三章

第三章

 亮は転ばぬよう最低限の注意ははらい、しかし決して加減の色は見て取れぬほどの限りなく全速力に近い速度で石段を駆け下りていた。もともと拷問の類ではないかと疑うほどに長く、かつ急勾配を誇る石段だ。しかも山道の石段にありがちな足場の狭さを忠実に再現していて、これを駆け下りるとなればそれこそ決死の覚悟をせねばなるまい。それでも、亮は今確かに走っていた。
 音のない稲妻を落とした後、声の主は唖然とする亮にどこか得意気な声で言った。
「鳥居のところまで下りて来い。そこにいる」
 と。ご丁寧にも、亮が頷いて踵を返そうとしたところで思い出したように「もちろん、一人でだぞ」とまで付け加えて。「何かあれば目覚める」と言っていた少女が一向にあらわれる様子が無いのは気になったがこの声に従わなければそれこそどうなるか分かったものではない。小さく舌を打って亮は駆け出した。
 自らのことを「神」などとのたまった声の主が何を考えているかは知らない。ただ、この世界を簡単につぶさせてはいけないと、あの理不尽かつ絶対的な破壊の矢面においてはならないと、はっきりとはしないながらもそんな感情が亮の体を突き動かした。
「……くそっ!」
 足場を踏み外し、倒れそうになった体を支えて悪態をつく。
 面倒だ!
 そのまま石段から外れて、脇の、何の整備もされていない山の地肌が丸出しになった坂道に出る。所々に木の根がのぞき、土のせいで多少滑りやすくもなるだろうが、足元に全神経を集中して下りる石段よりはよっぽど手っ取り早く下りきれるだろう。
 そして、声の主はそこにいた。
 ようやく山道を下りきり、石段の両脇に設けられた生垣から転がり出た亮。なんとか立ち上がり、着物についた木の葉を払い落とす。途中で何かにぶつかったのだろう、脚にはところどころに血の赤が見て取れた。
「おう、随分急いで来てくれたみたいだな」
 そんな亮の背後から、随分和やかな口調で話しかける若い、かと言って青年とは言いがたい男。その声は紛れもなくあの姿無き声で、亮ははっと立ち上がりざまに身を翻して振り返った。
 そこにいたのは、黒衣の男。二十代前半、といったところだろうか。亮よりもいくらか年上と見えるその男は、スーツを崩したようなやや裾の長い服に身を包み、頭にはその長身に沿うようにまっすぐに伸びた、どこか美しささえ感じられる黒髪。黒ずくめのその姿と対照的に肌は色白く、釣りあがった目に社交的な笑みを浮かべていた。なぜか、亮の頭を既視感がよぎった。
「改めて名乗ろう。神界、俗界、この世のすべての神、篠山智だ。よろしく、渡井亮君」
「……名前、知ってるのか」
 顔に浮かびそうになる驚きを隠して言う。差し出された手は当然無視。対する男はそんな亮に軽く肩をすくめて手を引くと、言った。
「当然。全知全能は神の絶対条件だと思うけどね」
「……全知全能、ねえ」
 亮の中で、仮面である事が丸見えの笑顔と、吐き気、とは行かないまでも嫌悪感を掻き立てる胡散臭さのおかげでいくらか気持ちに余裕が出来た。明らかな脅迫で自分を呼び出した目の前の男に抗う術があるとは思えなかったが、話し合いの余地があり、自分が落ち着いてさえいれば何とか最悪の事態は回避できるはずだ。少なくとも、言葉の通じない森の化物と鉢合わせするよりはいくらもましだろう。心の準備が出来ているという点では、あの『死神』使いの男の時よりもましだと言える。
「なんだ、胡散臭そうに」
「胡散臭いよ、十分」
 声では若干不機嫌そうにしながらも相変わらず顔におどけた調子を残すその男に、強がりを悟られないようにしながら続ける。
「自分のことを全知全能だなんて、妄言もいいとこじゃないか?ゼウスもヘラには手を焼いたし、オーディーンも死の運命には逆らえなかったんだぞ?」
 まただ。頭の中にどこからともなく、学んだ記憶もない知識が導き出される。が、今はそんなことを気にしている時ではない。
 真っ向勝負でかなわない相手との喧嘩ならば、まずははったりででも相手と対等にならなければいけない。亮は今まさに、中学時代から培った喧嘩の法をフル活用していたのだった。
「確かに、もっともな話だ。俺にも思うようにならないものはある。現に今も住まいのほうに厄介なツレを残してきてるんだが、これの扱いがまた難しくてな。」
 と、男は芝居がかった調子で目を閉じ、肩をすくめ、直後、ゆっくりとその顔に浮かべていた笑みをどこか試すようなものに変えながら目を開いた。
「でも、その程度の不可能があったところで今の君が有利になるとも思えないんだけどな」
「……」
 それこそ、もっともな話だ。辛うじて目は背けずに黙り込む亮を見て、智と名乗った男は小さなため息をついた。
「いや、やめよう。こういうのも悪くはないが、別に君と喧嘩をしに来たわけじゃない」
「じゃあ何の用で来たんだ。なんか知らないけど、下手にこの村に立ち寄るとろくな目にあわないぞ。さんざ痛めつけられた挙句につき返される」
「へえ、ここの管理人はそんなに手厳しいのか。まあ負ける気はしないけど」
 「何を根拠に」と言おうとした言葉がなぜか出てこない。亮に背を向け、鳥居の先、石段の彼方を見つめながら語る背中には微塵の驕りも感じられず、ただ淡々と事実を語っているようなその姿を前に、亮は智の言葉を一笑に付すことなど出来なかった。
「まあ、用と言ってもたいしたことじゃない。ちょっと君とおしゃべりがしてみたくなっただけだよ。とりあえずその喧嘩腰をどうにかしてくれるなら、こっちの気の続く限りいつまででも付き合おう」
 これは……わざとなのか?
