四章

第四章

 ……眩しい。瞼越しに感光する眼球は重く、妙に耳鳴りもする。全ての感覚が、まるで今まで凍結されていたかのように不自然で、体全体が妙に重苦しかった。
「……」
 ゆっくりと、瞼を開く。まるで誰かに抑えられているかのようにずっしりと重い瞼をゆっくりと開く。本当にどうしたわけなのか、体中が錘につながれたように重たい。不自然さに内心で首をかしげながら辺りを見回す。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、ベージュ色の天井だった。どうやら自分は横たわっているらしい、と判断して脇を見ると、その天井からつるされた蛍光灯。視界の隅にはなにか青い布のようなものが垂れ下がっている。それがなんなのか、見ようと首を回そうとして、ようやく亮は自らの身の異状に気がついた。
 腕にかすかな圧迫感があるかと思えばそこには点滴の針が刺さり、そのチューブが視界の端を横切っていて。よくは見えないが、頭にはまるで何かヘルメットのようなものがかぶせられているようだ。身にまとっていたのはパジャマではなく検査着。腰周りにはごわごわとした違和感を覚えながら、ここはどこなのか、と考える。ヘルメットに押さえつけられた頭は嫌というほどに重くて、まるでベッドに固定されているかのようで。相変わらず少しも改善されない体の拘束感にうめいていると、丁度右手の方で扉のノブを回す、それは懐かしい音が聞こえた。
「アイツめ……、後で締めてやる」
 次いで聞こえてきたのは、何かをかみ殺した、女性の独り言。なにか不愉快なことでもあったのだろうか、ぶつぶつとつぶやく声が近づいてきたかと思うと、亮の周りに吊られていた青い布がさっと取り払われて、始めて亮はそれがカーテンだったことを理解した。
「お、ほんとだ。起きてる起きてる」
 声の主は腰の後ろに手を回すと腰を折り、亮の顔を覗き込んだ。
 軽いカーブを描き、肩の辺りまで伸びた髪。その色は限りなく茶色に近いが、まだ黒髪であるといえる。やや釣り気味の目とどちらかといえば色の濃い肌が印象的で、歳の程は二十六、七といった感じに見えた。
「ごめんね。混乱してるでしょ?」
「ええ、まあ……」
 にかっと笑っていう彼女に困惑しながら答える。自分がほとんど身動きの取れない状況で人に見下ろされるというのはなかなかに心細く感じるもので、辛うじて亮は彼女の動きを目で追っていた。
「大変だったのよ?ここ二日間……って、君はそんなこといわれてもわからないか」
 「いやあ、ごめんごめん」などといいながら慣れた手つきで亮の左腕から点滴針を抜き取る。少しずつ楽になってきた右の腕と一緒に目の前にかざしてみて、ようやく亮は自覚した。
 ああ、帰ってきたんだなあ。
 ここはあのおかしな村ではなく、恐らくはどこかの病院。ふと目をやった窓の外は夜。壁にかかった時計は夜の十時を指している。蛍光灯の光が部屋の中を明々と照らし出していて、天井からの反射がすこしだけまぶしかった。
 ……あれ?
 女性が点滴の器具を部屋の隅に運んでいくのを見ながら内心でつぶやく。そう、おそらくここは病院だ。その割には床と壁の下半分はフローリングで、洋風の書斎に近いような気もするが。少なくともベッドがあって、明かりも時計もある部屋の中だ。間違っても、記憶の隅にのこるあの電話ボックスの中ではない。
 おかしい。どうして自分はこんなところにいるのか。自分は電話ボックスの中からあの世界に行ったのではなかったのか。よもや、ここもまたどこか別の『俗界』……いやあるいは自分は『神界』の者ではなかったのかも……。
「お、ようやく困惑顔になってきたわね」
 口にはせずに思案をめぐらせ、一人焦る亮の顔を、再び楽しそうに女性が覗き込む。言うべきか、迷い、口を開きかけた亮が何か言うよりも先に、女性は笑顔のままで言った。
「まあ話はあとでゆっくりするとして。なにより君自身の精神衛生のために、しばらく眠っててね」
 突如、亮の体を衝撃が襲った。えもいえぬ感覚の中、かすんでいく視界の中で亮は、女性がやはり笑顔のまま、右の握りこぶしを見せ付けるかのように小さく振っているのを見た。
――
「……っ!」
 まさに悪夢から覚めたように起き上がった亮は、見開いた目を左右に走らせた。
 三度、それを繰り返してようやく我に返る。誰もいない。拳一つで亮を眠りの園へ追いやった女性はいつの間にか部屋から消え、時計の針が静かにリズムを刻んでいた。
「……どうなってんだ」
 キョロキョロと辺りを見回して、一人つぶやく。横には空っぽのベッド。部屋の中にただ一人取り残されて、亮はいた。
 とりあえず、動くか。
 いつの間にか何の苦も無く動くようになっている体を慣らすように幾度か腕をまわすと、とりあえずベッドから足を下ろして、丁度足元にあったスリッパを突っかける。気付いてみると、こちらもやはりいつの間にか、腰周りの違和感も無くなっていた。
 やはり戻ってきた、のだろうか。
 ドアのノブにかけた手を見つめて考える。
 いまいち実感が無い。もちろん無事に日常に帰って来れたことはそれなりに嬉しいのだが、なんというか、嬉しさが足りないのだ。もう少し思うところがあってもよさそうなのに、どうしてかそれが無い。加えて、不思議と頭もぼーっとしている。まるで頭の中に靄が立っているような、そんな感覚。おかげで今、亮の心はどこか遠くを泳いでいるようにも感じられた。
 ……まあ
 考えてもしょうがないか、とため息をついて、ドアを外に押し開ける。ニスのせいだろう、木の赤茶色が暖かい扉は音も無く、静かに開いて……。
