五章

第五章

 ここはどこだ……
 相変わらずの真っ暗闇の中。開いた目でぐるりと辺りを見回す。
 唯一つ、さきほどまでと違うのは、空間に壁らしいものが一つもないところ。足はたしかに何かの上に立っているのだが、その場所に床はなく。ただとりあえずの足場があるだけ。上下左右の定義さえないのだろうか、ためしにその場に横になろうとしてみてもなぜか身体は立っている。
「どうなってるんだ、これ」
 一人呟いて、その場に座り込む。ついた手の下には確かに地面らしきものがあって、そのまま上体を倒して、再度横になろうとしてみる。
「あれ、今度は出来た」
 間違いない。今、確かに亮の平衡感覚は身体が仰向けに倒れていることを注げている。
 おかしいな、さっきはこんなふうには……。
 と、眼前の真っ暗闇を見つめながら先ほどの、倒れたはずなのに立っている、あの感覚を思い出した瞬間だった。
「……なるほど」
 なぜか、身体は少しも動いていないのに、地面に直立している自分の身体を見回しながら思う。
 どうやら、この世界では『地面』と認識した場所が即座にその者にとっての地面となるらしい。ためしに身体は動かさず、意識だけで逆立ちしている自分を想像する。と、
「っ!」
 一瞬で頭の頂上に全体重がのしかかり、背中から地面に倒れこんだ。思いっきり打ちつけた背中に、しびれたような感覚が残る。
「……やめとくか。あんまりやってると感覚がおかしくなりそうだ」
 ため息混じりに独り言を漏らすと、もう一度、ゆっくりと周囲を見渡す。
 本当に、何もない。それはまるで宇宙空間に投げ出されたような気分で。しかし不思議と恐怖は感じなかったし、心細くもなかった。
 自分のやるべきことは一つ。ここで、自分をだまして紛れ込んだ『流れ人』を見つけ出し、圧倒的な実力差を前に殺されることなく、それどころか相手を叩きのめして相手を頭の中から追い出さなければならない。
「追い出す……か」
 本当にできるのだろうか、と。不意に不安になってくる。なんと言っても、相手はあの『死神』を使う男のような奴だ。まともに喧嘩をしたところで勝てるわけが無い。実は今、自分はとんでもない無茶をしようとしているのではないかと、今更ながらに亮は思った。
「それにしても……」
 これが、俺の頭の中か……。
 内心で呟く。徹の言ったとおりであるとすればまさしくこの空間が亮自身の脳内であるということなのだが。
「……我が事ながらなんと味気のない事か」
 誰もいないのをいいことに、肩をすくめてみせたりする。本当に何もない、ただ真っ暗闇の世界。虚空の闇。このようなところでは、二時間もいれば飽きてやる事が無くなってしまうだろう。自分の脳の中で退屈を持て余して孤独死。……洒落にすらならない。
 さて、どうやって問題の相手を探したものかと、亮が一人手を打ったそのときだった。
「まったくね。私もいい加減飽きちゃったわ。」
 不意に、頭上から、大袈裟なため息でも聞こえてきそうな声、いやに悪戯っぽい響きを含んだ声が響いた。
「……!」
 上を向こうと顔を上げると、反動で身体ごと回って、「上」が前になる。その視線の先に、クスクスと笑う人の姿があった。
「お前、誰だ?」
「フフ……、分かってるくせに。貴方が私に名前をくれたんじゃない」
 不敵。答える声はなおも楽しそうに笑っている。隠そうともせず、亮はあからさまに舌を打った。
「……悪いけど、霞の声はそんなに耳についたりしないんだよ。お前は偽物だろ?」
「あら、失礼。……たしか、こんな声でしたか?亮」
「な……!」
 息を呑んで、目を見開いて、己の耳を疑った。僅かに口ごもった後、目の前の、暗がりの中に浮かぶ人影から聞こえた声は紛れもなくあの少女、今はここにいないはずの霞の声だった。
「どうして……」
 先ほどまでは霞とは似ても似つかない声だったというのに。警戒の色も露に尋ねる亮に、相変わらず声の主は言う。
「どうして?私が私、霞だからです。あなたがつけてくれた名前ではありませんか」
 「霞」は姿を隠したままで、ただクスクスと笑う。
 まさか、本当に?
 胸中でそう疑いかけたその時。ようやく声の主はクスクス笑いをやめると言った。
「……なんてね。記憶に鍵をかけはしたけど、さすがに私もそこまで悪趣味じゃないわ」
 あっという間にもとどおりになった声で言うと、唖然とする亮をよそに、わざとらしく堅い足音を響かせて歩いてくる。ようやく暗闇から姿を現したのは、亮よりも下、それどころか凛よりも幼いのではというほどの少女だった。西洋気風に富んだ顔でほくそ笑むと、まっすぐに亮の目を見据えて口を開く。
「はじめまして。私の名前はアルテメネ。どうせ短い間だけど、よろしく」
 つりあがった目でいう彼女の姿。まるでこれから舞踏会にでも繰り出すかのような長く、黒いドレスに、左右に分けた、凍りついたような銀髪が、素直に綺麗だと思えるそれが映えていた。
 しかし、何が面白いというのだろう。彼女は誇るかのようにその銀髪をもてあそびながら、顔に張り付いたように浮かぶ笑みを崩そうとしない。どこか嗜虐的な色さえ感じられるその笑みは見つめれば見つめるほど恐怖に似た寒気を感じさせて。彼女のクスクス笑いに舌を打ちながら、亮は微かに視線を彼女の目からそらした。
「それにしても、まさか神界をめざしてきたのに貴方の頭の中にたどり着くとは思わなかったわ」
 そんな亮を気にも留めずに、否、むしろそれに合わせるように少女はクスクス笑いを止めると今度は深々とため息をつく。がっくりと肩を落とすその様子は、相当芝居がかっていて、気に障る。
「最初はこんなところが神界なのかと思ってがっかりしたわ。まあ、すぐに勘違いだったって分かったんだけどね。ホント、なんであんたなんかの頭の中に出てきちゃったのかしら」
「……知るか」
 『神』を名乗る男、智に負けず劣らず癇に障る喋り方にぶっきらぼうに答えると、亮は少女をにらみつけた。
 彼女自身の話から考えても、やはりアルテメネと名乗ったこの少女こそが目標の相手なのだろう。嗜虐的に歪んだ表情はそのままに、じろじろとこちらを見ている少女。その姿はやはりどう考えても初見のもので、ましてあの少女には似ても似つかなくて。睨みつける視線はそのままに亮は尋ねた。
「一つだけ聞いていいか?どうしてお前はここにいるんだ?俺は、お前みたいな奴を連れてきたつもりはないぞ?」
 一瞬、アルテメネの目が驚いたように開かれたかと思うと、またもクスクス笑いが再開される。それに今度はあからさまな舌打ちを返してやって、亮はさらに続けた。
「ついでに聞くと、どうしてお前が霞の名前を知ってるんだ。それに声のことも。全部、教えろ」
「あらあら」
 最後の方ははき捨てるように言い切った亮に、まだ微笑を浮かべた顔で少女は返す。
「年下相手だとそんなに強気になるのね。あの人形使いの男の時は敬語だったのに。でもいいの?私が本気を出したら勝てないことは、とっくに自覚してるんでしょ?違った?」
「くっ……」
 どうして、こいつがあの男のことを知っている?
