3

 ‡
 ……ほう。
 案外、残っている物だなあ、となんとなくぶらついていて見つけた、柱の角に目を凝らす。
 餓鬼の行動力は余計なところで旺盛なもんだな。
 つい、と指でなぞるところには刀傷のように楔形の傷が二つ。亮自身が四年と半年前、ここの台所から拝借した包丁でつけた傷だ。いまの亮の肩の下あたりにあるのが当時の亮の身長のしるしで、その十センチほど上にあるのがこの社の主たる少女の身長のしるし。そういえば、亮の身長の伸びに比べて、彼女の身長は、目の前にあるしるしの高さとあまり変わっていないような気がした。
「……さて」
 深呼吸を一つ、胸の中を空にしてから、音を立てず、梅の描かれた襖を開ける。
 部屋自体は小さなものでせいぜい三メートル四方、入り口に向かう壁には格子のついた小さな窓があり、外気が風となって吹き込んでくる。そして、その窓のすぐ下に、供物台かなにかのように置かれた三方と、その上に鎮座する、柄のついた、焼き物の鈴があった。
 その鈴を、亮は屈みこんで手に取る。
 一人、無為に時間を過ごすにも限界があって、屋敷の中を散策し始めた亮が、真先に気になったのがこの鈴だった。
上薬など掛かっていない、装飾らしい装飾もない、ただ拳一握りほどの長さの柄がついた、底が若干潰れた素焼きの鈴。時々中で玉が転がり、柔らかい音をたてるそれを、亮は目の高さに持ち上げて眺める。
 直ってる?
 それどころか、今手にしている物は、一度壊れて直されたのではなく、はじめの姿のまま傷一つつかずに今日まで在りつづけてきたかのように見えて。
 その背後で、とん、とかるい足音が聞こえた。
「おや、ここでしたか」
 振り返れば、部屋の入り口には、体の前で両手を重ねて立つ、社の主たる少女の姿。
「ちょうど良かった。それを貸してもらえますか? そろそろ時間なので」
「ああ」
 差し出された白い手に柄をつかませて、亮は一歩後ろに退く。
 慣れたもので、鈴を受け取って窓の前にたった彼女は、あえて何か言うこともなく、ただ、それをころころと振った。
 そして、世界の色が変わった。
 焼いた土の奏でるどこか柔らかく温かい音は、水面を漣が滑るように、空間に広がっていった。そしてちょうどその前線を示すかのように、彼女を中心に、壁の灯台には順に灯がともり、空は冬の昼のくすんだ青から夜の深い藍へ変わり、穏やかに光を注ぐ太陽は射すように輝く星とぼんやりと揺らぐ月に変わり、空気は身を切るような冷気を抱き、昼の光を受けてただ広がっていた玉砂利は、月明りに応えるようにかすかに輝き、自己主張を強めた。忘れもしない、同心円状に広がっていく夜の光景。その幻想的な空間の中、円弧に触れた直後から、昼はたちまち夜に呑まれる。村の家々からも順に寝息が聞こえるようになる。
時間は確かに流れても、この世界の空はその経過を独りでは示し得ない。太陽も月も、現れてから消えるまで、その位置を変えることはない。なぜ、と尋ねたかつての亮に、巫女装束の少女は「そのように出来ているからです」と応えた。そしてそのために、こうして彼女自身が強制的に昼と夜を交代させるのだ、というのは先程ようやく冷めた茶をすすりながら聞いた話。
つまるところこれは彼女が管理者としてこの世界、暁の村を正常に運営するうえでの必要な儀式であり、彼女の細い指がその柄をつまむ小さな鈴は、彼女がこの村の管理者である証であり、象徴であった。
「相変わらず綺麗なもんだな」
「そうですか? そういえば、前にこれを見せた時の亮は大喜びでしたね」
 私は見慣れてしまって、と言って微笑みつつ、鈴を三方の上に戻す。文字通り、かすかに残る記憶の中の、夜の帳が空を覆っていく光景に歓声を上げていたかつての自分が気恥ずかしくて、泳いだ亮の視線がその三方を捉える。
「……その鈴、直したんだな」