「わあ!」
 突然の叫び声の後で何かにぶつかって止められた。
 何事かと頭を廊下に出す。同時、思いがけない襲撃にあった。
「……〜っ!」
「イッタ〜……」
 見事に正面から何かにぶつかられて、綺麗にその場に尻餅をつく。腰を抑えながら目を開くと、壁にもたれかかっている金髪の少女がいた。どうやらぶつかってよろめいた拍子に壁に頭を打ったらしい。両手で頭の後ろを押さえてさすっていた彼女は、亮が立ち上がるとようやく、壁から離れて、強く瞑っていた目を開いた。
「大丈夫?」
「うう……、大丈夫です」
 とりあえず、声をかけてみると、どこか潤んだ声が返ってくる。その声を聞く分にはとてもまるっきり「大丈夫」には思えなくて。しかし再び亮が口を開くよりも先に少女は言った。
「……あ、こっちにどうぞ。いろいろ話す事がありますから」
 まだ片手で頭を気遣いながらも踵を返して歩き出す彼女。その腰までもとどく髪を揺らす後姿は中一か、せいぜい背の低い中二といった感じか。頭を押さえながら立ち上がった姿は純粋に可愛いいと思えたが、それだけで見惚れてしまうほど亮自身も飢えてはいないつもりだ。特に見るものもないので、目の前でゆれる金髪を目で追いながら、あからさまに年下の少女に連れられて、亮は「病院」と称するにはいささか場違いな、フローリングの廊下を歩いていった。
――
「つれて来たよー」
 と、扉を開けた少女が元気よく部屋の中へ呼びかけながら部屋の中へと入っていく。
「おう、サンキュ、凛。でもって、いらっしゃい」
 無言で少女に続いた亮を、横の方から男の声が迎えた。
 少女が左側、対面式のキッチンに入っていくのをよそに、正面でニュースを流しているテレビから目を離して、声のした方、右に目を向ける。そこにあったのはどこにでもあるような木のテーブル。端に使いさしの醤油さしだの塩の小瓶だのが並んだそれの一角で、椅子に腰掛けて頬杖をついている眼鏡の男性。茶色いトレーナーに長ズボンという恰好の声の主は左手の頬杖はそのままに、亮の方に右手をひらひらと振っていた。
「とりあえず、座りなよ。立ち話でするにはちょっと長くなるだろうから」
「……じゃあ、失礼します」
 灯油ヒーターの温風が吹く部屋の中。一応断りを入れて椅子を引くと、彼の向かいの席に腰掛ける。大学生か社会人か、少なくとも二十歳は超えているであろう彼は亮が席につくと、ゆっくりと頬杖を解いて、背筋を伸ばして、肘をついた両手で軽く指を組んだ。どこか生真面目そうな色が浮かぶその表情に、自然と亮の背筋も正される。心なしか緊張して目の前の男が口を開くのを待っていると、張り詰められていた彼の表情が不意に崩れた。
「と、そういえば自己紹介がまだだったか」
 忘れてた、と言って苦笑する彼に自然に亮の肩からも力が抜ける。ふと聞こえたため息に視線を流すと、キッチンで――湯飲みだろうか――なにか食器を棚から出していた少女が呆れたように首を振って、笑っていた。
「で、まあ遅ればせながら。俺は春日徹。一応言うと、大学四年生ね。よろしく」
「渡井亮です。高校一年生」
 差し出された手を握り返す。徹、と名乗った彼は軽く首をかしげて見せると、その手を離した。
「よし、じゃあ本題に……」
 そのときだった。再び指を組んで話を切り出そうとした彼の背後にゆらりと立ち上がる人の姿。その姿を見た亮が「あ」とつぶやくのとほぼ同時、人影が手にした丸めた新聞紙が徹の脳天に振り下ろされた。
「……〜ってえ!」
 パコーン、と。心が晴れ渡るような音の後で響く徹の悲鳴。頭を押さえて机に伏せた彼の背後で、突然の襲撃犯は映画のガンマンよろしく、立てた新聞紙の先の方をふうと息で吹いた。
「……何をするのですか姉上様」
 よほど新聞紙の一撃がつらかったのか、徹の声がかすれる。そんな彼に慈悲の欠片も見せず、彼女は言った。
「はい、さっきはどうも。徹の姉で春日巴って言います」
「ええ、本当に」
 少しだけ嫌味をこめて、やはりその手を握り返す。そう、彼女は少し前、ベッドで身動きの取れない亮を拳一つで眠らせた張本人なのであった。
「あんた、居候の分際で何家主面してるのよ。ここは私と優の家。あんたは間借してるだけでしょ?」
「ここを紹介したのは俺なんだけど……」
「紹介したのはあんた。でも今ここの権利を持ってるのは私達なのよ」
 恨みがましく不平をたれる徹を一蹴すると、丁度キッチンから歩いてきた凛の、手にしていたお盆の上から湯飲みを一つ取り上げる。まだ存分に熱いであろうそれをほとんど一息に飲み干すと、景気良く空の湯飲みをテーブルに置く。
「じゃ、私は部屋に行ってるわ」
「りょーかい」
 振り返らずに答えた徹に向かっておまけとばかりに新聞紙を投げつけると、巴は鼻歌交じりに部屋を出て行った。
「……ったく。飽きもせずによくやるよ」
「ハハハ……」
 ため息混じりに言う徹の文句に笑いながら、金髪輝く少女は亮と、徹と、そして徹の隣の席にそれぞれ湯飲みを並べていく。「ありがとう」という亮に「いえいえ」と得意気に返すと、少女も席に――唯一つ、主なき湯飲みの置かれた席に――ついた。
「遅れましたけど、私は凛・フェルマーって言います。徹のパートナー、でいいのかな?」
 フェルマー、というのはハーフということなのだろうか。髪のこともあるし、などと考える。しかしそれ以上に彼女の言葉が気になって、尋ねる。
「パートナー?」
「そう、相棒。で、恋人」
 指で宙に字を描く少女。返ってきたその返事に、亮は表情を固定して考えた。
 恋人?この二人が、恋人?