 相手のあまりの図々しさに苛立つ。うまくはいえないが、とりあえず嫌なやつだということは理解した。かといって無視できる状況にも思えず、形だけのため息をついて応える。
「……で?何が話したいんだよ」
「そうだな……」
 亮のあからさまなため息を気にも留めず、智は口を開いた。
「とりあえず君の素性あたりから、頼もうか」
――
「なるほどなるほど」
「……」
 ようやく亮を質問攻めから解放したかと思うと、智は嬉々とした声で頷き言った。その仕草が心底現状を楽しんでいるようで、亮はいい加減苛立つのも馬鹿らしくなってきていた。
「訳も分からず飛ばされてきて、殺されかけたかと思えば台所任されて……。飛んだ振り回されっぷりだな」
 今更ではあるが、突然何を言い出すのか、この男は。ついぶっきらぼうな口調で「ほっといてくれ」とだけ答えると、智は笑って「まあそう怒るな。……事実だろ?」と返した。
 まったくもってその通りなのだが、だから余計に頭にくる。舌打ちだけでなんとか自制する亮をよそに智はまるで独り言のように。
「しかし、そうか……。どこにでもいる十六歳が突然巻き込まれて……。今回はなかなかいいシナリオになったな。一晩泊まったかいはあったかな?」
「……どういうことだよ」
 純粋にその言葉の意図がつかめずに、いぶかしんで尋ねる。だが智はその問いには答えず、値踏みするかのように横目で亮の体を見回して、
「そんなことより、君、この世界をどう思う?」
 と、なんとも訳の分からないことを口にした。
「無視かよ」
 反射的に突っ込む、と
「……どう思う?」
 と、亮の言葉など端から聞いていないかのように繰り返す。
 張り合っても仕方が無いし、所詮は男の独り言。ため息一つでとりあえず諦めると亮は問い返した。
「どう、とは?」
「言葉通りの意味だよ。ここの人間がどんな奴らか、それとなく知ってはいるんだろ?」
「……まあ、な」
「ならば、問おう」
 淡々と、この村、世界のことを語っていた少女の姿を思い出していた亮の顔を正面から見据えて智が言う。目の前に立ちふさがったその威圧感は確かなもので、亮も覚悟めいたものをもってそれに挑む。
「あくまで試験品でしかない、人形だらけのこの世界に存在意義はあるか?」
「試験……品?」
 『所詮試験品であるこの世界に住まう者は……』と、亮の脳裏に少女の言葉が蘇る。そう、確かにあの少女も、この世界のことを試験品だと言っていた。
「ちょっと待て。どういう意味なんだ、試験品っていうのは。……これには、ちゃんと答えてもらうぞ」
「え、なんだ、知らなかったのか?」
 自分の頭を整理しながら、恰好だけでも凄む亮。対する智はまるでそれを嘲るかのように、歪んだ笑みをその顔に浮かべる。
「言っただろう。俺こそは神。全ての仮想世界……ああ、ここでは俗界とか言うんだったか」
 神妙な口調から一変、軽く笑って「悪い悪い」と手を振る。
「まあ、あれだ。全ての俗界、記憶する限りで百、今をもってなお増え続けるそれらの元を作り上げた、その張本人だ、俺は」
 まるで演出か何かのように、タイミングよく吹いた一陣の風が智の髪を揺らす。にいっと笑った智の笑みはもはや社交的なそれではなく、悪意に満ちて歪んでいた。
「作っ……た、だと?」
 世界を、人を、草木を、目の前の男は創ったというのか。
 御伽噺でもあるまいし、と頭の片隅で否定しながらも智の口調はそれを許さず。生唾を飲み込んで尋ね返した亮を前により一層得意気な表情で智は続ける。
「そう、作ったんだよ。世界を、そこに住まう生き物を。ここはその中でも一番最初に作った、いわば動作テストのための試験場兼失敗作の掃き溜めだ」
「……」
「君も知ってるだろう?ここは管理者の唄がなければ日も昇らず、世界というにはあまりに狭く、村人は盲目的に管理者に従う以外には決められた日常を営むことしか知らない。どこからともなく湧く食料とその運搬のためだけに居る四人の門番。これが正常な世界だと、そもそも世界と名付けるに足るものだと、思うか?否、これは世界ではなく、ただの不出来な仮想現実。とるに足らぬ実験場。それでも何かの役には立つかと思って置いておいたにもかかわらずあるのはせいぜいここの管理者とよその世界からの来訪者との小競り合い。ためしに後から森に怪物を放ってみたけど、何の娯楽にもならない。だから……」
 黙ってきいている亮をよそにひたすらに語り続けていた智が、不意に右手で指を鳴らした。乾いた音が空気にとける。その時、一瞬だったが大きく大気が歪んだ。
「な……何をした!」
 思わずよろめき、目の前で平然と立っている智に叫ぶ。途端に強く辺りに吹き出した風をその身に受けながら、智はこともなげな調子で、むしろどちらかといえば楽しそうな声で答えた。
「言っただろう?何の役にも立たない世界は中央の回路に余計な負担になるからな、この世界を破壊する」
「な……!俺が来たら良いんじゃなかったのか!」
「あの時は『今すぐ』って言ったはずだぞ?別に破壊しないとは言ってない」
「クソッ……!」
 とんだ屁理屈だが間違ってはいない。だが、退くわけにもいかない。口の端を吊り上げて、「どの道昨晩のうちから森の怪物を使って少しずつ作業は始めてたしな」などと笑みを浮かべている智に向かって亮はつかみかかった。
 せいぜい二人の間に横たわる距離は三メートルほど。それを一足でつめて近づくと、左手で思い切り智の右腕を握り締める。それでも智は回避行動をとろうともせずに、ただ不気味な笑みを浮かべて亮を見下ろしていた。
