40

  †
 頭の中で、唄が聞こえていた。
 唄といってもそこに歌詞らしいものは一切付随せず、軽く聞いただけならばそれが人の声であることすら判然としない、どちらかといえばいくつかの楽器を組み合わせた音のように聞こえた。澄み切って清涼感さえ感じられるその曲調、音色に、意識にかかったもやのような眠気が、さながら潮が引くように薄れていくのが感じられて、
「……おはよう、霞」
(おはようございます、亮)
 呟いた挨拶に、返事が頭の中に響く。一晩経ってもまだ慣れきれないその奇妙な感覚の中、瞼を指の背で擦りながら亮は布団から這い出した。季節は十二月の後半中頃。テストの採点やら補修やらのおかげで、呼び出しをくらうほどには落ちこぼれていないために実質的に一足早い冬休みを迎えている亮にとって、朝の八時など普通ならまだ布団に包まって寝息を立てている時間であって、慣れない寒さに肩を振るわせる。
「この寒さがなかったら、最高の目覚めなのにな」
(しかし、寒くなければ冬ではないでしょう)
 そりゃ、そうなんだけどさ。
 胸中で呟いた言葉も、文字通り、亮の頭の中に居る少女には筒抜けで、「ふふ」と笑う声を聞きながら、亮は顔を洗いに階下の洗面所へ向かう。
 「暁の巫女」であった少女は、今は亮の脳内に入っていた。勿論、永住ということではなく、一時的に。その理由は、こちらの世界において彼女を受け入れる身体がすぐには作れないから。どうしても一ヶ月ほどは掛かるということで、昨日の昼にこちら側、神界に戻ってきた時から、少女は亮の頭の中に居るままでいた。
 もう、慣れたか、俺の頭の中っていうのも?
(そう……ですね。私の方は。亮こそ、大丈夫ですか?)
 ああ、俺の方は大丈夫。
 と、応じつつも正直若干の居心地の悪さは拭いきれなかった。当然のこと、考えている事が誰かに筒抜けというのが気分が良いという人間が居たら、それは少なからずマゾヒストの気のある人間だろうと亮は思う。たとえ大層な隠し事など何もなかったとしても、十六の男の脳内にはいろいろと、倫理的におおっぴらにできない思いが渦巻いているという物で。
 大丈夫かなぁ。
(何がですか?)
「……! なんでもない」
 あまり驚いた物で、顔にかけたつもりの水を鼻の穴に直撃させてしまい、むせこむ。
 一応昨日のうちに徹から、亮に対してはある程度、普段から少女の目を気にするように、少女に対しては亮が五感で知覚したものと少女に対して呼びかける思念以外の情報は感知しないように、そして時と場合によっては見て見ぬ振りをするようにと沙汰は受けている。それはつまり、少女と亮の双方がどれだけ努力したところで、漏れ出てしまう何かはありうるということで。
 しかしそれでも、彼女を今のようなかたちで連れて帰ろうと決めたのは亮自身だった。一応、徹からは準備ができるまで少女を『部屋』に一時的に住まわせることもできる、と聞いてはいた。しかし、あの閉塞的でどこか殺風景な空間に彼女を一人置くのは忍びなくて、自分の脳内に彼女を置くことを望んだのだ。それを、後悔する気は亮にはさらさら無い。
 ……あれ? てことは俺ってある意味マ……。
(亮?)
 や、なんでもない。
 考えないほうが、自分のためのような気がした。
(さて、今日の朝食はどうするのですか?)
「何回目だよ、それ」
 濡れた顔を拭いて、起き抜けに比べていくらか力の入ったように思われる足どりで洗面所を出たところで、少女の少し弾んだ声が脳裏に響く。少し、大袈裟に呆れた素振りをして見せたら、(な……!)と少女が言葉を詰まらせて、思わず頬が緩む。
 一度、「暁の村」で作った料理がそれほど気に入ったのか、帰ってきてからという物亮はことあるごとに、今度は何を作るのか、と尋ねられていた。亮自身、自分の料理の腕がせいぜい同世代の男子の中でなればいくらかましと言うだけで、客観的に見ればそれほど優れているわけでないことは重々承知している。しかし、それはそれ、亮が、「暁の巫女」であったこの少女にまともに頼られる、そんな状況が嬉しくないはずが無くて。
「そうだな……、手間は掛かるけどフレンチトーストでもつくるか。その分他は適当に、トマトとヨーグルト辺り適当にくっつけて……」
 言いながら台所の方に近づくにつれて
 あれ?
(これは、味噌汁ですか?)
 そう、紛れもなく、冷めた味噌汁のあの極端に控えめな匂いが漂ってきているのが感じられた。
 何で?
 渡来家には父親がおらず、会社勤めの母親は息子達が休みを謳歌している最中にあっても変わらず出勤している。朝から部活のある弟の修であれば、朝食の時間も母と同じくらいだから用意されるが、酷い時など昼前まで惰眠を貪っている亮の分までは、一度休みに入ってしまえば端から作らないのが常の事で。
(味噌汁に飯に焼き魚ですか。すっかり冷め切っていそうですが)
 扉を開けた亮の視界に飛び込んできた、テーブルの上には、少女の言うとおりの献立が、一枚の小さなメモ書きと共に並んでいた。曰く
『今日は私が朝が早いので部屋に目覚まし時計だけ放り込んでおいた。必要なら温めて食べること。終業式には遅れないように』
 あいも変わらずかくかくと直線的な母の字で書かれた文章を念のため二度読み返し、壁に吊るされているカレンダーに目をやって
「あと十五分で出ないと遅刻かよ!」