二章

第二章

「ん……」
 それは真っ暗な部屋に小さな明かりが灯るかのように、宙をさまよっていた亮の意識はゆっくりと覚醒した。
 あれ、寝ちまったか……
 身を起こして立ち上がる。梅か桜か、淡い赤の花が描かれた襖を開き、隣の部屋の障子張りの襖の隙間から見れば空はもう橙に染まり、じきに夜が訪れようとしていることを告げていた。
「うう……寒い」
 手持ち無沙汰に耐えかねて部屋を出たところで、吹き込んできた風に思わず肩を抱く。やはりこの世界――『暁の村』とかいっただろうか――も今は冬なのだろうか。木張りの床は随分と冷え切っていて、靴下越しにも冷たさが感じられた。
 あいつどこいったんだろ?
 空の様子から判断するにあの少女が亮を残して部屋を出て行ってから軽く四時間は経っただろう。恐らくこの屋敷の中にいるのであろうが、そもそも屋敷のつくり自体を理解していない亮には彼女がどこに行ったのかなど見当のつけようもない。
 まあ、散歩がてらに探してもいいか。
 寝起きで動きの悪い体を伸ばして後ろ手に襖を閉める。
『名は、ありません』
 手をもみ、指先を暖めながら歩いていた亮の頭の中に彼女の声が蘇る。
『好きにお呼びなさい』
「好きにっていわれても、なあ……」
 現実的に考えればこのまま「お前」と呼び続けても別段問題は無いのだが、それではなんと言うか、亮の気がおさまらない。名前のあるものをあくまで呼び名として「お前」と呼ぶのと、名前のないものを仕方なく「お前」と呼ぶのでは意味するところがまるで違うのだ。
 さて、どうするか。
 右手を顎にやり、その肘を左手で支え、僅かに俯いて考える。歩く「考える人」。美術館に並べたらロダンの足元にも及ばないだろうが、それなりには様になっているだろうと亮は思う。その割には考えている事がくだらない問題であることが難点だが。
 いや、くだらない、などということは断じてない。すくなくともあの少女の名前の一件は亮にとっては一大事なのだ。この先どれだけの時間をこの異世界で過ごすことになるのかは分からないが、その間ずっとこんなことで悩み続けるのは勘弁してほしいと思う。そういう意味で、この問題の早期解決は亮にとって現状における最優先事項とも言えた。
 とりあえず俺の身近にいる女の名前はパスだよな……。
 そんなことを考えながら突き当たりの角を曲がったとき。とん、と何か細いものが左肩のあたりに当たって顔を上げる。そこには呆れたような顔で亮を見上げる、『暁の巫女』たる少女が片手を突き出して立っていた。
「廊下を歩くときは前くらい見てくださいね?」
 中指と人差し指をからめ、亮の左肩にあててつっかえ棒にしていた右手を下ろして言う。
 どこか可愛らしさも感じられるその声に適当な返事を返し、「どこいくの?」と亮が尋ねると、彼女は「ついてきて」といった感じに目配せして何も言わずに歩き出した。
 今亮が歩いてきた廊下を引き返し、白い足袋を履いた足を小刻みに動かしながら薄暗い廊下を行く。そして亮の眠っていた部屋を通り過ぎたその時、左手に見えた襖の前で彼女は立ち止まった。
「もうじき宵の刻ですから」
 沈黙を破り、やはり障子張りの襖を開きながら言う。
 その部屋はせいぜい二畳程度の広さしかなく、その狭い部屋の中央にはぽつんと、ハンドベルのような形をした、陶器の柄つきの鈴が置かれていた。
「気になるようでしたらここから見ているといいでしょう。何が起こっているのか、一目瞭然です」
 言われて、その鈴を拾い上げた彼女が開けた窓の前まで歩を進める。ちょうどそれは今にも沈もうとしている夕日を正面から見据えるように作られていて、あまりのまぶしさに亮は目を細めた。
「いきますよ」
 目の上に手をかざし、辛うじて窓の外に目を向けている亮に向かって言うと、彼女は手にしていた鈴を三度、小さく振るう。
 焼き固められた土同士がぶつかって、ころころと暖かみのある音を奏でる。
 普通に考えればせいぜい静かな部屋の中に響くのが限度であるはずのその音は衰えることなく広がり、襖をこえ、壁をこえ、屋敷中に響き、村中にやさしい音色が届いた。
 その直後だった。
 比喩ではなく、本当に亮は目を見開いてその光景を見つめた。
 今の今まで、確かに地平線のすこし上に輝いていた太陽が、ありえない速さで地の果てへと落ちていくのだ。
 目に見えて高度を下げていくそれはみるみるうちに赤みを増し、あっという間にその姿を隠した。その後ほんの数秒は空にも赤みがのこっていたもののそれもすぐに消え、後に残ったのは真っ暗な空、その高みに輝く月と星。亮の知る、街の明かりに照らし出されてくすんだ空ではない、美しい夜空が広がっていた。
「驚きましたか?」
 唖然として窓の外を見つめ続けている亮の背後に立った少女が呼びかける。振り向いた亮が言葉を捜して黙っていると、彼女は言った。
「この世界はこうして夜を迎えます。そして夜が来ると同時に村人は皆眠りの床につき、私の歌と共に日が昇ると、皆同時に起き上がる。暁を迎える歌をうたう者。私が『暁の巫女』と呼ばれる由縁です」
 言いながら手にしていた鈴を元の場所に置き、亮に背を向けて部屋の外に出る。
 亮が自分に続いて部屋から出たのを確認すると、静かに襖を閉めて廊下を歩き出した。
「大鳥居に住まう四人の鳥居衆も、村人達も、所詮試験品であるこの世界に住まうものは皆朝日と共に目覚め、定められたかのような一日を過ごすと日暮れと共に眠る。仮にそこに彼らなりの生活があるのだとしても、私から見ればこの世界の人間はただの人形です。その意味では、流れ人の方がいくらもましだと思います。」
 言い終えた少女が一つの襖の前で立ち止まる。
 両手を添えて襖を開いた彼女に続いて部屋に入る。ふと浮かんだ彼女への疑問は、とりあえず飲み込んでおいた。
「夕飯の前に、この部屋を直さなければなりませんからね」
 そういって部屋の中央へと歩を進める彼女の言葉で亮は気付いた。
 夜風が障子を撫でるたびに乾いた音が鳴り、襖が小刻みに震える中、床にぽっかりとあいた大きな穴と壊れた机。
「ああ……、今朝俺が殺されかけた部屋か」
「仕方ないでしょう。あの時はまさか本当になにも知らないとは思わなかったのですから」
 わざと視線をよそに流し、聞こえよがしに言ってやると、小さなため息と共に彼女が答える。本人は気付いているのだろうか、少し語調が強く、早口になっているのが可愛らしく思える一方で、そんなことを考えている自分に亮は内心で肩をすくめた。
「地の果てに眠る猛き獣 星を仰ぎ 空に咆え 再生の歌を奏でるがよい 息吹」
 少女のかざした手の下で、粉々に破壊された木の床が、さながらその場所だけ時を巻き戻すかのように修復される。縁の下に落ちていた木のくず、木板のかけらが次々と宙に浮き、それぞれのあるべき場所に導かれては周囲と融合、固定される。
 何も言わずに見守る亮の前で彼女は壊れ、真っ二つに割れた机にも手をかざし、同じように二つの大きな断片をつなぎとめる。
 かけた時間はものの数十秒。もはやそこにあるのは穴の開いた床と壊れた机ではなく、どちらも新品同然の床と、机だった。
「それ、どうやってるんだ?」
「これですか?」
 立ち上がり、半開きになって外の風が吹き込んでいる襖を閉めて言う。
「流れ人のように、情報記憶体に手を加えることのできる者は皆、その能力によって俗界に新たに定義された存在を作り出したり、あるいは既にある存在の定義を変更したりする事が出来ます。たとえば、こんな風に」
