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「おや、驚いたな。最初君一人で来た時点で、こちらのお嬢さんは関わらせないつもりなのだと思っていたんだがね?」
「ああ、そうかい」
 整然と机と、椅子と、電子機器の類が並べられた部屋の透明な扉を開けるなり、コートを脱ぐより先に、わざとらしく眼を見開いた芹山の言葉に迎えられた。横からは凛が再び、「わかってるよね」と釘を刺すかのように、しかしあくまでさり気なく視線を投げてきて、逆にそれがチクチクと痛い。そんな徹の心中を、恐らく知った上でのことであろう、二人は勝手に言葉を交わしていて、
「お嬢さん、気をつけたほうがいい。この男、時に暑苦しい独りよがりが過ぎる事がありますからな。放っておくと一人で何をするとも知れない」
「ええ、もちろん。手綱は握っておりますので」
「ほう。しかし物理的に拘束してしまえば直安心。このように首輪など……」
「こら、ふざけるなジジイ」
 流石に、芹山が机の引き出しの一つから黒い革の、いかにもな首輪を取り出してきたところで割って入って、その皺の因った手から取り上げる。と、ひょい、と身を退いた凛が背伸びをして徹の耳元に口を寄せ、
「まあ、その独りよがりに助けられたんだけどね」
 などと囁いたりして。
「うらやましいな」
「あんたは黙れ。そしてせめて熱血あたりに表現を改めることを要求する」
「それを自分で言うのかね? ……あまり好みじゃないが、暖房の温度をすこし上げるかな」
 眉間に突きつけられた徹の人差し指を手の甲で払って、首輪を取り返した芹山が踵を返す。つられて一歩、前に踏み出した徹のほうも、馬鹿らしくなって、ため息をつきながら手近な椅子に腰を下ろした。
「で、こんな夜更けにまた何の用かな?」
「わざわざ聞くまでもないだろうが」
 伸ばされた凛の、彼女自身の赤い毛糸のコートが掛けられた腕に徹も自分の革ジャンを預けて、尋ねる。心なしか、昼間より部屋の気温が上がっている気がした。
「一体、何が起こってるんだ、『村』では」
「ああ、それね」
 答える芹山は、いかにも勿体をつけて人差し指を徹のほうにむけると、こちらもやはり手近な椅子に腰を下ろして、続ける。
「なかなか、妙なことになっているよ」
  ‡
 これはまた随分と……。
 目の前に広がる野菜、果物、魚、肉、塩や砂糖のような粉末まで、一般的な食材を一通りそろえてみた、といわんばかりの状況を前に亮が眼を丸くしてそんなことを考えたのが数分前のこと。今の亮は脇に、その倉の中から取り出してきた食材を籠に入れて抱え、社の一角にある厨の中、石造りの洗い場の前にいた。
 水はこっちの井戸を使えばよくて、竈はこっち、と。
 あいも変わらず柔らかく降り注ぐ月影を小さな格子窓の外に感じながら、蝋燭の灯りの下、視線で一通りの確認をしつつ、脇の籠を洗い場に下ろす。
 部屋へ戻っていく少女を見送った後、一応は亮も布団に潜ったが、結局、ろくに眠れなかった。無性に腹立たしい心持ちがして、とても眠れるような気分ではなかった。
 別に、昔も今も自分は何も出来ない、出来ていないという事実が気に食わなかったわけではない。もちろんそれも嫌ではあったが、もともとそれを考えていた折に、頭を冷やそうと外に出て彼女に出くわしたのだ。自覚はしている。それよりも、彼女があそこまで胸中を打ち明けてくれたというのに、ただ無力という事実だけを何度も反芻して、噛み締めるだけ噛み締めておきながら、結局びくついてなにか現実的な行動を取ろうとさえしなかった自分自身が無性に悔しかった。そもそも彼女をなんとか助けたいと思っているのは自分自身であるくせに。かつての自分が無力であったことも、今の自分がその時と比して特別変わったわけでない事もわかっていたくせに。それを今更一層噛み締めたところで、これ以上何も出てくるわけが無いというのに。
ならば、せめて自分に何か出来ないか。この世界がおかしい理由はわからずとも、せめて彼女の役目をどこかで助けられはしまいか。一人膝を抱えて、呟くように言葉を紡いでいた彼女を、どこかで支えられはしまいか。