「……まあ、いいわ」
 奥歯を食いしばって身構えた亮。それをしばらく、楽しそうに見つめた後でアルテメネは言った。嗜虐的な笑みはそのままに、一層目を細めて亮を見つめている。
 その瞬間、得意気に語り出すアルテメネを前に亮はなにかを悟ったような気がした。
 やはり、自分では彼女にかなわない。目の前の笑みは、たとえるならば子供が昆虫が精一杯威嚇するのを見て楽しむような、そういう笑みだ。絶対的な上位から見下ろすその行為には確かな根拠が実在する。現に、亮は今、その笑みを目の当たりにしただけでほとんど戦意が萎えてしまっていた。
「でね?やっぱり女の子としてはできるだけ余計な運動はしたくないのよ。だからあの田舎っぽい世界に飛び込んだ直後に裏手から屋敷に忍び込んだっていうわけ」
 目の前では相変わらずアルテメネがぺらぺらと喋っている。その彼女までの距離はおよそ十メートルといったところか。不意打ちをするにしても、うかつに飛び込める距離ではない。長すぎる。せめて機会を見つけようと、亮は彼女の話しに適当に相槌を打ちながら思案をめぐらせていた。
「でも、残念なことにちょっとだけ遅かったみたいでね。屋根裏に入り込んで話し声のするほうに歩いていったら、なんだか知らないけどもう『神門』が開いてるじゃない。だけどもう少しでその部屋にたどり着くっていうところでこともあろうに貴方、貴方が神門の前に戻ってきちゃったのよ。本当は邪魔なら処分しちゃえばいいんだけど、そんなことをしてあの澄ました女に見つかったら嫌じゃない?それで仕方ないから、即席であの女に化けてやったっていうわけ」
「……なるほど。つまり、それがお前の能力だっていうわけか」
 自分が罠にかかっていたことと、結果として霞を見捨ててきてしまったこととの悔しさを噛み締めながら吐き出す。だが、直後の少女の言葉がもたらした衝撃に加えれば、このような後悔などとるに足らないものだった。眉間にしわを寄せて舌を打った亮の顔をまっすぐに見つめて、少女はさも楽しそうに言った。
「そうだ、いいこと教えてあげる。あのへんちくりんでちっちゃな世界だけどね、私達が『神門』を通った後に跡形もなく崩れ去ったのよ」
「な……」
「あら、驚くことでもないでしょう?」
 首をかしげて、アルテメネは言う。確かに、自分が霞であると思ってつれてきたのが目の前の少女であると知った時点から、本物の霞はどうなったのだろうと気になっていた。しかし、それは心のどこかで無事でいることを願ってのものだ。それを正面から否定されれば、自ずと内心に衝撃は走る。
「きっと、貴方一人が通ることしか考えてなかったんでしょうね。ただでさえ世界の存在があやふやになっているところで予想以上のレベルの外部との接続が起こったものだから、ボーンって」
 亮が歯を食いしばったのを見て取ったのか、アルテメネの口調にさも楽しげな色が混じる。亮の注意を引くように間をおいて、上目使いに亮を見つめて、彼女は言い放った。
「きっと一瞬だったと思うわよ。貴方のせいで、ね」
 瞬間。少女の姿が視界から掻き消えた。そして亮がアルテメネの最後の言葉、「貴方のせいで」――自分のせいで、あの世界、暁の村、その全てが、村人が、林が、鳥居が、石段が、家々が、屋敷が、空が、土地が、霞が、消えた。それを理解した瞬間には、亮の身体は真下に忍び寄っていた少女に殴り飛ばされて宙に舞っている。
「ぐ……っ!」
 まるで距離感のない世界のなかでようやく亮がその場に立ち止まった瞬間には、数十メートルはなれたところに立った少女がなにやら呟いている。その声が、亮の耳には、それこそ耳元で話しかけられているかのように鮮明に聞こえていた。
「我行く道に壁はなく 我行く道に剣はない 一対の僕 我が下僕 共に我が手に身を委ね その名の役を果たし通せ 矛盾」
 口上が終わると同時、少女の両腕にそれが現れた時には既に、亮の頭にはどこからともなくその知識が流入している。
 彼女の右手に持った槍。中世ヨーロッパの突撃槍、ランスを小さくしたような手槍は、「どんなものでも貫き通す」と定義付けられた最強の一。対する盾、少女の左手にあって、彼女の身長の優に七割には至ろうかという大きさを誇る長方形のそれは、「いかなる攻撃からも、受ければ必ず持ち主を守りぬく」と定義付けられたもの。まさに矛盾を体現したかに思えるそれらはしかし、論理の破綻をきたさない。術者の身体能力さえあれば、こと接近戦においては圧倒的な強さを誇る武具、防具であった。
「正直、貴方が来てくれて助かったわ」
 ドレス姿だというのに、一体どれだけ早いというのか。ものの数秒で肉迫せんと突き進むアルテメネの正面から身をそらす亮に、少女はまるで驚いた様子もなく言った。
「ここで、能力も持たないあなたを殺してしまえば、簡単にこの身体を乗っ取れるんだもの。邪魔者はいないし。私にしてみればラッキーもラッキー、超ラッキーよ」
 いちいちアクセントを利かせて喋る。その声がとてつもなくうっとうしいが、今の亮にはそれに文句をいう余裕などあろうはずもない。
 自分のせいであの世界は潰えた。
 その一言がもたらした衝撃は、それこそ亮自身が想像していたそれよりもさらに強大なものだった。「どうせやるなら完璧に守り抜いて来い」と、そう言って彼女を送り出した自分自身が、彼女が守ろうとしたものを、今まで守り抜いてきたものを、そして何より彼女自身を、完全に叩き潰してしまった。取り返しがつかないが故に怒りはおさまる術を知らず。後悔は止まるところを知らない。そして、そしてその何よりも、こんな時になってまで、「でもあれは仕方がなかった、そうだろ?」そういって、慰めかけてくる自分の思考回路が許せなかった。
「畜生……!」
 いっそ怒鳴り散らせたならどれだけ楽だっただろう。だが、そうしようとするたびに、臆病で冷静気取りの思考回路は「どうしてそんなことをするんだ」と、「何か間違っているのか」と、耳元で囁いて引き止める。本当ならばそんなもの気にしたくもないのに、結局その腕を振りほどけなくて、結局亮はもう一度低く呟いた。
「畜生……!」
「どうしたの?」
 刹那。全てが停止した、と思った。
――
「ッア……アッ……!」
「まずは左手〜。これでもうあんなに逃げ回れないわよね?」
 身をかがめて、辛うじて、身を焼くような痛みに耐える亮。その右手は強く左手首を掴み、その先、本来そこには複雑な皺が描かれているはずのところには、ぽっかりと三センチほどの風穴が空いていた。
「血を無くして死なれたんじゃつまらないから、血管だけは塞いでおいてあげたわ。感謝なさい」
 不気味に顔を歪めてアルテメネが言うように、その傷の大きさ、骨を断たれて動かない指とは矛盾して、その手に血の赤はない。どうなっているのか、と辛うじて意識の片隅で思っても、痛みにもだえる亮の思考はそこから先に働かず、何より途端に軽くなった左手を直視する勇気が亮にはなかった。
