36

 少女が今心の底から笑えていないなら、いずれ、それができるようにすれば良い。そんないささか大仰な気もする心積もりを胸に、その初めの一歩のつもりで亮はその一言を口にした。
 その直後。
 ……あれ?
「……面白くないな」
 呟かれたその一言と、亮自身の意識に芽生えた疑問とに、急激に意識が目の前の出来事に、押し倒された智に引き戻された。
「何だと?」
 警戒した徹が前肢にかける力を強め、関節を伸ばし、目線では智を睨みつけたまま、顔を智から遠ざける。
「妙な真似するなよ? 正当防衛で腕の一本くらいは折るぞ? 大人しくしてれば三回殴って、俺らが帰ったら解放してやるけどな」
「いい気になるなよ? 腕一本と引き換えに命を落としたいか?」
「随分安い脅しだな?」
 言いながらも、確実に徹の身体が強張り、警戒度が増す。一度目に徹が智を捕らえたとき同様、今も智のことを完全に拘束できているわけではなく、ただ若干行動の自由を制限し、プレッシャーをかけた上で、何か不穏な動きを見せたときに後手に回れば対応できるというだけに過ぎない。いくら徹が過去の遺恨については殴るだけで水に流すつもりでいようとも、今この時ばかりは必要とあれば智を押さえつける前肢に全体重をかけるくらいの覚悟でいなければ、他でもない徹自身の命に関わった。
「私からも言っとくけど、馬鹿な真似しないでね?」
 言った凛も細身の槍のような剣を一振り、智の喉元にむけて突きつける。亮と向き合っていた少女も再び智の方へ向き直り、その背後では亮が控えめに、いざというときに盾で守りうるだけの距離の範囲内で付き添っている。
「三対一か」
「四対一よ」
 呟いた智の喉に凛の剣の先があたる。そのまま凛があと少しだけ指先に力をこめれば咽喉を貫かれるという状況で、智にはなおもそれを気にしたそぶりも無かった。
「状況が違えば、相手してやっても良かったんだけどな」
「なに……、っ?」
 聞き返しかけた徹の顔を目掛けて智が創造した氷柱を突き出し、首をのけぞらせた徹がそれでもかわしきれずにその場から飛び上がる。
「徹!」
「お前もだ、馬鹿」
 凛がその声に振り返れば、振るおうとした剣の中程が地面から生えているかのようなかたちで創造された氷に絡め取られて動かない。それどころかその氷は刃にそって、まるで凛を捕まえようとでもするかのように駆け上ってきて、寸でのところで凛が手を離して飛びのいた直後には剣の柄頭まで完全に飲み込むと、中に閉じ込めた剣ごと、粉々に砕け散った。
「あれで俺を拘束できたつもりかって、一応訊いておいてやったはずだぞ?」
「このっ……!」
「五月蝿い」
 牙をむき出しにして飛び掛ろうとした徹と、それに習おうとした凛とのそれぞれすぐ目の前に立ちふさがるかのように氷の壁がそそりたち、二人ともその場に踏鞴を踏んで立ち止まる。
 徹と凛にしてみれば、例え相手が智だということを考えてもなお、不穏な動作の素振りを見逃さないくらいの警戒をしていたつもりだった。それなのに、そこからいとも簡単に逃れて、いまや智は徹に押さえつけられていた方の具合を確かめながら、緩慢な動作で立ち上がるまでの余裕を見せていた。
「もう、これで終わりだな」
「何?」
「終わりと言ったら終わりだ。何だ、獣の頭じゃ、人の言葉をそのままに解釈することさえ出来ないのか?」
 問い返してきた徹を鼻で笑った智のあからさまな嫌がらせに、徹は牙をむいて低く唸り、凛も目を細めて智を睨みつける。それに嘲笑交じりのため息をついて智が落とした視線が視線が横にずれ、再び上がって「暁の巫女」であった少女の顔を捉えた。
「そう、お前だ」
 呼びかけられた少女の肩がびくりと震え、それを取り繕うように少女は肩を強張らせ、背筋を伸ばす。
「お前がここの管理者であることを自ら放棄したなら、もう俺にはここに居残る理由が無い。お前は頑固であってこそ虐め甲斐があったのに、それがなくなったらお前にはもう、俺にとって暇潰しの用さえない、本当に、完全な役立たずだ。そんなもののために好き好んで時間を割く必要もないだろう?」
 乱れていた前髪を最後に片手でかきあげながら、智が尋ねる。
 ……本当に?
