一口に思い出と言ってもいい思い出といやな思い出があるというものだが、時々ある、そのどちらとも判別できない思い出は性質が悪い。いい思い出ではあるから忘れられず、ふとした弾みに思い出されて、そのくせ悪い思い出でもあるから次の瞬間には後悔にさいなまれる。精神衛生上あまりよろしいとは思えない。
 なんて、愚痴を垂れてみてもなぁ。
 渡来亮はすぐ横の立派な木、林の外輪にあって、一際活発に枝を伸ばした一本の常緑樹にもたれかかって、ぼんやりと目の前の光景を見渡した。
 目の前に広がるのは、「田舎っぽい」という言葉を映像化してみたら出来上がりました、といわんばかりの農村の光景。目の前の少し広い道を渡った向こう側には水田と畑が混在していて、ところどころに藁葺き、土壁の家が建ち、林に覆われた山にぐるりと囲われたその中央を、割って通るように川が流れている。多くの人に無条件に奇妙な懐かしさをもたらす光景である一方で、亮にとってはまさしく、まだ餓鬼の頃のいい思い出といやな思い出をまとめて、押しつぶして、投げつけてくるような光景だった。
 それにしてもまあ、いきなりとんでもないところに……。
 決して諸手を挙げて歓迎は出来ない状況にため息をつきつつ、重心を自分の両足の上に戻して、とりあえず林の日陰からどこかくすんだ冬の日光の下に出ようとして、左足を浮かせた。そのときだった。
 ごう
 う……っ?
三ヶ月前に切ったきりでいささか邪魔にも思える前髪とか、無地の長袖Tシャツの上からはおった一着千九百八十円のフリース地のパーカーとか、もろもろをばさばさとたなびかせる突風を置き土産に、なにか大きな塊が目の前を通り抜けていった。
 なんだ……?
 訝って、追いかけるように視線は右から、左へ。
「飛鳥!」
 ひょうっ
 ……っ!
そこに、先ほどの何物かを追いかけてくるかのように、まずは女の声と、今度は突風など伴うことなく、その代わりに風を切る鋭い音を後に引き、一見すればカラフルな、それでいてどこか白んだ光を放つなにかが、また、一層すさまじい速度で駆け抜けていく。
後ろから見ていれば前後の運動体の速度差は明らかで、良く見れば二人の人間である先行者を追っていく、同じく良く見れば別々の色をした四つの何かが群れをなした後者は、錐揉み状に空間を駆け抜け、急激に進行高度を下げたかと思いきや、先の二人の足元に墜落、炸裂した。
鳥そのものが地面にのめりこんだあと、周囲の地面自体が爆ぜ飛んだかのような、派手な衝撃に足元をすくわれた二人はバランスを崩しつつ踏みとどまって、降り返る。言葉はない。ただあれだけの速度で走っていたわりに、二人から二十メートルと離れていない場所で、本能の命じるまま林の木陰に身を隠した亮が盗み見る限りは、二人の肩が上下しているようには見えず、そのむしろ落ち着いた印象が一層その場の緊張感を演出していた。
一体何事か、と立ち上がり、林の外輪からひとつ奥に入った木の幹の陰から出る、間もなかった。足を止めた逃亡者に、四色の光弾は容赦なく再び襲い掛かる。鳥――それも猛禽類のようというよりは雀や鵯のような――に似たそれは小さな身で見事な編隊を組んで空中をすべり、それを逃亡者の片割れである、真黒いドレスと肘までの手袋に身をつつんだ、地面にも届こうかという程のシルバーブロンドの少女が、自身の足元から肩までは覆えそうな大きいばかりで飾り気の無い盾で受け止める。間髪をいれず、盾の表面に閃光が残る中、後ろに控えた長身の男が、長い、くたびれた煉瓦色の外套の中から、流星錘――とにかく長い紐の両端に結わえられた拳大の錘――を投げ返す。正確に軌道にのせられた二つの金属球はその重さをどこかに置いて来たような速度で宙を奔り、しかし、目標に到達する前にあえなく、向かいから迫ってきた光の鳥に迎え撃たれ、それぞれに破壊。先導者を失った紫色の紐が力なく地に落ちた。
反撃を試みて失敗した逃亡者としては当然の反応、一組の男女は迷う暇もなく再度の逃亡を図り、踵を返そうとした。しかしその直後には半身を翻そうとした二人の体の間に、別の人影があった。
