続・行動原理としての利己主義
     屁理屈としての利己主義

 日に日に熱帯夜へと近づきつつある今日この頃。いかがお過ごしでありましょうか。
 さて、いつの間にか一学期の特別授業が終わり、期末テストもあと一日というところで、改めて僕なりに、僕の考える利己主義について語ってみようと思います、稚拙ながら。
 
僕の利己主義に対する基本的な考え方は、「行動原理としての利己主義」で記したとおり、すなわち「人の行動そのものがどこかしら利己的なものであって、人はいくつかの選択肢から自分に得になるものを選びだしている」というものだ。利他的という観念はあくまで一つの行動に後付で、客観的な視線から与えられる評価であって、その行動の本質ではありえない。
 そもそも僕がこの発想を得たのは中三の時のことだった、と思う。何を思ったか、そのときの僕は「誰か親しい友達が明らかな悪に走ったときになんと言えばいいか」といったようなことを考えていて、本当になんでそんなことを考えていたのかはわからないけれど、やたら真剣に考えていたような気がする。因みに、一人で考え込んで、まとまらなくて、言葉にならない、なんてのが常である僕のことなので、幸か不幸かこういう考え事は面白いように進む。何かを考えればすぐに頭の隅で「でも」と反対意見が沸いてくるので、退屈はしないのだ。
 まずはやはり「それはわるいことだから、してはいけないことだから」、止める。「なぜ?なぜしてはいけない?」「……決まっているから」「どこで?誰が?」「法律で、社会で、道徳で」これだけでも一応理由としては成り立つだろう。それが社会のルールだから、その社会の中では従わないといけない。でも、もし、だ。「そんなの、知らない」と、突き放されてしまったらどうすればいい?自分に義がある、というのは人が行動する上で一番の自信になる。と、いうより、自分は間違っていないということは人が行動を起こす上でのキーのようなものなのだ。そも、その行動に義を見れなければ、人は自分の行為に自信を持つ拠り所をなくしてしまう。しかし、その義を、社会のルールだからという根本の部分をぶち壊されてなお目の前の相手を止めるとしたら、何を理由にすればいい?
少年漫画チックに言ってしまえば「理由なんていらない」。……そう、まさにそれなのだ。
どこぞの中系米人の女海賊は、鉄十字章と人間の頭蓋骨を並べて「これはモノだ」「とことん意味を還元していけば残るのはその言葉だけ」と言ったが、まさに、行動の理由をとことん突き詰めていけば結局残るのは「自分がそうしたいから」という願望だけではあるまいか。
そう考えてしまうともう簡単。行動理由に問い詰められて言葉に詰まることは無いし、どんな時にも、良くも悪くも自分の行動に対して揺るがぬ自信を持つことができる。
しかし、と。ここでひとつ疑問に思う。ならば、ならばどうして人は時に我慢するのだろう、と。時に他人の機嫌を窺って、時に仕事のために、時に我が身を護るため、時に命を拾うため、なぜ、「そうしたい」という素直な願望を捨てるのだろう、と。これにはそう長く悩まなかったと思う。同じなのだ。「〜したいけれど…したくないから〜しない」。「〜しない」という選択でさえも、「…せずに済ませたい」という逆向きの願望、対抗する欲望の間での優先順位選択、すなわち、少し嫌な言い方ではあるが、損得勘定で説明がついてしまう。だから、例えば少しくらい納得がいかなくても「どっちを選んでいいか分からないときは、自分がやるべきほうを選んでおくんだ」「おなじ後悔するなら、少しでも軽いほうがいいだろ」と言ってそれを選ぶ者も居るだろうし、「自分が正しいと思った道を行けば、あの時ああすればよかった、などと後悔はしません」と言って反発するものも在ろう。中には「わたしの夢をかなえるためには、他の知的生命に迷惑をかけても構わない」と言い切ってわが道を行く者もいるかもしれない。それらはどれも間違ってなどいないのだ。自覚無自覚はどうあれそれらは必ず、己の中で思いつく限りの損得勘定の末に導き出されたものであるはずだからだ。「蛇のように賢こく、鳩のように純真に」生きるのもまたしかり。後の後悔への言い訳を得る代わりに何かを見捨てる。己の道を行く代わりに責務を放棄して害を被る。夢をかなえるために、他を一切無視して恨みを買う。結果として伴う損害があまりに大きくて後悔したとしても、それは自分の考えが至らなかったのであって、あくまで客観的に見れば自業自得というより無い。もちろん、そう言ってそれを見捨てるか否かでさえ、一つの選択であるのだが。
覚えているだろうか?イラクで非武装の日本人が人質となった時、政府が「自己責任」論を口にして批判を浴びた事があった。あれは、一個人の意見であれば基本的には人畜無害な発言であったのだろう。問題なのは、仮にも日本全体の代表として位置づけられる政府からそれが飛び出した、ということなのだ。社会は基本的に、大衆における平均的な正義を体現しているものだ。そのために道徳は培われ、法律は養われ、正義感は受け継がれ、今日まで続いてきた。そしてその社会にあって、その社会にもっとも表面的な影響力を持つ政府が、正論に奔るあまり道徳的な正義を見失えばどうなるか、想像するまでも無い。その結果が、あの批判だったのではあるまいか。
先の「行動原理としての利己主義」で語った利他的思考の必要性については、とくに加えることも無いので省く。社会維持のための前提的な、共通の判断材料。いわば己の中での損得勘定において、社会に破綻をきたしうる行為の歯止めとなるよう作り出された、逆向きの欲望の発生源。それは長く短い人間社会の歴史の中で作り上げられ、常に再編される最大のルールブックなのだ、きっと。
そもそもは理由を失ってなお、自分の選択を正当化するための屁理屈でしかなかったこの考え方ではあるものの、ここのところはこれが僕の一つの骨格になっている気がする。ごてごてに、時にあっさりと、しかしどちらも明確な理由付けをいちいち自分の行動に行うこれはもしかしたら今でも屁理屈でしかないのかもしれない。が、屁理屈も理屈。筋が通っていれば十分この世に成り立ち得る。これが屁理屈だというならば、堂々とその屁理屈の上に立とう。とりあえずこの考え方で見事にすっころぶその日までは、僕がその屁理屈を切り捨てる理由など存在しないのだから。

……なんてね。長々と失礼いたしました。「運が良けりゃぁまたやり(話し)あう機会もありましょう」。さて、それでは「これにて一切の騒動落着と相成りましょう」。
ハツカネズミがやってきた。お話はこれでおしまい。


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