「何をしたのか知らないけど、もとに戻せ!」
「おお、思いのほか食いついてきてくれるな。だが、答えはノーだ。それに俺はこの答えを変えるつもりもない」
「そうかよ……!」
 亮なりの脅迫をもってした命令を男は蹴った。ならば問答無用。握り締めた右拳を力いっぱい引き絞り、智の顔めがけて繰り出す。どこを殴れば拳を痛めずにすむかは経験で大体知っている。亮の全身を使った渾身の一撃は空を切ってただ一路、智の右頬をめざし……、なにか冷たい不気味な感触に行く手を遮られた。
「……っ!」
 何事かと見やった拳の先にはゲル状の青いモノ。辺りの風の荒れようとは対照的に、少しも変わらず穏やかに降り注ぐ日の光に照らされて輝くそれは空中にぷかぷかと浮かんでいて、亮の拳の衝撃を完全に受け止めて、そのまま拳の表面を覆うようにまとわりついていた。
「殴って俺を止めようと思ってもそれは無理な話。それに、言っただろう。俺は神。流れ人の使う能力ぐらいいくらでも使える」
 智が何かしたのか、まるでもともとなかったかのように一瞬で青いゲルが霧散する。同時に間合いを開いて、不本意ながらも臨戦態勢をとる亮。緊張するその身で構えをとって、来るべき智の反撃にそなえる。だが、こともあろうに智はそんな亮に目もくれずに背を向けた。
「さて、俺はそろそろ帰るよ。いつまでもいて巻き込まれちゃかなわない」
 そういう智の向こうには、いい加減異変に気付いているであろう少女が使った『龍門』に似た、赤紫色の空間。
「な……!待て!」
 肩透かしを食らって戸惑いながらも、逃がすまいと呼び止める。今にも片脚をその空間に差し入れようとしていた智は面倒くさそうに亮を見やると、「仕方ない」とでも言わんばかりに肩をすくめて振り返った。
「さっき、ちょっとここの森と、世界の境界に手を入れた」
 直後、かけられた声は耳元から。はっとして振り返った亮の眉間に人差し指を突きつけて、智はささやくような声で言った。
「もうじきあの森の中の獣が村に一気にあふれ出す。あやふやになった世界の境界からは好機とばかりに何も知らない流れ人どもが飛び込んでくるだろう。ここの管理者は全ての俗界の中でも珍しい、現実への道を開きうる存在だ。流れ人達はその道を使おうと躍起になってこの最果ての世界にやってくる。そんな奴らが束になれば何処かで争いが起こるのは必至。獣が暴れて極度に平静を崩され、流れ人どもの能力が許容量以上に使われればこの世界の存在そのものが希薄になる。もともと小さく弱い世界だ、その後でどれだけ持つかは管理者次第」
 そこまで言うと突き立てていた指で、今にも殴りかかろうとしていた亮の額を小突き、軽く地面を蹴って飛び上がると亮の頭を飛び越えて、自分が開いた赤紫の裂け目の前に着地する。
「正直君の登場は想定外だった。もう少し面白いドラマを見せてくれるならこの世界もおいておいてもよかったんだけど」
「……何様だ」
 怒りをかみ殺した亮の声に満面の笑みで「神様」と答える。周囲に青いゲルを浮かせて、指で弄びながら、さながら高みから相手を見下ろすような優越感に満ちた声でさらに続ける。
「さあ、早く上に戻ってやれ。もうじき異変に気付いた流れ人が来る頃だ。さっさと戻って、事の次第をしっかり伝えてやるといい」
 そして最後に、「最終公演だ。いいドラマを期待してるよ」とだけ、耳の奥にこびりつくような声で言うと、智は裂け目の中に身を投げた。
 あわてて駆け寄った亮の目の前で音もなくその裂け目は口を閉じ、直後森の方からあの化物たちが発する咆哮が幾重にも重なって響いた。
――
 石段を駆け上る。振り返る余裕は無く、その必要もありはしない。ようやく半ばほどまで上りきったその脚は、本来ならばとっくに萎えているはずなのに不思議と軽く。吹き荒れる風に舞い狂う木の葉を避けることもせず、二段飛ばしで長い石段を登り続ける。
「冗談じゃねえ……!」
 悪態が口をついて勝手にもれる。
 自分にはこの世界のことなど分からない。何のために作られ、あの少女は何のためにここを護るのか。そんなことは少しも知りはしない。それでも、あの男の脅迫を聞いたとき、この世界を壊されてはならないと思った。それを止めようとあえて男の呼び出しに出向いた。それが、このざまだ。情けない。何の役にも、立っていない。
 奥歯をかみ締めて軽く俯く。その時、一筋の閃光が視界の端を駆け抜けた。
「……!」
 見上げた空。夕暮れも近いそこには、『飛鳥』と呼ばれた光の鳥。四羽どころではない。赤、白、青、黒の四色に輝くその数、目に付くだけで数十。鵯の群れのように渦をまくそれは、はるか下、森からの招かれざる来訪者に狙いをつけると、一羽、また一羽とまっすぐに、風を切る音と共に、きらめきながら急降下していく。その様はまるで光の槍が地に降り注いでいるかのようで、亮の耳にも微かに爆音が届いていた。
「あいつ、起きたのか……」
 空を見渡せば、屋敷、微かに覗く青い瓦の間から次々に新たな鳥が沸き出ている。それはさながら泉から湧き出す水のように、とどめなく溢れ出す。
「……と、それどころじゃないな」
 安堵するのもつかの間、はっとして前を見上げる。彼女が既に異変に気付いているならば、なおのことこんなところで休んでいる場合ではない。もう前方には屋敷が見えている。
 早く戻って、事の次第を伝えなければ。
 自らの両頬を両手ではたく。直後、痛みに頬と掌がしびれるのも気にせずに最後の数十メートルを駆け出した。
 本当に伝えていいのか?