白い着物に緋色の袴という巫女装束そのまんまな格好で、颯爽と現れた追跡者は、酷なまでに素早かった。僅かに半歩ほど近くにいた少女のほうを盾もろともに突き飛ばし、降り返る勢いで男の腹部に掌底を叩き込む。体重差のために体をくの字に折るだけでその場に立ち止まった彼の、下がった顎にもう一突き、重心が後ろに傾いたところで両足を大外狩りに薙ぎ払い、その長身が倒れるのを他所に一息に振り返り……、反撃を警戒したもう一人の相手のいたはずの空間を僅かに睨んで、下がっていた重心を上げて姿勢を正す。
大方顎を打たれて天を仰いだ所に足元をすくわれ、酷い打ち付け方をしたのであろう、身動きを止めた男に彼女はするどく視線を流し、僅かな胸の上下で存命を確認する。
「……」
息を潜めて見守る亮の視線には気付いていないのか、彼女は男のすぐそばまで歩み寄り、その脇に肩膝をたてて腰をおろすと、その、右の掌を彼の胸の上にかざして、何事か、小声でつぶやく。それを合図に、さしたる前触れもなく突如としてその下に現れた暗い円に、それはもうゴルフボールがカップに納まるように自然に、男の体が呑みこまれ、消えた。
「あ……」
その光景に、意味を成さない声が漏れる。意図せず、目が見開かれているのを感じる。そのおかしな光景に、指先はどこか痺れたような感覚すらあって。
しかしそれは異様な光景への驚嘆や恐れからは程遠く、亮は極自然に、すく、と立ち上がっていた。
こつ、と
木の根に靴底の触れる小さくどこか硬い音。警戒心も露に追跡者たる彼女が、何か忙しなく呟きながらこちらへ振り返る。そして、
「久し振り」
 手元に現した光の鳥を払うようにかき消して、彼女は返した。
「……亮?」
 ああ、本当は思い出だけでも満腹なのに。
  ‡
 信頼を得られるかどうかを度外視して語れば、「世界」という観念で独立した単位として扱える存在というのは実は沢山ある。その中にはこの、地球があり、太陽系があり、銀河系がある世界を基準にした時に、原始的なものから先進的なもの、極端に狭い物から宇宙一つを内包してしまうものまでいろんな世界があって、この世界もあくまでそのうちの一つに過ぎないのだ。
 六年生の夏だから、いまから四年と半年前、そんな話を亮に教えてくれた相手は、あの時とほとんど変わらないままで、今は高校生になった亮に背を向けて座り込んで、人二人が乗ってもまだ面積に余裕のある巨鳥の背中からそれを操っていた。
「それにしても驚きました。また亮の顔が見れようとは」
 山吹色の細い紙の帯で根元を束ねた長い黒髪を風に揺らし、良く澄んだ声で彼女は言う。改めて近くで見る少女には、亮が久方ぶりに触れる、独特の清らかで、それでいて芯の強い雰囲気があって、傍にいる亮まで背筋が伸びるような心地よさがあった。
「随分と背が伸びたのですね。他にお変わりは?」
「ない、と思う、多分」
 答える亮の声はどこか力なく、少女もそれを見咎めて肩越しに振り返る。
「釈然としませんね」
「……少なくとも今、高くて怖くて酔ってるのは……かわってない。ああ! 大丈夫だから、今のままにして」
 このまま速度まで上がろうものなら今回も嘔吐という結果がもれなくついてきそうだから。
 口の中の苦いとも辛いともつかないものをなんとか飲み込んで、焼け付くような喉に手をやり顔をしかめる。いや、少なくとも亮が高所恐怖症なのはたまたまのことであって、この場で誰がわるいわけでもないのだけれど。
「御免なさい。完全に失念していました」
 それどころか、そう心配そうに顔を覗き込まれたのでは、悪い気がしないというのが本音なわけで。だから、きっとはやく地上に降りる気遣いなのだろう、言っている傍から巨鳥の飛行速度が上がっているのが風で肌に感じられるのも気のせいということにできるはずで。
 不快感から俯きがちになりながらもただ一点を見つめえていては不快感ばかりが際立つのが道理。気晴らしを求めて、亮は上目遣いに、時々髪がはねてうなじが覗く、背筋の通った、紅白に彩られた彼女の後姿に目をやる。
 忘れようもない思い出の一部。この小さな集落は、亮にとって初恋の場所であり、目の前にいる彼女は初恋の人その人であった。
 切欠はと問われれば、偶然としか答えようのない出会いであった。もはや何の機会であったかも失念した、小学六年生の夏、亮は一人、突然にこの世界に迷い込み、林の中をひとしきりさ迷い歩いた末に、当時は背丈で頭一つ以上劣っていたこの少女に拾われた。その時の彼女はちょうど、木々に隠された小川の支流の只中で水浴びの最中で、亮は十二歳にして、その背筋の通った後姿と、頬に濡れた髪を張り付かせて振り替えるその横顔に一目惚れした。中高と私立の男子校に通う身としては貴重な体験ではあろうが、今にして思えば、思い出すのもはばかられる気恥ずかしい記憶でもあり、未だにあの時の光景をありありと覚えている事が後ろめたくもある。
