其之八拾七

(いつまで待たされるんだろ)
凛がつるされた部屋の中。彼女と背中の磔台以外には何もない。はじめこの部屋にいたあの女も少し前に出て行ったきり戻ってきていない。
別にこうしている事がどう、というわけではなかったが、ただ吊るされて待たされるというのは肩透かしを食らったようで、変な気分だった。
(……ためしに)
ふと思い立って、自分を拘束している縄をじっと凝視する。まさかとは思うがうまくいけばここから逃げられるかもしれなかった。しかし…
「って、ダメだよね。やっぱ」
ふうっと息をついて上を向く。彼女と磔台を括りつけている縄はなおもそこにしっかりと結ばれていた。
「!」
そのとき、視界の隅の方で僅かに目の前の壁が震えた。
(なんだろ)
目を惹かれるようにそこを凝視する。と、目の前の壁が見る見る姿をかえ、向こう側にシャッターのかかった大きな窓と、その横に小さな扉が現れた。
(……どういうこと?)
ためしに横を向いてみると、先程までの扉はどこかへ消えうせている。そこにはただの石の壁があるだけだった。
(何を…するつもり?)
すくなくとも彼女の記憶の中で、あの男がこんなことをしたことはなかった。あの男が凛を「使う」時はきまって、窓の無い石の部屋のなか、二人きりで、と決まっていた。しかし今は……
いよいよいぶかしむ凛の目の前で、ゆっくりとシャッターが上がった。
最初に目に入るのは窓のすぐそばにいるあの女。そのあとにあの男―智と朋が続き……
(!)
一瞬目を疑った。しかし間違いない。3人の後ろで椅子に腰掛けているのは……
『俺の奴隷でありストレス発散の道具。凛・フェルマーだ』
窓の向こうからくぐもった声が聞こえる。
「凛…」
『とお…る?どうして…?』
混乱しているのだろう、つぶやくような凛の声が窓越しに徹の耳に届く。その服装は徹が彼女と別れたときとは変わっており、二人が初めて会ったときのあのワンピースによく似ていた。
「ま、見ての通り。こうしてまんまと僕俺をはめてくれた奴隷は捕まったわけだ」
得意げに目を閉じて、すましたふうに肩をすくめる智。しかしじっと俯いた徹の応える口調は穏やかではなかった。
「…奴隷だ?ふざけんな。」
「……なんだ、機嫌がよろしくないようだな?」
くるっと振り向くと片手を腰にあててたずねる。わざとらしく首をかしげて見せる様は妙に気取っていて、余計に徹の気に障った。
「良いわけが無いだろう。凛を放せ」
言ってみたところでその通りにはなるとは到底思えないし、抵抗するにも余りに分が悪い。しかしそれを分かってなお徹は憎しみの全てを投げつけるつもりで言い放つと僅かに腰を上げた。
「そんなこといって、放すはずがないことくらいわかってるだろ?」
(ああ……百も承知だよ)
後ろに控える4人の男がにじり寄るのを感じて腰を落とすふりをする。もしもあの4人が皆このあいだのような雑魚だったとしても、さすがにこの人数差で確実に勝つ自身は無かった。
どうするか、俯く徹を鼻で笑うともう一度振り返り、再び凛のほうへ目を戻す。と、その目がきっとこちらをにらんでいる凛の視線にぶつかった。
「……ああ、そういえばお前はこいつを巻き込みたくないんだったっけな?」
「なに?」
背中でたずねる徹のほうを振り向くことなく智は続ける。
「なに、三時間も前に突然こいつが自分から現れてな?どういう心境の変化かと思えば、勝手に巻き込んだ誰かさんをこれ以上巻き込みたくないから来た、っていうんだ。良い話だろ?」
そういって嫌な笑みを徹のほうへ投げかけ、視線を戻して凛を見据える。
「だがな、残念ながら俺にも考えってもんがあるんだ。あいにくそういうわけには行かないんだよ。それに、そもそもお前には俺に意見する権利はない」
「………」
何もいわずに凛は俯く。
なんとなく心のどこかでそうなることは分かっていたような気もする。その中で僅かな希望にしがみついていただけのような気も。
ふと、投げかけられる視線に気がついてふっと顔を上げると、悲しみか怒りか、複雑な感情をにじませた徹の目がそこにあった。
(馬鹿やろう…)
凛の目を見てそっと目で微笑んでみせる。しかしその瞳の奥は笑っていなかった。
自分が勝手に巻き込むまいと何も教えなかったせいで結果として徹をここまで巻き込んでしまった。自分と出会ったとき、既に十分巻き込んでしまっているというのに。何か知っていればまだ身の振りようがあったかも知れないのに。
そう考えると余計に悲しみと空しさに襲われて、再び凛は視線を下に落とした。