 どこからともなく、ふいにそんな声が頭に響いた。
――
「おい!どこだ、おい!」
 鴬張り、とはいかないまでもなかなかに上質な木張りの廊下を、風情も何も無い乱暴な足音を立てて進む。障子張りの襖を手当たり次第に開けて、この屋敷の何処かで事を収めようとしているであろう少女の姿を探す。襖が乱雑な扱いに悲鳴を上げようとも知ったことではない。とにかく目に付いた襖から順番に開け放って、一つの小部屋に彼女はいた。
「あ、いた……」
「……どこに行っていたのですか?」
 布団に入る前に解いたのであろう、長い黒髪はまっすぐに垂れ。彼女の左右の手の間には、小さく、甲高い音を立てながらとめどなく新しい『飛鳥』を生み出している光球。細く、長く息を吐きながらそれを風に散らすと、少女は振り返った。呆れと、安堵と、怒り、だろうか。なにかいろいろなものが混じりあう彼女のため息に、「悪い」、と素直に謝る。と、少女はもう一度深いため息をつき、まるで堰を切ったように喋り出した。
「確かに、外に出るなとは言いませんでしたよ?それでも一言ぐらいあっても良いではないですか。はたと起きてみれば屋敷には私一人。警鐘に村を見ればなぜか森の獣どもが村にあふれ出している。それほどまでに私を心配させて楽しいですか?」
「滅相も無い。悪うございました」
「……頭を上げてください。とりあえず現状を打開しましょう。と言っても、この調子ならばそれほど時間もかからないでしょうが……」
 確かに、目標があの化物たちだけであるならば、この調子で行けばそれほど時間はかかるまい。降り注ぐ光の雨は、確実に、猛り狂う森の住人を貫いていく。
 その瞬間、亮は突風が駆け抜けたと錯覚した。正確には、突風のごとき勢いで走り抜けていく虚無感。格子のついた窓から空を見上げていた少女の顔が緊迫にこわばった。
「固着化の否定……流れ人ですか……!」
 くっと唇を噛み締める少女の横まで駆け寄って、亮も空を見上げる。先ほどまで空を彩り、地に降り注ぎ、嵐のごとくに渦を巻いていた『飛鳥』が、一羽としていなくなっていた。
「どういうことだ?どうして鳥が全部消えてるんだよ?」
「流れ人がきた、ということです。世界に干渉し、想像によってその一部を書き換える私達の術は術者以外のものにその存在を認知されることで完全にその世界への存在を許されます。ゆえに、他の術者がいない空間においては、一度術によって作り出したものの現界にそれ以上の細工は必要ありません」
 言いながら早足に部屋を出る少女に続いて廊下を行く。一体何人の流れ人が来ているというのだろう。そうしている間にもあの空間の揺らぎは何度も起こり、亮の周りの空気は波打った。
「ですが、同じような術者がいる場合は勝手が違う。術者は、もともとその世界に存在する、いわば存在の濃厚なものに手は下すこと以上に、術によって作られた、存在の薄いものの存在を容易に否定し、消し去る事ができる。ゆえに術者同士の戦いにおいては想像を世界に固着化することはあまりに危険で、術者は己が新たに作り出した存在の定義を正確に想像し続け、書き換え続け、維持させつづける。それが出来てはじめて、術者同士の戦いは成り立つのです。先ほどまで、私は村人達の『存在の認識』に任せて『飛鳥』を作り続けていましたから、流れ人による『存在の否定』に対して既に作られ、私の手から離れていた『飛鳥』は抗えなかった」
 言い終わって縁側にでる。黒雲に荒れる空は見上げれば吸い込まれるようで、その底なし沼のような雲の狭間から流星のように降り注ぐもの。一体何人の流れ人が飛び込んだというのか、村の方からは黒煙が上がり、森の化物の遠吠えが響き、流れ人によるものだろうか、爆音が空気を揺るがせる。そして、この世の終わりかというその光景においてなぜか、悲鳴らしいものは一つも聞こえなかった。
「全部で……二十三人ですか。一度にこれだけとは……何事ですか」
 つぶやくように、しかしはき捨てるように。言った少女の横顔は焦慮に歪んでいた。
「そのことなんだけどさ」
 正直、自分の頭の中でも整理がついていない。あの男が何を言っていたのか、何を考えているのか、これから何が起こって、自分には何ができるのか。それでも、あれは伝えておかなければなるまい。妙に覚悟して、亮は次の言葉をつづる。
「さっき、お前が寝てるとき、本当は俺、呼び出されて村に下りたんだ」
――
「……そうですか」
 容赦なく吹き付ける暴風に髪を散らし、それでもその場で少しも動かずに少女は言った。
「会ったのですね、智様に」
「……様?」
 何を言うのか。自分の護らんとする世界を消すといい、これほどまでの惨事を引き起こした張本人に『様』などと。そもそも彼女はあの男のことを知っているのか。つい眉根にしわを寄せる亮をよそに、ふっと少女はその場に跪いた。
「天に座す金色の鳳 ふきすさむ風 舞い踊る風花と共に行け 風鳥」
 もはや見慣れた、金色の羽毛を風になびかせる巨鳥。甲高く一声嘶いたそれの嘴にそっと手を添えると、
「しばらく、頼めますね?」
 と、あくまで優しく囁きかける。それに答えるかのように低い声で鳴いた鳳は、その大きな目で少女と、亮を一瞥すると、次の風に乗って荒れ狂う空に舞い上がった。
