4-2

 楽しい。血を見るのが、楽しい。血から香る、鉄の臭いを嗅ぐのが、楽しい。肉を刺す感触が、楽しい。ビクビクと跳ねる、死体を見るのが楽しい。何もかもが楽しくて、手にした得物の重さが心地よくて、服にまとわりついた血糊でさえも悪い気はしなくて。知らず、笑いながら何度目かになる一突きを振り下ろしたそのときだった。
「……無残な」
 聞こえた、男の声。まるで耳元で囁かれるような、不気味な気配に振り返った先。そこに、その者はいた。
 遥か上方。見下ろすように建った建物の屋上に立つ、人の姿。どこまでも鮮やかで、それこそこの町には絶対につりあわないような蒼いマントを羽織って、フードで顔を隠して、時折吹く弱い風に長すぎる裾を靡かせて。一言で言えば、まさに異様という言葉がぴったり当てはまるような、そんな格好。マントの下は黒いズボンとシャツで固め、うっすらと頑丈な身体の線が浮いて見える。
 なに、あいつ。
 最初に思ったのは、そんな不審の言葉。しかし、血にまみれ、血の臭いに染まった彼女の思考はすぐに切り替わる。
 そうだ。ついでにあいつも……。
 思って、従えた得物を握り締める。舌の先でそっと下唇をなめて、頬をつり上げる。どうやってアイツを仕留めてやろうか。どうやって殺してやろうか。どんな悲鳴が聞けるだろうか。そんなことを考えて、笑う。
 そのとき。ふと一瞬、しかし確かに男と、アルテメネの目があった。
「娘。貴様か、これは……」
 またも、耳元で聞こえた声。
ありえない。これだけ離れていて、この聞こえ方はありえない。その現実離れした現実に、不快感にアルテメネが顔をゆがめ、手槍の柄を握り締めようとした。その、瞬間だった。
槍が、崩れた。文字通り、まるで砂かなにか、そんなものからできていたかのように崩れ落ちた。崩れた端から引きずられるように、次から次へ。崩れて、崩れて、そして、消えた。まるでそれがそこにあったことを疑いたくなるほどに、跡形もなく、塵も残さず、少女の目の前から消えうせた。
え?
思考が釘付けられて、停止する。どうしてなくなるの?いままでそんなことは無かったのに。
思わず敵から目を離して、手を見つめ、もう一度想像する。創造しようとする。鉄の冷たさ、重さ。重い光沢。握りの触感。全てを想像して、描き出す。
「しつこいぞ、娘」
 一言。再びその姿を世に現そうとしていたアルテメネの手槍は、その一言でまたも霧散、消えうせる。
「……っ!」
どうして!
 苛立ちと、焦りと。奥歯を噛み締め、目を見開いて、勢いよく顔を上げたアルテメネは頭上の男を睨みつける。と、睨まれたマントの男が、逆にアルテメネを、静かに目を細め、しかしより強く睨み返して、低い声で言った。
「我名、ポルセイオス。下界が一たるこの世界を統べる者」
 言いながら片手を前に差し伸べて、広げた掌を下に向ける。もう一方の手はマントの端をそっと押さえ、男はさらに続けた。
「貴様がこの地を荒らすというならば、娘、覚悟しろ。我は貴様を許さぬ」
 言って、もう一度目を細めてアルテメネを睨む。力は何故か消えうせて、しかしアルテメネは男のその一言を、鼻で笑ってあしらった。
「別に許してもらおうなんて思わないわよ。むしろ……」
 腹の底から、ふつふつと湧き上がるものがある。気味が悪いほどに熱く、しかしどこか心地よいそれを抑え、味わうように奥歯を噛み締め、俯き、そして、ゆっくりと顔を上げる。
「貴方がこの世界の一番偉い人だって言うなら、貴方もまとめて殺してあげる!」
 叫んで見上げた顔は歪な笑いに歪んでいて。男はそれを一瞥して目を閉じると、何の前触れもなく口上を紡ぎ出した。
「月歩の龍 八桂の陣 天に渦巻き 号令し 牙城築きて 地を睨め 崩壁」
 何も知らぬものが聞けば何の意味も持たない言葉。事実、アルテメネにもその意味は分からない。しかし、感じた。これは、まずいと、戦慄して身構えた。
 同時。
 それは起こった。
 音もなく、アルテメネの周囲八方から地面が競り上がり、巨大な八角形を描き出す。瞬く間にアルテメネの腰を超え、まっすぐに伸びて背の高さを超え、巨大な中空の柱と化したそれは、マントの男の足下に僅かに及ばぬ程度の高さで突如歪み、蛇か、あるいは龍のごとくにその身をよじり、互いに交わり、境界面すらなくして天井を作り出す。
 なっ……!