 そういって彼女が襖にそっと手を触れると、障子張りだったそれは一変、見事な鳳の絵が描かれた襖に変わった。
 驚き、言葉をなくす亮の目の前でそれをもとに戻すと、さらに彼女は続ける。
「大抵のこの力を持つものは、これを特化することでそれぞれ独自の能力としています。今朝方の男の人形など、その一例です」
「じゃあお前のあの大きな鳥も?」
「もちろん。まさか本当にあんなものがいるとでも?」
 からかうように微笑を浮かべる彼女から目をそらす。それは亮が始めてみる彼女の笑顔で、一瞬、本当に見とれそうになった。
 一目惚れって柄でもないだろうに……。
 胸の内で自分にため息をつく。
 そんな亮をよそに真顔に戻った彼女は、無言のうちに彼を促して部屋を出ながら言葉を紡ぐ。
「朝の男の時にもいったように、既にある世界の末端を力ずくで書き換えるこれはそれなりの集中力と、どのようなものを作り出すのかという絶対的な想像力が必要になります。そのために私のように複数の能力を使う者や複雑な能力を使う者は、その能力と口上とを結びつけることで想像をより確固たるものとすることもあります」
「ふうん……」
「まあ、機会があればまた詳しく話しましょう」
 空返事を返した亮を特に咎めるでもなくそう言って、彼女は一つの襖を開ける。
 と言っても、実際のところ廊下に面している襖はどれも皆似通ったもので、亮はどの襖がどの部屋かなど少しも理解していなかった。
「さて、と。今晩の献立はどうしましょうか」
 ちょっとした石段を下り、他の部屋よりも低くなった床に下りる。壁の下の方は石で固められ、足元には土がむき出しになった床。石作りのかまどに水がめと柄杓。
 確かめるまでも無い。八畳ほどのその部屋は、この屋敷の台所だった。
「なにかご希望は?」
「いや……特には」
「そうですか」
 彼女は小さくうなずくと、壁際に置かれた棚の前にしゃがみこむ。そのまま両手で静かに木箱の蓋を右から順に開け、その中身をのぞきこんでいる彼女に亮は問いかけた。
「そこにあるのってあの鳥居から持ってきたやつ?」
「ええ、そうですよ。ある程度の量はここに置いておいて、他のものは別にある蔵に保管しています」
 言いながら立ち上がった彼女の手の中にあったのは、どう見てもただの人参と里芋。まったく別の世界であっても全てが違うわけではないのだろうか。
 首をかしげる亮をよそに、少女は水がめから桶に水を汲み、その中で手にしたものを洗いだす。
 この場合ただ見ているのはどうかと思い、亮がそばまで行って隣に座り込むと、彼女は一瞬驚いたように顔を上げ、亮の顔と亮の手の中の人参との間でしばらく視線を往復させてから再び顔を手元に向けた。
「で、何を作るんだ?」
 きれいに土を落とした人参を脇によけながらたずねる。石でできた流しの表面はヒヤリと冷たく、その上を人参が転がった。
「そうですね」
 少女も洗い上げた里芋を両手一杯に抱えると、こぼさぬよう、慎重に立ち上がる。
 大小さまざまなそれを亮の置いた人参のすぐ横に転がすと、壁にかけてあった布巾で手の雫をふき取る。
「特に希望も無いようでしたら、いつもどおりに味噌汁、煮物、飯にしようと思うのですけど」
「いつもどおり、って……。朝もそれだったよな?」
「ええ、ですからいつもどおり」
「……あ、俺やる」
 座り込もうとする彼女を制止し、亮は返事もそこそこに桶を持ち上げる。
 底の土が残らぬように、かき混ぜながら水を捨てる亮の横で彼女は続けた。
「私はそれほどいろいろ作れるわけではありませんから。私の朝食も夕食も、ほとんど変わりません」
「それこそ村の人たちにやってもらうっていうのは?」
「言ったでしょう?ここに村の者は登ってこない、と」
 特に咎める風でもなく、ただ言い聞かせるように彼女は言う。
 その様子は逆に、自分が彼女になにか悪いことをしたように思わせて、亮は一つ大きなため息をついた。
「よし、わかった」
 腕まくりをして、少女の用意した包丁を手に言う。
「今日は俺が作るよ。いくらなんでも毎日同じもんじゃ飽きるだろ?」
「もう慣れましたけど」
 あっさりそう答える彼女。他意のないその声を亮は聞こえなかったふりをして、流しの周りをあさり始めた。
「まあ俺は普段から料理なんかしないから大したもんは作れないけど、それでも喰うに耐えるだけのものは作れると思うから。まあ、見ててくれよ。」
「……では、お言葉に甘えて」
 丁寧にお辞儀をすると、台所の入り口、屋敷の廊下に足をそろえて腰掛ける。
 図々しいのか素直なのか。
 興味深そうに亮のほうを見つめている彼女を横目で見ながら、亮は肩をすくめた。
――
「……おいしい」
 意外、とでも言いたそうな表情で、唇で箸の先をくわえたままに少女が言う。
 彼女がじっと見つめる先、平らな皿の上には、亮が作りなれた得意料理。ご飯と一緒に、丁度洗ってあった人参と里芋、棚にあった何かの肉を混ぜて炒め、塩で味をつけたもの。亮自身もこれが焼き飯なのか、炒飯なのか、炒めご飯なのか、正確な呼び名は把握していなかったが、ご飯さえあれば簡単に作れる手前、これを作ることに関しては手馴れたものだった。
「そりゃそうだ。時々親が出掛けるせいで月に一回はこれ作ってるんだから」
 ま、本当は胡椒を振るんだけど……。なくてもそこそこいけるな。
 向かいに座る亮は、胸の内でうなずきながら箸を口に運ぶ。
 それにしても、ここの食材の偏り方には閉口した。あるのはほうれん草だとか人参だとか、干し魚に肉にとすぐに和風料理への活用法が思いつくようなものばかり。それ自体の種類はそこそこなのだが、それでは亮の作れる料理が随分制限されてしまう。
「後で作り方教えてやるよ。凄く簡単にできるから」
「ええ、是非」
 よほど気に入ったのだろうか。熱のこもった声で答えながら、結構なペースで亮の手料理を食べていく。その姿が見苦しく思えないのは彼女のもともとの気品のせいだろう、と亮は思った。
「でもなあ、あの食料ってどっから来てるんだ?野菜の類は畑があったからわかるにしても肉とか塩とか、そんなもんが手に入りそうなところあったか?」
 そもそも肉は何の肉かもわからないし。
 手を休め尋ねる亮。対する少女は「ちょっとまって」というように片手を前に突き出して口の中のものを飲み込む。
「正直に言えば、私も知らないのです」
「……はあ?」
「そ、そのような反応をされましても……」
 思わず亮が素っ頓狂な声で聞き返すと、驚いたのか、後ろにのけぞりながら彼女が答える。慌てて亮が「あ、悪い」とつぶやくと、少女もそそくさと居住まいを正して口を開いた。
「私が気づいた時には、既に私は今のような生活をしていましたし、この世界は今と同じように動いていました。なぜそうなっているのかなどということは、私には知る余地もありません」
「知りたいとは、思わないのか?」
「……思いませんね。大鳥居の供物は欠かさずそなえられる事が大切なのであって、それが満たされていれば何の問題もないのです。それに、私はここで暮らし、時を刻み、この世界に在らざるものを在るべきところへ送るのが役目であり定め。その私に、供物の出所を知る暇などないのです」
 独特の、淡々とした、感情のこもらない声でそう言うと、小さくさいの目に切った人参を器用につまんで口に運ぶ。小さな声で、「おいしい」とつぶやく彼女を見つめながら、亮は箸を口へ運んだ。