「鳥居衆!」
 その後姿に目もくれず、さらに少女は立ち上がって声を張り上げる。そのすぐ前には、いつの間に、どこから現れたのか、鳥居の下で供物の積み込みをしていた四人組。何も言わず、跪いて頭を垂れた彼らに、先ほどとは打って変わって、平坦な、丸で感情のこもらない声で口を開く。
「命を捨てるつもりで、村を護ってください」
 あまりに冷たいその宣告に男達は無言。ただひとたび頷いて肯いの意だけを示すと次の瞬間、男達の姿もまた掻き消えた。
「『風鳥』は私の術の中で唯一、自身が意思を持つもの。意思とはすなわち、己が存在を肯定する上で何より強きもの。私の手を離れても有る程度の『存在否定』には抗い得るでしょう。鳥居衆も流れ人相手ではともかく、森の獣とならばなんとかなるものと」
 亮に言い聞かせるように、しかしどこかで自分自身にもまた言い聞かせるように口にする。微かに俯きながら踵を返した少女を追い立てるように一層強い風が吹き、その黒髪は渦を巻くがごとくに踊った。
「こちらへ。いろいろと、話しておきたいことがあります」
 言った少女の顔は亮の見た彼女のどの顔よりも決意に満ちていて。ただ黙り込んだままに亮はそれに従った。
――
「……なんと」
 開かれた襖は、他とさほど変わりのないもの。だが、青葉の茂み、その中に佇む鳥の姿が描かれたそれを開けて通されたその部屋は独特の寒気をもって亮を迎え、確かに漂う異質の感に亮は思わず身震いした。
 畳にして裕に数十畳。屋敷の他の部屋に例を見ないほどに開けたその部屋の白壁、その四方の角には筆のような筆跡で、豪快に描かれた二重の円。弓場の的のようなそれは獲物を見据える獣の瞳のようでもあり、ともすれば引き込まれそうな錯覚にあわてて亮は目をそらした。
「すこし、静かにしていてくださいね」
 あまりに広い部屋に目のやり場に困り、なんとなく少女の背中を眺めていた亮にそれだけ言うと、彼女はその場に片膝をついて座り込み、床にそっと手をついて瞼を閉じた。
「風と駆ける四色の飛鳥 天上に座す金色の鳳 地の果てに眠る息吹の牙獣 全て我が名の下にあり」
 静かにその掌に宿る柔和な光。それは少女の体を這うようにしてその身を覆い、行くべき場所を探すかのように宙に踊る。
「暁に昇り宵に沈む 陽光に染まる朱の空で この旅人は神となす」
 やがて光は向かう先を見つけたかのように制止する。途端、四方に分かれたそれはそれぞれに風を切り、壁に描かれた黒白の円と少女の身とを結ぶ。
「今ここをもって天を分かち 不通の道を拓きたまえ 神門」
 それは神の宣告か。静かに告げられたその声に答えるがごとく一層強く輝いた白光は、やがて空間を縦に奔り、立ち上がった少女の目の前に蒼く輝く裂け目を描き出した。内から、あるいは外からこじ開けられるかのようにゆっくりと広がるその裂け目の向こうには青白く輝く世界。漏れ出す光に照らされて、少女が振り返った。
「『神門』……、この世界から神界へと道をつなぐ私の術であり、あなたをあるべきところへ帰す帰郷の桟橋」
「神界……?」
「それが、あなたのいるべき世界です」
 つぶやくように繰り返す亮に、立ち上がり、はっきりとした声で告げる。
 微かに悲しみを帯びたその瞳で確かに亮を見据えて、さらに彼女は続けた。
「本当は、はじめから分かっていたのです。仮にあなたが俗界の住人であったならば無自覚のうちに他の世界へ飛ばされることなどありえない。俗界同士の壁は決してその能力なくして破ることはかなわず、力を無自覚で使うこともまたありえない。ならば、まるで能力を持たないあなたの故郷は神界以外にありえないのです」
 悔いるように、俯いて語るその顔は髪に隠れて亮には見えず。ただ、どこか悲しげな彼女の声に、亮は立ち尽くして聞き入っていた。
――
『今日からここはお前の屋敷。ここに住んで、この世界を護れ』
 いちいち口にするのも面倒くさそうに、しかし有無を言わせぬ口調で告げる男。そして、それに無言で頷く自分。
 それが、少女の持つ一番初め、最初の記憶だった。
 気付けば知識は全てそろっていて、聞かずとも必要なことは全て分かっていた。
 どこに何があって、どうすれば能力が使えて、ここはどういうところで、自分は何をすればいいのか。名前は無く、あるのは『暁の巫女』という呼称のみ。身近に共に住まう者は無く、広く冷たい屋敷に常に独り。
 もともとある知識の中で、『神』と定義された男、篠山智。彼が作り出した人形、人間になりきれなかった者達が村には住まっていた。日の出と共に目覚め、日の入りと共に床につく。起きている間は毎日かわりもしない単調な生活を送り、何かあれば皆でよってたかって野次馬となり、身の危険を感じれば行く当ても無く逃げ惑う。ただ一人、管理者たる少女にのみ盲目的に従い、その様はまさに言葉を持った操り人形。
 独り歌って日を向かえ、独り夜風の寒きに耐える。それが、暁の巫女たる彼女に与えられた生だった。