 考えながら左右に往復させる視線の先には、大学四年生だという男とティーンになったばかりと思しき少女。なんというか、離れすぎではあるまいか。
「……なあ、変な勘繰りはするなよ?」
 ようやく亮の表情に不穏なものを感じ取ったのか、徹が正面から念を押す。
「これはちょっと訳ありなの。俺は、間違ってもそういう趣味の人間じゃない。」
「これなんて言わなくてもいいじゃない」
 頬を膨らませて抗議する少女、凛を軽く流して、徹は静かに湯飲みに口をつける。それを同じく静かに机に戻して、徹はもう一度机の上で手を組んだ。
「さて、と。それじゃあいよいよ本題に入ろう」
 急に神妙さを帯びたその声に、徹の姿勢もやはり改まる。ジッと見つめてくる徹の視線を正面から受けて、亮は軽く顎を引いた。何の話であろうかと僅かに身を乗り出す亮をよそに、次いで投げかけられた徹の口調は、それこそ神妙な彼の表情が嘘のように、あっさりとしたものだった。
「多分覚えていないだろうから教えるけど、君は昨日の朝、駅前の公衆電話のところで気絶してたところを見つかったんだ。それで、そうなったことになにか心当たりはあるかな、と思って」
「気絶……ですか?」
 期待はずれの感もさることながら、よもやとばかりに聞き返す。
 そんなはずはない。理屈はどうだか知らないが、自分は確かにその間、あのおかしな村にいたはずなのだ。あのまま電話ボックスの中で気絶していたなど……。
「そうだけど、どうかした?」
 かすかにかげった亮の表情を見て取ったのか、徹が怪訝そうに尋ねる。その横の凛は静かに湯飲みの中身をすすっている。
「いや、何でもないです。……その間に、おかしな夢でも見てたんだと思います」
 考えてみれば、あのような話をしたところで他人に信じてもらえるはずもない。現に亮自身も、あの巫女装束の少女の話を聞いたときにはそれを最初から信じきることなど出来なかった。ましてそれを人伝いに聞いたところで……。
「夢、ね」
 しかし、応えた徹の声色はどこか独特の響きがあった。俯き気味になっていた顔を亮が上げると、さも興味ありげな顔で徹が言った。
「どんな夢?良かったら聞かせてもらえないかな?」
――
「ふうん……、なるほど。それは確かに変わった夢だ」
「でも面白い」
 言って湯飲みを手に取る徹のよこで、凛が微かに微笑んでみせる。一通り、『夢』の中身を話し終えた亮はいい加減姿勢を正しているのにも疲れて、机の上に両肘をついていた。
 突然、訳の分からない化物のいる森に来ていたこと。その世界の管理者だという少女に会ったこと。『流れ人』と称される男のこと、神を名乗る男のこと、そして、世界が崩壊して、そこから逃げてきたこと。覚えていることは一通り話したはずだ。
 そう、覚えていることはどれも、それこそこれが夢などとは到底思えないほど鮮明な記憶だった。それなのに、話しているうちに自分でも、やはり夢だったのでは、と思ってしまう。あまりに現実離れした出来事はその場にいなければただの物語にしか思えなくて。
 それなのに、目の前の男、徹は思案顔で腕を組んで、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「……あの、なにか?」
「ああ、いや……」
 気になって話しかけた亮の声でようやく我に返ったように、腕組みを解いて机に肘をつく。言葉に詰まった亮の目の前でもう一度眉をひそめると、確かめるように徹は口を開いた。
「一つだけ聞くけど……最後にその世界から逃げ出すとき、その女の子は向こうに残ったんだね?」
「……」
 聞かれて、改めて思い返す。最後、あの青い門の前で、たしかにあの少女は……。
「はい、僕だけで戻ってきました」
「そう」
 なぜか満足そうに小さく息を吐くと、徹は席を立つ。目線で促されるがままに亮も立ち上がると、徹は部屋の扉を開けて廊下に出る。続く亮をつれてまっすぐに道を行きながら徹は語る。
「まあ意識も戻ったことだし、大事無いとおもうよ」
「はあ……」
 生返事を返した亮に目もくれず、ふと徹の足が止まる。脇にそれた彼はすぐ横の戸棚を覗き込むと、その中から一組のスニーカーを取り出して言った。
「はい、これ君の靴ね。この時間なら電車もあるだろうし、とりあえず、お大事に」
「……」
 無言で、微笑を口元に浮かべている徹を見やる。まさか、まさかこの男は「帰れ」と言っているのだろうか。仮にも病院ならば、一晩くらい泊めていってくれても良いのではないか。
 しかし、目の前の男の張り付いたような笑みは亮に反抗を許さない。半ば気圧されるようにして亮は自分のみなれたスニーカーを突っかけると、適当に挨拶をして、どこにでもある一戸建てのような玄関から冬の夜の寒空の下へと繰り出した。
――
 なんだ、案外家と近いんだな。
 外に出るなり空腹を主張しだした胃袋を抱え、最初に見つけた電信柱を見上げて亮は考えた。ここからだったらなんとか歩いて帰ることもできる。丁度途中に駅をはさんでいるし、ついでにそこで何か腹に入れるものも買えばいいだろう。多少時間はかかるが、まあ昨晩家に帰らなかった挙句、こんな遅くに帰路に着いた言い訳を考えるにはちょうどいいかもしれない。
 巴と名乗った女性と誰かの家、病院とも思える建物の外見は、内から見た玄関の様子、雰囲気を少しも裏切らないものだった。都内の住宅地の中。せいぜい三、四階建てのマンションや一戸建ての中に建つ二階建ての一戸建てこそ、あの建物だったのだ。ただの一戸建てにしては大きい部類に入るのであろう、赤みがかった木の扉を構える家の屋根では、太陽光発電機のパネルがかすんだ月明かりを不気味に映し出していた。案外、本当にただの家で、病院などではないのかもしれない。
 結局のところ、あの村、この二日間はなんだったのだろう。
 時間が経てば経つほどに、現実味が薄れていく。よくわからない化物に、よくわからない術、それをつかうよくわからない奴ら。非現実感の塊とも言うべき記憶は、本当に夢であったかのようにさえ思えてきていた。
 そういえば、あの少女はどうしたのだろう。
 ふと、そんなことに思い当たった。
 最後の最後まで己が役目を全うすると言い切り、亮を一人送り帰した少女。ついに最後の最後まで、彼女のことを名前で呼ぶことはなかった。いくら気の利いた呼び名が思いつかなかったとはいえ、思い返すときにそれを示す名前が無いというのはいささか気分が悪い。こんなことならいっそ、適当に思いついた名前でもつけてやればよかっただろうか。
「……ふう」
 つい感傷的になっている自分にはたと気がついて、ブルブルと頭を振るう。あれはもう過ぎたこと。この二日間の記憶がなんであったのか、あの世界が何であったのか。多少は気になるけれど、今はそれよりも、なにか気の利いた言い訳――二日間家を勝手に留守にしたことをうまく誤魔化せるような――を考えなくてはならない。
 軽く口の端をあげて、顎にそっと手をやりながら、亮は夜の住宅街を歩いていった。
――
「ありがとうございました〜」
 まるでやる気の感じられない店員――どうせアルバイトだろう――の声を背中に、真夜中のコンビニを後にする。手にしたビニール袋の中にはカレーパンとメロンパンと、シュークリームに紅茶のボトル。財布がポケットに入りっぱなしだったことに感謝しながら、暖めたカレーパンにかぶりつく。
 とりあえず、家への言い訳は「成り行きでクラスメイトの家に泊まっていた」とでも言っておけば良いだろうか。そのためには誰か、こんな時間にも起きていて、かつ口裏合わせに協力が期待できるクラスメイトが必要なのだが……。
「さて、誰かいるかね……」
 携帯電話の電池が無いのは分かっているので、自然と足は公衆電話の方に向かう。一応住宅街の最中にありながらも駅前は繁華街になっているこの街で、電話ボックスの連なる駅前の広場はちょっとした賑わいを持っている。その賑わいの方へ、街頭の看板の照明の下を歩いていて、ふと亮の足が止まった。
「あの電話ボックス……無くなってる」
 確かにここで見かけたはずの、一つだけ異色をはなつ電話ボックス。それが、無くなっていた。
 やはり、夢だったのだろうか?