「好き勝手な……」
「だから」
 怒鳴りかけた徹の言葉を封じ込めた智の視線が、再び手近な凛と徹を同時に視界に納める向きに直って、ただでさえ細い目を一層細めて、薄く笑みを浮かべて、言った。
「だから、これで終わりだ」
 言い放ったのと同時、智が右手で自分のすぐ脇の空間を薙ぎ払い、その手刀が通ったあとにインクのように黒く細い筋がのこって、それが見る間に上下に厚みを増して、黒々とした壁が現れる。あらゆる俗界からあらゆる俗界への移動が可能であると智が語った、いわば通路の入り口。そこに片足を差し入れて、智は続けた。
「今までは、俺がこの俗界の崩壊を途中で強制的に止めてやってた。いわば堰になっていた俺がこの世界から消えたらどうなるか、考えるまでもないだろう。もともと神界の人間なら、万が一こちら側で世界ごと消滅しても意識は自動的に本来の身体の方へスイッチされてくれるが、もともと俗界の人間であればその崩壊に飲み込まれた時点で消滅する。こんな崩れかけの世界で『神門』なんて開けばどうなるかは……言わなくても良いだろう?」
「処理が追いつかなくなって一瞬で『暁の村』が消滅する……!」
「その通り。つまり貴重な労働力は片方を入れ替えて二人温存され、その女と凛はここで消滅する。初めからここで殺すつもりだった奴におめおめ逃げられて溜まるか、面白くも無い」
 本当に?
「まあ、せいぜい最後の別れを惜しめばいいじゃないか」
 本当に
「……それでいいのか?」
 こらえきれず、亮の口から問いが漏れた。徹が、智に飛びかかればすぐにでも黒い壁の中へ飛び込んでいく事が分かっているために身動きできず、ただ牙をむいて智を睨みつけているのとは対照的に、漏れでたその口調はやたらと穏やかで、全員の注目が亮に集まった。
 少女が自ら「神界に行く」と言ったとき、やっとこれで彼女をこの世界から救い出せる、目的を果たせると亮は思った。その直後、ふと脳裏に蘇る言葉があって、疑問が浮かんだ。即ち、四年と半年前に亮を見送った智は、亮に何を期待したのだろうか。亮が再び戻ってくれば面白い、と智は言った。しかし、何のために戻ってくることを智は望んだのだろうか。それに、そう。亮が智の期待はずれに「意気地なしで臆病者」だったから、智の意図した何が出来なかったというのだろうか。
 そう考えて、はたと閃いた。そもそも亮が臆病者であったが故にこの「村」でできなかったことなど、してしまった失敗など、大概どんなものか知れている。加えて、智がこの「村」を消滅させる決定を曲げるつもりが無かったとしたら。
 まさか、という疑念が拭えず、加えて四人からの注視の最中でそれ以上の言葉を口に出来ず、智と、互いの視線を交差させたまま立ち会う。それがどれほど続いた後か、不意に、智がその左手を下手に振るった。その動作によって、まず投擲された物体が創造され、ついでそれに連なる鎖が続く。庭のところどころに智が創造した照明を受けて輝くその物体は、丁度閉じたチューリップの花のような形をしていて。
「あす……」
「大丈夫」
 少女が隣で右手を突き出したのと同時、亮は自分の方へ質量の塊が風を切って飛んでくる光景に反射のままに身を強張らせて、張り出した青く半透明な盾は少女もろとも亮を守って、その中を鉄の花が通り抜け、勢いを無くして地に落ち、玉砂利をかき乱す。その最中にあっても亮も、智も、視線を外そうとせず。
「……じゃあな」
「待っ……!」
 そのまま、智の身体は黒い壁のうちに飲み込まれた。その段になっていまさら徹、凛が飛び出したところで間に合うはずも無く、主を取り込んだ壁は現れた時の逆をたどるように、細くなり、最後には線としてすら認識できなくなってその姿を消す。
 その直後に異変があった。
 脂かゼラチンか、今まで固まっていた物が溶け出して液化を始めたかのような、不安定感の強い粘性を目に入る光景が帯びたような気がした。そして、
「あ……」
 呆けたような少女の声に振り返って、ぞっとした。「暁の巫女」の屋敷にいたる石段の最上段の踊り場の先、かすかに見える「暁の村」が溶け出していた。溶媒は、「村」の半分であった部分に広がっている暗闇。そこに、境界面から溶け出していくように、「村」が、林が、侵食されていた。村に立つ家々はまず足元の土地が液化したように流れ出し、それに押し流されるうちにぐずぐずに崩れて原型を無くし、山の方では大地も木々も区別なく、暗闇に削り取られるように、ただただ侵食されるに任せてその姿を消していく。そして、事もあろうに頭上に広がる星空でさえも、暗闇に触れた部分はただれたように星の光を澱ませ、そのまま崩れ落ちるように闇に同化していった。