37

「クソ、始まりやがった!」
 悪態をついた徹が早口に何か言って獣の姿から人の姿に戻ろうとしている最中、遠目に亮が、萱葺の家が三軒、真っ直ぐに並んでいると見たところが、一秒と経つか経たないかの内に、瞬く間に暗闇の中に飲み込まれた。
 「暁の巫女」が守り続けてきた「暁の村」が、今、もはやどうしようもないことが一目で分かってしまう程の勢いを伴って、崩れ落ちていた。
「このままじゃ、二分は持たないね」
「淡々とそんな判断下してる場合か! ったく、予防線張っといて良かった」
「予防線?」
「ああ」
 尋ねた亮に応えながら徹がジーンズのポケットから携帯電話のような端末を取り出す。
「初めからあの馬鹿がとんずらしたらこうなるのは分かってたから、緊急脱出用にね。こいつで処理を呼び出せば半径5、6メートル以内だけにプロテクトをかけて、その範囲内に帰り道を開くように……ほれ」
 声にあわせて、徹の親指が端末の中央のボタンを押す。そして、
「……あれ?」
 何も起こらなかった。
「ちょっと、徹?」
「いや、いやいや、落ち着けよ? どうして入り口出てこないんだよ?」
 言いながら二度、三度と同じ操作を繰り返すものの状況に変化はなく、次第に徹の顔に浮かぶ焦りの色が濃くなっていく。
「芹山さんには? 連絡つかないの?」
「……駄目だ、全然反応が無い。ああ、クソッ!」
 悪態をつきながら、憂さでも晴らすかのように徹が同じボタンを連打する。
「どうするんだよ? いっそ賭けで無理矢理道開くか?」
「馬鹿言わないで! そんなことしたら本当に一瞬で終わっちゃうでしょ」
 そう、噛み付いておきながら凛もそれ以上のことは言わず、ただ時折迫りくる暗闇に目をやりながら徹を見守る。
 仕方のない事だった。智が「暁の村」の一部を消滅させることによって始まった「村」の崩壊は、直接俗界を統括するシステムに手を加えない限り抗いようが無い。加えて、崩壊の開始した俗界の処理系統は、一方では自身の情報を片端から消去していきながら、他方では未だ残っている空間において通常通りに世界を機能させ、物体の運動等々を可能にするという、単純に二倍の仕事量をこなすことになる。そこにさらに『神門』を開くなどという重労働を課せば、過負荷によって処理系統が停止し、結果全体のシステムからその俗界の情報が一瞬で、全て破棄されることになる。結局のところ、徹の仕込んでいた「予防線」を機能させるか、芹山に連絡をつけて「暁の村」の崩壊を停止させるほかに可能な選択肢はあり得なかった。
 徹や凛に選択可能な範囲においては、という注釈をつければの話であったが。
「あの……」
「……! 何?」
 焦燥感のために、控えめにかけた亮の声に徹、凛ともに勢い良く振り返り、取り繕うように徹が訪ねる。その反応の大きさに亮も軽く驚かされて、一呼吸おいてから、言った。
「この盾、使えませんか?」
「え?」
「だって、ほら……」
 いまいちピンと来ないらしい徹に説明しようと亮が口を開いたその時
「ああ、そうか!」
 凛が、ほとんど叫ぶような声で言った。
「そうだ! その盾はその内部にあるものを『部屋』に移動するのよ! その盾の中にさえいれば、『暁の村』が消滅してもいる場所は『部屋』だから何の問題も無い!」
 何で忘れてたのかしら、と嬉々として語る凛に、自分が褒められているような気がしてつい頬が緩む。同時に、亮の中で疑惑が確信に変わった。
 亮が「村」の崩壊が始まる前に盾を張り出せたのは、智が「村」を去る直前、あの鉄の花を亮と少女目掛けて投じたからに他ならない。それが無ければ亮は盾を張った状態で「村」の崩壊に備えられず、盾の有用性にも気付けなかった。