 本当にいつの間に。気づいた時には亮の頭上から亮の方へ、走る亮の軌跡と丁度直角に交わるように、ドレスの裾を靡かせて走っていた少女の手槍は寸分たがわず亮の左掌の中央を貫いていた。その円錐形の穂先を先の方までしか突き刺さなかったのは単純に彼女の嗜虐趣味のためであろう。すくなくとも、わずかばかりの慈悲をかけたとは考えにくい。
 手槍を慣れた手捌きで宙に舞わせ、穂先についた鮮血を闇に躍らせながら、相変わらず歪んだ笑みを浮かべた顔で少女は言った。
「そんなに悔しいの?自分に何も出来ない事が?それとも、出来なかったこと?ああ、もしかして、やっちゃったことかしら?」
 いっそ腕ごと無くなってしまえばいい、と。そう思いたくなるほどの痛みに、亮はアルテメネに言い返すことすらかなわない。それを知ってか、彼女は手槍を杖代わりにして笑いながらなお続けた。
「知ってるわよ。ちょっと前に貴方の身体を借りた時、ついでにここ数日の貴方の記憶を少し覗かせてもらったから。貴方、怒る事とか出来ないでしょ?爆発する一歩手前で無意識にブレーキを踏んじゃうの。だから、私があの屋敷の天井裏で必死に這い回っていたあの時も怒鳴り散らしたり出来なかった。違う?」
「……」
「でもね。それって凄くくだらないことだと思わない?」
 返す言葉もなく、ただ歯を食いしばりながら、脂汗を浮かべながら、それでもなんとかアルテメネを睨みつける亮を、たまらないといわんばかりの笑みで見つめながらアルテメネは言った。
「怒るっていうのは、心の一番深いところでなにか傷つけられちゃいけないものを傷つけられたから怒るものなのよ。だから人間、どうでもいい他人のことでは本気で怒れないし、逆に大抵の人間は自分のことになると他のどんなことよりも怒りやすいでしょ?でもね、貴方みたいに最後の最後で怒れない、なんていうのはもはや救いようもないのよ。つまりそれは、大切だ、大切だってどんなに思っても結局最後までそれを守り抜く覚悟がないっていうことだもの。本気で守るものを一つも持たない。突き詰めた話、そんな人生に意味があると思うの?」
 年齢がようやく二桁にとどいたばかり。そんな少女に人生を説かれながら亮は何とか打開策を考える。このままではまずい。このままでは、勝てない。思案をめぐらせる亮など気にしない様子で、アルテメネは続ける。
「たとえば貴方が霞って呼んでたあの女。あれは生まれたときからあの世界を守るっていう絶対の責務を負っていたし、あれ自身もそれを絶対の目標にしていたから、その時点であれの人生には世界を守るっていう意味があったわ。私には、絶対に神界に出てやろうっていう野望がある。今もその作業の真っ最中。だから、その時点で私の人生には神界を目指すっていう意味がある。あの女も、私も、それを最優先にして生きているの。もちろん時にはわき目を振ることもあるけどね。でも貴方はどうなのよ?」
 感覚が麻痺してきたのだろうか。痛みが和らいできて、徐々に顔に生気が戻り始めた亮。その顔の中央を手槍で指し示して、アルテメネは言い放った。
「本気で怒れることもない。今朝の貴方自身の言葉によれば、特に目指してるものがあるわけでもない。ただ生きてるだけのあんたみたいなのが神界にいるのかと思うと、正直癪なのよね」
 今朝というのが智との会話だと気付いた頃には、いつの間にか少女の顔からは嗜虐的なあの笑みが消えている。そのかわりに怒気をはらんだ、眉間に深々としわを刻んだアルテメネの顔がそこにはあった。
「だからね……」
 いまだ反論するだけの力は戻らず、ただ無言で固唾を呑む亮を見据えたままで、アルテメネが身構える。その顔には、再びゆっくりと、先ほど異常に凶悪味をました表情が刻まれていた。
「せめてその身体、私がもらってあげるわ!いやだって言うんなら、まともな反撃くらいして見せなさい!」
 一瞬輝く槍の穂先。突っ込んでくる少女の体躯を咄嗟にかわして、まわらない頭を亮は無理やり働かせる。
 どうすればあれに勝つことなどできるのか。
 彼女との議論よりも、まずはこの場を生き延びねばなるまい。どうすれば、自分にそれが出来るというのか。
「待ちなさいよ!」
 背後から突き出された一閃を何とかかわしたところに、横薙ぎに手槍で払われた身体が飛ぶ。立ち上がったところを再び襲われて、今度は何とか下に逃げる。その次は右。次は上。転がって左。下。上。右。前。後ろ。前。上。……そして飛ぶ。
 手足にいくつもかすり傷を作って、胴は何度も叩かれて痣を作り。それでもまだ逃げ回る。自分は、勝たなければならない。目の前の少女に、打ち勝たねばならない。
そう自らを叱咤していた最中、再びかわした手槍に横薙ぎに払われ、宙に飛ばされる。そして、ようやく亮は理解した。
 自分ではこの少女にはかなわない。勝つとか、打ち負かすとか、それ以前の問題。なんとかかわして、かわして、それでも何回かに一回叩き飛ばされ、蹴り飛ばされる。それが限界。自分にはその力がなく、どう足掻いたところで、この少女にはかなわない。
 それでももし、それがかなう者がいるとするならば……。
 霞……。
 叩き飛ばされて宙を舞いながら、声にならない声で亮は呟いた。
――
 その名を口にした途端、放物線を描いてなおも宙にあり続ける亮の脳裏に浮かび上がる姿があった。
 ――黒く長い髪は静かに揺れ、伏せた顔をゆっくりと持ち上げる。
 ああ、死ぬ前の走馬灯ってこういうことを言うのか、と、酷く地面に叩きつけられた意識の隅で思う。気づいてみれば、歓喜に顔をゆがめ、手槍を腰元にひきつけ、ひたすらまっすぐに、正面から走ってくるアルテメネのその挙動も、まるで時間の流れが変わってしまったかのように、ゆっくり、気味が悪いほどゆっくりとして見える。
 ――前髪に隠れた白い肌が少しずつ露になり、静かに閉じられた瞼から瞳も垣間見える。
 この場にいたら、助けてくれたのだろうか。尋ねる思いに答える者は無く。もはや逃げる気力も立ち上がる気力すら萎えた亮の両腕は真下に下ろされる。槍の主の顔は一層歪み、引き絞った得物が突き放たれて……
 ――ふと、身体の前で重ねられた彼女の手が静かに差し出されて、そっと、頬に触れた。
「……!」
 まさに皮一枚。先端が亮の、ところどころかすれたラガーシャツに触れていた手槍を、寸でのところで身体が横転してかわす。意志によらない突然の反応にしかし亮はよろめくことすらなく、対する少女はまさかここまできてかわされるとは予想もしなかったのか、僅かにつんのめりながら振り返る。
「貴方もしつこいわね。さっさとおとなしくなればいいものを!」
 再度突き出された一閃を、またも亮はかわしてみせる。しかし、そこには既に意思が無い。心ここに在らず。ただ何かに憑かれたように立ち上がり、身体の反射だけで、本能だけで身を翻す様は、ただ相手に背を向けて逃げ回るだけだったのが嘘のようで。しかし亮の意識は既にそれを感知していなかった。
 ――驚くほどに滑らかな肌が、静かに亮の頬をなでおろしていく。
 それはさながら羽か、微かな清水の流れのように。
 ――耳を澄ませてみれば、微かに聞こえる歌声。