 考えながら、それがあったはずの場所へと歩み寄る。そして……
「……なんだ」
 それは、確かにそこにあったのだ。平凡な電話ボックスの列の端。赤いレンガの地面の上に四つ、なにかがそこにあったことをしるす、なにかの土台の跡、小さな四角形が四つ確かに刻まれていた。
「夢なんかじゃ、ないよな。やっぱり」
 自分は確かにここにあった電話ボックスに入って、なぜかあの林に飛ばされた。そこであの少女と出会い、川縁で『流れ人』たる男と闘い、空を飛び、食事を作り、眠り、夜の林を走りぬけ、己を『神』と称する男と出会い、荒れ狂う空の下に石段を駆け上がり、『神門』が開かれ……。
 『……霞』
「……!」
 思わず、目が見開かれる。
 思いだした。
 名前で呼ぶことはなかった、など。そんなはずが無い。彼女の名は、他でもない、自分自身で彼女に贈ったのではなかったか。
 一人で帰ってきた、など。そんなはずが無い。傷ついた彼女を抱きかかえ、泣き咽ぶ彼女を共に連れ帰ったのは自分自身ではなかったのか。
「そう……、そうだよ」
 どうしてこんなことを忘れていたのだろう。よりにもよって、帰ってくる直前の記憶。しかも、この二日間で何より大事な記憶ではなかったのか。それを、どうして忘れてなどいたのだろうか。
 そういえば、一緒に連れ帰ったはずの彼女の姿がどこにもないのはどういうわけか。気がついたときには自分の身は既にあの一戸建てにあったけれど、もしかしたらその間に何か……。
 自責の一方でひたすらに思案をめぐらせる亮の背後。不意に、ただ事ならぬ声がかけられた。
「おい、お前……」
――
 昔から、キレることが苦手だった。どれだけ悔しい事があっても、怒り散らしたいことがあっても、半端に冷静で、ついでに臆病な思考回路はいつも絶妙のタイミングで――それこそ嫌がらせかと思えるくらいに――しゃしゃりでてきて、肝心なところで感情の暴走を許さない。
「いつも怒らないよね」
「なんか、和やかだよね」
 かけられる褒め言葉も亮にとっては常に褒め言葉足りえず。怒りたい時に、怒鳴り散らしたい時に、それを出来ない自分自身がただただ憎らしく、独り自分を叱咤した。
 その亮がかつて、物心ついて以来たった一度だけ、我を忘れて拳を振るった事があった。
 経緯は本当に些細なこと。なにかやたらと機嫌の悪かった最中にあって、カツアゲまがいの不良に絡まれた。それだけ。街最大の賑わいの中にあって同時に柄の悪い連中の吹き溜まりでもある駅前で、丁度そういう連中が溢れかえる時間。一人ぶらぶらと歩いていた亮は恰好の餌食に見えたのだろうか。やたらとしつこい相手の態度についに頭に来た。そして、何故なのか、自分でも理由は判らないが、それまで口が過ぎて怒らせた相手の拳を迎え撃つだけであった拳を、はじめて自分から相手に振るった。
 一言で言って、「快感」だった。相手も油断していたのだろうか。最初の二、三発で一人をその場に叩き伏せ、ようやく反撃に出たもう一人を足払いで転がして、そのまま相手の体めがけて足を振り落とす。よろめきながら立ち上がった一人目の拳を払いのけ、さらに胸に一発打ち込んだ。二人目も辛うじて立ち上がり、仕切りなおしを見たその時、幸か不幸か駅前の交番からあわてて警察官が駆け出してきて、亮も、相手の二人も一目散に駆け出して、それでおしまい。どうしてあの時に限ってそうなったのかは未だに分からず、それ以来未だにキレた事は一度もない。
――
「おい、お前……」
 掴まれた肩、かけられた言葉に振り返る。そこにいたのは、亮より少し背の高い少年二人。ほとんど鼻を突き合わせるようにして見合う二人と一人。三人が声を上げたのはほぼ同時だった。
「お前!」
「こいつ!」
「あっ……!」
 あの時の……という言葉は飲み込んで、悟られぬように一歩後ずさる。そこにいたのは、事もあろうに二年前、亮が一歩的に殴り飛ばした二人組みだった。一人は赤いキャップの下から鮮やかな金髪をのぞかせて、もう片方は編みこんだ黒髪を耳にかけて、あのときに比べれば随分と威圧感のましたなりで、目を見開いて亮を見つめていた。
「これはやるしかないんじゃない?」
「だよな?」
 確かめるように声を掛け合う二人。対する亮に逃げ場はない。背後には電話ボックス。左右に逃げる道が無いわけではないが、相手とはこの距離、目を盗んで駆け出しても逃れられるはずもない。
 二人だけならなんとかなる、か?