 部屋の出口の方へと踵を返そうとした少女の足が、止まる。
「ええ、それ自体は難しいことではないですし、無いと困りますから」
 その言葉のどちらにも嘘はない。亮自身、今日既に、少女が自分の力で地面にえぐったクレーターを、呪文めいたつぶやきとともに直すのを目撃している。世界の情報に関与する力などといえばややこしい気もするが、早い話がいわゆる魔法のようなものらしい。
「前回はあの一悶着のせいでろくな見送りも出来ませんでしたね。まったく、無様な限りです」
 うん、まあ無様だったな。……意味するところは違うんだろうけど。
 夕食の準備をするから適当に最初に通した部屋に来るように、と告げて部屋を出て行く少女を背中に、眉間に皺を寄せた亮の意識は時間を遡る。
  ‡
『その鈴って大事なものなの?』
 『ええ、私が私である証ですから』
 あれはそんなやり取りがあった直後のことだった。どこかで突如として空気の密度が何倍にも膨れ上がり、それが均等化を図って周囲に広がり、押し寄せたような感覚。風とも音ともつかぬ違和感が体の表面に触れて通り過ぎていくのを亮が感じたのとほぼ同時に、少女の表情が変わった。その時点で亮にはそれが流れ人襲来の合図であるなどと知る術もなく、彼女なりの配慮であったのだろうか、少女もただその部屋で大人しくしているように、とだけ言って部屋を出ようとした。
 轟音がして、社を囲う壁に大穴があいたのは、その時のことだった。
 『早すぎる……』
 つぶやいた少女は、ためらうことなく格子のついた窓に光の鳥を打ち込んで、唖然として立ち尽くす亮を他所に無理矢理広げた穴から部屋の外、侵入者の待ち構える庭へと躍り出る。その時半分残されていた壁が巧妙に自分の体を庭に立つ視線から隠していたことなど、やはり亮には知る余地もなく、ただ突然のことに、痺れた手足をぶら下げて立ち尽くしていることしか出来なかった。
 名乗り上げもそこそこに、程なくして轟音、爆音、衝突音が響き始めた。夜闇の中でひとたび何かが光るたびに小さな部屋の白い壁はその色を映し、ひとたび何かが爆ぜるたびに壊れかけた壁は敏感に震える。その部屋の中に、取り残されて立ち尽くす亮と、三方の上に安置されたあの鈴があった。
 これは、こんなところにあっていいのだろうか。
 少し前の少女の言を考えれば思ったのは極自然なことで、当然の帰結として一歩踏み出し鈴をつかもうとした。状況に呑まれてろくに動かない体を奮い立たせて、手が届こうとした時、残された壁が木材の折れる音とともに突き破られて、まさに目と鼻の先で、鉄の花が開いた。ちょうどチューリップの花のような姿をしたそれは、完全に硬直した亮の前で幾度か不気味に開閉を繰り返した後で、残された壁ごと強引に庭の方へ引き戻される。庭の灯台の中で夜風に揺れる火に一瞬気をとられて、気がつけば足元には、粉々に砕けた素焼きの欠片が散らばっていた。
 恐らくその攻撃自体は流れ弾のような物であったのだろう。ただ亮の方にその累が及んだことで僅かに、しかし確かに振り向いた少女の隙を、襲撃者は見逃さなかった。
 つぼみのように閉じた先ほどの「花」が鎖に操られるままに直進し、少女の胴に食らいついた。軽い体は簡単に宙を舞い、へたり込む亮の目の前で着地し、四方に開いた鉄の花弁に体を押さえつけられて、その口から空気が漏れる。不気味な光沢を宿した曲線が少女の首に触れ、脇の二枚は彼女の胸部を挟み込んで動く気配もなく、残る一枚は袴越しに、かすかにその先端を少女の下腹部に食い込ませていた。それでも襲撃者はなお攻撃の手を休めず、小さな砲丸のようなものを下手で放る。
『飛鳥っ……!』
辛うじて片腕を上げた少女のかすれた声に応じて、青い一羽がその砲弾を迎え撃ち、残る三羽が男のもとへと直進する。爆ぜ飛んだ球体からは鳥もち状の白い物体がこぼれ、淡緑色に輝く庭の玉砂利を穢した。