 一度だけ、僅かに一度だけしか耳にしたことのないその旋律は、思わず目を見開いた亮の意識を抱くがごとくに包み込む。
 ――ふと気付くと、漂うは柔らかく暖かな香り。
 胸の奥まで満ちていくような香りにつつまれて、亮は大きく息を吸い込んだ。
 「亮……」
 そっと目を開いた彼女は、小さくも確かな声でそう、言って笑った。
――
「……っ!」
 突然夢心地の中から引き戻された亮は、同時に眼前まで迫っていた槍の穂先をのけぞってかわす。同時に繰り出された足払いをまともに受けて、その身体は横に大きく飛ばされる。
「……やっと、おとなしくなったわね」
 せきこみながら目をやった先には、軽く肩を上下させて立つ少女、アルテメネの姿。しつこく逃げ回る獲物を追いまわしたその頬はうっすらと紅潮し、ドレスの裾は乱れてしわがよっていた。
「まったく……。貴方、なかなかしつこいのね。もうとっくに仕留めたつもりでいたのに、突然あんなに逃げ回るんですもの。往生際が悪すぎるわ」
「……生憎、そう簡単に負けるつもりはないんでね」
 どうしたことだろう。一度は走る気力すら萎えた身体が不自然なまでに軽い。体中の筋肉が悲鳴をあげる中で、心だけが不思議な安心感につつまれて暖かい。左手の風穴も相変わらずだというのに、まるで痛みというものが無い。自分には勝機などあるはずもないのに、なぜだろう、負ける気がしない。思わず、頬が緩んだ。
「そう……」
 と、それが気に食わなかったのだろうか。少女の声が不意に、それまでのどの声とも違う冷たさを帯びた。何かを噛み締めるようにそっと閉じた瞼。細く吐き出す息。戦慄する亮の目を再び見開いた瞳で見据えて、アルテメネは声高に叫んだ。
「だったら!せいぜい抵抗して見せなさい!」
 駆け出した少女。迫るその姿にもはや嗜虐の念もなにもあったものではない。そこにあるのはただ、最後の最後で壊れない、目障りな障害物への純粋な怒り。まさに肉迫せんとするその姿を前に、しかし亮は微動だにしなかった。
 既に、物は揃っていた。
 するべきことは探すこと。
 どれか一つに固執するのでなく、その存在そのものを探し出す。
 外見だけでは意味が無い。声だけでも、肌触りだけでも、匂いだけでも意味が無い。
 その存在そのものを探し出し、現在においてそれを再現させる。
 迫る白銀色の輝きを前に、目を閉じ、微かに俯いた亮はやはり、微動だにしなかった。
――
 物心ついた時には、自分の周りの世界が当たり前なのだと思っていた。豪遊の限りを尽くす大人たちが溢れ、苦というものを知らぬ令息令嬢が闊歩する。そしてそのような中にほんの一握り、虐げられ、使いまわされ、使い道のないただのガラクタに成り下がるまで道具として使われる自分たち。どんなに逃れようとしてもそれは宿命で、どうにも変えようが無いものだと思っていた。
 そのような中にあっては大した意味もないことであったが、幼いアルテメネには一つだけ特技があった。それは、まったくそっくりそのまま、寸分たりとも違わない他人の声真似。それが、世界の中枢に働きかけて自分の声帯の形そのものを変質させていた結果だと知るのはもう少し後の話。そのときの彼女は純粋に、自分の特技を苦役の合間の些細な楽しみにしていた。
 そんなある日。街の路地裏で野盗の手にかかった。自分には何の落ち度も無いのに、しかし一人の少女に抗う術など無く、差し出される救いの手もまた無く。放心して独り、取り残された彼女の前を、真っ黒いドレスを着た少女が駆け抜けて行った。ああ、あれならきっと、私のほうが似合うのに。そう、思った。
 その夜。いつものねぐらの中で、その思いはある意味運命的な飛躍を見せた。自分が、あの少女になれればいいのに。いや、いっそ、世界が思ったとおりになってしまえば良いのに。そう、たとえば今、この手中にあの黒いドレスがあれば……。
 後は、本当に成り行きだった。一通り力を振るい尽くしたその時、『管理者』を名乗る男に襲われ、自分のことを神と名乗る男とその連れ合いに助けられ、力の使い方を教授され、神の世への道を開かれた。そして全ての忌まわしい記憶、それさえも覆す力に、あと少しで手が届く……。
――
「今度こそ……!」
 迫る少女、アルテメネは密かにほくそ笑んだ。目の前の獲物は、今度こそ逃げようとしない。否、動く事ができていない。僅かに一足分。あとそれだけ踏み込めば、自分の得物は確かに相手を捕らえ、晴れてこの身は我が物となる。そして、自分は神の世を自由に闊歩できるようになる。世界は、晴れて自分の所有物となる。
 だがしかし、その僅か一足。たった一歩分の距離を彼女が踏み込むことはなかった。
 その僅か一瞬前、あるいは一刹那前であったかも知れない。突然の乱入者にアルテメネは、はじめて左手の盾をかざして、横に飛びのくことを余儀なくされた。
 かざした盾を抉るがごとくに猛進し、甲高い金属音を奏でるそれ。赤、青、白、黒。四色の鳥はそれぞれの色で鮮やかな軌跡を描いて滑空し、しかしその力は一歩及ばず、「絶対防御」の役を負った盾の前に弾かれて霧散した。
「これは……」
 知っている。
 アルテメネは固唾を呑んだ。
 見紛うはずもない。これは、自分があの辺境の世界に飛び込んだその時、暗雲渦巻く空に在って、異様な光景を描き出していたものだ。四色の軌跡は空を埋め尽くし、さながら雨のように地表に降り注ぐ。あの世界の主、既に潰えたはずの者の術ではあるまいか。
「よう……」
 信じられない、と、目を見張るアルテメネには見向きもせずに、亮ははるか右手、静かにその場に立つ巫女装束の少女に声をかけた。
「なんか知らないけど、また会えたな……」
「そうですね。できることなら現状の詳細な説明と、ついでに私をここまで驚かせたことへの謝罪がいただきたいところですけど」
「ああ……、悪いな。でもそれは後回しだ」
 亮自身、何が起こったのかはわからない。ただ彼がしたのは、何かに命じられるがままに、助けを、彼女の存在そのものを強く求めただけのこと。理由はない。ただ、そうしなければならず、そうすればいいような気がした。
「見たところ……彼女は流れ人なのですか?それにここは……俗界ではありませんね。まさか神界ですか?」
「ああ。後の方はすこし違うんだけど、それも後回しだ」
 ゆっくりと、歩いて近づいてくる少女、霞に答えて、何とか亮もアルテメネとの距離をとる。体力の回復は錯覚だったのだろうか。一気に身体に溢れる安心感と共に、つい先ほどまで平然としていた膝は笑い、左手の風穴は再びその存在を声高に主張していた。
「逃げるんじゃないわよ!」
 と、ほとんど這うようにして後ずさっていた亮の方へまったくの突然にアルテメネが振り向く。その表情に浮かんだのは焦燥か、それともなおも燻り続ける怒りか。しかし、やはりその槍の先は亮を捕らえることはない。
「飛鳥!」
 足元めがけて飛来する赤い光の鳥を舌打ちと共に飛びのいてかわし、乱入者を睨みつける。
「あいにくと、私はまだその方と正式に別れを交わしていません。つまるところその方はまだ私の客人。手出しはご容赦願います」