 いくら感情が暴走していたとは言っても一度は完膚なきまでに叩きのめした相手。逃げるだけならば何とかならないこともあるまい。しかし直後、亮は己が不運と目論見の甘さを呪った。
「お〜い!ちょっとちょっと!」
 二人の片割れが不意に声を張り上げて背後に呼びかける。飛び跳ねて手を振る彼の声に振り返った周囲の人々の中で、その声に応えてこちらに近づいてくる一団がある。
「どうした?」
「お、だれそれ?」
 口々に騒ぎ立てながら集まってきたのは、目の前の二人と同じような風貌の少年、角材やバットを持ったのもあわせてざっと十数名。逃げ出す間などない。一気に総勢二十名弱に膨れ上がった一団は、あくまで自然な動作で、しかしすばやく亮を取り囲んだ。
 これは、あまりに分が悪い。
 なにやらはしゃぎながら言葉を交わしている相手の一団を目の前に、唇を噛んで周囲を見渡す。
 これで、逃げ場は完全になくなった。あとできることはここにいる全員を振り切って、何とか逃げ出すことのみ。しかしこの人数差ではそれすらも危ぶまれる。仮にここから逃げ出せねば、待っているのは形はどうあれ不幸な結末だけであろう。ハッピーエンドにはなりえない。
「じゃあ、やっちゃおうか?」
 リーダー格らしい一人がいい、周囲でいっせいに歓声が上がった。その時。
「あ、や〜っと全部つながった」
 他でもない、亮自身の口から思いもかけない言葉が飛び出した。
「何言ってんの?お前」
 怪訝そうに尋ねられながら、亮自身も己が身を案じる。自分は、何を言っているのか?混乱する亮の胸中などはよそに、亮の口はなおも勝手な言葉をつむぎ出した。
「……へえ、なるほど。あんた達、私に喧嘩しかけようっていうわけ?あ、違うか。この馬鹿に、よね。でもこの体はとりあえずこれからしばらくは私のものだし〜」
「……」
 唖然とした様子で、周囲を取り囲む一団はだれも一言も言葉を発しない。亮も、自分の口からこうもぺらぺらと女言葉が飛び出しているかと思うと気絶しそうになる。あわてて訂正しようと口をひらこうとして、ようやく亮はさらに深刻な異変に気がついた。
 口が……
 口が、自分の思うように動かせない。気付けば、いつの間にか首も自分の意識を離れて勝手に周りを見回している。そして。
「さあ、とりあえずは肩慣らし!適当に片付けちゃおっと!」
「……!ふざけ……」
 いきり立つ一団めがけて勝手に繰り出される自分の左拳。ついに完全に自分の支配の範囲を脱した体を感じながら、亮の意識は驚くほど速やかに、一瞬で闇に落ちた。
――
「ん……」
 ゆっくりと、まるで沼の底から浮かび上がるように、亮の意識は戻ってきた。閉じていた瞼をゆっくりと開き、ただぼんやりと目の前を見つめる。
 見たような眺めだな。
 しばらく眼前のベージュ一色を眺めた後で、そんなことを思って視線を横にずらす。まず目に付いたのは赤みがかった色のカーテンと、その隙間、窓ガラスからのぞく夜闇。次いで目に付いたのは時計。亮が目をやった直後、丁度日付が変わった。そしてさらにそのすぐ隣。亮のほうに横顔を見せて、何やらパソコンに向かっている二人の人影があった。
「あの……」
「お。気がついたか」
 遠慮気味に亮が声をかけると、人影の片割れ、亮の寝ているベッドの側に椅子を置き、片肘をついて画面を見つめていた徹が振り向いた。
 既に入浴を済ませた後なのだろう。徹は長袖のジャージの上から前開きのセーターを羽織っていて、足元にはグレーの暖かそうなスリッパ。部屋の隅で突いているヒーターの風が暖かかった。
「いや、まさかもう一度君に会う羽目になるとは思わなかったよ。本当に」
「嘘ばっかり。まったく考えてもいなかったんならいちいち自己紹介なんてしないじゃない」
 椅子の向きを変えて言った亮に次いで、突っつくように言ったのは凛。徹の奥で、同じように椅子に腰掛けて、徹の言葉に横槍を入れる間にもせっせとキーボードに指を走らせている。
 二人して一体何をしているのか。亮は申し訳程度にかけられていたタオルケットを脇に退けると、上体を起こしてベッドの縁に腰掛けた。
「しかしまあ、驚いたよ。まさかあんなことになるとは」
 その亮の様子を見て、机の上に余計に一つ用意してあった紅茶を差し出しながら徹が言う。
「あんなこと?」
 白いカップを受け取りながら尋ねて、記憶を振り返る。そういえば、どうして自分はここに戻ってきているのか。確か駅の前まではたどり着いたはずじゃ……。
「あ……」
 亮の手が止まった。
「思いだした?」
 沈黙する亮を横目に徹が言う。
「思うに、さっき君に聞いた夢の話と本当にあった出来事との間には微妙に間違っているところがあるんじゃないかな?もし、それを聞かせてもらえるなら、こっちもこの二日間の本当のことを教えてあげられるんだけど」
「本当のこと?」
「そう。君がこの二日間の間訪ねてきた世界。あれが何であり、今君はどうなっているのか。興味はあるだろ?」
 「カッコつけて……」とぼやく凛、どうみても十代初頭の少女の声を聞こえないふりで自然に流しながら、徹が小首を傾げてみせる。
 実際のところ、亮も確かに徹の言うことに興味はあったし、何より、その申し出を断る理由などあろうはずもなかった。
「……さっきはあんなふうに、僕一人で帰ってきたなんていいましたけど、本当は違うんです。本当は最後、一人で表に出て行こうとした彼女を追いかけて、引きとめようとして。でもそれでもやっぱり駄目で。結局そのときは僕は屋敷に残って、彼女は表に出て行ったんです。でもやっぱり置いていく気にはなれなくて。ずっとその『門』の開いた部屋で彼女の帰りを待っていたんです。そしたら突然彼女がぼろぼろになって戻ってきて、見ていられなくて。それで最後は彼女も連れて戻ってきたはずなんです。……どうしてか、それを忘れてて」
「ふうん……」
 ありのままを話した亮の前で徹は腕組みをして考え込む。凛はと言えば無言のままに相変わらずキーボードを叩いている。徹の呟きから僅かに数秒。沈黙に耐え切れずに口を開いた亮の声が言葉になるよりも先に、それをかき消すようにゆっくりと徹が言った。
「オーケー。約束どおり、君にも話を聞かせよう。君のいた『暁の村』とか、その女の子流に言うなら『俗界』がどういうところなのか、ね。まとめて話すから、質問は全部後回しにしてくれな?」
――
 およそ八年前。一人の、中学三年生になったばかりの男子生徒が一つとんでもないシステムを作り上げた。厳密には彼の父親が作り上げたものに彼は僅かに手を加えたに過ぎないのだが、それでも彼のその僅かな加工は素晴らしいものだった。そのシステムとは、コンピューターの中、データとプログラム、電気信号によって作られる仮想空間。電脳の中に空間を描き出し、その中に肉体を投影し、その『第二の身体』ともいうべきデータとその本人の脳とを接続することで仮想空間内での活動を可能にする、というもの。意識が仮想空間内にある間、栄養の摂取が不可能となる本来の肉体には点滴を繋ぎ、一方で『第二の身体』に生じる空腹感を満たすために仮想空間内での食料も作り出し。巨大な隠れ家を手に入れた彼が見つけ出したのは、父親の残したプログラムの原案。そのなかでももっとも彼の父親が熱心に取り組んでいた企画のものだった。