一人布団の中で考えて、決意して立ち上がった後、亮は台所に立っていた。
亮に、その母親と弟の修。早くに父を亡くした渡来家においては食事時にも親がいないことは珍しくなく、運動好きで外で遊んでいることの多かった修に対し、家で父の残した本を読んで過ごすことの方が多かった亮はしばしば、母のかわりに料理をする事があった。と言っても、大抵は市販のルーに頼ったカレーをはじめ、根本的な部分で既製品の力を借りており、食材からすべて自分の手で作れる物となると相当に限られてしまうのだが。それでも、どこかありきたりながら料理なら、とりあえず自分でも彼女の助けになれるのではないかと思った。
まあ、こんなことも傍に相手がいるだけで考え付かない辺りが
「『臆病者』だよな」
 つぶやいて、壁に掛かっている鍋に手を伸ばす。わかっている。今は、そんなことを指摘してみても何も変わらない。ひとまずは、口にし損ねたままの礼と侘びの気持ちもこめて、彼女が起きてくる前に料理を済ませてしまうのが先決だ。
 水はある。洗うもんは洗ったし、鍋もよし、と……。
 これもあの少女の力の故か、未だ点火したばかりのような様子で揺れる蝋燭は部屋の壁にいくつも規則的に並べられていて、竈の薪につける火もそこからとれそうだった。
「さて、やるか」
  ‡
「亮?」
 訝しげに尋ねる少女の声が聞こえたのは、それから一時間ほどあとのことであった。声に、竈の前で振り返った亮が見れば、昨夜童謡白い浴衣の上に紫の着物を羽織り、白く細い両手を体の前で合わせた少女が立っていた。さすがというべきか、一目見た限りではその長い髪はどこも乱れた様子もなく、その鋭さを感じさせる視線にも変わりはなかったが、それでもジッと見ていれば、その髪の束はどこか広がり、瞼も心なしか重そうに見える気がした。
「おはよう。もうそんな時間か」
 時間の経過にも関わらず空の様子が変化しないこの世界では、ともすれば簡単に時間の感覚が狂う。恐らくはそろそろ起きてもいいだけの時間が、夜になってから過ぎたのであろうが、未だに月が浮かび、星が輝き、その光を際立たせるように夜闇をたたえた空からは、とてもそのような印象は得られなかった。
「ちょうど良かった。こっちももうすぐ上がるから」
 言いながら、フライパンが無いため代用した、中華鍋状の重い鉄鍋を竈から下ろす。恐らく少女の方も、廊下を歩きながらこの部屋の明かりが認められる辺りに来た時点で気付いたであろう、いためられた胡椒やら野菜やらが立てる香ばしい香が、鍋が動いた拍子に一際派手に湧き上がった湯気とともに宙に広がる。
「これは亮が? 朝食なら私が作るものを」
「や、まあ……一応世話になる身だから」
「しかし」
 そうは言いつつも、好奇心からか、一瞬、鍋の方に視線をやった少女がその中身を覗き込もうとするかのように首を動かしかけたのは、亮も見逃さなかった。
「いいんだよ。これくらいさせてくれ」
「そうですか?」
 そんな風に尋ねる声もどこか上の空なような気がして、少しだけ、面白い気がした。
  ‡
「美味しい」
「どうも」
 丈の低い小さな机をはさんで床に腰を下ろす二人の間を、そんな言葉が行きかった。
 興味深そうに茶碗の中身を見つめて、再びそこへ箸を伸ばす少女。彼女曰く、彼女自身は昨晩亮が振舞われた味噌汁と煮物、ご飯以外では料理らしいものは出来ないということで、そんな彼女にとって亮が拵えたこの朝食は完全に未知のものであった。
 焼き飯だとか炒めご飯だとか。正式に、これをなんというのかは亮自身も知らない。ただ、ご飯に胡椒、塩あるいは醤油で味をつけ、野菜と共にいためただけのこれは、手間もそれほどかけず、あわよくば前の晩の残り物を使いまわせる上に市販の既製品が必要ない点で亮が好んで作る一品だった。
 それにしても、自分の作った料理を他人がいかにも美味そうに食べるのを見ているのは気分がいいもので、亮は少女の顎がゆっくりと動くのを見ながら、自分の頬がどこかほころんでいるのにも気付かずに口の中のものを咀嚼した。
