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 精密機器に生活空間を侵略されたかのような部屋の中、今の今まで使っていたマイクの電源を落として芹山は長いため息をついた。
「これで無事、あのもと管理者はあの坊主の奴隷になることもなく俗界から出てきた。これで満足かね?」
 言った智の視線が、部屋の隅にたたずむ人影、赤い手編みのコートを羽織った女の姿を捉えて、
「ええ、上出来。ご苦労様」
 パン、パンと手を叩きながら、春日巴は応えた。
「約束どおり、私もあなたのやったことは内緒にしておいてあげるわ」
 微笑む巴の台詞に芹山は面白くなさそうにため息をつく。
「それにしても、まさかあなたが我が家の元家主と繋がってたとはねぇ」
 巴は手近な椅子にどっかりと座り込んだ芹山から、目の前に並んだ機器類に視線を移して、わざとらしく抑揚をつけた声で、そう言った。
 芹山が徹や凛の知らないところで篠沢智と連絡を取り合っていた。それこそ、巴の言う「秘密」だった。
 現在自らが創った俗界の中に完全に、いわば移住してしまっている智は、いかに俗界においては強力であろうとも、神界への干渉はどうしても困難になり、神界からでなければできない俗界への操作も自由にはできなくなる。
現状では、俗界のシステムの日常的な管理であれば、徹と凛に任せることができる。一方で、いくらかの俸給と引き換えに、徹と凛に鳴かせる事が現実的に不可能なことを代行する役に智が選んだのが、徹と凛が自分たちの技術不足を補うために強力を扇いだ芹山だった。それは、例えば「面白いこと」の火種をまいておきたい智の指示に従ってゲートを街中の少し奥まった辺りに設置してみたり、一度俗界を訪れた神界の少年を目の届くところにおいて俗界との関わりを持たせたり、あるいはその少年が再び特定の俗界に行けるよう手引きをしたり、俗界から神界への特定の情報操作を遮断したりと言うもの。
「まあ、まさかうちの旦那が警備会社の事務方に勤めてて、回収したあの電話ボックスの出来損ないみたいなのを持って帰るところをうちの旦那の会社の防犯カメラに撮られてるとは、考えないわよね、普通」
「そんなもの、さしたる問題でも無かろうよ」
 振り向いた巴を半ば睨みつけて、芹山が言う。
「問題なのは、それを見てゲートだと分かった上にここまで訪ねてくるような人間がいたことだ。一体どういうわけだ? お宅の弟君はあの小柄なお嬢さんと二人だけでことにあたっている物と思っていたのだがね?」
「ええ、あの二人もきっとそのつもりでしょうね」
 言った巴が肩をすくめて、焦げ茶色の短い髪が小気味よく揺れて。
「でもね、家の所有権を人に譲っておきながら、知らないところで隠れて何かしてるなんて随分虫のいい話だと思わない? 私はあの二人の秘密基地の管理人じゃないってーのよ」
「……それで?」
「それで、そっちがそのつもりならって、ちょっとだけ機械の力を借りて聞き耳を立ててみたの。あの子達警戒心全く無いのね。おかげで最初のうちだけ聞き耳立ててたら、後は二人がいないときに時々機械触らせてもらって、あの子達がなにやってるのかなんて全部筒抜けよ」
「ハ、ハ、ハだな。笑うしかない。あの二人にも若干ながら同情するよ。全く、手癖の悪い姉もいたものだ」
「褒められたことにしておいてあげるわ。有難う」
 にっこりと笑う巴に芹山は肩をすくめると、気の抜けたようなため息と共に立ちあがり、コンピュータに向かい、メーリングソフトを起動する。
「それで? そうして弟君や俺のしていることを良く知っている君がわざわざ訪ねてきて『暁の村』の管理者がストレートにこちら側に来れるようにすることを求めたのは、一体どういうわけだね?」
 巴がいきなり部屋に押し入ってきた時、芹山は丁度徹が進行する『暁の村』
の崩壊を止めようとする操作を智の指示通りに片端から妨害している真っ最中だった。その芹山の身体を、巴はほとんど引き倒すようにして壁に押し付けると、その胸倉を掴んで『暁の巫女』が凛同様、何ら特別な枷をはめられることなく神界に来れるよう、システムを変更しろと迫ったのだ。
 自らのあり方として老人然としていることに美的価値を見る芹山の実際の年齢は未だ二十七歳であって、凛が神界にいる時に身体としているのと同様の義体の力で有れば抵抗できないわけでもなかったが、「今まで隠しておいて上げたけど、住居不法侵入、道交法違反、その他諸々の常習犯としてあなたを突き出したらあなたも困るし、手伝ってくれる人手が足りなくなってうちの弟も困るでしょ?」と言うのが巴の言い分だった。
「それに、君があえて秘密が秘密でなくなっていることを伝えない理由もわからない。一体、君は何をしたいんだね?」
「そんなもの、決まってるじゃない」
 呆れた、といわんばかりの巴の台詞に、『暁の巫女』の神界への移動に際するシステム上の障害が撤去済みであることを徹に報告する文面を弾き出していた芹山の指が止まり、視線が若干横に流れて、
「女の先輩として後輩が幸せになれるように心を配りながら、姉として弟の小賢しい悪戯に見て見ぬふりをして抱きとめてあげられる……、なんか格好良いじゃない? ほら、なんていうの、女傑っていうかさ」
 いささか興奮したような口調で紡がれる言葉が次第に独り言に変じていくのをすぐそばで聞きながら、芹山は眉間に皺をよせ、軽くこめかみを押さえた。
「……もう、いい。さっさと帰ってくれ。頭が痛くなる」
「あらそう? ……まあ、私ももうこんな殺風景な部屋に用ないし、それじゃあお暇させてもらうわ」
 言った巴が踵を返して部屋を出て行くのを、わざわざ見送ろうともせず、音で扉が閉まったことを確認して、
「……はぁ」
 ため息をついた芹山は、自分が仕舞い込んでおいたワインのボトル数本がたった一枚のメモ書きにすりかえられていることを知らない。曰く、
『このままじゃあここまで足を運んだ私への還元がゼロなので、もらっていきます。ごちそうさま』