「何よこれ!出しなさい!ねえ、聞いてるの!」
 もともと薄い朝日さえも完全に断絶されたその中は、空が常に白むこの街で育ったアルテメネの知るどの夜よりも暗い。その場に直立、辺りを見渡しながら、アルテメネの叫ぶ声だけが響く。しかし、そこに外からの返事はなく、アルテメネは声を落としてつぶやく。
「そう……出さないの」
 つぶやいて、右手を握り、開く。ならば、やることは一つ。考えることもない、あの得物、全てを貫くあの槍を、再び想像、創造すればいい。そう思って、目を閉じた直後のことだった。
「崩れろ」
 またも、耳元で聞こえる男の声。はっとして、目を開いたのとほぼ同時。遥か頭上に作り出された天井に、そこから垂れる八枚の壁に、崩壊の兆し、深い割れ目が刻まれ、そのすべてが、その豪快な見た目とは裏腹に、一切の音はなく、一気に内側へ、アルテメネの方へと崩れ落ちてきた。
 戦慄、などしている暇が無い。あちこちから、自分めがけておきてくる瓦礫の大中小。その全てが重厚な威圧感を持っていて、それはまるでそれぞれの質量の具現であるかのようで。
 当たってはだめ。
 わかっているのに、肝心の逃げ場が無い。ならば
「盾!」
 叫ぶと同時。肩の高さまではゆうにある、巨大な盾を創造する。しかしすぐに直感する。
 これでは、持たない。
 必要なのはただの盾ではなく、絶対の防衛手段。受け止めたものからは、確実に、必ず持ち主を守り通す、絶対の盾。防御における、最強の一。
「聞きなさい!貴方に受け止められないものはない!」
 叫ぶ。手にして、頭上に掲げた盾に向かって叫ぶ。
「貴方を持つ私の前に、刃向かう剣は存在しないの!」
 そのとき。バラバラに崩れ落ちる瓦礫の中に一点、アルテメネの姿と、マントの男の視線とをまっすぐに繋ぐ隙間ができた。何の所業か、一秒に辛うじて届くかという偶然。しかし、事が起こるにはそれで十分。ポルセイオスと名乗ったその男がそれを認識した一瞬後、先の手槍がそうであったように、最強であるはずの盾もまた、霧散し、消え去った。まるで、はじめから存在などしなかったかのように。
 どうして……
「どうして!」
 もうすぐそこまで迫っている瓦礫を前に、叫ぶ。この力は、やっと自分が手に入れた光ではなかったのか。逃れようのない闇を払う、願い続けた術ではなかったのか。ようやくかなった夢への道ではなかったのか。だというのに、どうしてこうも容易く消えうせる。絶望の淵まで降りていって手に入れた光が、どうして一瞬で闇に埋もれる。どうして、どうして、どうして……。
 もう、だめなの?
 ついに視界を覆いつくした一際大きな瓦礫。ついさっきまで、闇を閉ざす天井であったそれを目の前に、耐え切れず目を瞑る。身をかがめ、反射的に手を頭にやり。
 そして、全てが崩れ落ちた。