 信じられないという思いは亮自身にすらある。それでも、ここまで来ると、智が最終的には「暁の巫女」たる少女を「暁の村」の外に連れ出して欲しかったのではないかという疑惑を確信しないわけにはいかなかった。恐らく智は少女を散々にいたぶることも愉しんではいた。「暁の村」を破壊するつもりだったというのも本当だろう。しかし彼女を本当に殺してしまうつもりは無かった。だからこそ、流れ人と自分以外で唯一少女に接触した人間である亮が再び、今度は少女を置いて逃げ帰るような臆病者としてではなく、彼女を連れ帰るために現れるのを四年以上も待ったのではないか。
 ……まあ、勝手な想像だけど、さ。
ひとまずは、徹と凛の二人も盾の中に迎え入れるために一度今展開している盾を解除しようとして。
「じゃあ、そのまま絶対にその盾解除しないでね?」
「え?」
 予想外の言葉に出鼻を挫かれた。
「そりゃそうだ。その盾を今晴れているのは、この『村』が崩壊を始める前に展開されたから。今解除しちまったら、もうこの『村』でそれを展開することは『神門』を開くのと同じだよ」
 「だろ?」と尋ねた徹に、「そういうこと」と凛が応じる。
 そんな……。
「それでは、貴女はどうするのですか?」
 亮の胸中を代弁するかのように、すぐ隣で「暁の巫女」であった少女が言った。
「先ほどの智様の言葉から察するに、貴女も俗界の方なのでしょう? 貴女は、どうするのですか?」
「全くだ」
 相槌を打つ徹の指先は、懲りもせずに端末を操作し続けている。
「確かに何の問題も無いよ、お前以外の三人はな。でも、このままじゃお前が助からないだろ」
「……私は、大丈夫」
「何故?」
 いやに穏やかな凛の声には何か諦めたような気配があって、問い詰めるような強い口調で尋ねる徹に、凛はそのままの声色で応じた。
「だって、徹と同じで今のこの身体、私の本物の身体じゃないもの」
「……は?」
「私が神界にいるときに使ってる身体を作ってもらったときにね、芹山さんに頼んだの。私が俗界に入る時、私自身は身体の中に残したままでコピーの身体を動かせるようにしてくださいって。だから大丈夫。徹と同じで、ここが駄目になったら意識が本当の身体のほうにスイッチされて問題解決ってわけ」
「先に、言ってくれよ、そういうことは……」
「だって、言うより言わずにおいたほうが何かあったときにもっと心配してくれるでしょ?」
盛大にため息をついてうなだれて、手に握っていた端末をポケットに終い込もうとした徹の動作が止まる。
「お前、まさかあの時の息してなかったのって……」
「や、やめてよこんなところで! ……恥ずかしい」
「わざとらしいんだよこの……! あああああ……」
 先ほど以上に盛大に、腹の底からため息をつく徹の姿を前に、何があったか知らない亮と少女はただぼんやりと見守ることしか出来ない。と、
 ドン……
 不意に重低音があたりに響いた。それは、石段を降りきったところに立つもう一つの鳥居が、崩れていく足元の不安定さに耐え切れず倒れた音。即ち、智が去った時点で残っていた「暁の村」の半分が暗闇の中に呑まれて消滅したということの証。
「亮」
「ん?」
「もう少し、見晴らしの良いところまで行きたいのですが、良いですか?」
「ああ……」
 今の盾を張り出した状態を維持するためには、彼女と亮とは一定以上の距離を開けない。壁の穴の方を目で示す少女に曖昧に答えながら、一応許可を求めて徹と凛に視線を投げて、
「ああ、野暮なことは言わないでおいてやるよ。言っといで」
「合格」
 よく分からない凛の言葉に首をかしげながら、少女のあとに寄り添うように、いささか早足に石段の方へ歩いていく。