『立って!』
 身に迫る危機をかわそうと一端「花」を引き戻して後ろへ跳んだ男が再びそれを投じるのを、「鳥」で向かい撃つ少女が起き上がり、呆然としている亮の手を引いて部屋の中へ上がりこむ。手を引かれるがままに亮も立ち上がり、引きずられるように廊下を走る。歩みの遅い自分の足につまずいて転びかけ、それでも繋がれた冷たく細い手だけは離さないように、握り締めて。そしてせめて前を見据えようと顔を上げて、彼女の白い着物の背中に赤い染みが広がっていることに、気付いてしまった。
 ショックで足がもつれたところを、背後から迫っていた襲撃者――首から足元まですっぽりと覆い隠す、黒いマントを纏っていた――にパーカーのフードをつかまれる。
『光矢!』
転びかけた亮に体を引かれた少女が振り返り様、男の方に指を突き出して叫ぶ。直後、何かが強く光って、亮の首に掛かっていた負荷がなくなった。
 『さあ、早く』
 急かす少女の顔色が良いといえようはずもなく、しかし亮は何も言えずにただその言葉に従った。今にして思えば、学校では最高学年の威を存分に示していても所詮は物語が好きな十二歳の子供であり、その子供にとって自分より背も歳も上の人間が、血を滲ませながら走り、時折背後からの襲撃に傷を増やし、押し殺したうめき声を上げる光景は、言葉をなくさせるには十分だった。
 そんな逃避行の末に辿り着いた部屋の中央には、青白い光をたたえた円形の何物かがあった。少女は亮に、床に描かれたそれに飛び込めと言った。そうすれば帰れるから、と。そして折り悪く、追いついた男が襖を蹴倒して部屋に乗り込んできた。
 直後、少女に背中を強く押された感触は未だに覚えている。足をもつれさせつつその円の前まで押された勢いで辿り着いた亮が振り向いた先では少女が戦っていた。その顎を大きく開いて食らいつかんとする「花」を「鳥」で撃ち落しながら床を後ろへ蹴って、男の両肩をめがけてさらに「鳥」を放つ。直後、後ろへ流した「花」に連なる鉄の鎖に足元をすくわれ、あわや絡め取られそうになるのを横にとんで避け、その脇を走り抜けようとした男の脚を床のすぐ上で蹴り飛ばして、それ以上の前進を食い止める。男が彼女を退かせて亮の後ろのものを目指していることも、少女がそれを止めようとするが故に動きを制約され、余計に攻撃を受けていることも、亮の目にさえわかるほど明らかで、それでも直、痺れる手足と激しい鼓動を抱えた亮はなにもできずにただ立ち尽くしていた。
 その、怯えきって思考すら放棄した意識が、不意に悪寒を覚えた。その一瞬、亮を見る、というより睨みつけた少女の瞳に、明らかに剣呑な気迫が宿っていた。
 その視線に一歩、後ずさる。さらに、なぜか亮の足元めがけて放たれた赤い光の鳥から逃れてもう一歩、後ずさる。その目の前では、後ろを向いていたところに蹴り上げてきた男の足を辛うじて、十字に組んだ腕で止め、下がった後頭部に手刀を叩き込まれ、追撃を加える「花」を、横に転がってかするにとどめ、新たに血の滲む脇腹を押さえながら、歯を食いしばって立ち上がる少女の姿があり。そして
 『行きなさい!』
 なおも脚が後退を拒否して痺れたように麻痺するなか、その声に気圧されて、頭から後ろに倒れこむようにして、もう一歩。体は青白い光と浮遊感につつまれ、閉じていく視界の先には少女を横に投げ飛ばして駆け寄ってくる男の姿。その背後には四色の光の鳥が迫っていた。
  ‡
 ああ、まったく無様なもんだ。
 部屋の中で独り、横になりながら胸中でつぶやく。
 嫌な事を思い出した途端に意識はそのことに囚われてしまい、少女の作った煮物、味噌汁、白いご飯という夕食の味も、そのあとにつかった風呂の湯加減も上々であったとは思うのに、それらへの印象はすっかり薄くなっていた。
