4-5

街の中でも一際高い塔の屋上、そこに二人の少女がいた。一人は、赤いマントに身をつつんだ茶髪の少女、朋。もう一人は、漆黒のドレスに身をつつんだ銀髪の少女、アルテメネ。血に濡れていたそのドレスには朋のうっすらと黒い手がかざされ、そのかざされたところから順に血の汚れが文字通り消滅していく。世界から、その存在がかき消されていく。二人の少女の間に言葉はなく、ただただ無言。
なんなのよ……。
その中にあって、アルテメネは思う。蒼いマントの男も、黒いスーツの男も、目の前にいる赤いマントの少女も。三人とも一体全体なんだというのか。地面が競り上がり、瓦礫となって降り注ぎ、覚悟を決めたかと思えばわけもわからないうちに護られていて、一度しか会ったことはないけれどやたら印象に残っていた男に、自らを世界の統治者と豪語する者が跪いていて、挙句、今目の前にいる少女は得体の知れない化物に変身するし、アレだけしつこく染み付いていた血の汚れは片端から消えていくし。
それに……
どうして自分の力は通用しなかったのだろう。願い続けて、絶望の淵まで叩き落されて、もうだめだと思ったときにようやく手に入れた力。そんな力だから、余計に信じられた。本物だと思った。なのに現実はあまりに無情で。絶対だと思っていた得物も、盾も、あの男に見つめられただけで消えうせてしまった。一瞬で、力を奪われてしまった。ただちょっといい洋服を着ているだけで、前と何も変わらない自分に戻されてしまった。その事がとても不安で、怖くて……
「ねえ」
 と、不意に聞こえた朋の声。気がついてみれば服についた汚れはもう綺麗に落ちていて、用事を済ませた朋の手は今や、アルテメネの長い銀髪をいとおしそうに撫でている。見つめてくるその瞳は獣の時と同じ翠色で、アルテメネは思わずたじろいだ。
「何でだか知らないけど、今の君すご〜く虐め甲斐がありそうな顔してるよ?ねえ、どうして?」
「知らないわよ……」
 知るはずも無い。そもそもどんな顔だというのか。半分呆れて答えたアルテメネは軽く目を閉じる。訳が分からない。訳が分からないが、取り敢えず、こうして誰かに髪を撫でられている感覚は悪くない。いつ以来、いや、そもそも始めての経験かもしれない安心感と微かな快感にもう一度ため息をつこうとして、それを飲み込んだ。
 髪を撫でていた手の片方が、尋常でない手つきでうなじに指を這わせる。
「……え?」
 予想外の事態につぶやくも、朋はそれにこたえず。ゆっくりと、うなじから這い上がるように両手をそれぞれ両耳の後ろへ。右手はそのまま頬に沿わせ、左手は顎に沿って僅かばかりの胸元へ。撫でるがごとく、そっと、そっと。頬を引き寄せ、振り向かせて、正面から見つめながら、左手で、指をかけたりしながら襟元を弄ぶ。時折、鎖骨の辺りまで侵入させてもみる。頬に添えていた右手は肩から服の上を辿って背中の方へ……
「……やめた」
「……え?」
 またも、聞き返すアルテメネにこれ見よがしのため息。
「なんか完全に固まっちゃってて、怯えてて、目の奥が震えてて……」
 落胆しているのかと思えばその声はなぜか少しずつ艶を帯びていき……
「このままやってると、歯止めがきかなくなりそうだから」
 ……ああ、なんと恐ろしいことか。目の前で、自分とさほど歳も変わらぬであろう少女がうっとりと表情をうるませている。
「智から聞いてはいたけど、確かに虐め甲斐あるよ。でも、この髪の毛は、綺麗だね」
 言われて、かすかにアルテメネの表情が好転する。
「やっぱりねえ、いくら虐めるって言ってもこれを汚いなんていうのはさすがに気が引けるよ」
「……ありがとう」
 小さな声で、アルテメネがつぶやいた。不思議と、素直にそう口にする事が出来た。それは多分、褒められたのが他ならない、ずっと誇りにしてきた銀髪だったから。だから、素直に嬉しいと思えた。嬉しいと思って、力を奪われる恐怖に震えていた心が一杯になった。
「さて、と」
 と、切り替えるように朋がまたも口を開く。赤いマントが、いつものように吹きだした風に揺れる。
「聞きたいことはいろいろあるだろうけど、取り敢えずしばらく我慢して。いい?」
 別に断る理由もないし、なぜか今すぐ問い詰める気にもならなくて、無言で頷く。朋は、悪いね、そうしろって言われちゃってるから、と軽く謝って続ける。
「取り敢えず、君には一緒に来てもらいところがあるんだ。そこで智と合流したら色々話もしてあげられるし。来て、くれるかな?」
 考えるまでもなかった。今すぐでなくても、どこかおかしい現状に説明を加えてほしいのは確かだから、話が聞けるのはありがたい。それに……
 すっと、朋の瞳を、翠色の瞳を一瞥する。
 この少女は、信頼できる。そんな気がした。
 だから、アルテメネは一言、
「行くわ」
 そう言って、頷いた。