 ともあれ、幸か不幸か、その後特別際立った異性との交友も無かった亮には目の前の少女の存在は例え時間の経過にいくらかぼんやりとかすれる事があってもまず忘れ得ないものであった。
 もろもろを回想しているうちにだんだん目の前の背中を見ているのにいたたまれなくなって、目を自分の手元にそらす。なんというか、白衣のえりから覗くうなじと過去の記憶をくっつけて、見えないところまで想像してしまうのは悪い気がした。
「ところで、亮」
 そう言って振り向く相手が、亮の心中など知ろうはずもなかった。目をそらす隙など与えず、むしろ体ごと向き直って正面から両の瞳を見つめて、彼女は言う。
「今日来たのは、なにか用事ですか?」
「……いや?」
「そう、ですか」
 どこか残念そうな余韻を言葉に持たせ、答えて前に向き直ったその背中を見て、亮は小さく、細く息をはく。彼女の改まった問いに何か期待めいたものを感じ取って、突如湧き上がった体の緊張が、罪悪感を残しながらほぐれていく気がした。
 その反応をなにか別の意味に取ったのであろうか、少女が再び、気遣うように振り向く。
「具合の方は大丈夫ですか? もう、見えてきましたから、直ですよ」
「ん、ああ。言うほどひどくはないから……」
 言って、急に風が穏やかになったような気がした。
「そうですか、では」
 速度を遅めた巨鳥は、まるで何かに狙いを定めようかとするかのように、空中で大きく一周旋回して、
「しっかりつかまっていてくださいね」
「ひっ……!」
 急降下。声にならない悲鳴は亮の胸の内に鳴り響いた。
  ‡
 彼女は山の上、長い石段をひたすら登っていった先にある、社に居を構えていた。白塗りの壁の間、鳥居を潜り、倉を右手に、玉砂利を敷いた庭の飛び石を渡っていけば、賽銭箱のかわりに、玄関に当たる縁側に上がる木製の階段がある。その様相もやはり変わってはいない、と、ようやく巨鳥の背を降りて、建物全体の角にある部屋に通された亮は、開かれた襖から外を眺めつつ思った。
 主たる少女はと言えば、亮の向かいに正座して、盆の上で湯気を立てる湯飲みを亮と、自分の前におく。
「どうぞ」
「どうも」
 なんとなく会釈。猫舌なので当分飲めません、とは早くも一口目をすする彼女を前に、口にしない。
『さて、前に話したことはどこまで覚えていますか?』
『……悪い、最初から』
 そんなやり取りの後、確かに言われれば聞いた覚えのあるような、講義めいた話が始まった。いくら変わった体験であったとはいえ、むしろ変わっていて日常的に反芻する機会が無いからこそ、亮は四年半前に聞いた話の細部をほとんど忘れていた。それ自体は仕方ないことでもあろう、と幾分自己弁護の意味もこめて納得は出来るが、今あえて再び、改まって説明してきたところからも、目の前の少女にとっては自分に知っていてほしいことであったらしく、それを鑑みると悪いことをしたような気がした。
 彼女の言葉を借りるならば、数多の世界は唯一で支配的地位をもつ「神界」とその他の従属者たる「俗界」の二種に大別される。すべての俗界はその情報を外部に保存され、その従属下にあることを余儀なくされるが、俗界を創り出した者が属している神界のみは、ちょうど人が箱庭を眺めて自由に木々や石の配置を変えられるように、何に従属するでもなく存在し、俗界の情報を何に妨げられることもなく対象化することができる。
それだけであれば、本来個々の世界は独立して存在しているので、そのような事実がある、というだけで特別問題は生じない。しかしイレギュラーというのはいるもので、俗界の内にありながら、限定的に世界の情報に関与できる者というのがいる。具体的には、強く何かを念じ、想像することによって、自身の認識を改変し、さらにそれを現実に投射、創造してしまうのだ。
もちろん、何でも好きなように作り出したり、作り変えたりできるわけではない。自己の認識を世界に押し付けるこの能力は、全く別の主体による、自身と異なる様相での現実への認識すべてがその発動の障害となる。加えて、想像の内容が複雑になるほど、意識は広範に分散し、個々の部分への配慮は行き届かなくなる。この二点が原因で、元来の力量によって使える能力の程度も上下することになる。