 言った霞の声はどこまでも落ち着いていて。しかし確かに威圧感を持ったその声を前に、アルテメネは鼻で笑ってみせる。
「何が『客人』よ。知ってるわよ。貴女、自分でこいつのこと捨てたじゃないの。半べそかいて。私はあの時全部聞いてたのよ!」
「あ……」
 叫ぶ声を前に、思わず言いよどんだのは亮。霞があの時泣いていたということよりも、何より一度、彼女が自分のことを捨てたという事実を今になって思い出した。それに、自分達では生きる場所が違うのだと、亮はここにいるべきではないと、そう言い放ったのは目の前でアルテメネと睨みあう霞自身ではなかったか。
 しかし、その言葉に霞の表情は僅かにも揺らがなかった。否、僅かばかりには揺らいだかもしれないが、それはあの、「そんなことか」という呆れたような顔であった。
「だから、なんだというのですか?事の次第はどうあれ、私は今ここにいて、丁度亮もここにいる。そして私には今すぐ亮に別れを告げようなどというつもりはありません。亮、あなたはいかがですか?」
「え……そりゃ……」
 突然話を振られて戸惑うも、体中の痛みをこらえてほくそ笑んでみせる。答えは、一つだけ。迷うことはない。
「あるわけないだろ、そんなもん」
「でしたら、問題はありませんね」
 なにか嫌なものでも見たように顔をゆがめるアルテメネに向かって、済ました顔で目を閉じて言う。しかし、彼女の言葉はそれで終わらなかった。
「それに、そのことを知っているということは、あなたは我が暁の村から流れ出たということになる。一人の管理者として、それを黙認するわけにはいきません」
 言って、閉じていた瞼を開ける。そこに在るのは確固たる意志を持った瞳。仮にも戦いの最中にあって平然と立っているその姿に、やはり亮は、ただ一言「凄い」と舌を巻いた。
「亮」
 じり、と構えを取るアルテメネを睨みつけたまま、振り返らずに霞が言う。
「怪我をしているようなので無茶は言いません。しかし、最低限自分の身は自分で護ってください」
「ああ、了解」
 一瞬後。黒いドレスと紅白の巫女装束とが宙に踊った。
――
「赤白青黒四色の鳥 四方より集いてこれを払え 飛鳥!」
 宙にその身を躍らせながら放ったそれ。空間を焼き、風を切り、一直線に突き進むその姿はなお歪むこともなく、はっきりと鳥の姿を模している。四羽同時に放たれたそれは空中でそれぞれに散開した。
 初弾の赤と次弾の白はそれぞれ目標を外れてはるか下方へと消えうせていく。三発目の青は今一歩目標に届かず、槍の穂先になぎ払われ、明後日の方向に飛んで行き、その槍の一振りをもやり過ごした四発目の黒はアルテメネのかざした盾に受け止められる。くすんだ金属色の盾と漆黒の光とがぶつかり合って、不気味な閃光が散った。
「へえ、なかなか重いじゃないの」
「あなたのそれも、よく耐えますね」
 霞は冷たい声で言い放つと、ほくそ笑んでみせたアルテメネの背後に回りこみ、胸の中央、その裏側に掌底を叩き込む。一瞬息を詰まらせたアルテメネはそのまま勢いに乗って数回空中で転がり、左手の盾で勢いを殺して着地する。直後、それにあわせて放たれた『飛鳥』が四羽、絡み合い、渦を巻きながら風を切り、咄嗟に持ち上げられた盾の表面と再び閃光を散らせた。
「っ……」
 歯を食いしばるアルテメネの前で、赤は、空しく一瞬で霧散する。白は、僅かに盾を後退させて霧散する。そして青は……
「……!」
 響いたのは、傍から見ていた亮が思わず息を呑んだ音。青く輝く鳥、燕に似たそれは激しい閃光と共に霧散するも、確かに盾の表面に皹を残していった。
「……終わりですね」
 霞もそれを見て取ったのか、前にかざしていた手をそっと下ろす。そして、黒。最後に残された漆黒の鳥は、確かに、盾の表面を突き破った。
「……」
 直後、巻き上がる黒煙。吹き付ける突風。亮も、霞も、それが『飛鳥』がアルテメネの身を焼いた結果であると思った。あまりにあっけなくはあるが、唯一の守りを突き破られれば、あの距離でアルテメネに逃れる術などないはず。誰であれ、その場に居合わせたならばそう思ったことだろう。
 しかし、襲い掛かった光弾と同じく漆黒を身にまとった銀髪の少女はなおもそこに立っていた。見事に半分に割れた盾を片手に、その切断面から上がる煙を払おうともせず、忌々しげに眉間にしわを寄せて、なおもそこに立っていた。
「そうか……」
 その時、ようやく亮は己の得た情報の意味を知った。
 あくまで「守り抜く」に尽きる盾。中国の故事においては、「何でも貫き通す矛」と「どんな武器も通さない盾」とを並べて売った商人が、客に「ならばその矛で盾を突けばどうなる」と問われて答えられず、矛盾という言葉が出来たという。しかし、アルテメネの盾と手槍においてはそのような「矛盾」は起こりえない。それはあくまで「守り抜く」盾。決して「防ぎきる」わけではない。当然、物質としての盾の耐久度を越えればそれは壊れるし、貫かれることもあろう。しかし、たとえ我が身が砕けようとも、この盾は相手の攻撃の運動法則を捻じ曲げて、あるいは貫いた得物を挟み込んで、貫かれながらも持ち主の身は守りきる。故に「絶対に貫く」槍を相手にしてもなおその定義は解れず、結果、対としてのこの防具と武具はより強固なものとなる。それが、彼女の『矛盾』の真相であった。
 思えば、どうして真っ先に伝えなかったのか。ようやく自分の間抜けぶりに気がついて、痛む左手、その手首を思いっきり握り締めながら亮の口が開かれた。
「気をつけろ、霞!そいつの盾は『絶対に持ち主を守りぬく』!手槍は『どんなものでも貫き通す』槍だ!ただの手槍と盾じゃない!」
「な!なんで貴方がそれを知ってるのよ!」
 傷が痛むのであまり詳しくは語れない。その叫び声に敏感に反応したのは、霞ではなくアルテメネだった。自分から術の種を明かすような真似はしていない。なのに、なぜこの男はそのようなことを口にできるのか、と。驚きと共に反射的に振り向いて、怒鳴る。
 しかし彼女にもそれ以上言葉を紡ぐ暇はない。仮にも自分が対峙しているのは一俗界
を治めていた管理者。袴の裾で紅い円を描きながら舞う目の前の女を相手に、気を抜く暇はひと時もない。そして、一瞬の混乱の中で己を静める彼女の耳に、「なるほど」という霞の呟きは聞こえていなかった。
「……!」
 口上なしで放たれた『飛鳥』を半分になった盾で受け流すと、微妙に焼け焦げたドレスを翻し、アルテメネはその身を宙に躍らせる。空間に制限がなく、各人が地面と認識した場所が勝手に足場となるこの空間。近づけさえすれば、数時間なりとも長くこの特殊な空間にいたアルテメネの方に一日の長がある。
「反撃開始……!」
 焦燥に駆られた声で、忍び寄った先、霞の頭上後方から突き出される一閃。しかしそれは、霞の黒髪にかすりもしなかった。
「どこに……!」
 突然姿を消した相手を探して辺りを見回す。ひと時たりとも視線ははずしていない。だというのに一体どこへ逃げたというのか。
 と、その目線が思いがけない相手を捕らえた。
