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「あーもー、これどう頑張っても式には間に合わないな……。成績表だけもらえりゃとりあえず良いけど……」
(よく分かりませんが、そんなに急ぐのですか?)
「急ぎも急ぎ、大急ぎだよ」
 一気に掻き込んだ朝食の咀嚼もままならないまま部屋まで駆け上がり、言葉通り放り込まれたように部屋の隅に転がっている、電池が抜けて止まった目覚まし時計の横で着替えて、再び階段を駆け下りてくるまでが何とか十五分。とっくに遅刻の確定した亮は脳内での少女の声への返事もそこそこに、玄関に滑り込んだ。
 亮の通う学校は中高一貫の癖に校舎は狭いので、始業式や終業式を六学年合同で行う事ができず、高校の終業式は開始が十時と、随分余裕のある設定がされている。ただし、そこに通うまでに電車で一時間半を要する亮にしてみれば、起床が八時だった時点で既にかなりギリギリの線の上に居たのだ。
「あー……革靴どこ行ったかな。修の奴、人の靴までまとめて散らかすの辞めろよ」
(右の奥に見える黒いものは、革ではないのですか?)
「あ、そうだ、これこれ」
 下駄箱の最上段の奥の方で裏返しになって転がっていた靴を引っ張り出して、軽く手で汚れを払い落としながら下駄箱の戸を閉めて、
「おわ……!」
 強く締めすぎたせいで下駄箱がゆれ、その上に乗せていた花瓶が倒れそうになったのを慌てて押える。必然的、亮の視界はその花々で埋め尽くされて、
 霞草、か。
(ああ、その花の名前でしたか?)
 花束の一番したの段、花束全体を縁取るように、控えめに生けられている白く小さな花があった。帰ってきた亮が一通り小言を聞き終えたところで母に尋ねたところによれば、その名は霞草。花束などにはおまけのような扱いでよく入っているとか言っていたが、そちらは亮にとってどうでもよかった。その花は、亮と少女とが始めて出会った泉の傍であちこちに咲いていた花と同じだった。
 何分、裸の後姿を見たと思ったら次の瞬間には張り飛ばされていたような出会いだったのでその花のイメージも鮮烈に憶えていて、加えて少女が、この花が好きだから、特にあの泉を水浴びの場にしていた、と言ったのが決定打だった。
(もともと好きな花でしたが、まさか名前までここから頂くことになろうとは、昨日までは思ってもいませんでした)
「嫌だった? 霞って」
(とんでもない。好きな花からとって亮につけて頂いた名、喜んで使わせて頂きます)
「ん、なら良かった」
 言いながら、花瓶から手を離す。
 後で調べたところによれば、白い霞草の花言葉は「清らかな心」。そんなところも、ただ一心に「暁の村」を守る「暁の巫女」であろうとした彼女にぴったりのような気がした。
(時に……急ぐのではなかったのですか?)
「……そうだよ!」
 すっかり物思いに耽りかけていたところを少女の言葉に現実に引き戻されて、放り出した靴に乱暴に足を差し入れる。壁に吊るしてあるコートを引っ掴んで袖を通し、靴箆を使うのも面倒で力任せに踵を押し込んで、
 す……
「……っ!」
(あ……、御免なさい)
 勝手に、亮の意識を離れて足が動いたことに、まず亮自身が驚き、息を呑んで、ついで霞が謝る。
(急ぐというので、つい)
「いや、大丈夫」
 徹の説明に曰く、管理者のように能力の修練度の高い俗界の人間が神界にの人間の頭に入ると、五感を共有することによる錯覚から時にいわば宿主に当たる人間の意識の穴をつくように、その身体を操作してしまう事があるという、今のが、まさにそれだった。そして、一方で、
 ああ、なるほど。
 こんな感覚かと、亮は思った。一度自分がアルテメネを連れてこちら側に戻ってきた時のことは、既に凛から聞いて知っている。意識を失っていたために記憶に無い、自分の身体が勝手に動くという感覚に新鮮な驚きを覚えて、
 あ……。
 ふと、全く別のことを思い出した。
 いや、でもこれは今更言うことなのだろうか、と、すぐに思いなおす。同考えても、今更現実的には何の意味もないのは明らかで、このまま黙っていても何ら害は無い。
 しかし、一方ではそのために霞の経歴には一つ汚点がつくことになった。智が居た以上、どちらにしろ終わりは見えていたことではあるが、それならばなおのこと、最後の最後での汚点などもってのほかであろうし、そこで少女の手を煩わせなければ、もしかしたら何か別な手が打てたのではないかという気もして。
(亮、なにか?)