 それこそが、仮想空間内における生物の開発だった。肉体データについては既に現実の肉体を仮想空間に投影できているので、そのデータを活用することで解決。その肉体の一つ一つ、それだけでは損傷の一切無い死体と変わらないものに、半ば完成形を見ていた人工の知能、意識を組み込んだのだ。
 自分の手で生物を作り出す手段を得た彼は手元に自由に使える小間使いのような存在を何人か置くことで僅かに数ヶ月は満足していた。だが、ある事件を境にそれは一変する。
 ある日。彼が彼の変わった趣味の餌食としていた少女。仮想空間内に作り出した小間使いの一人が逃げ出した。もともと彼の父親は仮想空間に作り出した生物を現実世界に連れ出すことを前提にしていたので、そのためのシステムは整えられていたのだ。自らの奴隷に出し抜かれた彼は悔しみを噛み締めると同時に更なる発展を思いついた。すなわち、仮想空間内への永年移住だ。これだけ自由に、その気になればいろいろな世界を組み立てられる空間。ならばいっそ、いくつもの世界を創造した上でその空間の中に住まえば良いではないか、と。
 決断から行動までは早かった。夏から取り組んだ作業は冬の時点で既に基本骨格を作り上げ、そして次の夏。一台のコンピューターの中に数十の仮想世界を完成させた彼は最後に、彼を出し抜いた奴隷に些細な罰を与えた後で自らが作り上げた世界の集合体の中へと入っていった。
――
「分かるか?これが仮想世界、つまり『俗界』の馴れ初めだ。その一人の男子中学生が作り上げた世界は途中で分裂しながら数を増やし、それぞれの時を刻みながら今日に至たる」
「……」
 言葉を結んだ徹の目の前で亮は黙り込んだ。あの少女、霞は言っていた。全ての俗界を束ねる情報記憶体の制限を受けず、それどころか外部からそれを操作できてしまう唯一つの世界、それが神界だと。今であれば、その意味がよくわかる。確かに、彼女の言うところの『情報記憶体』というのがたった一台のコンピューターであるというのであれば、この世界がたった一台のコンピューターの制限を受けるはずもないし、それを操作することなど、それどころか破壊することでさえ造作もない。
 しかし……と、知らずの内に奥歯を噛み締める。
 同時に徹は、あの世界も、人も、当然霞でさえも、全ては作られたプログラムであると言った。たった一台のコンピューターの中で、その他大勢の情報に埋もれているただのプログラム。信じられないとは思いながらも、その儚さを考えるほどになぜか胸を掻き毟られるようで。「目覚めれば覚める夢のようなもの」と言って笑った霞の顔が脳裏をよぎって、一層強く奥歯を噛み締めた。
 その亮の表情をどう見て取ったのだろうか。徹はしばし口を休めた後で、目を閉じて言った。
「……ああ、そんな顔をしなくてもいい。いまいち理解できないのはわかってるさ。俺も初めてこの話を聞いたときはそうだったし、今でもこのシステムを完全に理解してるわけじゃない」
 徹は肩をすくめて見せて、亮に立つように促す。従う亮を視界の端で確認すると、いつの間にか作業の手を止めていた凛の肩に軽く手を置いて部屋の二つある扉の片方、廊下ではないほうへと近づいていく。続く亮が立ち止まった彼の背中に追いつくと、まるで手品師がとっておきを披露するかのようにもったいぶって、直後勢いよくそのドアを開け放った。
「……ほう」
 亮は思わず息をのんだ。
 気にするほどではないにしても少し薄暗い部屋の中。並んでいたのは十数のモニターとちかちか鬱陶しいまでに瞬く小さなライト。それぞれに勝手な映像を映し出しているモニターの奥で、一際大きなファンの音を響かせている巨大な物体があった。
「あれが、君の会った女の子の言うところの『全ての俗界を束ねる情報記憶体』ってやつだ。まあ早い話がでっかいコンピューターなんだけど。あの中に、仮想世界の全てが詰まってるわけだな。で、今は俺たちがこうして管理している」
「どうして、そうなったんですか?」
 遠巻きに部屋の様子を眺めながら尋ねる。
「その俗界を作った彼と、知り合いだったんですか?」
「ああ、そんなまどろっこしい呼び方しなくて良いよ。もう気付いてるだろ?その男子生徒っていうのは君が会った、『神』を名乗る男、篠山智のことだ。……まあ、確かにちょっとした縁でね。良くも悪くも、有難い縁だったよ、あれは」
 「もういいかな」と尋ねられて、あわてて扉の前から退く。
「それにしても、世界を一つ潰しておきながらシナリオだのドラマだの……。相変わらずだな」
 静かに、その部屋の扉を閉めながら歯噛みする徹。その台詞が亮には正直少し意外で、思わずまじまじと徹の横顔を見つめていた。
「ん?どうかした?」
「え!いや……」
 怪訝そうに尋ねた徹に慌てる亮。一瞬、なんでもない、と誤魔化そうとして、すぐに思い直して尋ね返す。
「その、徹さんは仮想世界のことを世界って……認めるんですか?」
 てっきり、その語り口から仮想空間のことをプログラムとしてしか見ていないのではないかと思っていたので、徹の『世界』を潰したという台詞は意外で。そんな亮に徹は真顔で尋ね返した。
「じゃあ君は、君がいた『村』はただのプログラムだったって言える?この二日間の経験はプログラムの中での、取るに足らない虚像だと言える?」
 もちろん、そんなはずはない。「まさか」と一言答えた亮に、徹は凛の横、自分の椅子へ戻りながら言った。
「確かに仮想世界はプログラムだし、作り物かも知れないけどね。でもあの中では確かに人は生きていて、それぞれの営みがあるんだ。それは、もはやれっきとした一つの世界だと思うよ」
 そうでもなきゃ、こんなことしてないさ。そういって、徹は腰を落とした。
「さて、現在の君の状況だけど、なかなかよろしくないことになっているようだ。」
「……よろしくないこと?」
 ふと思い出された智の姿。同時に首をもたげた微かな怒りを振り払って亮が尋ね返すと、徹は手に取りかけていたカップを机に戻す。
「そう。よく聞いててくれよ?」
 すぐ横に立つ亮の眉間に指を立てて念を押すと、一つずつ語り聞かせるように言う。
「さっきも言ったように、こっちの人間が仮想空間にいる状態っていうのはすなわち、普段は脊椎を使って身体と繋いでる脳を向こうに作り上げた身体のデータにスイッチしている常態なんだ。当然、向こうから戻ってくるっていうのはそのスイッチをもう一度身体の方に戻すことを意味する。逆に、もともと仮想空間にいた人間がこっちに来る時。」