――
「ふう……」
 深いため息をついて、亮は布団の上に倒れこんだ。
 程よい柔らかさが心地よい布団の下には、触れると冷たい木の床。襖の障子からは明々と月明かりが差し込んでいるというのにどういうわけか部屋の中は寒気など微塵もなく、吹き込むそよ風は亮の心を沈め、眠りへ誘った。
 しかし亮は瞼を閉じなかった。
 頭の後ろで手を組み、天井の暗闇を見つめる。
 俗界に神界、ねえ……。
 もう一度ため息をつき、考える。
 昨日まで、亮は自分がいる世界が全てだと思っていたし、まして他にも同じように人の生活する世界があるなどとは考えた事がなかった。
 当然だろう。
 むしろ普段から本気で「この世には他にも同じような世界が実在する」などと公言していれば周りから白い目で見られること請負いだ。
 うん、俺の考え方は特に間違ってはなかった。
 胸の内で勝手にうなずく。
 反動をつけて体を横に向け、両腕は適当に伸ばす。指の関節が床に当たって、軽い音を立てた。
「でもなあ……」
 唇を尖らせて、思考を再び思案の中に戻す。
 少女の言うことはにわかに信じられないことであるけれど、見たところこの村が亮の知っている世界とはどこか違う、ということは確かだ。それは一日かけて亮自身が誰よりも実感している、と思う。
 疑ってもどうしようもない。とりあえず彼女の言うことを信じるとして、気になるのはどうして自分がこんなところに来てしまったのかということだ。
 あの後何度か、暇を見ては記憶をたどってみたけれどなにか新しいことを思い出すわけではなかった。確かに、間違いなく、亮は電話をしようとしていたはずなのだ。すこしデザインはかわっていても、特におかしなところはない公衆電話で電話をかけようとした。それでどうしたらこんなことになるというのだろうか。
「……わかんねえ」
 細いため息。
 独り言をつぶやいて視線を宙に泳がせる。
 あ、そうだ。
 ふと思いついて亮は片手を布団の中に潜らせた。
 このことを誰か友達に教えてやろう。こんな体験滅多にできるものでもないし、もしかしたら俺がいなくなったことで向こうはすこし騒ぎになっているかもしれない。そうなると家族にも電話するべきだろうか。そんなことを考えてわき腹の辺りに左手をもっていったところで、亮は手を止めた。
 そうか……。
 亮が今着ているのはもともとの亮の服ではなかった。真っ白い、浴衣のような着物。本来、この舘の主たる少女のものだ。亮の着てきた服はどれもところどころ汚れ、屋敷の妙に立派な風呂に入る時に全て洗濯にまわしていたのだ。とはいっても、さすがに同世代の女の子に服はともかく下着まで洗われたのでは気持ちが悪い。洗濯は自分でやろう。服を脱いだそのときに、亮は強く決意していた。
 それに……。
 枕元。財布と並んで置かれている携帯電話を手に取り、開く。そこにあったのは白く、明るく光る画面ではなく、無様にひびが入り、破損した黒い板だった。
 壊れてるんじゃあ、どうしようもないよなあ。
 もう一度、大きくため息をつく亮。そのまま腕を伸ばして壊れた携帯電話を枕元に戻した時だった。
 ギィ……、と床が軋む音が聞こえた。
 音は廊下から。よく聞けば、ス、ス、という何かが擦れあう音も混じっている。
 なんだ?
 ゆっくりと、視線を向けた先、障子に浮かび上がる人の横顔のシルエット。少女の話を聞く限り、亮以外にこの屋敷の中をうろつきうる者がいるとすれば彼女しかいない。
 どこに行くんだ、こんな夜中に。
 こういう好奇心は非難されるのだろうか。実際わずかの後ろめたさはあった。しかし、一度興味がわいてしまうとそれはなかなかおさまってくれないもので。亮は静かに布団から這い出すと、音もなく襖を開けて部屋を出た。
――
「ひゃー、サミイの」
 容赦なく吹く夜風に、思わず肩を震わせる。見ているだけなら暖かくも思える柔らかい月光も、優しく、繊細に輝く星も、今は肌に刺す寒さを強調するだけで。白い光の差す様はまるで寒さそのものが降り注いでいるかのようだった。
「こんな中をどこに行くってんだ」
 半ば不平とも取れる口調でぼやきながらも、砂利の上に僅かに残る少女の足跡をたどる。
 真っ白く、独特の光沢を持った玉砂利は青白く輝いて、さながら足元が淡く光っているかにも思えた。
 ひとつ、ふたつ、小さなくぼみを数えながら歩く。
 まっすぐに、小さくはなりながらも消える様子は決して見えなかったそれは、あるところで突然に姿を消していた。
 屋敷の外輪にあたる白塗りの壁。その2メートルほど手前でその足跡は左右共に横に並び、途切れている。そしてその先には、まるでなにか大きな球体がたたきつけられたかのように、砂利の上に残された大きなくぼみ。
 ここからどこか別の場所に向かった様子も見受けられないし、おおかたここからあの巨鳥にのって飛び去ったのだろう。
「……」
 できる、か?
 ふと右手を顎に当てて黙り込む。その胸にあるのはわずかばかりの、ささやかな願いと好奇心。
 小さくうなずいて決意すると、亮はその場に片膝をついた。
 頭の中に昼間の光景を思い描き、あの少女がそうしたように左手を目の前の地面にかざし、そっと指先に力を入れる。
「……天に座す金色の鳳、ふきすさむ風、舞い踊る風花と共に行け、風鳥」
 傍から見れば随分と間抜けなものだろうと思う。
 だが、幸いにも周囲に他人の目はなく。亮はまるでそうするのが当たり前であるかのように、より一層強く指先に力をこめた。
 来い……!
 あてもなく、念じる。
 そして。
 亮の左手の先。金色の光は、現れなかった。
 何もない空間に、空しく夜風が通り過ぎる。
「……やっぱ駄目か」
 彼女は、彼女達の使う能力は、俗界の全てを束ねる情報の集合体に手を加え、書き換えることでなされると言っていた。つまり、亮にはそれが出来ていないということ。仕組、方法、何も分からない以上、こればかりはどうしようもない。
 どうするかな……。
 自分にはあの少女が使ったような力はつかえない。ならばその身一つで何とかしなくてはならないのだが……。
 考え込み、はたとすぐ横の木に目をやる。
 太く、ところどころ捻じ曲がったその幹はまさに登ってくれといわんばかりに立っており、迷うことなく亮は幹のこぶの一つに足をかけた。
 「よっ」と声をかけ、体に反動をつけ、大きく上体をうねらせて青い瓦の上に右足をかける。そのまま木の幹を思い切り押して体を押し出すと、亮は壁の上に立ち上がった。
「うげ……」
 それが口をついて真っ先に出てきた言葉。目の前、はるか向こうには森の木々。遠く離れたその黒い塊は亮の立つところから遠く離れ、壁の袂の地面ははるかに急な傾斜を作り、そこにあった。
「……帰ろうかな」
 正直に言えば、浴衣一枚と言ってもいい今の亮の恰好にこの冷たい夜の空気はなかなかこたえる。一言、静かにつぶやいて踵を返そうとしたその時、亮の視界の端で何かが光った。
 見ずとも分かる。
 決してその源を直視してはならないと直感させる、すさまじい閃光。木々の間に輝く、それ。
「……」
 不思議と、ためらいは消えた。
 戻しかけたつま先を再び森の方に向けると、亮は勢いよく坂を駆け下りた。
――
 かすかに湿った森の土。樹皮のかけらか、茶色い小片を蹴り上げながら亮は走る。
 あの光。木々の間から発されたあの閃光はおそらくあの少女のものだ。昼間、亮を護った彼女の術であろう。