 やがて、それまで何もいなかった村の森に、夜中だけ、妙な獣が現れるようになった。彼らは決して村には手を下さず、ただひたすらに森を破壊し続ける。だがそれだけでも、この世界を本来の形に保ち続けなければならない彼女にとっては一大事。そして彼女が夜中の森に出向くようになって数日後のことだった。茂み一つ挟んだ先には一体の獣と、あるはずの無い人影。今にも拳を振り下ろさんとする獣に咄嗟に『白光』を放ち駆け寄った先。そこに倒れていた、見慣れない服装の少年が亮だった。
――
「本当ならば、あなたが神界の方だとわかった時点で私はあなたを送り出すべきでした。相手が俗界からの流れ人であってもそうするのです。まして神界の方が俗界にいたのでは世の理が崩れかねない」
 俯きそうになる顔を決して下げまいと前を見据え、さながら告白するかのように語る少女を前に亮は言葉を挟めない。息継ぎのように言葉を区切った彼女は、何かを思い出したかのように目を伏せて、重ね合わせた手をこわばらせて再び口を開いた。
「それなのに……私はそれをしなかった。神門目当ての流れ人ならばすぐに追い返さざるを得ない。ですが何も知らないあなたならば、あるいは、共に過ごせるかと、思ってしまった……!」
 かすれ行く声はついに途切れ、少女はぐっと顎を引いて俯く。泣いているのか、とも思ったがその足元を濡らすものは無く。ただ痛々しいまでに奥歯を噛み締めて少女は結びの句をつづる。
「急いでください。二十もの流れ人が勝手に能力を使えば、この世界は同時に襲い来る書き換えに耐えられず、いずれ崩れ去ります。そうなる前に、どうか……!」
 最後はもはや搾り出すように、今にも消え去りそうな声で言って、すべるように前に踏み出す。何も言えずに呆然と立ちつくす亮の耳元で「ごめんなさい」と詫びた声は本当に今にも泣き出しそうで。あわてて振り向いた亮の視線の先には既に彼女の姿は無く、ただ何処かへ走り去る足音だけが聞こえていた。
――
「……随分と早いお着きですね」
 今さっき駆け出してきた部屋の前の廊下。その突き当りではたと少女は立ち止まった。
 いつまでも感傷に浸っているわけにも行かなければ、それをいつまでも引きずる彼女でもない。そこにあらぬべき気配の方に振り向く顔は既に凛として、視線の先に立つ小柄な男を見据えた。
「神門を開け!否と言うならば、まずはその四肢を貰っていく!」
 見た限りで傷が一つもない、ということはここまで『風鳥』にも鳥居衆にも会わずにたどり着いたということか。その隠密性は評価に値するかもしれないが、しかし、軽く一瞥しただけでその台詞が虚勢と分かるほどに肩を張ったその男は少女の敵などにはなり得ない。
「あなたなどに、開いて差し上げる道はありません」
「……ならば!」
 怒声とともに男の手には一組の弓矢。放たれ、疾駆するその矢はしかし、少女のもとへ届きもしない。
「驚いた。あなた程度の実力でも入り込めるほど、既にこの世界の境界は薄れているというのですか」
 己が身に迫る矢を僅かに一度睨みつけただけでその存在を『否定』し、世界の中から消し去る。次いで放たれた『白光』の前に男は倒れ、力なくその場に転がった。
「事が事です。帰る道は自分で探しなさい」
 冷たく言い放ち、ぽっかりと口を空けた『龍門』に男の体を放り込む。赤い空間に落ちていく男の体をぼんやりと眺めながら、静かに彼女はつぶやいた。
「そう……、これが私の役目」
 このために生まれ、このために能力を持った。ならばこれこそが自分の進むべき道。
 グッと唇を噛み締めて『龍門』を閉ざす。休む間もなく、流れ人は押し寄せる。村へ降りようと、今にも駆け出そうとした彼女の肩を、力強く掴むものがあった。
「……!」
「待てよ!」
 迎え撃とうと振り返った目の前にあったのは他でもなく、すこし高いところから見下ろす亮の顔。驚き、唖然とばかりに目を見開いた彼女を前に、声を荒げて亮は言う。
「お前、死ぬつもりか?もうすぐ崩れ落ちるっていうところで、何をするつもりなんだよ?」
 収拾がつかなくて、そんな自分自身に怒りながら、それでも少女を引き止めるために言う。対する少女は、まるで鳥居を見下ろす巨鳥の背中でそうしたように、一瞬だけ驚いたような顔を見せるとすぐに、「そんなことか」といわんばかりの表情で深々とため息をついた。
「言ったではないですか。私は暁の巫女。俗界が一つ、暁の村の主。主が、その土地を護るのは当然のことでしょう?」
「そんな……馬鹿な!」
 なまじ思考が追いついているせいで言葉に詰まる。本当に自分に否定できるのか?自分が口出ししていいことなのか?自分が本当に正しいのか?とめどなく溢れる問いの中、それでもただ一つ、目の前の少女を止めるという意志のみで吐き捨てた。
「その為だったら……命だって捨てるのか?お前のその役割だって、あの智とかいう男が割り振ったんだろ?だけど、いまはあいつ自身がこの世界を捨てたんだ。もう、わざわざお前がここを護ってやる必要なんかないだろ?」
 言い切り、祈るような気持ちで黙り込む。しかしその言葉には相手を言いくるめるような語気など微塵もない。すがるような気持ちで尋ね、あわよくば説得しようとするような、弱腰が滲み出て見えるような声。そして、目の前では亮の言葉を反芻するかのように目を閉じた少女の姿。