「ところで、先程のあれは楽しんで頂けましたか?」
 次の一口を箸で運ぶ亮を他所に、少女が机の上においた茶碗のやや手前、箸を指でそろえながら並べて置く。
「以前に会ったときも、亮はあれが好きでしたからね」
「ああ。……楽しませていただきました」
 対する亮も再び口の中を空にして、回想する。
 あの小さな鈴の音がこの「村」に夜をもたらす一方で、この世界の昼はある唄によってもたらされる。管理者たる少女が謳いあげるその唄に歌詞らしいものは聞き取れず、あたかも声を一つの楽器として扱い生み出されるかのようなその音色は、温かみと柔らかさを持った鈴の音とは対照的に、澄み渡り、聞く者に清涼感さえ与えるようで。そしてその唄に覆いかぶさるかのように空に広がっていた夜の帳は、彼女の高く震える最後の一声が結ばれたその直後、一瞬のうちに消え去り、太陽、青空、かすかな雲の姿がそれにとって変わり、村では一斉に家々から目覚めの声が上がるのだ。昼から夜への緩やかな変化、暖かな鈴の音も嫌いではないが、亮としては、そのさっぱりとして劇的な昼の訪れや、澄み切って心地よいまでに直接体の内に響くような歌声の方が好きだった。
「どうです。その後、練習は順調ですか?」
「へ?」
 問いの意味が分からずに問い返す。対する少女は再び茶碗を手にして、箸を口元へ運ぼうか、という折、上目使いに問うた。
「あの唄を練習すると、意気込んでいたのは亮ではありませんか?」
「あ?……うあああ」
「思い出されたようで、何よりです」
「どうしてそんなことまで覚えてるんだよ……」
 思わずうなだれてそう漏らす。
 声変わりも始まっていなかったあの頃、少なくとも音域の面だけから言えば少女の歌声を真似ることは、亮にも不可能でないように思えた。だから、素直に亮は挑戦してみたのだ。そして、結果は酷い物だった。もともと言葉を発しているわけではないからどんな音を出しているのかもよくわからないし、独特の調子で謳われる旋律は辿るだけでも困難を極めた。試行錯誤しているうちに音程さえも分からないようになり、
『……そろそろ諦めてはどうですか?』
 見かねてそう呼びかけた少女に、亮は
『練習すれば出来るようにもなるっ!』
 意地になってそう噛み付いたのだ。
「や、結局真似なんて出来ませんでしたとも」
「当然です」
 降参、といった調子で言った亮の言葉に、少女は茶碗と箸をおいて応じる。
「私はこの世界の管理者でありあの唄を謳うのはその職務。唄自体は私が授けられたその道具です。そうやすやすと他の者に真似られては堪りません。それに仮に出来たとしても、私以外が謳っても効力はありませんし」
「……」
 その言葉にいちいち疼く胸の痛みを抑えて、亮は再び箸を口へ運ぶ。
 助けのつもりでやってみたとはいえ、所詮食事の準備は補佐の補佐程度にしか過ぎない。衣食足りて云々とは言っても、彼女の仕事、管理者としての『暁の村』の維持を直接助けることなど出来てはいない。
 ……とりあえず、これが終わったらちょっとあちこち調べてみるか。
 何か手がかりでも見つかるかも、あるいはそれをもとに帰ってからなにか調べられるかも、と考えた折のことだった。
 ず……。
 風とも音ともつかぬ奇妙な気配が、さながら狭い部屋からあふれ出した熱気か何かのように通り過ぎていく感触。一度知れば何より体が忘れない、生ぬるくぬめった泥が全身を覆っていくような独特の感覚。
「おい」
 はっとして亮が顔を上げて尋ねた時には、正座していた少女が跳ね上がるように立ちあがっていた。
「そう……流れ人です。しかも多過ぎる……!」
 答える少女のは悔しそうに奥歯を噛み締める。しかしそれでも、戸惑いつつ立ち上がった亮に対して彼女には迷いや戸惑いに類する物がなかった。
「赤白青黒四色の鳥 数多集いて虚を満たせ 飛鳥」
 目を閉じ、かすかに俯き、何かに祈るように、そう呟いて後、
「ついてきてください。ここは鳥居から入れば目の前の部屋、危険に過ぎます」
 はきはきとそれだけ言って駆け出す少女の背を追うように、亮も駆け出した。