 こんな夜更けにも『流れ人』は訪れるのだろうか。それを知る術は亮にはないが、主たる少女が戦う中で独り、のうのうと彼女の屋敷で布団に包まっているのははばかられた。
 それに、亮の胸には、あの光の方へ向かいたいという衝動めいた感情があった。それは少女の純真さの延長なのか、純白を思わせる彼女が身を翻し、光を携えて戦う姿に亮は純粋に見惚れていた。見えない壁に隔てられて見る彼女の横顔は単純な異性への感情とは違うものを亮の胸に刻み、心のどこかで「できることならもう一度」と、そう思っていた。
 しっかしなあ……。
 彼女は今、はたして何と戦っているというのだろう。まず思いつくのは『流れ人』。だが、仮に彼女の相手が『流れ人』であるというならば、それはあまりに解せない。少女の話を聞く限り、この世界に現れる『流れ人』は彼女の能力が目当てだという。それならば、効率を優先すれば村に現れて目を引くなり、直接彼女のもとを尋ねるなりすればいい。あくまで少女の力を借りる事が目的である以上、この寒い森に身を隠す意味はない。もっとも、亮のような例外を除けばの話だが。
「……」
 ありうるな。
 走りながら考える。亮が目覚めた時の彼女の反応がそうだった。今もまた、『流れ人』であるというだけで目の前の不幸な来訪者に彼女が手を上げているのだとしたら。
 ともかく、急ごう。
 決意した亮の足はまとわりつく着物の裾を払いながら一層強く地面を蹴る。だが、それは一回きりのことだった。
「!」
 れっきとした根拠はない。ただ本能めいた危機感に息を呑み、身をこわばらせて立ち止まる。
 見回すまでもない。自身の右前方に輝く赤い点。獣の瞳。
 忘れていた。この森にその身を置く招かれざる客がいるとすれば、それは『流れ人』だけではない。他でもない、この世界に来たばかりの亮自身が襲われた、人にあらざるもの。
 目の前に伸びた子供の腕ほどの太さはあろうかという木の枝をやすやすとへし折ったそれは、心なしか不気味な笑みを浮かべて亮の前に姿を現した。
 二度目ともなれば驚きは小さい。が、それに伴ってより詳細に相手の外見に目が行くゆえに恐怖は初見の時よりも大きいように思える。
 びっしりと、角錐状の鱗が覆うその表皮。鋭く、長く、不気味に曲がった爪と、だらりとたれた太い腕。牙の生えそろった口を僅かに開き、空気の漏れるような呼吸音を響かせて大きな一歩を踏み出す。
 駄目だ。
 武器はない。アレにかなうだけの力もない。逃げることも、この間合いではもはや不可能ということを一度きりの経験が告げている。つまるところ、できることは皆無。
 動くことなどできるはずもなく、ただ近づいてくる怪物を正面から見据える。あの時と同じ。振り上げられた片腕が月光に輝いたそのとき。
「飛鳥!」
 やはり同じタイミング。ただし輝いたのは白くまばゆい光ではなく、赤、白、青、黒の十分視認しうる四色の光で。一度目にはなかった文句に続いて訪れたそれは、一撃たりともはずれることなく怪物の背中に命中した。
「アアア……!」
 初撃で邪魔になる鱗を塵と化し、既にダメージを追ったその生身の肉に残りの三発を叩き込む。少女の技に射抜かれた怪物は、静かな断末魔と共に、文字通り塵となって消えうせた。
 ふう、と。それまでの緊張を風にとかして肩を落とす。
 一度でも、その対象によって植えつけられた恐怖は簡単に拭い去れるものではなく、ようやく畏怖の束縛から解き放たれた亮の胸は、未だに早鐘を打ち続けていた。
「……わりい。助かった」
 もう一度、深く息を吐いて息を沈めると、暗闇の中、木々の間、ただ人の走ってくる足音と、切れ切れになった呼吸音の聞こえてくるほうに声をかける。
 呆れだろうか。その落ち着いた声に返ってきたのは小さなため息。
 程なくして暗闇から姿を現した彼女は亮の姿を見るなり、顔を横に背けてもう一度ため息をついた。
「なんで、あなたがここにいるのですか」
 呆れと、非難と、少しばかりの安堵。言いながら近づいてくる彼女に「いやあ、さ」と答えて頭をかく。まさか「お前が戦うのを見たかった」などと言えるはずも無し。黙り込んだ亮を不審に思ったのか、「何か?」と眉をひそめる少女を横目で見る。月光で照らし出された彼女の肌はより一層白く輝き、亮はなにか気まずいものを見たような気がして咄嗟に目をそらした。
「いや、やっぱさ、屋敷の主人が出払ってるのにのうのうと寝てるのも気が引けるじゃない?」
「そんなもの、気にする必要などありませんのに」
「いや、気にするって」
 驚いたような口調で言う彼女に冷静な突込みを飛ばしてやる。
 そんなものですか、とつぶやいた彼女の表情はどこか面食らったようで、亮はひっそりと胸をなでおろした。
「で? あの化物はなんなのよ」
 自然。頭に浮かんだ質問をそのままに投げかける。きりっと居住まいを正した少女の表情がどこか険しくなったのを感じて、つられるように亮も足をそろえる。
「アレは、この世界において唯一私の配下にあらざるものです」
 言って、かすかに唇をかみ締める。
「もともとはこの世界にいなかったもの。しかし突然現れたのが彼らです」
「あれも『流れ人』なのか?」
「まさか。あのように知能の欠片もないものがその能力を持ち得るはずもありませんし、実際に彼らはよその俗界から来たものではありません。言うならば、この世界に生まれながら、管理者たる私の配下にあらず、内側からこの世界を破壊するもの、とでもなりましょうか」
 突然。言い終わった彼女の表情が一層険しく、何かをにらむような顔つきに変わる。
 はっとして彼女の振り向いたほうへ亮も目を向けたその時。月夜の空気に人ならざる咆哮が響き渡った。
「これも?」
「間違いありません!」
 叫んで、そのまま走り出す少女。
「どうして今宵はこう何度も……!」
 独り言、であろう。歯噛みして言い放つ。と、少女は突然に、思い出したようにその足を止めて振り返った。
 戸惑うような一瞬の沈黙。「なに?」と亮が口を開こうとする少し前に、彼女の口は再び開かれた。
「あなたも、ついてきてください! どの道ここに残してはおけません」
 そう言って今度こそ走り出す彼女。突然のことに面食らった亮は「え、あ」とつぶやいたあとにようやく事の次第を理解すると、その背中を見失うまいと走り出した。
――
「飛鳥!」
 何度目になるだろうか。少女の澄んだ声が闇に轟く。鋭い閃光とともに立ち上った怪物の悲鳴はすぐに消え、後に残った足跡を見下ろして彼女は立ち止まった。
 あれから何時間が経ったのか。ただ一つ、息を切らせた亮に分かったのは、「自分ではあの怪物に太刀打ちできない」ということだけだった。一面にそろった鱗は並みの木の枝など風に流れる木の葉程度にしか受け取らず、下手に殴りかかれば亮の方が先にカウンターを喰らう。仮に当たっても、亮の拳の方が砕けよう。彼らはその大きな外見とは裏腹に動きもそれなりに早く。単純な力比べとなれば亮に勝機がないのは自明の理とも言えた。
「そろそろ、ですかね」
「……何が」
 つぶやいた彼女の後ろから、なんとか呼吸を整えて尋ねる。対して振り向いた少女は汗一つかいていない、涼しい顔をしていて。首の後ろ、その長い黒髪をそっとなでつけながら答える。
「じき、暁の刻だということです。アレは夜のうちにのみ歩き回り、明けが近いことを悟ると勝手にどこかへ消えていきます。結果、暁の刻が近くなると自然と彼らの叫びが聞こえなくなるのです」
