「さて、それでは、だ」
「……何が?」
 部屋から出て行こうとして、ドアの取っ手に手をかけたままで固まった晋治は尋ねる。そのズボンの裾にはがっしと猫の爪が立てられていて。布地を突き破ったそれが時々ふくらはぎを掠めるようでは、逃げようにも逃げられない。
「何、だと?忘れたのか?お前が、今朝、人の話から逃げてそのままどっか行ったんだろ?まあ俺も馬鹿じゃない。用事があったんなら仕方も無いだろ。だけど、やっぱりちゃんと聞く話は聞くべきなんじゃないか?ん?」
「ああ……」
「ん?」
「……はい。」
 横目に睨まれて、大人しくその場に座り込む。満足そうに牙を除かせるその顔を前に、悪態だけは飲み込んで。

 妖怪、精霊、物の怪、怪物、人でもなく獣でもなく草木でもない、おおよそ人間の定義する生物の範疇には収まらない、その多くが人伝い、口伝いの物語の中だけに語られるものたち。それらは、確かに存在している。九十九神などと呼ばれる、物に意思が宿った様なもの。猫又、稲荷など、長生した生物がある日異質なものへと転じたもの。精霊などと呼ばれ、どこからとも無く存在しているもの。そういうもの全てが、確かに存在している。
 しかし、彼らは存在しながらにして存在しない。そのようなモノに転じたその瞬間から、それらは皆世界の大筋、表舞台からは外れることになる。世界を創るのはあくまでそこに正しい形で生きている、存在しているものであり、その本来の形を失くした、あるいはもともと持っていなかったもの達は裏側でしか生きることを許されない。だから、世界の大筋に生きるもの達、正なる存在からは基本的に感知されず、故に世界に生き、創ることは許されず、それはある意味『存在していない』。
 もちろんその中にも例外はある。旅人をばかす狐がいるように、それらの存在がその気になれば、間接的であれ直接的であれ、正なる存在に観測されることは不可能ではない。しかし、たとえば人間が、気まぐれで野良猫に目をやることがあっても全ての野良猫の面倒を見よう、などとは思わないように、彼らもまた、気まぐれで正なる存在と接触することはあっても、わざわざ必要以上に密接になろうとはしない、思わない。そうやってこの世界は回っている。

「ふうん……。」
「……」
 一通り聞き終えた晋治の口からは、一見驚きも何も感じられない声。対する猫もただ無言で、話しつかれた、といわんばかりに欠伸を一つ。
 実際のところ、晋治にそれほどの驚きは無かった。それよりも思ったのは、随分と危ういバランスの上にこの世界があるんだなあという平坦な感心。それこそ自分でも驚くほどに、聞かされた内容をそのままに理解して受け入れてしまっていた。
「……驚かないのか、とか、聞かないのか?」
「聞いて欲しいのか?」
 自分のことよりも、むしろ相手の対応の方が気になって尋ねた晋治に、白猫はそう尋ね返す。ただちょっと気になっただけだった手前、言葉に悩んだ晋治を前に彼女は続けた。
「別段、今更聞くようなことでもないだろ?お前は、俺の正体を明かしたそのときから既にほとんど驚かなかった。それはそういうことに耐性か、慣れか、そのどっちかがある証拠だ。そんな奴にこの話をしたところで、端から必要以上の感情をもたれようとは思ってないさ。」
 そういえば、そうだ。
 確かに、晋治は、この目の前の白猫の正体が猫又だと聞いてもほとんど驚かなかった。御伽噺か怪談にしか出てこないような存在の名前を聞かされても、眼の前にある姿だけでほとんど納得して受け入れていた。
「どうして……だろうな?」
「何が。」
 答えるついでに、猫は一つ大あくび。
「どうして、俺はお前の正体や、今の話がここまでスムーズに受け入れられるんだろう?」
 言ってしまってから、質問の馬鹿さ加減に気がつく。自分でも分かりようのない事がどうして他人に分かるのか。ああ、どうせ呆れ顔でなにか小言でも言われるんだろうな、などとちょっとした覚悟をしながら相手の顔色を窺う。
 意外。そこにあったのは呆れたような、上瞼を垂らした顔ではなく、何かに歯噛みか舌打ちでもするような憎憎しげな表情で。
「知るか。」
 そう、一言だけ答えて、その白い猫又は晋治の机の下にもぐりこんでしまった。
 振り返る瞬間、一瞬だけ晋治の肩の辺りをキッと睨みつけて。