「……」
 そこにいたのはそもそもの目標。その亮との距離はおよそ三十メートル。アルテメネが本気を出せばあっというまに捕捉できる距離だ。
 銀色の前髪の下で、見開かれていた目が細められ、口元に微かな笑みが浮かび。その不穏な空気に気付いた亮が左手を庇いながら後ずさった、そのときだった。
「亮、わざわざ教えていただいて、ありがとうございました」
 決して大きいわけではない。しかしよく通る声が聞こえた。
 はっとして目線をずらしたアルテメネの見据える先。亮の隣僅か数メートルという位置に、霞はアルテメネをじっと見据えて立っていた。
「くっ……」
「飛鳥」
「……!」
 近づこうとしたところに足元めがけて『飛鳥』を撃ち込まれ、たたらを踏んだアルテメネ。戦いにあっては常に優勢。片手を差し出しながら、管理者たる威厳を惜しみなく発しながら、それに向かって諭すように霞は口を開いた。
「確かに、あなたの槍も、盾も、その能力は素晴らしいものです。それこそ、あなたの年齢を考えれば無条件に褒め称えてもいいほどに。しかし、そこには最大の欠陥がある」
 突き出した手の中で輝く、四色に分かれて渦巻く光の玉。身動きの出来ないアルテメネと、いつの間にと目を見張る亮をよそに彼女は語る。
「対象を無条件に貫いたり、どんなものからでも持ち主を守り抜いたり、そのような強大な定義付けと本来の槍、盾の存在定義。それをどちらも完璧に維持するには相当な技術が、恐らくあなたでは遠く及ばないほどの技術が必要になる。故に、あなたは条件定義に重きを置き、槍、盾の本体は創造した直後に固着化することにした」
 世界に新たなものを創造する能力。仮想世界の中枢に働きかけて、そこに無理やり手を加えるその技術には二つの種類があった。物体の存在を新たに作り出すものと、物体に新たな定義、理念を与えるもの。それらはどちらが容易というものではなく、己の技術の許容範囲の中でのバランス配分によって全ての能力は作られる。
 生まれ出でてより己に対する強固な像をもっている生体。たとえ己の肉体とはいえ幼いころからそれを変容させるほどの技術を持っていたアルテメネにも、やはり霞の読みどおり限界はある。相手の材質を問わず、相手の攻撃力を問わず、どのような世界の法則であれ全てを破壊してまで貫き通す定義。完璧にその状況をイメージし難い中にあってなおそれを強要する、普遍的な定義付けは相当の技術量を要する。イメージに直接的に五感を用いられない分、声帯の変質よりも難しいかもしれないその定義付けを前に、加えて永続的に物質の存在を、重さを、触感を、材質をイメージし続けると言うのは、たとえアルテメネでなくても、並みの流れ人には難儀なことであっただろう。
「固着化……。待てよ、それって術者同士の間においては意味を成さないんじゃあ……」
 万が一にそなえて完全には視線をアルテメネからそらさず、しかし霞の方に振り向いて尋ねる。その亮に小さく頷いて見せて、霞は続けた。
「ですから、相手にそれを知られるわけにはいかないのです。決して自分から能力の真髄を知らせることはなく、あくまでただの槍と盾であると思わせておけば、そして速力に任せて猛攻を繰り返せば、相手はよもやその槍や盾が固着化されているとは思わないでしょうし、それをいちいち否定する暇もないでしょう。現に私がそうだった。それに、彼女の固着化はそうと知らなければ分からないほど濃い存在を保っていた。どの道、先ほどの亮の言葉に反応してしまったのが命取りでしたね」
 目の前にある世界の断片。その存在を無いものにする『否定』。確かに存在するものを「存在しない」と世界を騙すそれにはなにより、『否定』を行う本人が、その前から対象は既に無き物として扱わなければならない。それは存在しない、という形で世界を書き換える上で、そう主張する本人が存在しないはずのものを避けたり、感じたりしてはならない。故に、まさに向かってくる凶器に試みに『否定』を行うなどというのはとんでもなく危険な賭けなのだ。
「く……だから、だからどうだって……!」
 それは、淡々と事実のみを語る相手へのせめてもの反抗だったのだろう。壊れた盾はかなぐり捨て、ただ一振りの手槍だけを握り締め、白銀の髪をたなびかせ、ドレスのすそをはためかせ、真正面から突っ込んでくる少女。嗜虐的な笑みも、怒りの形相も、焦燥の色でさえもない、ただ前だけを見据えたその表情に亮がたじろいだ一瞬後だった。
「ごめんなさい。あなたのそれは、『存在してはならない』。」
 静かに、哀れむような霞の声。それは確かな確信の上にあって。見開かれるアルテメネの目。直後、亮の目の前で、『最強の一』たる手槍はまるで砂ででも出来ていたかのように、さらさらと粉になって崩れ落ちた。
「未熟、ですね。もしも固着化をといていれば、あるいは私を貫けたかもしれないのに」
「く……、この程度!」
「終わりですよ。亮、目を」
 もう一度手槍を創造しようとしたのだろうか。再び口を開こうとしたアルテメネの声は、直後に放たれた『飛鳥』の肉迫に気圧されて結局声になることはなかった。直前で少女を避け、空中で旋回する四羽の鳥を視界の片隅で見つめながら、霞は口を開いた。
新月の夜闇 音無の風 光の射手は天を駆ける 白光」
 あわてて目を覆った亮の瞼の向こうでまばゆく輝く白い光。右腕と瞼を通してなお、瞳に響くその光は、まともに受ければ一時的とはいえ視力を奪い、まともに立つことさえ許さない。まして、真正面からそれを見たのでは……。
「いいですよ、亮」
 どれほど待ったのか、ようやくかけられた声に目を開ける。麻痺しているのだろう、微かに歪んだ視界で足元を見下ろすと、そこには、気を失っているのか、瞼を閉じて横たわる、アルテメネの姿があった。
 その手に握られていた槍は跡形もなく消えうせ、後方にかなぐり捨てた盾もその姿は霧と散り、力なく投げ出された手はなおも空を掴んで拳を握り。無残に裾を焦がしたドレスの上に、白銀の髪が広がっていた。
「やった……のか?」
「直接危害は加えていませんが……、満身創痍だったということでしょう。」
 言った霞はアルテメネのそばまで歩み寄ると、その場に静かに右腕を突き出す。
「ここは……俗界にもつながっていますか?」
「ああ……確かつなげてあるって言ってた」
 徹の言葉を思い返しながら頷く亮。それを確かに認めると、霞はその小さく開けた口から、澄んだ声で口上を紡ぎ出す。
「散在する世界の守人共よ 今こそ集いてこれを聴け この罪深き旅人を あるべきところへ導きたまえ 龍門」
 現れたのは、毒々しい赤紫の渦巻く円。身の程を知らぬ者を屈服させ、送り帰す非情の門を見つめたまま、霞は力のないアルテメネの身体を抱えあげて立ち上がる。それを後ろで見守る亮には、かける言葉も浮かばなかった。
 この少女。自分より明らかに幼いこの少女は一体何を望んだのだろう。追い詰められて、打つ手もなくなって、それでもなお突進してまで、果たして何をこの世界に望んだというのだろう。左手の風穴が、呼応するように痛みを増した。