 言って、その場に膝をつく。小声で言霊を唱えた彼女の目の前には、件の巨鳥が主の騎乗を待ってたたずんでいた。
「早く行きましょう。あまり休んでいると、いぶかしんだ彼らが再び這い出してくるかもしれません」
 促されるままに、鳥の背中に飛びのる。その動作にもいい加減慣れたもので、そっと黄色い羽を掴んでやると、大きな嘴から心地よさげな嘶きがもれた。
――
「朝食までまだしばらくあります。もう一度、布団にもぐってきてはいかがですか?」
 相変わらず天高く上っている月の光に照らされた玉砂利の庭。青白い足元を踏みしめて先を行く少女が言う。亮は動くことのない月を訝しく思い、上を睨んでいた顔をおろす。
「いや、いいよ。中途半端に寝ると後がつらい」
「そうですか」
 短く答えた彼女が黒塗りの下駄を脱ぎ、縁側に上がる。続いて亮も、屋敷をでるときに拝借した草履を脱いだ。冷たい木の床は闇の中に光沢を放ち、時々亮が一歩踏み出すのにあわせて小気味よく軋んだ。
 沈黙のうちに導かれたのは、前の日の夕方に通された小部屋だった。少女が夜の帳を世界に下ろしたあの部屋。日暮れの紅に染め上げられていたあの部屋も今は月光を存分にたたえ、全体が青白く輝いていた。
「で、ここで今度は何するの」
「まあ、見ていてください」
 尋ねた亮に背を向けたまま、物音ひとつ立てずに陶器の鈴を脇に退ける。部屋の中央に立ち、部屋唯一の窓から屋敷の外を見据えると、彼女はそっと瞼を閉じた。
「私に恨みがないのならば、静かにしていてくださいね」
 そういって、そっと息を吸い込む少女。その仕草だけで既にあまりに綺麗すぎて、自然と亮は口をつぐんだ。
 その一度つぐんだ口はしばらくのうち、開けようにも開かなかった。
 それほどに、うたい出した彼女の奏でる旋律は美しく、清らかで、澄みきっていた。
 歌声でありながらそこに言葉はなく。なにか変わった楽器のような音色は部屋に響き、屋敷に響き、世界の空気を振るわせる。恍惚にも似た表情で歌う彼女に亮の目は奪われ、柔らかい旋律に心も奪われ。辛うじて心に浮かんだのは一言、「凄い」だけだった。
 それは少女の持つ最大の能力。『暁の村』という限定された世界における、日が昇り、沈むという一連の動作、その事象の始動という現象を、情報記憶体に接続した状態で特定の歌を媒体に呼び起こす。彼女の通り名の所以たる能力がそこにあった。
 言霊としての歌詞ではなく、旋律、調子、音色、歌そのものを媒体にするがゆえに他人にまねることは出来ず。真の意味で彼女のみに使役することを許された能力である。
 そして、さながら彼女の歌声に誘われるようにして日はその姿を現し、闇につつまれていた空に白さが宿る。まるで夜空にはりつけられているかのように動かない月、星が目に見えてかすみ始めたころ、風に消えるようにして彼女の歌は静かに終わった。
 ゆっくりと、瞼を開く少女を前に亮は言葉を奪われ、ただその姿に見とれていた。
 先ほどまでの彼女の姿が重なって、立ち姿だけでもそれまでに輪をかけて清らかであるように思えて。間抜けなまでに彼女を見つめていた亮の意識は、頬にふれた、なにか冷たい感触で急激に現実に引き戻された。
「……え?」
 焦点を合わせ直せばすぐ目の前、亮の瞳を覗き込む少女の顔がそれこそ息もかかるような距離にあって。とっさに首を後ろに引くと、頬に触れていた彼女の右手も離れた。
「いつまでそうしているつもりですか? そろそろ朝食の準備としましょう」
「ん、ああ。そう、だな」
 答えて、軽く頭を振りながら立ち上がる。あの巨鳥にも慣れたのだ、いい加減こちらにも慣れてもよさそうなものなのに、未だに彼女を改めて見ているとどこか緊張してしまう自分が情けなかった。
――
「で、結局朝はこれでおさまるわけね」
 もうすっかり体になじんだ食事部屋。一度は大破し、再び屋敷の主の手によって修復された机を前につぶやく。その視線の先に並んでいるのは例のごとく、野菜にご飯に味噌汁。
「これでとはなんですか」
「だって……。いや、いい」
 喉元まででかかった文句を飲み込んで、密やかにため息をつく。
 少女は乗っていたものをすべておろしたお盆を片手に、亮を見下ろしたままでかすかに頬を染めると、誤魔化すように目を閉じる。
「仕方がないでしょう。今のところ、私が作れるのはこれで全部なのですから。昨日のあれは朝に食べるものではないでしょう?」
「まあ、確かに。朝から食べるにはちょっと重いよな、あれは」
 言って、彼女が座るのにあわせて背筋を正す。
「しかしお前、煮物が作れるのになんでもっと簡単なものが作れないんだかなあ」
「作った事がないのです。いただきます」
「あ、逃げやがった」
 聞こえないふりを決め込んだ彼女を前に自分も「いただきます」とつぶやいて箸を取る。確かにこれしか作った事が無いぶんだけ味は極められて申し分ないのだが、やはりこれが毎日毎食となると厳しいものがある。
「仕方ないな……。あとで吸い物のつくりかたでも教えてやるよ。まったく、まさか俺が人に料理教えることになるとは思わなかった」
 今度は聞こえよがしに、ため息をついていった亮に、やさしく微笑みながら少女が答える。
「私も、まさか他人に料理を教わることになろうとは思いませんでした」
 普段は純粋に「綺麗」でしかない彼女が、その笑顔を浮かべるときだけはとても愛らしく思えて。隠れるように亮は視線を手元の茶碗に落とす。と、突然、亮の意に反して随分大きな欠伸が彼の口から漏れた。
「ああ……そういえばなんか眠いな。……あ、だめだ、そう思ったらどんどん眠くなってきた」
 そう言って、もうひとつ大きな欠伸を漏らす。その前で少女は、まるでなんでもないように、澄ました顔で黙々と箸を運んでいる。「どうしたんだろ」と言って亮が三度目の欠伸を漏らそうとすると、見かねたのか、目を皿の方に伏せたままで口を開いた。
「当たり前でしょう。私に付き合ってほとんど寝ていないのですから」
「あ」
 そうだった、とつぶやいて、そんなことすら失念するほどにボーっとしていた自分に気付く。夜更かしにはそれなりの耐性があったつもりで居たのだが、さすがに一晩中走り続けていたとあっては訳も違ってくるらしい。
 さらにもう一度、大きな欠伸をした亮を前に、ついに少女がため息をついた。
 丁度空になった煮物の器を置き、味噌汁のお碗を手に取る。
「変に無理をすると体に響きます。布団はまだ片付けていませんから、食べ終わったら寝てきてください。最低でもその欠伸がとまるまでは屋敷の中でおとなしくしていてもらいます」
「面目ない」
 今の自分にはまともに起きているのも精一杯であるのが分かっている手前、素直に答えて野菜を飲み込む。今にも暗転しそうな意識の中では、その味すらもどこか曖昧に感じられた。
――
 亮の意識は暗闇の中にあった。光の届かない部屋の中で、さらに瞼を閉じたような、そんな感覚。
 ここはどこだ、とは思わない。否、そこには亮の視点があるだけで、思考は存在しなかった。ゆえに目の前にあるものを理解せず、ただそこに在る物として認識する。
 と、一切の光をなくしていたその世界に、不意に一点明かりが灯った。それは単純な数字の羅列。無造作に並べられ、溢れかえる情報の海。数字というただの記号の羅列でしかないその中に、亮は幾多の映像を見出した。まるで最初からそうするつもりだったかのように亮は映像の断片の中を進む。時には風景であったり、時には亮の意識において視覚化された音であったりするそれらをかき分け、目指すべき場所へと向かう。やがて体は、一つの映像の前で勝手に止まった。