 四年と半年前、自分のためにこの世界の主たる少女に傷を負わせ、何の手助けも出来ないままほとんど追い出されるように別れたあの一件以来、もともと自己主張が控えめで、記憶に残るような大きな喧嘩も数度あるかないかといった亮にとって、自分は決定的に、何よりまず臆病者であって、ここはそれを嫌というほど認識させられた場所であった。もちろん、当時の自分の年齢をとって考えればある程度は仕方ない、という客観的な判断が出来ないわけではなかったが、それにしても、限度という物があるというのが、論理的にはどうあれ正直な感想なわけで。加えて、初めからその素質が自分にあったことはわかるだけに、そういった客観的な思考はともすれば「仕方ない」と冷静を気取って自己批判から逃れようとしているように思えて、亮には癪でならなかったし、彼女への申し訳なさも募る気がした。
 しかも、だ。
 亮自身、臆病者と自分を卑下してみたところで、それで何か解決しようとは毛ほども思っていなかった。むしろ機会があれば、何かを償いにとまではいかずとも、せめて礼と侘びの一つは入れたいと、思っていた。しかし、今にして思えばそんな感情はいつの間にか誇張され、形骸化してしまっていた。今回、たまたま扉が開いていた、「ゲート」と呼ばれた機械の中に再び踏み入れたのだって、明確な目的よりも好奇心に拠るところが大きくて、だから、それでいきなりこの「村」を引き当ててしまった瞬間は思わず愚痴が漏れた。しかも目の前をあの光の鳥が通り過ぎていった瞬間、愚痴を垂れる一方でかすかに感じていた、これが長年の胸の閊えが取れるチャンスかも知れないなどという思いは、冬のくすんだ空のどこかへ消えてしまった。普段、あの夏を思い出すたびに自分に吐きつける「臆病者」の三文字が呪詛のように耳の奥に聞こえて、自分に出来ることなど何もないような気がして、反射的に木の後ろへ身を隠していた。それにとどまらず、一連の戦闘の後で言葉を交わした少女の体には、今の彼女と、林の中で始めてみた彼女と、傷つき、白い衣や朱の袴を血で穢した彼女の姿が重なって見えるようで。その彼女から投げかけられる、何かを期待するような言葉は、まるであの時の彼女から今の自分に投げかけられているかのようで、その彼女に頼られることに、恐怖に似た抵抗感を、心のどこかで感じてしまった。そして彼女が諦めて前を向いた時、その心の「どこか」は確かに安心して、ため息を細く漏らした。
「最低だ」
 つまり、自分から「なにかができる」可能性すら放棄したのだ。その事実にそう、小さくつぶやいて、宛がわれた布団の中で寝返りを打つ。動いた視線の先には自分の手があって。
 ふと、その手からあの鈴を受け取った彼女の白い手が思い出された。
 ……でもなあ。
 もう一度転がって、天井を向く。
 脳裏によぎった白く細い手の映像は、まるで映像がそれに連なる映像を呼び寄せるかのように次々と亮の脳裏に少女の姿を構築し、そこには、あの林の中ではじめて見た少女の後姿があった。
 やはり嫌というほどに自覚している事ではあったが、あの夏の出来事、初恋の魔力が半ば美化された状態で亮を捕らえきってしまっており、その舞台もやはりここなのだ。初めて見た横顔、すっとした目尻も、水の雫が伝う背中も、あるいは歩くたびに左右に揺れる艶やかな黒髪も、繊細さを宿した色白の手、指先、線の細い輪郭まで、久々の再会であったとしてもそれを目の当たりにして惹きつけられないはずが無い。ともすれば別れ際の強烈な印象に助長されているかも知れない淡い感情は、時折甘露のように、あるいはそれこそあの清水の雫が垂らされたかのように亮の胸に現れて、奇妙なむず痒さを後に引いて、うっすらと消えていくのだ。
 ……ひょっとして、俺気色悪い?