「いや、さ……」
 どうしようか、ね。
(ですから……)
 ああ、いや……。
 心内での独白が独白ですまない不自由にいささか閉口しながらの思案は、礼のごとくとりとめの無いまま堂々巡りを繰り返して。
 ……まあ、いっか。減るもんじゃないし。
「あのさ、ごめんね」
(……はい?)
 事情を飲み込めないらしい少女が間を置いて問い返してくる。それもまあ、当然の反応なので、亮はもう一度口を開いて、
「アルテメネのこと。霞がせっかく誰もこっちに来させないって言って戦ってる真っ最中だったのに、よりによって霞と間違えて流れ人連れてきちゃって、悪かったな、と。ほんと、ごめん」
 そう、言った。思えばアルテメネと霞とが鉢合わせた辺りからずっと言わないといけないと思っていたのに、いつの間にかドサクサですっかり忘れてしまっていたのを、ふと、アルテメネのことを思い出した拍子に一緒に思い出したのだ。
 少女の方からの返事が、遅い。こうなると相手の顔が見えないこの環境はやはりなかなかやりづらいかもしれない、などと思いながら亮は大人しく彼女の言葉を待って、
(釈然としませんね)
 しばらくして、少女がようやく言った。
(亮は結局私に「暁の巫女」を止めさせたいのか続けさせたいのか、どっちなのですか?)
 いや、そういうのよりは、一応形として、さ。
(形として謝罪が必要なほど、今の私がまだそのようなことを気にしていると思いますか?)
 え、あ……。
 巧い逃げ道を思いつけずに、亮は黙り込む。それに、霞が「ふう」と細く息をはくのが聞こえた。
(どの道「暁の村」はもうなく私も「暁の巫女」ではない。何のために私がここにきたか、もうお忘れですか?)
 ああ、いや……うん、そうだった。
 そう、そうだった。一晩、霞があまりにも自然に馴染んでしまったものだから忘れかけていた。まず目的として、霞は自分が「暁の巫女」でなくなったら何が残るのか、確かめると言っていた。しかし彼女はまだ、「暁の巫女」でない自分を自分自身で確信したとは一度も言っていない。それどころか、「暁の巫女」でなくなった自分がどうなるか分からず不安だとまで言っていた。そんな彼女に対して、そもそも彼女をこちら側へ連れてきた張本人である亮が中途半端に「暁の巫女」について触れるべきではなかったのだ。
「そっか、うん、やっぱさっきのなし。聞き流しておいて」
 切り替えるつもりで、少し高めにした声はどうしてもわざとらしく、それに少女はかすかに笑って。
(……念のため、三度しておきましょうか)
 言って、再び黙り込む。やはり亮もまた大人しく少女の次の句を待って何も言わず、しばしの静寂が流れて。
(これから、よろしくお願いします)
 ……よし。
「任せとけ」
 言い切った気分の良さに乗せて、亮は玄関の戸を開ける。そのまま悠々と家を出ようとして、
(亮、時間は大丈夫なので?)
「……大丈夫じゃない!」
 叫ぶ亮の声の後、いささか乱暴に家の戸が閉まる。急激に狭くなっていく戸の隙間からは冬の寒風が吹き込んで、下駄箱の上、霞草の花がさらさらと揺れた。

                                 完