 歳の程は亮とさほど変わらない二人。少年と、一方的に彼の話を聞いている少女。
 映像が、変わる。
 朝もやの中に独りたたずむ少女。どこからか現れた男と二言三言言葉を交わして、不満そうに顔を曇らせる少女。その身に傷を負ってなお、醜く顔をゆがませた男を睨みつける少女。寒々とした空、眼下に見える景色を深刻気な面持ちで見下ろす、巫女装束の彼女。
「――!」
 半ば布団を蹴り飛ばすようにして、亮はその身を起こした。
「なんだ、あれ……」
 つぶやいて、額の汗を浴衣のような着物の袖で拭う。
 おかしな夢だった。何かが頭の中に流れ込んでくるような妙な感覚。今の今まで眠っていたにもかかわらず、亮の頭は机の前で数式とにらみ合いをしたあとのように疲れていた。
 肌に張り付いた襟元をはがして、襖を開ける。向かい側の、縁側に面した部屋の障子にすける屋敷の外には惜しみなく日の光が注がれていて、寝起きの亮には白い障子越しでもそれは十分すぎるほどにまぶしくて、朝食をとっていたときの、まだ薄暗かった空が思い出される。
 一応それなりには寝てたんだな。
 いまいち実感はわかないながらも、確かに眠気は消えうせているのでそう納得する。後ろ手に襖を閉めて、時折涼しい風の吹く廊下で両手を頭上で組んで背伸び。
「ようやく目が覚めましたか」
 深く息を吐きながら手を下ろしたところに、横から少女が話しかけた。亮が寝ている間に風呂にでも入ったのだろうか、土で裾が汚れていた袴も、ところどころしわになっていた着物も今は新品同様になっていて、濡れそぼった黒髪は束ねられることなく、自然のままに下に下ろされていた。
 かすかに上気した頬のまま、何気なく首筋の髪を払う仕草につい見とれてしまう。なにか言いながら目の前を横切っていった彼女の後姿。いつもとは感じの違うそれにあてられて熱を帯びる頭をあわてて振るう。どうしてか、彼女にそういう視線を向けるのはしてはいけないことのような気がして、何とか平静を取り戻して前をみるときょとんとした顔でこちらを見ている彼女の姿があった。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでも」
 片手を額に、首を振り、誤魔化して早足に彼女に追いつく。
「俺、どのくらい寝てた?」
「つい先ほど、日が傾き始めました」
「それは……随分寝てたもんだな」
 亮が寝たのが六時過ぎだとすると軽く六時間は寝ていた計算になる。いくら前の晩が徹夜だったとはいえども朝からこんなに寝てしまったのでは昼夜逆転もいいところだ。時計というものが存在しないこの世界。正確に時刻を示せないことの不自由さをかみ締めながら反省する。
 人間、丸一日も過ごしていれば否応にも不自由なところというのは目に付くもので、時計が無い、電気器具が無い、普段身の回りにあるものが見事なまでに欠如しているというのは新鮮である以上になかなか不自由なものだった。
「あ、そういえば……」
 寝すぎてしまった分どこかで埋め合わせでも、と考えていた矢先、ふと気になって口を開く。「はい?」と言ってこちらを向いた少女の視線を頬に感じながら続ける。
「俺が寝てる間にも来たのか? ほら……」
 「流れ人が」と言おうとした亮は口をつぐんだ。突然、横を歩いていたはずの少女が足をとめて立ち止まったのだ。どうしたのかと一歩分前から振り返ると、そこにはともすれば唇でも尖らせそうな、ムッとした表情でこちらを見つめている彼女の顔があった。
「あなたは、私を馬鹿にしているのですか?」
「……えーっと」
 微かに棘のある少女の口調に、言いよどんで考える。
 なにかしただろうか?考えてみたところで思い当たる節もない。しかしジッと亮を見つめる彼女の視線が解かれることはなく、内心であわてる亮は、彼女の表情の中にどこか今の状況を楽しんでいる色があることになど気付きもしなかった。
「あ〜、とりあえず、なんかまずいこと言ったんなら謝るよ。ごめんなさい」
 ただ突っ立ったままでそれを言うのも間抜けな図なような気がしたので、目の前でパンと手を合わせて軽く頭を下げる。
 しばしその場に流れる沈黙。それを破ったのはどこか大袈裟な、少女のため息だった。
「まあ、あなたに文句を言っても仕方ありませんね」
 顔に浮かぶのは微笑。どこか吹っ切れたような声で言うと、足どりも軽やかに亮の横に並ぶ。そのまま歩き出した彼女に僅かに遅れて亮もついていく。
「いくらなんでも毎日流れ人に入られるようなことはありません。もともと小さくて目立たないところですし、何より私がそのようなことは絶対に認めません。なんと言っても、この世界を本来の形に保つことこそ私の役目ですから」
「そりゃまた随分と大層なこって」
「そうでもありませんよ」
 まるで慣れた文句を口にするように、流れるような調子で言う少女。亮としては生真面目に語る少女を軽く茶化したつもりだったのに、それすらも何食わぬ顔でさらっと流されてしまって内心で面食らう。そんな亮をよそに、彼女はそのままの調子で続けた。
「全ての俗界は、自身が一つの世界である以上、他の干渉を受けずに己が足で立っているべきです。他界の影響で本来の姿を保てなかったり、あまつさえ自ら他界と接触しようとしたりというのはその世界や管理者の怠慢です」
「……なるほど」
 それで「馬鹿にしてるのか」ってか。
 ようやく理解した一方で微かな感嘆を覚える。毅然とした口調で言う少女の横顔はどこまでも凛としていて、覚悟にも似たその言葉は彼女を飾る装飾品のようにも思えた。そう、決して煌びやかではないけれど、無骨でまっすぐであるがゆえに美しい。広い大地にたった一輪だけ咲いた花。その独特の美しさ、より際立った彼女のそれに、内心で亮は息をのんだ。
 ふと、彼女の足が止まった。体の前。袴の紐の結び目の前でそっと重ねていた両手を静かに解いて、目の前、台所の襖を開ける。
「昼食、食べますよね?」
 足元に目を落として、石段を下りながら背後の亮に尋ねる。まっすぐにかまどの前に向かおうとする彼女。その後ろから、亮は反射的に「待った」と呼びかけて制止した。
 絶好機。
 きょとんとした顔で振り向いた彼女の横をすり抜けるように、亮は一気に三段だけの石段を飛び越えて歩み寄る。
「食べるけど、俺が作るよ」
「でも……」
 幸いこの二人の間で料理においては亮の方が優位にある。埋め合わせとしてはなかなかのものだろう。
 振り向きもせずにかまどの前に立つ亮の背後で少女は困ったように言葉を詰まらせ、再び体の前で重ね合わせていた手を解く。まるでその場を取り戻そうとするかのようにすぐ横にあらわれて、亮より先に鍋へとのばすその細い腕。それをそっと押しとどめて、亮は言った。
「いいって。昼過ぎまで眠りこけちゃったから、その埋め合わせ。それにお前がつくるとまたあの定食にしかならないだろ?」
 「わ、悪かったですね」とそっぽを向く彼女にかるく目を流すと、そのまま彼女がとろうとしていた鍋を手にする。しばらくはまだ言葉を捜していた彼女もそれでようやく所在無げにしていた両手を体の前に戻して、諦めたような小さなため息で答えた。
「わかりました。でも、せっかくです。あなたの横で観察はさせてもらいますよ?」
「お好きなように」
 軽くそう答えて鍋を置く。
 俺、いつから料理キャラになったんだ?