 いつものことだ。
 自分自身を叱咤して、小さく舌を打つ。いつも肝心なところで、臆病で冷静気取りの思考回路は亮の手枷足枷となって邪魔をする。
 いっそ今、その肩を無理やり引き寄せれば、彼女をここで止められるのだろうか。そう、想像した矢先だった。
 少女はもう一度深くため息をつくと、静かな声で言った。
「なにか、勘違いしていませんか?」
「何?」
 思わぬ、あるいは恐れていたのかもしれないその言葉に、自然と問い返す。僅かにも揺るがぬ堅い表情のままに、少女は言った。
「重要なのは求められるか否かではないのです。私がここを護る理由はただ一つ、その為に私は生まれたから。たとえ智様がこの世界を捨てようとも、私は最後まで暁の村を護ります。それが、私の存在の意味ですから」
「あ……」
 言い返してやりたい。それは間違っていると、否定したい。だがそれを言われてもはや、揺るがぬ意志を見せ付けられてなお、亮からかけられる言葉など、臆病な思考回路に浮かぶ反論など、少なくとも亮には、無かった。しかしまたも黙り込み、立ち尽くした彼の前で、少女は今度はそっと、静かに、儚げに笑った。
「そんな顔をしないでください。まるで、今にも泣き出しそうですよ?」
 小さな子供をなだめるような、優しい口調で亮の顔を見上げる。
「あなたがそうまでしてなぜ悲しむのですか。ここは俗界。神界に住まうあなたにとっては、目覚めれば掻き消える夢の中のようなもの。現に生きるあなたが、夢に泣いてどうするのですか」
 それはちがう。そう言おうとしても言葉が出ない。奥歯を噛み締めて俯く亮に、少女は静かに背を向けて言った。
「亮。あなたがここにいるべきでないように、人は夢に生きてはならないのです。あなたは、あなたの神界へお帰りなさい。私もここでの役務を全うしましょう」
 その言葉には、もはや一片の迷いもなかった。先ほどまでの悲しげな微笑を表情の奥に隠し、うっすらと暖かな笑顔を浮かべて、自然な調子で言い切った少女は静かに亮の前から去っていく。その仕草はすんだ小川を花びらが行くかのように滑らかで。
 ああ……俺の名前、覚えてたんだ。
 そう、思った途端。本当に衝動的に、亮はその背中を呼び止めた。まるで、呟くように。
「……霞」
「え……?」
 本当ならば何の意味も持たないはずのその言葉に、なぜか少女の足も止まる。
 例のごとく、どこからともなく流入する知識。それを無視して、ほとんど思いつくままに亮は言葉を紡いだ。
「カスミソウ、株で見れば霞がかかったように見えるほどに小さな白い花だ。花言葉は『清らかな心』。そこからとって霞。お前、言っただろ、好きに呼べって。だから、これがお前の名前だ」
 その小さな花は可愛らしく、しかし清らかで。遠目に見ればはっきりとした存在感がそこにある。そしてその枝はともすれば簡単に折れてしまいそうなほどに細い。
 どうして自分がそのようなことを知っているのか。心当たりはまるで無いが不思議と気にはならない。ただそれが、今にもたった一人で消えてしまいそうな目の前の少女に何よりしっくりくるような気がした。
「霞……ですか」
 その響きを確かめるように繰り返す少女。やがてふっと振り返ると、それまでとは違う、一点の曇りも無い微笑みを浮かべて言った。
「良い名をありがとうございます、亮」
「ああ……。それともう一つ」
 放っておけばその笑顔を浮かべたままで「それでは」と言って彼女が行ってしまうような気がして、せっかくのチャンスを逃すまいと半ばあわてて続ける。
「約束だ。やるからには完璧にやり遂げて、この世界を護り抜いて来い。それで、もう一度ここで落ち合おう。それまで、俺はさっきの部屋で待ってるから」
 驚いたのは少女の方だ。この期に及んで何をいうのかと、鋭い口調で切り返す。
「何を悠長なことを!もしもこの世界が崩れたらどうするつもりですか!」
「だから、完璧にやり遂げてきてくれ。俺だってこんなところで何もしないまま終わりたくない」
 わざと芝居がかった口調で言って、肩をすくめて見せる。
 そう、なにもいまこの瞬間が最後の別れである必要などないのだ。今は単純に、この事態に収拾をつければいいだけ。
 しばらく目を丸くして言葉をなくしていた少女、霞は、やがて深くため息をつくと、困ったように、しかし笑顔で言った。
「わかりました。必ず、もう一度ここで」
――
 一人でいるには広すぎる部屋の中。その中央に胡坐をかいて亮は頬杖をついていた。
 背後には青白い裂け目――『神門』――が神々しささえ感じられる輝きをもってたたずみ、その光は部屋中をうっすらと青く染め上げる。
 ここを通れば……帰れるのか。
 ふと振り返って、そんなことを考える。あらためて思い返してみれば、彼女、霞と出会ってから、いや、そもそもこの世界に来てからの自分は驚くほどに「帰りたい」という願望が無かったような気がする。
 もちろん、帰りたくないわけではない。家族も、友達も、極当たり前の生活も、全てがこの青白い裂け目の先で待っているのだ。帰りたくないわけが無い。では、なぜ?
