39

  †
「お箸ちょうだい」
「ん」
 差し出された凛の手に、徹は菜箸を手渡して、再び、既に用を終えた鍋やらヘラやらを洗う作業に戻る。その横で凛がグリルの戸をあけて、二人のたつ台所に鰤の塩焼きの食欲をそそる香りが立ち込める。
「それをひっくり返して焼き上げたら終わりか?」
「そう……だね。洗い物、全部行けそう?」
「無理だな。適当に切り上げて姉ちゃんと優さん呼んでくるか」
 うん、よろしくーという凛の返事を聞きながら、フライパンの洗剤を洗い流す。
 日付は、徹と凛、そして智の三人が再会した日のままだった。「暁の村」から戻った徹と凛は、真先に亮が無事にたどり着いたことを確かめ、同時に、すぐにでも「暁の巫女」であった少女を、俗界のシステムによる亮への強制的な服従状態から解放するためにキーボードの前に向かった。ところが亮と共にこちらの世界にたどり着いた少女には特別変わった様子はなく、芹山からは事後報告のメールが届いていて、そこでようやく緊張を解いた。
 亮も、少女も、そこにいたるまでの経緯を思えば肉体はともかくとしても精神的な疲労が尋常でないであろう事は、徹も、凛も、自身を省みれば明らかで、二人とも、もう一晩くらい泊まっていくように促したのだが、
「帰っちゃうんだから、生真面目だよなー。『全然家に連絡してないので』って」
「あー、でも正直今六人分作れって言われたら、徹に手伝ってもらっても私無理」
「まあ、一度夕飯係りに決定された以上、逃げられないしなぁ……」
 四人分だってつらいのに……とグリルの窓を覗き込みながらため息をつく凛に徹は苦笑する。それに、凛は振り向くと、「何よ」と頬を膨らませてみたりして。
「……そういえば、亮君の言ってたアレ、どう思う?」
「どうもこうもあるか」
 はき捨てるように徹は応えた。
「あの自分勝手な大馬鹿野郎があの管理者を助けようとしてただなんて、そんな事があってたまるか」
「でも、彼の説明も一応筋は通ってたと思うけど?」
 帰り際、玄関で亮から語られた、智が「暁の巫女」を生かそうとしていたのではないかという話は、徹や凛にとってはにわかには信じがたい話だった。自分が面白いと思うかどうかが全ての行動の基本にあって、ただ面白さを教授するためだけに動いているのではないかとさえ思える智が、実際「暁の巫女」であった少女にもあれほど手を上げておきながら、その少女を助けようとするなどとは思えなかった。
しかし逆に、そんな智が何故亮の再来を待っていたのかと問われれば、亮の言うこともにわかに信憑性が増して。
「だったらいっそ、これもアイツをとっつかまえて聞けばよかったんだ。それなのにあんな風に逃げ出しやがって。次会ったら……」
「徹」
 呼びかけられて、手の洗剤を洗い流しながら愚痴とも悪態ともつかない言葉を紡いでいた亮の口が止まる。
「アイツのことを三回殴ったら、もう昔のことでアイツのことを追い回すような真似はしないって、約束だったよね?」
「……? そうだけど」
「そしたら、もうお終いでしょ?」
「は? 何でだよ?」
 だって、悔しいかな、今回も徹は智に翻弄されるばかりで、行動を制限することすら満足にできていなくて。結局最後までいいように逃げられたのに、いつ自分が前もって定めていたけじめをつけたというのか、徹には思い当たる節が無いように思えて。
「だって、ほら、一回目にアイツを押さえつけたときでしょ? 亮が怒鳴ってアイツを地面に叩きつけた時でしょ? で、二回目にアイツを押さえつけたとき。はい、三回」
「……あ。……え? ということは、これで、終わり?」
 釈然としない思いを胸に、できれば否定の言葉が欲しくて徹は凛の顔を見つめる。しかし凛は
「そういう約束でしょ?」
 そう、言って、頷いて。
 どうしても、表情が曇った。確かに智を三回殴ってそれでけじめにすると言い出したのは徹のほうだし、他にもっと誠実な方法で智に迫ったからといってまともに謝罪があるとは到底思えなかったから、案としては悪くなかったはずだと亮は思う。しかし、それでもせめてもう少し「けじめ」をつける時と場所を選びたかった。これでは、まるで気が晴れない。と、
「徹」
 その胸中を悟ったかのようにもう一度、今度はすこし温かみのある声で再び凛が徹に呼びかけた。
「もう、良くない?」
「……何が?」
「わからないわけ、ないでしょ?」
 少しだけ、逃げに走った徹を逃がすまいと、決してそれを表には出さずに凛はそのマリンブルーの瞳でじっと徹の目を見つめてきて、
「はぁ……」
 諦めた徹の口から、勝手にため息が漏れた。
「どういうことだよ? できるならお前もあいつのこと殴り飛ばしてやりたいんじゃなかったのか?」
「あら、憶えてたんだ。関心関心」
「……」
 おどけてみせる凛に何も答えず、背後の食器棚にもたれかかって腕を組み、次の句を促す。程なくして、
「……まあ、確かにそうだったんだけどね」
 グリルの前にしゃがみこんで中の様子を伺いながら、凛は言った。
「なんていうか、台風みたいなもんじゃないのかなって、思うの。あんな、突然やってきたと思ったら散々かき回すだけかき回しておいて勝手にどっかに消えて、さ。迷惑で頭にくるのは確かだけど、そんな自然災害みたいなもの、まともに恨んでたって馬鹿みたいじゃない?」