 そこで言葉を区切ると、徹は机の引き出しから一つの小瓶を取り出した。いかにも薬品らしい、赤い蓋がされた透明なプラスチックの瓶。その中に、なにやら白い粉のようなものが詰まっていた。
「これは、智の親父さんが遺していったものの一つ。仮想空間の生物をこっちに呼び出すときに使う出力対象だ。プリンターで言うところの紙だな。これにデータを反映させて肉体をかたどらせる。つまり、向こうの住人がこっちに来る時は、頭の中身どころか身体も何も、その存在の全てを一つのデータとして送り込んで、後の処理は送り込んだ先、それ専用の機械のなかで行うことで最終的にこっちの世界に肉体を持つことができるんだ。ここまでは大丈夫?」
 尋ねられて、無言で亮は頷く。気付いてみるといつのまにか凛が部屋からいなくなっていたが、今は気にしないことにした。そんなことよりも、今は話の先の方が気になる。
「さて、そうなると今の君の状況だ。君はこっちの人間である君自身と向こうの住人とが同時にこっちに来ちゃったことでちょいと厄介なことになっちまってる。本当だったらプリンタにデータを送信するはずの作業が、パソコン同士の接続を解いて別のものに繋ぎかえる作業と同時に行われちまったんだ。本来は新たな肉体を作り上げる機械への回線を通るはずだった向こうの住人のデータは、君と一緒に門をくぐったことで今まさに接続の切り替えを行おうとしている君の頭の中に送られてしまった。あくまで仮説なんだけど、あの惨状を見るとそう考えるのが妥当だと思う」
「惨状?」
「まさか、覚えてないの?」
 眉をひそめた亮に、それよりもなお怪訝そうな、むしろ信じられないといった顔で徹が聞き返す。
「酷いもんだったよ。十九人いた少年が皆見事に伸されてて、もう少しで騒ぎを聞きつけた警察官が来るかな、ってとこでたまたま買出しに出た俺たちが見つけたんだ。さすがに君に、女言葉を巻き散らしながら長い木の枝を振り回す趣味があるとは思えないんだけど……」
「思ってくださらなくて結構です」
 即答しながらも納得する。そういえばあの時、何故かは知らないが自分の身体の自由がまるで利かなくなっていた。まるで誰かに支配されているような……。それがもし、もしも脳内に入ってきた侵入者が本当に亮の身体の自由を奪って支配していたのだとしたら……。
 しかし。
 ふとそれを否定する声が首をもたげる。仮にそれが本当であるとすれば、亮の身体を支配して暴れていたのは他でもない、霞だということになる。あの少女を疑うのかと問われれば否。とても彼女がそんなことをするとは考えがたい。
「でも、もしそれが本当なんだったら僕の身体で暴れたのは例の彼女だっていうことになるんですよね?それはちょっと考えにくいっていうか……」
 言葉を濁して口ごもる亮。しかし、対する徹の声、口調はとてもあっさりとしていた。
「ああ、それなんだけどね。その女の子、一応その世界の管理者だったんでしょ?だったら、君がつれて帰ったのはきっと偽者だよ。それこそ、その女の子の裏をかいてこっち側にやってこようとした、ね」
「え?」
 突然何を、と内心で戸惑う亮をみこしてか、さらに徹は続ける。
「もしかしたらこっちの知識不足なのかもしれないけどね、世界の管理者の頭っていうのは、自分が管理する世界の最期まで必ずその地にあり続けることってプログラムされてるんだ。たとえどんなに傷ついていても、その子が本物なら君についてくるとは考えにくい」
「そんな……」
 『管理者』に義務付けられた理不尽な責務もさることながら、何より今知らされた事実に愕然とする。ならば、自分は偽者相手にあのような言葉を投げかけていたというのか。よりにもよって、彼女がなんとしても阻止しようとしていたことに、決定的な協力をしていたというのか。
 ひっそりと唇を噛み締める亮をよそに、徹は目の前の画面を見つめて、なにやらキーボードを叩いている。画面の中で次々に浮かび上がる文字に目を走らせながら言う。
「一番性質が悪いのは、その君の頭に潜り込んだ奴が君に対して好意的ではない、ってことだ。なんせ、短期的とはいえ記憶を改竄した挙句に身体を乗っ取って大暴れするような奴だからな、放っておくのは君の本意でもないだろ?」
「……なにか、手があるんですか?」
「もちろん」
 まだどこか活気の戻らない目で尋ねた亮に、満面の笑みを浮かべて答える。
 直後、この部屋のもう一つの扉。廊下に面したそれが開いて、姿をくらませていた凛の首がひょっこりとのぞいた。
「隣、準備できたよ」
「オーケー。わかった。じゃあ……」
 何のことだかわからない亮をよそに、短い言葉を交わすと、再び徹は立ち上がる。
「ついてきてくれ。後の説明は、隣の部屋でしよう」
――
 通されたのは、随分と変わった部屋だった。否、部屋そのものが変わっているのではない。しかし、他の部屋と大して代わり映えのしないその部屋の中には、家具らしいものが一つもない。机も、椅子も、時計でさえも。ただ壁際、部屋の中に唯一置かれているのはずらりと六つ並べられた縦に長い箱。人一人が入れるような、そう、丁度黒塗りの電話ボックスとでも言うべきそれは、さながら彫像か何かのように等間隔に並べられて、部屋の中を見下ろしているかのようだった。
「これは……」
「そう。もう見たことあるし、知ってるだろ?」
 思わず呟いた亮の横で徹が言う。そう、その一際かわった電話ボックス……のようなものこそ、先日亮が電話をかけようと入った電話ボックスそのものなのだった。
 改めてみてみればその電話ボックスとしての違和感は「見慣れない」などと生易しいものではない。それどころか、掃除用具入れのロッカーか何かだと思われても文句のいいようが無いほどだ。どうして何のためらいもなく自分はこんなものに入ってしまったのか、我が事ながら亮は内心で首をかしげた。
「これがこっちの世界から仮想世界に入るための機械。あの大馬鹿野郎が残していったもんだ」
 いいながら徹は手近な一つに近づくと、その表面にゆっくりと指を這わせながら語る。
「本当は数台しかなかったはずなんだけどな。どういうわけか、最近増えてるんだよ」
「増えてる?」
「そう、時々誰かが街中にいくつかずつ据付けて行ってるみたいなんだよね。これを見つけて回収するのも俺達の仕事」
 やれやれ、といった調子で肩をすくめて見せる。
 丁度部屋に入ってきた凛がすれ違いざま、徹の背中を「さっさとする!」と一発はたいて言った。
「この中に入って、まず物体としての身体のデータをコピーする。そしてそれを仮想空間に送った後で脳のスイッチを切り替えるわけなんだけど、今回は君のためにちょっとした改造を施した」
「改造?」