 ふとそんな考えが頭をよぎった途端に、布団の中で横を向いて、体を半ば丸めている自分に気がついて跳ね起きる。漫画のような頬の紅潮や動悸こそないが、後に残ってまだ当分尾を引きそうなむず痒さと、微妙に引きつった頬を再度自覚して立ち上がる。
 頭冷やそ。
 つい数分前まで自分を無様と嘲っていたくせに、いつの間にかこれだから性質が悪いと思う。とりあえずにやけていた自分自身に罵声と一緒に冷水の一つでも浴びせてやりたいところだが、流石に寒そうなので却下。せめて冬の夜風に当たろうと襖を開けて、
「おや」
「お」
 先客がいた。
 白い浴衣に白い帯。淡い紫の若干厚手の羽織を肩に掛け、湯気を立てる湯のみを手元に、この村の主が縁側に腰掛けていた。
「どうしました。眠れませんか?」
「……や、なんとなく」
 とりあえず応えるが、正直なところ、タイミングのせいで気まずくて仕方が無い。かといって何もせずにつっ立っているわけにも行かず、どこへともなく視線を彷徨わせつつ、湯飲みを少女との間に挟んで亮も縁側に腰掛ける。
「どうぞ。体を冷やしてもいけないでしょう」
「お、どうも」
 受け取って、
 ……ん?
 手渡された湯飲みを片手に一時停止。
 いや、さっき見た限り縁側に湯飲みは一つしかなかったはずで。よもや彼女が亮が起きてくることを見越して用意していたわけでもあるまいし、中途半端に入った白湯のかさからするに、これを飲むということはつまり、そういうことなわけで。
 口元まで近づけた湯飲みを覗き込み、その水面に月と、自分の目を映す。
 ……まあ、いいか。
「……あちっ。ありがと」
「いえ」
 飲み口のところが既に濡れているような気がしたのは、唇の痛みとともに忘れることにした。
 ……つまりまあ、こんなところも餓鬼のまんまってことか。
 独白はやはり胸の中で、横で同じ湯飲みを啜っている少女の姿を一応視界の隅に捉えながら。その姿に、やはり水を浴びる彼女と、傷ついた肩を庇い、叫ぶ彼女の二つの像を重ねながら。
そして、互いに沈黙した中で、なんとなく壁の向こうの夜空を眺める。その空に、変わらずにある星と月とを眺めながら、ぼんやりと白い息をはいてみたり。そこに、
「……亮は」
 控えめな、細い声が聞こえた。
「いつまで、ここにいられるのですか?」
「さあ、どうだろ。……帰る手段があるのは、もうわかってるからな」
「ええ……ああ、そういえばはじめて会った時は」
「いいから」
 口に出される前に割って入る。
 初めてこの世界の林の中に現れた亮は、ただここがどこだかわからなかった。わからなくて、好物のチューベットの待っている家が恋しくて、半泣きで、右も左もわからないうちに林を彷徨い、辿り着いた末に件の支流に辿り着いたのだ。だから最初は突如目の前に現れた人の姿に立ち止まり、物音に振り向いた彼女と目があい、直後
「痛かったなあ、あの裏拳は」
「突然抱きついて来た亮が悪いのではないですか?」
「いや、だって俺の体、浮いたぞ? 絶対悪意あっただろ」
「むしろ、直後に亮が泣き出さなければ流れ人として始末するところでしたが」
「……」