 思わず苦笑いが浮かんで、少女に気付かれないように背を向ける。
 単純に料理の腕、作るモノの質だけで言えば横にいる少女のほうがどう見ても上なのに、ただレパートリーが多いというだけで亮のほうが重宝されるのだから不思議なものだ。ただ、普段そんな機会は滅多に無いので気分がいいのは確かだし、横で感心した様子で亮の手元を見つめている少女の顔を見ているのも楽しい。今、ここがなかなかに居心地がいいと実感している自分がそこにはいて、いつの間にかそんな風に思っていた自分自身に驚いた。
「で、何を作るのですか?」
 例のごとく棚の木箱の中身をあさっていると、背中越しに彼女が問いかけてくる。
 とりあえず「そうだなあ」と考えるふりをしてみたものの、内心で亮は苦心していた。
 亮の料理のレパートリー。もちろんご飯を炊いて、味噌汁と煮物を作ることしか出来ない件の少女よりは多いが、一般的な目から見れば決して豊富といえるものではない。作れるのはせいぜい手をかけずにそこそこのものが作れる、例の焼き飯をはじめ、ルーのブロックを放り込む、簡単なタイプのカレーだとかパスタだとか。この屋敷で既に超定食化している味噌汁と普通のご飯を除けば、主食にできるのはその程度だ。だが、困ったことに、昨晩見た限りではここの食料庫には間違ってもカレールーや暖めるだけのミートソースのようなものはない。考えてみればそんなもの、あったらあったで環境とのギャップにひっくり返るような気もしたが、それでは亮の作れるものがなくなってしまう。まさか昼食が卵焼きだけというのも苦しいし、またあの焼き飯を作ったのではレパートリーの少なさで少女を馬鹿にした手前、しめしがつかなくもあって……。
 どうしよう……。
 がっくりとうなだれてため息をつく。と、その視線の先に信じがたいものがその身を木箱の隅に横たえていた。
 黄色くて、細長くて、乾いたようにその身は固く、手で曲げれば容易に折れる。
「これって……」
 間違いようもない。それはスパゲッティそのものだったのだ。
「こんなもん、昨日はなかったぞ?」
 寄寓にも差し伸べられた救いの手に喜びながらも、一方でいぶかしむ。手を伸ばしてそれをとろうとしたその時、うしろから身を乗り出した少女の長い髪が頬をそっと撫でた。
「……!」
 視界の端にかすかに揺れた黒い影に頬を撫でたものの正体を悟り、思わず息を飲んで振り向く。と、いつの間にか髪をそれ自体で軽く結わえた少女の顔がすぐ鼻先にあって、もともと中腰になっていた亮は反射的にのけぞってしりもちをついた。
「ど、どうしたのですか?」
 なにやら随分と驚いた様子で身をかがめて両手を差し伸べてくる。その心底あわてた声としぐさが可笑しくて、「大丈夫」と言って顔を背けてなんとか誤魔化しながら亮は立ち上がる。
「いや、あのさ、こんなの見たことある?」
 言って、手にしたスパゲッティを差し出す。
 まずはその場からしげしげと観察し、さらに顔を近づけて見つめ、最後にはそのうちの一本を遠慮がちに伸ばした人差し指と親指でつまんで、ポキンと折る。その折れた欠片をまじまじと見つめた後でようやく目を上げると、一言、「いいえ」と答えた。
「なんですか、これは?」
「や、知らないならいいんだ。どの道食えることには違いないし」
 「じゃあなぜ聞いたのです」とむくれる彼女を尻目にかまどの方へ向かう。この世界にスパゲッティという図はいかがなものかとも思ったが、あいにく他に思いつくものもない。両手にはスパゲッティと野菜を少々。トマトソースを一から作ったのは片手で数えるほどなのだが、なぜか亮の中には妙な自信が沸き立っていた。
――
 教訓。ちょっとでもためらいを覚えたのならば一度立ち止まって考えましょう。
 トマトソースは不思議とうまく出来た。それどころか亮の記憶する限り、自分で作ったものの中では最上の出来とも言えよう。パスタを茹でることに関しては時間にさえ気を配っていれば間違いも起こらないし、目の前にあるものは紛れもなく大成功の一品。そう、それが大きな木のお椀に盛られて、フォークの代わりに箸が添えられてさえいなければ。
 おかしい。これは絶対になにかおかしい。
 妙に背筋を伸ばして、目の前のそれを見下ろしながら思う。おいしそうなのに、なにかおかしくて手が出ない。こんなことならもう少し考えればよかった……、とは思ったものの、他に手がなかったのも事実な訳で。
「どうしたのです。食べないのですか?」
 がっくりと肩を落としたところに投げかけられた声にふと目線を上げる。と、器用に箸でスパゲッティをつまみ、何度か折りたたんで束にしながらこちらを見ている少女の顔があった。
「せっかくこうもおいしいのに、もったいないですよ」
 言って、折りたたんでまとめられたスパゲッティを口に運ぶ。箸一膳でそれをやってのけたことにも驚いたが、それすらも忘れてしまいそうになるほどの気品がそこにあって、つい見とれてしまいそうになるのを小さなため息で誤魔化して亮も箸をとる。
 彼女のように器用な真似が自分に出来ないことは目に見えているので、せめてできるだけ音を立てないように、口からたれるパスタを箸で手繰りよせながら食べる。実際食べてみると、それが自分の作ったものであることを忘れるほどにおいしかった。
「なるほど、こりゃ確かにいける」
「でしょう?」
 なぜか、作った本人よりも少女の方が得意気に笑っている。もちろん自分の料理をほめられて悪い気はしないし、それ自体は全くかまわないのだが。ただ、なんとなくその笑顔を見ていると、言葉が自然に、唇の隙間から這い出すようにして紡ぎ出された。
「……なんかさあ、昨日と比べて性格変わってない?」
「……!」
 あ、赤くなった。
 ほのかに朱を帯びる少女の頬。その原因たる亮は箸を持ったまま微かに身を乗り出して続ける。
「いやさ、だってそうだろ? うまくは言えないけどさ、明らかに今朝からと昨日とじゃあ雰囲気がぜんぜん違うぞ?」
 少なくとも、昨日の彼女は亮の前で満面の笑みを浮かべたり、拗ねたような真似をしたりはしなかった。
 それは彼女自身にも自覚はあるのだろうか。言うだけ言って箸を口へ運ぶ亮を前に、顔を真っ赤にしたままで黙り込んでいる。白粉でも塗ったように白い彼女の頬が赤く染まると、それは雪に落ちた花びらのようによく映えた。
 ……あれ? 俺は何を言ってるんだ?
 口の中のものを飲み込んで、ふと意識が戻る。ほとんど何も考えずに口にした自分の言葉を思い出して、ふと顔を上げるとすっかり俯いている少女の姿があって。一瞬で亮の顔も真っ赤に染まった。
「いや、あ……」
「わ、悪いですか!」
 「あのさ」と言いかけたところで急に少女が顔を上げて、事もあろうに真っ赤な顔のままで問い詰めてきて。その勢いに圧されて黙り込んだ亮に彼女は追い討ちをかける。
「悪いですか?」
「いや……、悪くはないけど。……とりあえず、落ち着け。な?」
「……」
 なだめるように手を前にかざして、微かに後ずさる亮。その姿に我に返ったのか、グッと前に乗り出していた身を引いて、目を閉じて深呼吸。上気した頬にそっと手の甲を当ててもう一度深く息を吐くと、普段の調子に戻った顔で目を開いた。
「失礼しました。取り乱してしまって」
「いや、別にいいけどさ。……落ち着いてみてもアレのあとだとねえ」
「な……!」
 と、言い返しそうになった自分を押しとどめてまた深呼吸。
 返事ついでにつついてみただけなのにその反応が面白くて、思わず亮の口元がほころんだ。と、
「何がおかしいのですか?」
 すぐさま、先ほどのような勢いはなくとも、静かであるが故の冷たさを持った声が飛んでくる。「いや、なにも」と答えて亮がさらに一口分のスパゲッティを口の中に運ぶと、コホンと軽い咳払いをして少女が口を開いた。
「どうせ、この屋敷の中に二人しかいないのです。いつまでも他人行儀でいるのもおかしいでしょう。違いますか?」
「違いません。」
「ですから私の方からすこし歩み寄ってみたのですが、なにか?」
 「文句でも?」という代わりに投げかけられた視線が痛い。下手な返事を返せば冗談抜きで『飛鳥』に襲われる気がして、亮は全力で、心の底から「何も」と答えた。
 それにしても……。
 満足げに目を閉じて自分のさらに視線を落とした少女を、小さなため息と共に胸をなでおろして見る。驚くほどの切り替えの速さで、早速目を爛々と輝かせて、しかし決して気品を崩すことはなく、パスタを箸で折りたたんでいる。そんな彼女を見ながら、可愛いとこあるな、などと思っている亮がそこにはいた。
――
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
