終章

 終章

 頭の中で、歌が聞こえる。
 柔らかい音色は人の声でありながら、そこには歌詞、旋律に乗せられた言葉が無い。
 それはまるで変わった楽器のような音。
 そこにあるのは、繊細に空気を振るわせる音色と、清い流れのような旋律。
――
「ん……」
 朝、まだ深いまどろみの中で、しかし亮の瞼はゆっくりと開かれる。ベッドの隅に置かれているはずの目覚まし時計は、無残にも寝ぼけた腕に叩き落されて床に転がっている。
「……何時だ、今」
(時刻は分かりませんが、先ほどから下でお母様がお呼びですよ?)
 目をこすりながら呟いた亮に、どこからともなく聞こえる声がある。思わず辺りを見回して、カーテンの隙間からうっすらと差し込む日の光に目を細め、ようやく亮は声の主に気が付いた。
(霞、お前また歌ってただろ……)
(文句は聞き飽きました。亮こそ、いい加減なれたらどうなのですか?)
 声には出さず、念じる形で言葉を返すと、軽いため息交じりの返事が返される。つん、と澄まして言う姿が目に浮かぶようで、亮は一人苦笑した。
「亮!いい加減にしないと遅刻するわよ!淳はもうとっくに……!」
「はいはい、今起きた!」
 階下から聞こえる母親の大声に同じく大声で返して、まどろみの中から覚めつつある意識で亮は廊下へと出て行った。
――
 霞がそのまま残る事が決まった際、真っ先に上がった問題はやはり徹達への報告だった。なんと言っても、頭の中に紛れ込んだ侵入者を追い出すはずのところが、それと入れ替わりに別の人間が住み着くことになったのだ。どうして説明しようかと頭を抱えて、口ごもった亮の口から、不意に自分のものではない言葉が飛び出した。
 仰天する亮をよそに、勝手に亮の口を使って喋る霞。当初は警戒の色を浮かべた徹も、まくし立てるような霞の言葉と、凛の「いいじゃない。私は信じるよ」の一言、たった一言で現状容認を認めたのだった。そう、あまりにあっさりと。
 とはいえ、霞にもまったくの制限が無いわけではない。彼女に与えられたただ一つの制限は、独断で、亮の身体を用いて対外的な動作を行わないこと。下手なことをして仮想空間の存在が世に知れれば、たった一台のコンピューターの命運などどうなるか分かったものではない。情報の漏洩を防ぐためだ、と徹は言っていた。そのくせ、例の、智の父が残した粉の量が足りないから、霞は亮の頭の中に当分居るということで、などと話を勝手に決めてしまうのだから、溜息が出る。
――
(それにしても、亮の能力には驚きました)
 母親に急かされながらせっせとオムレツを口に運ぶ亮の頭の奥で、霞が語りかけてくる。
(情報記憶体に接続しながら、書き換えるのではなく、情報を呼び出し、転写する、ですか。)
(ああ、そんなふうに言ってたな)
 徹曰く、亮が霞を脳内空間に呼び出すことができたのも、『村』にいた時から時々知りもしないはずの知識が勝手に溢れ出してきたのも、全てはこの能力によるものらしい。世界の中枢、仮想空間のプログラムに接続し、そこに己の技量の範囲で書き換え、消去を行う霞の能力とは違い、その更に奥、コンピューターそのものに接続して、その中から情報を選別し、場合によってはそれを己の眼前に転写、再現する能力。『村』がなくなると同時に既に存在しないことになっている霞を呼び出す事ができたのは、過去、まだ霞が仮想空間内に存在していた間の情報を選別し、それによって脳内空間に霞という存在を転写したから。亮がいわば『管理者』にあたり、随一の支配力を持ちうる亮自身の脳内空間であるからこそできた荒業だと、呆れたように徹は言っていた。
――
「じゃあ、行ってきま〜す」
「走りなさい!遅刻するわよ!」
 怒鳴り声に見送られて玄関を飛び出す。住宅街、冬の寒空から降り注ぐ日の光は澄んだ空気を張り詰めさせる。霜の降りた生垣の横を走りながら、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
 結局アルテメネが何を望んだのか。それは最後までわからなかった。嗜虐趣味を垣間見させるかと思えば、必死になって向かってくる。ああまでして、あのまだ幼いとも言える少女は何を望んだというのか。それは今もわかっていない。
 わかっていないが、しかし今の亮には既に、それに言及する気はなかった。たとえばその願いがどれほど切実なものであったとしても、亮の身体を彼女に渡すわけにはいかないし、霞の言葉を借りれば、「個人的な願いのために世界を変容させる無限の力を手にすることは絶対にあってはならぬこと」。一つの願いが通れば必ずどこかで潰えた願いもあろう。願いとは本来、対立する願いと対等に戦って勝ち取るものでなければならない、と、その戦いに他の力を用いることはあってはならない、と霞は語った。
「あ、我らの英雄が走っておられる」
「あ〜!ホントだ〜!」
 ふと、横断歩道の対岸からかけられた声援に視線を泳がせる。
 結局二日半、散歩にしてはあまりに長い亮の外出に徹が与えた言い訳は、「二日間に二回、駅前の不良集団と乱闘を起こして、怪我をしたので入院していた」というものだった。実際は、二回目は亮の身体を乗っ取っていたアルテメネによるもの。一回目はと言えば、「いやあ、『電話ボックス』を回収する時にちょっとトラブっちゃってね。面倒だから一人二人気絶させて逃げてきたんだ」ということらしい。どこからか、その噂はあっという間に広がり、いまだ翌日であるというのに既に学校の四割、あるいは五割は、主に女子を中心にその噂をどこかしらから耳に入れていた。
(すっかり人気者ですね)
「迷惑な話だ」
 からかうように言う霞にボソッと呟く。その声に僅かにこもった憎しみ、もう少しましな言い訳をしてくれなかった徹に対するそれを察知したのか、横に立っていたサラリーマンが一歩、亮との間合いを開いた。
(信号灯の色、変わりましたよ。)
「ああ」
 いよいよ全速力で走らなければ間に合わない。亮はその場で足首を回すと、勢いよく駆け出した。
 徹のところから帰ってきたその日。半日を共に過ごしてわかった事がある。新たに自分の頭の仲に住まうようになった少女、霞。言葉はどこか硬く、いつも巫女装束で、味噌汁と煮物とご飯を炊かせればピカイチだが他のものは一切作れない彼女。たとえプログラムだと言われようとも、彼女は紛れもなく彼女だ。誰がなんと言おうとも、彼女は結局、亮と同い年程度の少女でしかないのだ。本当だったら、二日、時間にすれば二日にも満たない間であってもあれだけ濃い時間を共に過ごした、その間だけで気付いてもよさそうなものなのに。最初に「プログラム」と聞いたときに僅かなりとも動揺してしまった自分が恥ずかしかった。
(あ、何か鳴っていますよ。あれはなんですか、亮?)
「ヤッベェ!遅刻だ!」
 登校時間を告げるチャイム。遠くから聞こえるそれに続いて亮の悲鳴が冬の寒空に響く。
 「なんですか?」と何度も尋ねる霞に必死で説明しながら亮は歩道を全速力で駆け抜けて行った。