「あなたは私が手を合わせた流れ人の誰よりも幼かった」
 彼女も同じ事を思ったのであろうか。突然かけられた霞の声はどことなく暖かい。その目を僅かに細めて、彼女はアルテメネの顔を見つめていた。
「きっとまだあなたには目指しうる道も多いことでしょう。神の世にすがる前に、まずはそれをお探しなさい」
 言の葉を締めた霞がもう一度手元の少女、その安らかな顔を見つめ、そして覚悟を決めたようにその視線を『龍門』に戻した。
「さようなら」
 静かな声で告げて……。
「知ったような口きかないでくれるかしら?」
 ドス、と。あまりに不自然で、重くて、生々しい音が微かに聞こえた。
――
「な……あなた」
 次いで聞こえたのは、狼狽して、かすれた霞の声。よろめいた彼女の腕の間に抱かれていた少女の身体、気絶しているはずのそれは軽やかに飛び上がり、ドレスの裾を靡かせて、音もなく闇の中に着地した。
「な……」
 一体全体、何事だというのか。突然右肩を押さえ、表情を歪め、後退する霞。その胸元、白い着物に、鮮やかな朱が広がっていくではないか。そこから、何か小指の先ほどの金属の棒のような物が突き出しているではないか。
「あなた……どうして……」
「いやあ、奥の手は取っておくものね」
 何とかその場に踏みとどまった霞。そして、目の前の有様に言葉をなくしている亮。二人の目線の先に立つ少女の表情は、よくよく見ればまだ瞼を閉じ、まさに気を失った人間のそれを浮かべている。と、ゆっくりと持ち上がったアルテメネの右手が、彼女自身の右のこめかみに触れた。
「忘れたの?私はここにくるときそこの女に成りすまして貴方をだましたのよ?『写貌の仮面』。私の、もう一つの武器よ」
 あてつけのつもりだろうか。本人を前に、アルテメネの口から紡がれるのは霞の声色。同時に剥がされたのはたった一枚の、吹けば飛ぶような布。しかしそこには、先ほどまでの気絶した彼女の顔が描き出されていた。
「それは、油断しましたね。それにその声。生体の変容。亮の止血は、あなたですか。」
 声を途切れさせながら、霞が再び構えを取る。しかし、傷が深いのだろうか、左手は右の肩に添えられ、構えそのものにも勢いが無い。そんな霞をあざ笑うがごとくにアルテメネは霞の方へ向き直ると、手にしていた『仮面』をしまいこみながら笑みを浮かべる。訪れる、不気味な沈黙。固唾を呑む亮。
「……一つ」
 その中で、構えは僅かにも崩すことなく霞が口を開いた。
「どうしてそこまで神界にこだわるのですか、あなたは」
 その声は痛みに歯を食いしばってなお凛として揺らがない。
 確かめるように尋ねたその問いを、アルテメネは一度だけ鼻で笑う。呆れた、といわんばかりに顔をそらした彼女は、横目に霞を見ながらこたえた。
「聞いてどうするつもり?あなたが私の願いをかなえてくれるわけでもないでしょうに」
「当たり前です」
 即答し、一個人の願いのためになど、と続ける霞。その彼女にアルテメネの忌々しげな視線が投げられる。だが、アルテメネはその敵意に歪んだ表情を即座に嗜虐的な笑みに切り替えると、構えた霞にあわせるように数歩後ずさった。
「確かに貴女が言うとおり、私の『矛盾』はそのタネが分かればどうにもならない役立たずよ」
 言いながら、ゆっくりと両の手を背中に回す。亮でもわかる、何かくる、という予感に霞もまた身構えた。
「だから、私にはこういう小細工が欠かせないの!」
 言い捨てて、不意にドレスの背中、腰の後ろに回した両の腕を振るう。どこに仕込んでいたというのか、そこから飛び出したのは霞の肩に刺さっているのと同じ、その気になれば拳に隠れてしまうほどの金属の棒。身を翻しながら次々と投じられるその数しめて十五。右肩を庇いながらの霞にとって、広域からばらばらに襲い掛かるそれを足捌きだけでかわすことはかなわない。
「この際、面倒な貴女から片付けるわ!」
 叫ぶアルテメネを前に、ならば、と試みた『否定』。しかし、本来ならば音もなく霧散するはずの黒光りする針はなおも彼女めがけて突き進む。
 当然のことだ。その針は、アルテメネが一度も『書き換え』を行っていないもの。そして、常に、もちろん『神門』を通ったそのときでさえ肌身離さず持ち歩いていたもの。本来起こりえない外部からの情報の直接入力を受けた亮の脳内空間は、その時得た情報を鮮明に、それは、『固着化の否定』が通じないほど鮮明に保持していた。
 そして、それはアルテメネにとって何より喜ぶべきことだった。霞の語ったとおり、彼女の『矛盾』という能力は、その定義の複雑さ故に固着化された槍、既にそこに存在しているものにしか定義を与えられない。故に、元となる物体の存在を『否定』されてしまえば、そもそも実の無い能力は消えて失せる。しかしそれは同時に、『否定』されることの無い槍、槍でなくてもそう、たとえば長さ十センチに満たない針でもあれば、その能力は正真正銘、『最強の一』たりえると言うことでもあった。
「く……!飛鳥!飛鳥!飛鳥!飛鳥!飛鳥!」
 他に手はなかった。口上の読み上げは省略し、名前だけで五回、計二十の『飛鳥』を迎撃にあてる。流石の針も実体を持たない光の鳥に物理的な攻撃を与えることはできず、一方的に与えられる直接の攻撃には耐え切れない。結果、それはそれぞれに砕け、折れて地に落ちる。しかし、事はそれだけでは終わらなかった。
 亮の頭に、つつくような痛みが奔った。
 なおも、アルテメネは無言のまま、息の切れる音だけを響かせながら針を投じ続ける。対する霞も、応えて『飛鳥』を放ち続ける。
 何だこれは、と。目の前の光景に無意識に目を見開いて、見つめる。
 そして、延べ二十八の光の鳥が宙に見えた、その時のことだった。
「つっ……」
 脳髄が痺れるような、異常な感に思わず亮がしゃがみこみ、全てが、消えた。
――
 それは、過剰な『書き換え』を受けた世界の拒絶反応。もともとそのような情報入力を受けるように作られていない亮の体内回路、そこに描かれる電脳空間にとって、そもそも霞とアルテメネの能力の使用は歓迎されざるもの。それが繰り返され、蓄積し、一度に二十八もの『飛鳥』を体現したその時、限界点を迎えた漆黒の空間は一陣の暴風と共に全ての『飛鳥』を完全なる無に化した。
――
「な……」
「く……何よこれは!」
 同時に声を詰まらせて、突然の暴風に後ずさる二人の少女。叩き落された針をはさんで、はためく朱と漆黒を同時に見つめて、亮は一人立ち尽くしていた。
 無言で立つ。そこには、やはり意思らしいものはなかったのだろう。ただ、ここまで来ていまだ自分が何もしていないことに気付いた。自分のために闘ってくれる霞を前に、彼女を呼び出した自分が傍観に尽きていることに気付いた。それだけ。悔しくて、情けなくて、しかしその感情に飲まれるよりも、無力感にさいなまれるよりも前に、何よりもその好機に、気付いてしまった。
 二人の少女の意識は、いまや完全に自分から外れている。ならば、今このときにあって悩むことなどあろうか?
