行動原理としての利己主義
             
今の社会では、大概の場合においてエゴイズムは否定されるべきもの、というのが教科書的な考え方であろう。小学校の道徳の授業でも、幼稚園であっても「自分勝手は駄目」、「周りのことを考えて」と教えるし、それが当たり前のことになっている。でははたして多くの場合において人の行動は利己的でないと言えるだろうか。

 そもそも利己的な行為は常に批判されるべきものなのであろうか。有名な例を挙げるならば、弟、妹が生まれた、年齢の幼い子供の事がある。あえて詳細に説明すれば、突然現れた弟妹にそれまで自分だけに注がれていた親の愛情が傾く様を目の当たりにした子供が、親の目を引くためにその弟妹の世話を焼く、というものだ。もちろん自分の弟妹の世話を焼くという行為は決して非難されるべきものではないし、当の兄姉達も意図的に親の注意を引こうとしているわけではないだろう。だが結果としてこの行為は紛れもなく、最終的に己の利益となる利己的な行為となっているのも確かなのではないだろうか。

人が「ある『行為』をしない」という選択を下す時、そこにはどのような理由があるだろう。
ある程度の年齢に達した人間ならばだれであれ似たような経験のあることだとは思うが、誰かを心底憎いと、それこそ(極端な例だが)殺してやりたいと思ったとする。だが、その中にその欲望を実行に移すものが果たしてどれだけ居るだろうか。本当に相手を殺せない理由はいくつかあるだろう。単純なところからいけば「勇気が無いから」、「そんなことで人生を棒に振りたくない」。もうすこし想像を逞しくすれば、その相手を殺せば悲しむ人がいて、その人が悲しむのが嫌だから、などというのもあるかもしれない。『悪いこと』をしない理由に真顔で「それはしてはいけないことだから」では理由になっていない。それは何らかの手段で得た常識にただ従っているだけで、自分で考え出した答えではないからだ。もっともその場合には「してはいけないことをしないのはなぜか」と問えばいいだけなのだが。究極的にその問いに対して返ってくるのは「したくないから」かそれに類する類の答えではないだろうか。
多少例は極端であったかもしれないが、他の例でも結果にそう大差はあるまい。人が『なにか』をしない理由を突き詰めれば、それは「それをする事が己の損になるから」ということではないだろうか。殺す勇気がないから殺さない、というのも、勇気がないということはすなわち殺すことによって失われるであろうもの、身に降りかかるであろう災難に対する恐れを振り払うだけの勇気が無い、ということに当たると言える。もっとも、このような「臆病風に吹かれる」という場合、その怖気の根拠は必ずしも確かではなく、時には第三者の目から見れば何も怖気づく必要などないのに勝手に尻込みしているような場合もある。しかし、そのような場合でも当人にしてみればその根拠のない恐れこそが『なにか』をしない明確な理由であり、「怖い思いをしたくないから」という損失回避が理由として導き出されるのだ。(もちろんその根拠のない恐れのせいで目の前の宝石を掴み損ねていることだって十分にありうるわけで、時にこれほどおろかな行為はない、とも言えるのだが)

あくまで個人的な考えだが、人の行動の選択は、いくつかの可能性を想定した上でそれらをはかりにかけて、自分によりよい結果が想定されたものを選ぶのではないかと思う。平たく言ってしまえば「損得勘定によって行動を選択している」ということになる。たとえば教室の掃除をサボるとして、そのことによって得られる「労働からの解放」、「享楽」と、あとから降りかかるであろうペナルティを考えた時に、後者の方をなんとも思わない者ならばさっさとその場を逃げ出してどこぞへ遊びに行くのであろうし、逆に後者を前者以上に重大に受け止める者ならば多少面倒臭くともおとなしく掃除の役務に従うであろう。ボランティアに参加するにしても、その労働によって自分が受ける損失(時間の消費や身体的な疲労など)よりも、そのことによって得られる満足を重要視するからこそ参加するのであろう。本当に心底ボランティア作業が嫌で、誰かに強制されているわけでもなくて、さらに言えば他にやりたい事があるのになおボランティアに従事する者がもしも居るとすれば、正直に言ってその人の思考をぜひとも知りたいものだと思う。

では、個人の行動の選択がそれぞれの損得勘定で行われているとして、何のために利己的な思考は批判され、利他的な思考がより推奨されるのだろうか。
『人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである』とは誰の言葉だったか。人間社会というものはもともとどこにでもいる獣でしかなかった人類が進化していく過程で、互いに助け合い己たちの生活をより確固たる物にするために作り出したシステムだ。だが共に助け合う共同体としての社会の中に、あまりに身勝手が過ぎる者がいたのではシステムの動作、各人の平等性に支障をきたす。思うに、「それでは困る」ということで共通概念として善悪や道徳という判断基準が生み出され、(文化圏やその地域のたどった歴史によって多少の差はあれど)エゴイズムという思考は非難されるようになったのではないだろうか。

ならば、どうせ人間の思考が利己的なものであるならば利他的な思想こそ間違っていて、エゴイズムを批判することは間違いなのだろうか。いや、そうではない。先に記したように、利他的思想というものは社会を形成する上で必要だからこそ作られたのであり、まったく必要ないわけが無いのである。もしも全ての人間が生まれたときから『己の欲望に素直に生きること』を第一に教えられたとすれば、社会はあっというまに破綻をきたすであろう。奪って、奪われて、それだけでは何かが足りないと気がつく頃にはどれほどの犠牲が払われているのだろうか。それはまずい。道徳であれ、法であれ、もともとある程度の判断基準となるものがあり、周囲への気配りを教えられているからこそ、将来的に人が自分で行動を選択するようになっても度を越えたエゴイズムに走ることはなく、社会はある程度の均衡の上にたっていられるのだろう。もともとある常識や善悪などに盲目的に従う事が必ずしも正しいとは思わないが、かといってそれらがまったく不必要というわけでもないのだ。