18年後から今日は

茄子
魅せるなあ。心理描写しかり、状況描写然り、バトル漫画にない魅力があるなと。一方で学校が舞台のスポ魂ではなくて、笑わせてもくれるし、落ち着いて眺めることも出来る。で、最後にはああ、なんか運動したくなってきたと思わせてくれるし。好きだなあ、こういうの。

ほしのこえ
うん……。もう少し、やりようがあるんじゃないかと。それでも、それを雰囲気でなんとなく通してしまうところがこの人たちの凄いところなんですが


秒速5センチメートル
第一話
雰囲気はたしかに同じなんだけど、こっちはいいね。ちゃんとまとまっていて、野暮な突っ込みを許さない力がある。もっとも、こういうことをすることさえできなかった人間には、ちょっと辛いところがあるんだけど。あと電車で待ち続けるシーンは中一の時に総武線で寝過ごして千葉まで言ってしまったときのことを思い出させられましたね。中学生だなんだと言ったってあと数ヶ月生まれが遅ければ大抵のやつはまだ小学生なわけで。あのときは半泣きだったなあ。

第三話
人間どっかで向きじゃないこともしなきゃならんのでしょうが、やけになってそれをやってもろくなことはありませんやね。
自分には未だに、最後のあのシーンで笑顔で踵を返せる心理というのがワカランのですが、どこまで何をすれば、ああいう心理に立つことができるんでしょうね。ひょっとしたら、桜が咲いたところから落ちていくその流れまでをすべて見ていれば、あるいはその光景を許す事ができるのかもしれず、咲いていた桜が気付いた時には宙を舞って落ちていたという状況にあればこそ、その落ちていく花びらを許す事が出来ないのかも。あるいは、あそこで笑えない人間はそもそも咲いた花すらみた事がなくて、つぼみしか知らないのかもしれません。可能態としての花しか知らず、現実態としてのそれをしらないから、その可能性にしがみついて、one more timeと叫んでみるけど、one more chanceは来ないわけで。しかし、じゃあ、そのチャンスが来ない中でどう折り合いをつけるのか。たとえ花をしらなかったとしても、足元に広がっている花びらは明らかにそこにある事実なわけで。それに難しいことに、そもそも人は目の前にあるのがつぼみなのか、花なのか、散り行こうとする花びらなのか、そもそも花があるのかすら、わからないことがあるんですから。
事実、これ見ててなんとなくかきたくなった話はありますが、自分自身目の前に花はあるのか、それは実際どういう道順を辿って今どんな姿であるのかをしらないと、それはもう、気味の悪い願望の塊でしかなくなってしまいますから。

あと監督インタビューの猫最高!




しかし、時々思うんですが、ノベルゲーが音楽で飾り、アニメが動きの所作、色の一つで彩る部分を言葉はどう描くのか、とぼんやり考えてしまうのは、もの書きを気取るワナビの傲慢なのか、それとも気取ってでも文章を作る以上考えなければならないことなのか。どうなんでしょう?