「自然災害ってお前……」
 豪胆な例えに一応突っ込んでは見るものの、どうしてなかなか、言いえて妙なようにも思えて言葉が途切れる。
「それに、今回、アイツには逃げられた代わりにあの管理者の子のこと助けられたでしょ? どっかに消えたアイツのこといつまでも恨んでるよりも、こうやってまたどっかでアイツが苦しめてる誰かを助けて上げることの方がよっぽど建設的じゃない?」
 たずねた凛の瞳が再び徹を捕らえて、
「それにどうせ、アイツのこと殴ってやったところでそれで気が晴れるわけじゃないでしょ?」
「そう、かもな」
「そうなの」
 それが形式的なものでしかないことはとっくに頭ではわかっていて、ただそれを口に出して肯定してしまうと、けじめとして、むしろ形式的であることに見出していた意味を完全にかき消してしまうような気がして、あいまいに答えた徹の言葉に、凛が声を重ねた。
「あんなやつ、殴って気が晴れるなら話は早いの。でも、そんな相手じゃないでしょ? こっちが本気で頭にきてるのに、殴っても蹴っても屁でもないって顔して、気晴らしになるどころか余計にこっちの気分が悪くなるのが関の山だよ。違う? そうでないなら、ちゃんと三回アイツのこと殴った徹が、どうしてまだそんな不機嫌そうな顔してるの?」
「……」
 凛の言葉にはしっかりと筋が通っていて、むしろ徹が考えないようにして心の底にしまいこんでいた問題を一つずつ目の前に並べられているかのようで、徹には返す言葉もなく、落ちがちになる視線を天井に逃がしてみたりして。
「そんなにアイツのことが気になるの?」
「気になるっていうか、気に食わない。当たり前だろ? あいつは……」
「それは、私よりも?」
 言葉を途中でかき消されたことと、凛の問いの不可解さに眉をひそめる。そんな徹から、凛は視線をグリルのほうに戻して火を止めると、コンロの脇においてあった皿と菜箸とを手にとって。
「そうでしょ? 私がこんなに説得してるのに、徹はアイツのことが気になってたまらない。あんまり気になってたまらないものだから夜も眠れなくて、私に黙ってアイツに会いに行こうとしたりして、やっと連れ戻して、もうあんな奴のことなんかわすれてーって私が言ってるのに、まだ徹はアイツのことを追っかけようとしてるんじゃない。何? 安いメロドラマでもやりたいの?」
「待てコラ。それは……間違ってないけど」
「やだ、本当にそんなつもりだったの!」
「間違ってないけど! 非常に語弊があるからそんな言い方をしてくれるな!」
「『あわてると信憑性が増すぞ』だっけ?」
 思わず語調を強めた徹に、空になったグリルのトレーを引き出しながら凛が肩を震わせて笑う。その雰囲気の軽さに、なんだか徹のほうまで肩の力が抜けていく心地がして。
「それで? 徹は平和なホームドラマとどろどろのメロドラマ、どっちを取るの?」
「だからお前、その例えはやめろって……」
「どっち?」
 ため息交じりで言った徹に改めて問う凛の口調が急に真剣味をもって、
「『自然災害みたいなもの』、ね」
 一人ごち、徹はつぶやいて、思案して。
「……まあ、確かに、どっかに飛んでいった台風のことでぐちぐち文句言うよりは、次の台風に備えたほうがよっぽどまし、か、な」
 その言葉に、凛の顔にぱっと笑顔が広がって
「よろしい!」
 大仰に、その金髪を波打たせて、頷いた。
 ……確かに。
 言ってしまってから、徹はもう一度自分の言葉を自分自身で反芻してみる。
 当然のことながら、智が過去にしたことを許したり忘れたりしたわけではないし、きっとこの先もそんなことはできない。ただ不思議と、智を自然災害に例えた凛の言葉が、徹にはずいぶん素直に受け入れられた。
 もしその言葉を智が徹と凛を残して俗界の中に消えた直後に聞かされたら、おそらく自分はそれを泣き寝入りとみなして受け付けなかったと思う。ただ、幸か不幸か、何をしたところで多分本当に気が晴れることはないんだろうな、と思い当たってしまった今にして、「自然災害だ」などと言われてしまったら、途端にけじめだなんだと言っていた自分自身が随分馬鹿らしく思えてしまった。
「じゃあ、はい」
「ん。……ん?」
 満面の笑顔のまま凛の差し出してきたものを受け取って、受け取ったものに目を落として、それから眉をひそめてもう一度、凛の顔を見る。
「なに、これ」
「徹が一歩前に踏み出したことへのお祝い」
 念のため、もう一度自分の握っているものを確認して
「……魚の脂まみれのグリルのトレーが?」
 再び上げた視線の先に凛の姿は無く、変わりに背後から人の気配がして、振り向けば、顔面の笑みはそのままに、背中に両手を回して立つ凛の姿があって。
「……」
「……、よろしくっ」
「この、おまっ……わあ! 脂こぼれた!」
「じゃあ掃除もお願ーい! 私は優さんと巴さん呼んできまーす」
「……」
 脂で滑ったり熱かったりする手でなんとかトレーは保持したまま、階段を駆け上がっていく凛の足音を聞いて、徹は一人ため息をつく。
「……まあ、な」
 こんな賑やかで、和やかで、当たり前の日常に、こうして当たり前に凛が溶け込んでいるならば、わざわざ過ぎたことを掘り返すのは野暮なのかもしれない、などと考えてみたりして、
「……面倒臭せ」
 誰にも伝わらない文句を一人つぶやいて、徹は再びシンクに向かった。