「本当に、これで終わるのですね」
「ああ……」
 ここから新しい世界が始まるんだ〜なんて格好つけたことは、ね。
 誰にとも無く胸中で言い訳じみたことを呟きながら、足元の玉砂利を踏みしめる。
 亮にだって、「暁の村」がなくなることに対して思うことはそれなりにある。今目の前を歩く少女とであった泉も、共に駆け回った村の小路も、彼女の歌を聞き、一緒に食事をした屋敷ももう残っていないかただの残骸と化しているが、それでもこの「村」が無ければ亮はこの少女と出会えなかったし、彼女とのこれまでの思いでも全てこの「村」にあるのだ。いざそれが無くなるとなると、いささか物悲しい気がした。
「やっぱり、不安?」
「……ええ」
 少し躊躇しながら、少女は頷く。
「言ったでしょう? 私は自分が『暁の巫女』でなくなった後にどうなるのか、正直まるで分からない。それを思うと、不安です。ですが……」
 静かに語る少女が、丁度鳥居の残骸を踏み越えたところで言葉を切り、立ち止まって振り返る。その動作にあわせて、帯で根元を束ねた髪が広がり、智の残した証明の色を艶やかな黒髪に反射して、どこか妖しく、美しい円を描く。
「それでも私は亮の言葉を信じます。ですから、私にここまでの決心をさせた方として、もう一度改めて、よろしくお願いしますね」
 そう言った少女の顔は、今度はどこか固い微笑みなどではなく本当に笑っていて。
「ん、ああ……」
 思わず亮が言葉を詰まらせた直後
 カタ……
 石畳が一つ、ひとりでに転げ落ちる音で意識が少女の背後に向いた。
「……っ」
「来ましたね……」
 少女も振り返って目の前の光景、足元の石畳の踊り場と僅かな木々以外空も土も全て暗闇に覆いつくされた光景を目の当たりにする。
 目の前に迫ってくるその暗闇に飲み込まれれば、もう自分たちは二度と「暁の村」に戻ってくることはできない。その決定的な境界線に挑むかのように、背筋を伸ばし、真っ直ぐに暗闇を見据える少女の背中が目の前にあって。
 急に、自分のした返事が恥ずかしくなってきた。
 「よろしく」って言われて「んあ」は無いだろうよ、流石に……。これで最後なんだぞ?
 自分自身に言い聞かせているうちに、踊り場の両脇の木々が一斉に倒れ、流される。石畳は既に全て石段の下に引きずられるようにして流されて言った後で、崩壊の最前線が石段を登りきって目の前に現れるまでももう多分何秒も無くて。
 言ってやる。
「……ふぅ」
 細く息を吐き出して、直後、その反動で肺一杯に息を吸う。直後、暗闇が完全に石段を登りきり、亮の視界にどんどん暗闇に吸い込まれていく地面の様が見えて。
「任せとけ」
 一人立つ少女の背中に向かって言った瞬間、視界が真っ黒に染まった。同時に立っているのか寝ているのか分からない、振り回されているような奇妙な感覚に襲われて、それなのに玉砂利を踏みしめていた足元は急に安定して、かと思えば黒一色だった視界にだんだん赤茶色が広がっていって。
『ようやく戻ったか、放蕩息子』
「……もう良いです」
 気付けば亮は少女と並んで全面レンガでできた、どこかの居間のような部屋の中央に立っていて、随分久し振りに聞くような気のする老人の声に出迎えられた。
『目の前にある扉をくぐれ。身体に戻れる。連れの手は離さずにな』
 直後、電話を切るような音がして、入れ替わりに軋みながら、部屋に唯一の木の扉が開く。それを、しばらく少女と二人、何をするでもなく見つめて。
「……行くか」
「ええ、行きましょう」
 どちらからとも無く差し出した手を互いに握って、二人は開いた扉の方へ一歩踏み出した。