なんだろう。頭に、何かが当たっている気がする。ふにふにと柔らかくて、そこに時々何かが擦り付けられている?
 ……そういえば、左右のこめかみの辺りがちくちくと、つつかれるみたいに痛いような……。
「……い、お〜い、起きろよ〜。」
 慣れない妙な触感にだんだんと眠りから抜け出してくる意識。伴って、どこからか聞こえてくる声と唸るようなゴロゴロという音。
 ああ、確かに俺は夏休みの初めと終わりには必ず髪を切る。現に一昨日行って、ばっさり短くしてきたところだ。だけど……
「俺の頭は束子じゃねえ。」
 人の頭にじゃれ付いている無礼なそれを捕まえようとして、逃げるついでに腕を後ろ足で引っ掻かれた。その痛みでようやくある程度目が覚める。反射的に引っ込めた腕を押さえて、表皮を焼くような痛みをこらえながらうらみの視線を横に流す。
「いやあ、なかなか悪くないな、お前の頭は。枕にするのに良さそうだ。」
 そう、悪びれもせずに顔を洗っているこの白猫にだ。
「いいか。俺の頭は束子でもなければ枕でもない。朝っぱらから気味の悪い起こし方市内でくれ。」
「お、心外だな。この間まで時々飯もらってた婆さんは……」
 ぺらぺらと喋り出したソイツを他所に時計に目をやる。六時半。台所にはもうお袋が起きているだろう。一応部屋の扉を閉じてはいるが、昨晩といい今といい、この奇妙な会話を聞かれていなければ良いけど。
「こら、人の話を聞け!」
 と、布団から起き上がった足を思いっきり引っ掻かれた。思わず口をついて出た悲鳴に台所の方でお袋が「どうかしたの〜」なんて言ってる。
 とりあえずそれに「なんでもない」と返事を返して、足元で不機嫌そうにこちらを睨みつけながら爪をちらつかせている暴行犯に向き直る。
「おい、いいか。」
 嬉々として喋り出そうとするそれの先を打って口を開く。強めの口調で言ったのが良かったのか、腰を落として目線を下げた俺の前でソイツも大人しくその場に座る。
「話し相手の役は仕方ない、しばらくの間買ってやる。その代わり、絶対に平然と人の前にでてきたり、まして喋ったりはするなよ。いいな?」
 現代に現れた本物の猫又。尻尾は二つに分かれ、人の言葉を喋る。そんな生き物が堂々と街中を歩いたりすれば……考えるまでも無い。ご近所の噂ですめば良いようなもの、テレビなんかが来たりしたらもう一大事だ。間違いなく我が家は好奇の目に晒される。平穏が奪われる。下手をすればどっかの動物園まで出てくるかもしれない。そうなるともう……。
 趣味が故か、最悪の想像が次々に浮かび、苦悶する俺。しかし当のソイツは、
「やなこった。」
 そう、言い放ってくれた。
 あんぐりと口を開き、呆然と言葉をなくす俺の前でソイツはスッと立ち上がると、猫独特の身軽さですぐ横の机の上に飛び上がる。まだ新学期が始まっていない故に整理された机の一角に座り込んで俺を見下ろす。嫌ならば立てばいいじゃないかと言われるかもしれないが、恥ずかしながら、少し高いところからソイツに睨みつけられた俺はその場から動けなくなっていた。
「二十年も生きていない人間の小僧が俺に指図するつもりか?ふざけんじゃねえ。身の程を知れ。弁えってもんを知らねえのか?」
 それまでの図々しくも軽い口調からは考えられないほど、小さく、冷たく、ずっしりと重い声で言うその言葉は、睨みつけてくる表情に負けず劣らず俺をその場に釘付けにして動くことを許さない。
「……。」
「……まあ、考えてもみろ。」
 どれほど経ってからか、俺が何も言えずにただ黙り込んでいると、ようやくソイツは一つため息をついて言葉を続けてくれた。
「ちょっと外を歩いただけで騒ぎになるようだったら、今頃世界は妖怪、化物、幽霊の話が溢れすぎて、怪談なんてなくなっちまうぞ。」
「それも……そうか。」
 のしかかるようにさえ感じられた重圧が解けたのに乗じて立ち上がる。
 確かに、町を歩いた程度で簡単に見つかってしまうようでは、今のような世界は成立しない。たとえばもっとあちこちで妖怪の目撃談は聞こえるはずだし、もしかしたら社会の中に混ざりこむような化物もいるかもしれない。そうならないということは、そうならないようにする手段がこいつらにはあるということなのだろう。まあ、じゃあどうして俺はこいつが見えるんだろうとか、いろいろ気になることはあるけれど……
「……。」
 まるでその問いを待っているかのようにこちらを見上げているその金銀の目を見て、止める。そんなことをしたら、それこそこいつのスイッチをいれてしまって始業式早々遅刻しかねない。さすがにそれは頂けない。
 急に背を向けてその場を動いた俺の後をジッと追ってくる視線を感じながら内心で冷や汗を流して、俺は一度、唾を飲む。
 背後からはいかにも喋りたそうなうずうずとした気配が伝わってきて、しばし流れる無言の時。そして、
「おい、まさか……」
バタン
そのまさか。昨晩身の上話だけで俺を三時過ぎまで無理やりつき合わせた誰かの我慢が限界に達したのとほぼ同時に、俺はその場を逃げ出して後ろ手に扉を閉めたのだった。