「そう。君の頭の中の奴は一度君の身体に繋いだ接続が再び切れて、今頃丁度、頭の中でもう一度君の身体を乗っ取ろうとしているところだろう。これをただ説得しようって言うのはなかなか厳しい話だし。相手は今君の頭の中に立てこもっているわけだから、結局向こうがその気になってくれないと、たとえ君の頭と仮想空間とを繋いでもそれは道が出来たって事にとどまるんだ」
「こっち側が無理やり引きずり出すことはできないんですか?」
「無理やり……ねえ」
 思いつきで尋ねた亮の言葉に、徹は困ったように頭をかく。しばらくして、彼は恐る恐るといった感じで尋ね返した。
「無理だな。俺も、凛も、この件に関して完璧な知識を持ってるわけじゃない。今だって智が残していったマニュアルの通りにやってるだけだしな。出来ないこともないかもしれないが、俺達はその方法を知らない。悪いな」
「あ……」
 なるほど、と、内心で頷きながら言葉を詰まらせる。無理矢理とはいかなくて、交渉の余地など考えられなくて、じゃあどうしたらと黙り込む亮を前に、気を取り直したように徹は再び口を開いた。
「そこで今回は、ちょっと厄介なことをしてみようと思う。まず、君の身体のデータをとる。本来仮想空間内に送るはずのそのデータを、今回は機械の中でループさせて君の頭の中に送り込むんだ」
「……?」
 思わず眉をひそめる亮。それを気にも留めずに徹は続ける。
「そして、君の脳を、他でもない君の頭の中の身体にスイッチする。人間の脳ってのは言ってみれば天然の集積回路みたいなもん。つまり仕組は仮想空間に似たようなものだから、まるっきり不可能な話じゃない」
「本当に?本当にそんな事が出来るんですか?」
 普段脳から身体に繋いでいる回路を、脳自身の内部に接続する。徹が言っているのはつまりそういうことか。しかし亮にはその意味はなんとなく分かってもイメージが浮かばない。そんな亮の様子を知ってか、徹は何のことはない、といった調子で語った。
「できるとも。つまりだな?君の頭を乗っ取った奴は、君の身体っていう機械の操縦室に勝手に乗り込んできたわけだ。いろんな計器やコンピュータが並んだ中で機械を操縦中の君に気付かれずに忍び込んだ奴は、こっそり配線を弄くって自分の意志で機械を制御できるようにした。まあ最も、今は俺たちの手によって再び君が操縦席に座ってるわけなんだけどな?」
 分かりやすいように、という配慮だろうか。話しながら徹は空に指で何かを描いている。その気持ちは有難いのだが、できることならちゃんと紙に描いて欲しいと、亮は切に思った。
「これからやろうとしているのは、つまりこういうことだ。君の身体は常に機械の操縦装置に接続されていて、機械の外のことしかわからない。仕方ないから、操縦室の中に一つ人形を持ち込んで、操縦装置の配線を切り替えてその人形に接続する。そうすることで、君は操縦室の中でその不法侵入者と向き合う事ができるし、相手もさすがにそれを目の前にしてなお機械の操縦権を奪い取ろうなんていう余裕は無くなる、と。こういうわけだ。Do you understand?」
「……まあ、少しは。とりあえずさっきよりは理解できたと思います」
 答えた亮に徹は満足そうに「よろしい」と頷くと、その『電話ボックス』の扉を開け放つ。完全に光が絶たれていた狭い空間の中、その上方から何かを手に取ると、諸手を挙げた状態で数歩後ずさる。その手の上には、言うなれば無数のコードにつながれた工事用のヘルメットのようなものが乗っていた。
「君がやるべきことは、頭の中の不法侵入者と戦って勝つこと。どんな方法でもいい。とにかくそいつを叩きのめして反抗意欲を剥ぎ取ってやれ。そうすれば、たとえ相手がそれを拒否したとしても仮想世界に送り帰すことが出来る。言っておくけど、容赦はするなよ?分かってるとは思うけど、君の話からすれば相手は既に世界の中枢に働きかける術を持っている。そういう相手に喧嘩売る事が本来どれだけ無謀なことか、わからないわけじゃないだろ?」
「はい……」
 確かに、今までは考えもしなかったが、よくよく思い出してみれば相手は仮にも『流れ人』。彼らの持つ能力を前に自分がいかに非力であるかは既に一度経験済みだ。生唾を飲み込む亮を正面から見据えて、徹は続ける。
「でも、君にはやってもらわなくちゃならない。このままで放って置いたらいずれ本当に君の身体は乗っ取られかねない。そうなったら、一番困るのは君だろうけど、仮想空間を世間の目から隠しながら維持し続けている俺たちも結構困るんだ。なんせ平気で駅の不良を二十人も伸しちゃうような奴だからな、完全に自由になったら何をするか分からない。そうなる前に手は打たないとな」
 言葉を区切った徹の表情が一層真剣味を増す。亮の顔を、瞳を、さらにその中心をまっすぐに見つめて、彼は言った。
「やってもらえるか?」
「……はい」
 何をためらうことがあると言うのだろう。亮にしてみても、得体の知れない相手に身体を乗っ取られるなどというのは御免被るところだ。それでも僅かな間をおいて頷いた亮に、徹は口元に微かに浮かべた笑みで答えた。
「よし。じゃあこっちに来て」
 促されるままに亮が徹の脇まで歩み寄ると、徹は手にしていたヘルメットを慎重に、向きを確かめながら徹の頭にかぶせる。見た目の割りにそれはずっしりと重く、頭を上から押さえつけられるような感覚に、亮は首をすぼめて耐えた。
「いいか?あいにく機械の都合のせいで君の頭の中に俺たちがついていくことは出来ない。君への負担を考えると、君以外の人間だけがもぐりこむのも賛成しかねるしな。一つ言っておきたいことは、そこで相手と対峙した時に万が一にも殺されたりしないこと。いくら身体は偽物でも感覚は本物。向こうで殺されたりすれば君自身もショック死することになりかねない」
 せわしなく「電話ボックス」の内部を操作している徹を傍らで見守りながら、亮は無言で頷く。首にかかる重さはまるで事の深刻さを際立たせているかのようで。さながら劇か何かの壇上に上がる直前のような心持で亮は口を一文字に結んだ。
「一応、君の脳と仮想空間との道も繋いでおく。君が強く望めば、ちゃんと目の前に道が開けるはずだ。ぐったり伸びた相手をそこに放り込んでやれば任務完了。オーケー?」
 頷く亮をみとめると、徹は亮を「電話ボックス」の中に招き入れる。内部に蔦のように這っているコードを足で蹴りのけながらその中央に立つ。なんとなく自分の掌を見つめた亮に、徹は「ボックス」の扉を閉めながら言った。
「相当無茶を言ってるのは分かってるけど、君自身のためでもある。……幸運を」
 驚くほど静かに、真っ黒い扉は閉じられた。周りが完全な闇になった直後、亮がそれを心細く思うよりも早く、「ボックス」全体を震わせるかのような低い音が鳴り響き、直後、一瞬の頭痛のあとで亮の意識はどこか深くへと沈んでいった。