 意を決して、駆け出す。距離は僅かに十数メートル。全力で走れば二秒とかからない。しかし、上体を下げて肉迫するその姿に、漆黒の衣をまとった少女が気付くのにも、その少女が迫る人影に針を振りかぶるのに巫女装束の少女が気付くのにも、やはりそれほどの時間はかからない。
「白光!」
 刹那。轟く声。視界が白く染まって何も見えなくなる。自分に出来ることなど無いに等しい。その中で、突進した相手、少女のうめき声を聞きながら、ドレスの生地を頬に感じながら、亮は徹の言葉を思い返した。
『君が強く望めば、ちゃんと目の前に道が開けるはずだ』
 開け!
 そう念じたのは直後。捕らえた少女がもがく暇も与えない。視力を封じられた今、走る足は止まることなく、すぐそこに口を開いているのであろう俗界への門に向かって、抱きかかえた小柄な身体を放り込んだ。
「……!」
「……!」
 息を呑む音は二つ。身体を支える力がなくなったことに、そして自分の身体がとどまることを知らずにどこまでも落ちていくことに気付いたアルテメネのものと、いまだ戻らぬ視力の中、あと一歩で自らもその赤紫色の空間に足を踏み入れようとしていたところを突然引き止められた亮のものだった。
「まったく……。あなたまで飛び込んでどうするというのですか」
「……わりい」
 背後から聞こえた声、ほっとしたような、呆れたようなそれに一言礼を言って、そのまま亮は後ろ向きに倒れこんだ。
――
「傷、大丈夫か?」
 アルテメネと名乗った少女の姿はもうそこにはない。ただただ漆黒、無限に広がる闇の中で、地面に座り込んだ亮は、同じくすぐ横に座る少女、霞に話しかけた。
 その肩に刺さっていた針は既に抜きとられ、とりあえずの応急処置ということではだけた着物の下から包帯が巻かれている。もちろん、そのようなものを亮が常備しているはずもなく、霞の纏った巫女装束にもそのようなものを入れておけるようなところはない。それは、霞自身が創造したもの。仮にも人の指ほどの針が刺さっていたのだ、それなりに痛みもあるであろうに、振り返った彼女の顔はなんでもない、といわんばかりに澄ましていた。
「ええ、私の方は大した怪我ではありませんから。むしろ亮、あなたの左手の方こそ大丈夫なのですか?」
「ああ……、大丈夫かって言われるとそういうわけでもないんだけど……」
 いまだ無残に風穴を開けた左手。目の前にかざせば向こう側がのぞいて見えるそれを横目に見ながら答える。ぽっかりと不自然に貫通したそこは相変わらずジクジクと痛み、しかも血が一切出ていない事が余計に不気味で、自分の身体だというのに直視することさえ厳しいものがあった。が、この世界における亮の身体はあくまで本来の肉体をコピーした一時的なもの。元の世界に戻ってしまえば、この傷も、腕や脚の擦り傷、切り傷も、わき腹に出来た打身の痣もすっかり消えてしまっていることだろう。最もそう思ったところで痛みは毛ほども治まらず、痛む掌を庇いながら亮は立ち上がる。見上げる霞の視線を感じながらその場で軽く伸びをすると、横の少女の顔からわざと目をそらして、言った。
「で、お前これからどうするんだよ?」
 動悸する胸を押さえて、尋ねる。
 考えてみれば、至極当然の問いではあった。アルテメネが残した言葉。『暁の村』は既に潰えたというその言葉の真偽はいまだ定かでなく、果たしていかなる経緯で霞がここにいるのかも分からない。目の前の脅威が去り一段落ついた今にあって、自ずと亮の興味は霞のこの後に向いていた。
「……そうですね」
 彼女も予想はしていたのだろうか。僅かに取られた間に、亮の胸の動悸はより激しくなる。落ち着かない心に思わず拳を握り締めた亮の横、同じく相手の方には横顔だけを晒して霞が立ち上がった。
「あいにくと、私の『村』は既に崩れて、本来私の帰るべき場所はもうありません」
「あ……」
 あれは本当だったのかと、思わず少女の方に振り向く。対する霞は相変わらず振り返ることなく、それどころかどこか心地良い冷たささえ感じさせる静寂のもと瞼を閉じる。
「情けないことです。絶対に最後まで守り抜くと誓ったのに、守るどころか何も出来ぬままに終わってしまいました」
 そう語る少女は、その時何が起こったか知らないのだろうか、あるいは、知ってなお知らぬふりをしているのか。亮にそれを知る術はなく、ただ続く彼女の言葉に耳を傾けるのみ。
「しかし、どういうわけか私はなおここにこうして在ります。あの世界が潰える時がこの身の果てる時と思っていたのですが、そういうわけでもなかったのでしょうか。だとすれば、その、私がここにいる意味とは一体何なのでしょう?」
 その時。まさか、と、不吉な予感が亮の脳裏をよぎる。
 目の前の少女は、一度はその身を捨ててでも、今にも崩れようとする世界を守ると言った。それが自分の役割、生きる意味だと言った。しかし、今少女の手の中にそれはない。守ると誓った世界はとうに潰え、そこに住まう命もなく、ただその身ひとつだけがそこにある。
「思うに……」
 かけられる言葉はなく、拳を握り締め、ただ見守る亮。その目の前で、ゆっくりと、閉ざされた霞の瞼が開かれた。
「具体的な手法は分からずとも、私は確かにあなたの呼びかけに応じてここにあります」
 ……え?
 彼女の言葉の真意がつかめずに一瞬亮の意識が硬直する。当然、それで霞の言葉が止まるはずもなく、なおも凛とした目を開いて彼女は続けた。
「もしも亮、あなたが私の助けを必要としたのでしたら、この先もそうであるのならば、私はそのためにここに在りましょう。あなたが私の助けを求めて私を呼び出したのだとすれば、それこそが私の新たな役目であると心得ます」
 言って、「いかがですか?」と振り返る。あくまで相手の意見を求め、返事を待つその表情。と、そこに突然微笑が浮かんだかと思うと、クスリと、さもおかしそうに口に手をやって霞が笑った。
「何を驚いているのですか?亮、あなたの今の顔は相当間が抜けていますよ?」
 フフフ、と目を細めて笑っている霞。嫌な予想を見事に裏切った答えに、まさに「キョトン」としていた亮。まるで身体から嫌なものが溶け出していくような、解き放たれたような感覚に力なく笑った。
「ああ……是非、よろしくお願いします」
 そう言って、傷ついていない方の手、右手を前に差し出す。
 今度は霞がキョトンとする番だった。差し出された手を不思議そうに見つめて、すっと整ったその目を瞬かせる。
「……なんですか?」
 しばらくの間。顔を上げて尋ねられて、ようやく亮は彼女の胸中を察した。「ああ……」と小さく呟いて、軽いため息の後に答える。
「これは握手って言ってだな。挨拶の時とかに……」
 言いながら自分で霞の、その白く細い右手を迎えに行くと、驚いたように引かれるそれを半ば強引に捕まえる。
「こうやって、お互いの手を握るの。『よろしく』っていう意味で」
「……なるほど。そうでしたか」
 握る亮の手をたどたどしく握り返す霞の手。滑らかな肌触りについに亮がふいと視線を横に外した時。ふと、その手に、応えるような力がこもった。
「こちらこそ、よろしく」
 その瞬間、亮の脳裏によぎったこと、徹になんと言って説明しようか、などという思いを霞が知り得るはずもなく。どこまでも無限に続く闇の中で、二人の話し声だけが聞こえていた。