多く、この能力を得たものは、当初偶然にその力を手にし、よくわからないまま奇異の目を恐れて力を隠したり、あるいは有効に利用して財をなしたりする。しかしそのうち、大概の者が気付くのだ。この力はもっと大きくなる余地が有るのではないか、それを可能にする物があるのではないか、と。だが例えば農夫各自が勝手に水路が引けるようであっては、誰かの利益が誰かの利益と競合し、収拾がつかなくなって周辺の農夫が一斉に共倒れするように、俗界の人間が俗界を自由に際限無く改変する事は認められえない。結果、神界への道を求めて世界を彷徨い出した能力者は流れ人と呼ばれ、俗界が創造されたときに定められ、当初から永劫その世界の現状維持を任された、いわば公認の能力者である管理者がそれに対処することで一応の平穏が保たれる。
「そうすると昼間のふたりも流れ人なわけか」
「ええ」
 湯飲みに息を吹きかけながら言う亮の言葉に頷いて、少女は表情を曇らせる。
「しかし、最近妙なのです。彼らの来訪が、あまりに多過ぎる。もともと数少ない神界に直接道を繋ぎうる俗界の一つであるとはいえ、ここの所彼らが訪れない日がまずありえない。なにかあったのではないかと思うのですが……」
 知りようが無い、と。
 濁す言葉のその先を頭の中で補完した直後、
「亮に心当たりはありませんか?」
「……え、何で俺?」
「え?」
 尋ねられたことに対し逆に疑問で応え、その疑問にまた戸惑いで応じる。亮にしてみれば、久々に再会した少女の、随分と特殊な事情を今しがたきかされたばかりで、そこに突然心当たりは、と聞かれてもそもそも何故そのような事を問われるのかが分からなくて。そのまましばしお互い困惑顔をつき合わせた後に、おずおずと口を開いたのは彼女の方だった。
「亮は、神界の人間ではないですか」
「へ」
 ……曰く。俗界から訪れる流れ人は、必ず、村の只中を流れる小川の近辺にしか現れない。逆に神界から訪れる人間は、必ず山の林の中に現れる。また、帰るときも、俗界へ繋がる空門は、彼女がその気になればどこにでも出現させられるが、神界へ繋がる神門はこの社の特定の一室でなければ開けない、と。
 確かに言われて見れば、先ほど見た長身の男のように、強制送還をくらった記憶はないし、二度の訪問はどちらも気づいた時には林の中にいた。一度目など、その林の中で真っ直ぐに歩けばいいものを、妙な直感を頼りあちこち彷徨ったおかげで、あわや疲労に倒れるところだった。しかし、亮自身にはそれ以外に神界の人間であるという認識をもちうる確証はなく、仮に層であったとしても現状を打開する情報の類はもっていないわけで。
「まあともあれ」
 しばしの沈黙の後、やはり少女が口を開く。
「また会えてよかった。前回は随分急な別れでしたし、無様な姿も晒してしまったので、気になっていたのです」
「ん、ああ」
「しばらく楽にしていてください。私は、なにか食べる物を」
 言われて見ればたしかに空腹感があって、そろそろ昼食の時間かもしれなかった。
「あ、ちょっと」
 しかし、その前に確認しておかなければならないことがあった。
 なんでしょう、と立ち上がりかけたところから再び腰を下ろす彼女を前に、躊躇する。今から聞こうとしていることは状況も鑑みると流石に人としてどうなのか、という内容で、でも聞くは一時の恥、聞かぬは云々というように、このまま放置しておくのもまずいのは確かであって。
「凄く申し訳ないんだけどさ」
「はい」
「……名前、なんて言ったっけ?」
 あえて繰り返せば、目の前にいるのは亮の、忘れたことのない初恋の相手である。
「……」
 沈黙が、胸に痛い。俯いている彼女の表情も亮には読み取れず、ただ返事を待つことしか出来ず、罪悪感を筆頭にもろもろの感情に突き動かされて主張を強める脈拍を抑える。
 と、不意に何も言わず、少女が立ち上がった。
 顔は俯いたままで、状況が状況だけに咄嗟に止めることもできず、若干送れて、謝ろうと亮が口を開いた折。さっと顔を上げて、彼女は言った。
「名前は、ありません。ただ私はこの『暁の村』の管理者、『暁の巫女』であるというだけですから」