 二人そろって手を合わせる。おいしいものの前には自然と箸も進むもので、途中のハプニングを含めても三十分で二人とも完食してしまった。亮にしてみればどうして自分にあれほどのものが作れたのかまるで検討がつかなかったが、目の前の少女の機嫌のよさそうな顔を見ているとそれもあまり気にならなかった。
「さて、じゃあ片付けるか」
 パン、と手を打って、立ち上がろうと机の端に手をつく。と、その亮を不意に少女が片手で制止した。
「待ってください」
 言って、左手で袖を押さえながら右手で亮の目の前の皿を引き寄せる。音もなく、彼女の皿と共に二つ並んだ木目の浮き出た器。と、その両方に手を添えた彼女がゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。
「……」
 亮も半ばその様子に見とれるようにして、何も言わずにふたたび腰を落とす。そして背筋を伸ばして器の中を覗き込んで、思わず息を呑んだ。
 器と箸にのこるトマトソースの汚れ。それが、まるで紙を丸めるかのように、上から順番に折りたたまれていく。ジッと自分の手元を見つめる少女の目線の先で、何にも触れられぬままにソースの塊が出来ていく。それはさながらクレイアニメのようであった。
「……何を……」
 辛うじてそう言う亮に返事もせず、瞬きすらろくにせずに少女は器を見つめ続ける。その間およそ二十秒。軽く肩を落として、ふっと息を吐き出した少女は二つの皿からそれぞれに、サイコロ状になったトマトソースをつまみあげると、一つを亮の手に、もう一つを自分の口に放り込んだ。彼女の顔を見つめたまま、自分の口にもそれを放り込むと、さっとトマトソースの味が広がった。
「今……、なにやったんだ?」
「器についていた汚れの形状に働きかけて、器の表面から剥離しました」
 こともなげに言う少女の前で、訳も分からず亮は首をかしげる。程なくして、少女のため息が投げかけられた。
「私や流れ人の使う能力の初歩技術です」
 呆れ顔はそのままに、しかし丁寧な口調で言う。が、
「私のあ……、っ〜……」
 不意に、言葉を切ったかと思うと、少女がさっと着物の袖で口元を隠す。
 一瞬、何事かと身を乗り出した亮は、不意に彼女が何をしているのか理解した。
 横を向き、顔のほとんどを着物の袖で隠した彼女。目尻には涙。目をぎゅっと瞑り、体を伸ばしたい衝動をこらえて背筋を丸めた姿。「ふわ……」と微かに聞こえた、欠伸の声。
「隠しても、ばれてるぞ」
 丁度袖を下ろして少女の横顔があらわになったタイミングを見計らって言ってやる。彼女の顔が、またもやさっと赤く染まった。しかし、そこは少女の意地。頬が染まりきる前に平静を取り戻すと、平然とした表情で言う。
「何の、ことですか」
「お前、もしかして俺がここに来てから、俺が寝てる間もずっと起きてるんじゃないか?」
「……」
 何も言わないでいることを肯定ととって、亮は思わずため息をついた。
「話は後。寝てこい」
 びっと部屋の外、屋敷の中を指差して言う。いくら今が一日で一番暖かい昼間であっても、いや、だからこそ一日以上寝ていないのでは普通は起きているだけで精一杯であろう。それを今まで、一度もそんなそぶりも見せずにいた彼女であったとしても、いい加減欠伸をこらえきれないところまできているということだ。
「しかし……」
「下手に気を遣われて、逆にお前が倒れたら俺が困る」
 言い返せずに黙り込む。亮が「ほら」と促してやると、諦めたようにため息をついて立ち上がる。
「わかりました。それではお言葉に甘えて」
 言いながら皿を手に取ろうとする彼女を制止して、机の上のものを重ね集めた亮も立ち上がる。困ったように肩をすくめ、振り返って静かに襖を開けた少女に先導されて部屋を出る。
「そう。くれぐれも、流れ人が来たからと言って外に出ないでくださいね」
 廊下の分かれ道。台所の方へとむかった亮の背中に少女が呼びかける。振り返った亮を、にらみつけると言ってもいいほどに鋭い目つきで見据えて言う。
「何かあれば、ここの管理者である私はすぐに目覚めます。ですから、無理はしないように」
「はいよ」
 片手を挙げて軽い調子でそう答えた亮を見送ると、少女はすぐ右手、自分の寝室の襖を開いた。
――
 昼下がりのどこかすっきりとしない空気の中。塀のすぐ内側、玉砂利の敷かれた庭をぼんやりと眺めながら、亮は縁側に腰掛けていた。本当に新品同然に綺麗になってしまった食器を片付け、自分の寝ていた布団を畳み、静かな寝息の聞こえる少女の寝室を覗きたい衝動を抑えて庭に出たところでやる事が尽きてしまったのだ。
 どうしたもんかな。
 自問して、仰向けに倒れた背中にひんやりとした床を感じる。考えてみれば前の晩から一度も着替えていないせいで、未だに亮が身にまとっているのは薄い浴衣のような着物だけ。暖かい布団の中にない今、時々強い風が吹きぬけていくだけで小さく身震いがするようだった。
 後で何か羽織るものでももらおうか。さすがにこのままじゃ風邪引きかねない。
 決めた矢先から廊下を風が駆け抜けていく。思わず首をすぼめてそれをやり過ごす。
 そのまま視線をすこし落として、縁側の屋根の向こうに雲ひとつない青空を見る。それはどこまでも続いていくかのように晴れやかで、木々の葉に射す太陽の光がまぶしかった。
 『この世界を本来の形に保つことこそ私の役目ですから』
 ふと、少女の言葉が亮の中に蘇る。ただ一人、人の気配と言うものの無い社に住まい、黙々と時を刻み、時に血を流してまで彼女が護り続ける世界。その、空。それが今、亮の目の前に広がっているのだ。
 食器を片付けた後、通りかかった少女の部屋の襖の向こうからは、とても静かで、安らかな彼女の寝息が細々と聞こえていた。それこそ簡単に風に散ってしまいそうな小さな音色。森に住まう化物を相手にしたときの静かさの中の勇ましさも、その部屋の前ではかすんでしまうようで。しかしあの『死神』を前に一歩も退かず、何も出来ない亮を庇って闘ったのもまた彼女であり。亮の料理に微笑むのも、俯き気味に亮を見るのも、森の中でふと立ち止まって静かに月を見上げるのも……。
 次々に浮かぶ彼女の顔。一つ、それを思い浮かべるたびに胸の中に妙な感覚が浮かんで、それら全てを洗い出すように亮は大きく息を吸い込んだ。
 と、
「随分寒そうだな」
 聞きなれない、聞いたこともない声が確かに聞こえた。
 ……誰だ?
 眉をひそめて起き上がり、目の届く範囲を見回してみる。が、辺りに人の姿はない。縁側から立ち上がって数歩後ずさる亮を楽しむかのように、声の主が笑う。
「まあそう警戒するなって。別にとって食やあしないよ」
「こっちの……様子が見えてるのか?」
「ああ」
「声も聞こえるのか」
「もちろん」
 余裕の滲み出た、社交的な柔らかい口調で声は語る。恐らく、若い男のものであろうそれはどこからともなく、しかし確かに亮の頭の中に響いてくる。気味悪がって小さく舌を打つ亮をよそに、声の主は言った。
「ちょっとさ、お前と話がしてみたいんだよ。村の方まで下りてこないか?」
「……は?」
「だから、下りてこないか?……むしろ、下りてこい」
 途端に、声の調子が冷たくなる。有無を言わせぬ命令。どこか普通とは違う、背筋がざわめく感覚に肩をこわばらせながらも、できるだけ毅然として亮は答えた。
「人にろくに顔も見せないで、いきなり呼び出すのか?そもそも、俺はこっから出ないようにって言われちゃってるんだよ、残念ながら」
「……」
 正しくは「何かあっても無茶な真似はするな」なのだが、まあ趣旨はそれほど違っていまい。声の主が押し黙ったのを感じてほっと肩の力を抜く。と、緊張がほぐれて大きく息をついたのもつかの間、声の主が確かに、亮のことを鼻で笑った。
「何か?」
 嫌に耳につくその音に、半ば挑発的に問いかける。返ってきた返事は至極穏やかな声で、しかし
「来なかったら今すぐこの世界をつぶすと言っても?」
 と、思わず耳を疑うようなことを楽しそうに口にした。
「家を燃やして、川をつぶして、地を砕いて山を削って。この世界を完全に破壊するといっても、か?」
「……まさか」
 そんなはずが無い、と。根拠もなしにただ反射的に否定する。確かに声の言うことはあまりに現実離れしすぎていて、しかしだからこそこの一風変わった世界では逆に恐ろしかった。考えるほどに掌がじっとりと湿るのを感じながら、誰より自分自身を落ち着かせて、「お前にそんな事ができるとでも?」と問う。と、声の主は亮の言葉を無視して言った。
「すぐ横、壁際の木を見てろよ」
「何を言って……」
 る、という言葉は口にする前に飲み込んだ。言われるがままに右を向いた亮の目の前で、一筋の稲光が、無音のうちに一本の植木を直撃したのだ。音の伴わない、しかし圧倒的な破壊力。黒くすすけて無残にも枝を落とす木の幹を前に、一言だけ亮はつぶやいた。
「お前、何だ?」
 しばしの無言。そして、答えた声は悦びを幾重にも覆い隠した声色で言った。
「神」