 夜風にやや乱れた髪を耳にかけなおす少女を横に、思わず身震い。あの時の亮にしてみれば、彷徨い歩いた末にようやく出会えた人の姿はさながら地獄に垂らされた蜘蛛の糸で、少女に張り倒される寸前までは女神か天使かといった思いで彼女を見ていたのに、対する彼女の反応はあまりに冷たかった。
 冷静に考えれば確かに、期限は問題だ。いつまでこの世界にいられるか。何の偶然か、たまたま世界の通用口になっているらしいあの電話ボックスもどきの中に入れて、よりによってこの世界に到着することは出来たが、あの性根の悪そうな老人がいつまでも亮を見逃しておくとも思えない。だとすれば、せっかくこうして再会を果たせた中で、自分がいつまでここにいられるのかというのは考えておくべきかもしれない。
 ……でもな。
 考え直す。
 仮にこの世界に好きなだけいられるとして、何をしようというのだろうか。あの夏の事が忘れられずに、見覚えのある奇妙な電話ボックスをたまたま見つけたその勢いで、相手の胡散臭さも、それを受けて心のどこかで「やめておけ」と囁く声も無視して、あの電子機器に溢れた怪しいビルにも頻繁に足を通うようになったのは事実だ。
 しかし、そんな思いは、既に亮自身の行動によって裏切られている。もし謝りたいと思う気持ちがあったのなら、直接顔を合わせたその場ででも出来たはずだし、さらに何か礼がしたければせめて彼女の問いに真摯に答えるぐらいの事はしても良かったのだ。
それに、と亮の思考は理性を半ばはなれて、まくし立てるように言葉を脳裏に繋げる。
目の前にあるこの世界は、少女の言はともかくとして、とりあえず見る限り平穏ではあるまいか。壊れた壁も、鈴も修復され、主たる少女の白い肌にも、傍で見る限り傷らしい傷はない。あの時の、被害の痕跡らしい物、彼女の障害になるような物など何一つ残ってはいないではないか。そこで、どうしてあえてもう一度話題を掘り起こす必要があろうか。そして、あの時の全てが勝手に解決されてしまったこの世界で、自分は今更何をしようと言うのであろうか。しかも、自身の問題が解決済みならいざ知らず、亮はこんなただ「謝る」というだけのことにしても言葉を繋いで躊躇してしまうほどに、あのときのままだというのに。
「本当に、どうしようかね?」
 ため息が、靄のように白く、夜の空気に広がる。その、肺から空気が出て行く一時の開放感が逃げてしまうような気がして、そのまま目を閉じてみたり。
 このまま眠れりゃ楽なんだけどな……。少なくとも、寝てる間は考えずに済むし。
 そんなことまでぼんやりと考えて、横にあった柱に身を任せて。そこに、
「亮も、変わりましたか?」
 考えても見なかった呟きが聞こえた。
 目を開けて、身を起こす。空を見て、深呼吸。
「……はい?」
「そうでしょう? 前はそんな風に、考えようとしなかった」
 ……いや、まあ確かに馬鹿な餓鬼だったかもしれないけど。
「そして、悩んだりしなかった。突然泣きついてきたかと思えば笑いながらどこまでも走っていって、私はその変化の激しさについていけなかった」
「……そうだっけ?」
 っていうより、それはただの考えなしなんじゃ?
