事の一つも思いつかない自分を内心で責めてみたりして。しかし少女の方はその返事を特別気にした風も無く、むしろ「ふふ」と軽く笑って見せて、言った。
「そういうことですので、よろしくお願いしますね?」
 言った少女の顔はまだ微笑んでいる。それなのに、なぜか亮にはそこに、一度だけ見た彼女の涙が重なって見えた。今は自ら神界に行くと宣言し、亮に向かって微笑みかけている少女が、数十分前には自分はこの先どうすれば良いのか、と泣いていた。生真面目に過ぎるようにさえ感じられる彼女の性格を知り、「暁の巫女」としての彼女の姿を知れば、今目の前にある微笑が一切混じり気の無い感情の表象とは考えられなくて。
 だから、今度は口を開く前に一度唇を一文字に結んで、舌の先で上下の唇を軽く湿らせて、一つ、軽く深呼吸をして。
「ああ、こちらこそよろしく」
 どこかぎこちなくとも笑みを浮かべ、そう応えた。