 そんなことをゆっくりと考える時間がなかったというのもあながち外れてはいない。だが、それ以上に、このよくわからない異世界での時間を、確かに亮は楽しんでいた。目を疑うような光景も、木の屋敷がもつ雰囲気も、霞との他愛の無い会話も、その全てを。
「もう少しくらい、ここに居たいよな……」
 ぼんやりと口にして、そんな場合ではないと自戒する。外はどうなっているのだろうか。分かることはより一層風の音が強くなったということだけ。森の化物はおさまったのか。流れ人は?何より、霞は?何一つとして、亮に知る術は無く。無力に唇を噛み締めて、ただひたすらに霞の帰りを待っていた。
 突然のことだった。聞こえてきたのは何かを引きずるような音と、それにあわせて壁を力なく叩く音。ゆっくりと、しかし確かにそれは亮の方へと近づいてきていて。固唾を呑んで立ち上がった亮の目の前で、ほとんど倒れるように、その音の主は部屋の中へ入ってくると、力尽きたように倒れこんだ。
「な……!おい!」
 一瞬言葉をなくし、目を見開き、次の瞬間にはあわてて呼びかける。まるで流れるようであった黒髪は所々が切れ、朱色の袴の裾は微かに焼け焦げ、着物の右の袖口は肘から先を覆うはずの部分が引きちぎられたかのように姿を消し、白かった肌に血の赤を散らし。それは、無惨なまでに傷ついた霞の姿だった。
「おい、大丈夫か?」
 傍らに座り込んで呼びかける亮のほうにゆっくりと振り向く。額でも切ったのだろうか、その左目は流れる血を避けるように閉ざされ、右目の瞳にも力がない。
「御免なさい、亮。約束は守れませんでした……」
 つぶやく声にもやはり力はなく、彼女の凛とした雰囲気もどこかへ飛んでしまっている。それでもなお、ごめんなさいとつぶやくその表情が痛ましくて、思わず眉をひそめた。
「もう、ここはそうもちません。早く……神門、へ……」
 この期に及んで……!
 口にすることは無い悪態を飲み込んで
「ああ……わかった」
 と小さな声で答える。事情を聞いたところで自分には何も出来ない。霞はすでにまともに動くことさえかなわず、この世界はじきに崩れる。ならば、するべきは一つだけ。それでもなお躊躇する自分を叱咤して、ゆっくりと、ぎこちない動作で亮はその場に屈みこんだ。
「……!なにを……!」
 かすれた声で、驚いたように霞が言う。その傷ついた体を抱え上げて、亮は真後ろへ振り返る。
「……こうまでなったら、さすがのお前でももう何も出来ないだろ?」
 そういう亮の見据える先にあるのは青白い空間。霞が開いた『神門』。それに気付いたのだろう。訳もわからず、頬を赤らめてさえいた霞の表情が一変した。
「馬鹿な!何を考えているのです!」
「……お前も、一緒に、連れて行く」
 こともなげに、できるだけそう聞こえるように言う亮に、霞は半ば叫ぶように言う。
「冗談ではありません!私は俗界に住まう者、神界に行くなどありえないこと。それに、私は最後までこの村を護らなければなりません!」
「ああ、ああ!分かったから暴れるな!」
 下ろせ、とばかりに力の入らない体でもがく霞をなんとかなだめて、立ち止まる。もはや『神門』はすぐ目の前。一歩踏み出せば足が届く。青白く、まぶしい光に目を細めて、亮は言い聞かせるように、霞の目を見据えて言った。
「いいか、これは俺の我侭だ。お前はこれ以上何もできなくて、ここはもうもたない。護る力もない奴が、もはや護る価値すらなくなったものを護ってどうするつもりだ?そんなことで、本当に死ぬつもりなのか?」
「それでも、私は……!」
「泣きそうな顔してたくせに、いつまでも強がって、最期までそうやってたった独りで消えるのか?」
 霞の声を遮って口にした、その一言が止めだった。さらに言い返そうとしたその瞳はみるみるうちに涙をたたえ、あふれたそれは一筋の細い線を描いて彼女の頬を伝った。
「私は……私は……っ!」
「お、おい……」
 胸に顔をを押し当ててくる霞に戸惑って、しかし思い直して身は引かず。小さく震える肩を抱く手にそっと力をこめて、わざとらしいため息で照れ隠しにする。
「これだから置いて行けないんだよ……」
 一言つぶやいて、亮は青白い光の中に身を投げた。

 飛び込んだ瞬間、亮の身体は物体としての存在感を喪失した。
 
 体の中を風が通り過ぎていくような、妙な感覚。まるで自分が感覚の塊になったような錯覚。不自然な爽快感の中で視界が白み、かき消されるようにして亮の意識は闇に落ちた。