「そうです。……亮、私の仕事はなんだったか覚えていますか?」
「この世界の現状維持?」
「そう。それが私の役割であり、その役割を担う、『暁の村』の管理者であってこその私なのです。ところが、ここのところの異常は、なにか、私の役割を根本から否定しようとしている気がしてならないのです。まるで、この村自体が壊れ去ろうとしているような気がしてしまうのです」
 流れ人の急増、か。
 回想に浸りすぎて、思わず日中の言葉を忘れかけていた。いや、無意識に忘れようとしていたような気がしなくもない。
 しかし、言われて改めて考えれば確かに妙な気もする。前回は最終的に件の一件のおかげで亮の滞在は一週間で打ち切られ、翌日には渡来家の近所に広がった誘拐の噂は悪戯のつもりで外出したのが帰れなくなって迷子、といういささか無理のある結論で収束することになったのだが、その間、流れ人を亮が見たのは一人だけだ。むしろそれでこそあの光の鳥が即座にあの嫌な思い出と結びついてしまったわけで、それが、毎日一人は現れるというのは、程度はどうあれ、何かが違っているのは確かだ。
 思案する亮の横で、彼女は空になった湯のみを両手で支えて、膝を体に引き寄せて。下がった視線の先では地面を離れた足の指が心細そうに縮こまっている。一言で言えばどこかか弱そうな印象を受けるその姿は、これまで見てきた彼女の姿とはどこか異なって見えた。
「神界の方でなにかあったのかとも思いましたが、亮は何も知らないという。ならば、本当に、この世界の方がどうしようもなく変わろうとしているのでしょうか? 俗界の中でも一際小さいこの『村』が、そんな大きな変化に耐えうるはずもないのに?」
 言葉を区切って、少女が湯飲みに口をつけて。
「私はどうすれば良いのでしょう?」
 どこへとも無く発せられる問いはかぜに解けて消えるかに思われて、それを放置するのはどうにも耐え難いのに、かといって亮にはそこにそれなりの答えを与えるだけの判断材料も無ければ、何か思い切った、彼女を安心させられるような一言を口にするだけの度量も無くて。
「……思いすごしっていう事は、ないのか? たまたまいろんな奴が連続してここに来てるだけとか」
 意味などない逃げの一手と知りながら苦し紛れに尋ねてみる。その亮の声に少女はなにか、ただなんとなくそちらを見ただけと言ったほうがしっくりくるような、淡白な視線を一度だけ投げかけて、
「ありえませんよ」
 再び視線をおろしつつ、瞼を閉じて答える。
「この世界が数刻で外周を一周できてしまうほどに小さい理由がわかりますか? 神界に通じるが故に、流れ人に対して目立たないようにするためです。彼らに聞くところによれば俗界の中には毎日のように流れ人が訪れるばかりか管理者もそれを容認し、流れ人が居ついているようなところもあると言うことですが、ここは、夏と冬で多少気温が上下し、空がくすんだり晴れ渡ったりという差こそあれ、小川の水は常につつがなく流れ、木々は常に青々と茂るのが常態。そのような世界でただでさえ即時排除されるべき異端である流れ人が、時には今日のように複数で、次々に訪れられるほど容易にこの村を発見できているという事が、異常なのです」
 静かに語る声が逆に聞く者の耳に痛い。彼女の期待するような事を、知っているであろう人間に頻繁に会っていたにも関わらず、何も知らずに彼女を落胆させたのも自分であり、そのくせようやく口を開いたかと思えば、気休めにもならない馬鹿な問いで余計に彼女を煩わせたのも自分なわけで。
結局、何の役にも立ってない。
再度その自覚を強いられて、意識がその一点に拘泥して、横にいる少女に何か言ってやりたいのに、息はどこか苦しく、口の中は乾ききったようで、唇だけ少し動かしてみても、言葉はそこから出てこない。
「……さて、少し変な話をしてしまいましたね」
 そう、ため息混じりに言って、少女が立ち上がる。その白い手で浴衣の裾をかき合わせ、紫の羽織を肩にかけなおして、未だ何も言わずにすわっている亮を見下ろす。
「朝餉の仕度が出来たころに起こします。亮もそろそろ寝ないと体に毒ですよ?」
 では、と軽く会釈して、踵を返して廊下の奥へ消えていくその背中に、なぜか今回は他にどんな彼女のイメージも重ならなかった。