5-4

「後どれくらいかかるかな?」
 朋が、尋ねる。
「さあな」
 気のない返事を、智が返す。
 暗闇、漆黒の中に腰掛けて並ぶ二人。鮮やかな赤と、ほとんど周囲に溶けて見える黒。翠色の瞳と、色白の肌。そして、二人の目の前、普段であれば何もないはずの空間に今は一つ、大きな、赤い、グロテスクな球体が浮かんでいた。
 たとえるならば、巨大な獣の心臓を限界まで膨らませて、脈打つその瞬間のまま固めてしまったような。不気味な柔らかさを連想させるその外見とは裏腹に硬く、並みの刃では貫けない。時に防護壁となり、時に牢獄となるそれは、形式上この空間、普段は色々な仮想世界を放浪している智と朋がホームグラウンドとするために作り上げた簡素な世界の管理者に当たる智がアルテメネのために作り出したもの。この球体の中に居る彼女の望んだ力、その威力を試すにあたって一番手っ取り早いだろうと思われた、いわばトレーニングマシーン。
「まあ、必要なことは一通り教えたさ。あとは、アレ次第だ」
 本当に、そんなことには興味がないといわんばかりの声。挙句、ため息。さすがの朋でさえも時々これはどうなのかと思ってしまう。それでも、なんだかんだいって自分の興味が一番強く向いている先はおおかたの場合彼と同じだから文句は言わない。言う筋合いもない。
「……うまく、いくかな?」
「とりあえずここをクリアしてくれないとな。話が先に進まない」
「でも、ここから先に進めればあとはどうなってもとりあえずは及第点、と」
「その通り」
 智が言って、二人で笑う。他人が聞けば腹の底から身震いするであろう、冷たく、嗜虐的で、どこか深いところから湧き上がってくるような笑い声。球体の中に居るアルテメネに聞かれることはない、智と、朋にしか聞こえない秘密の話。でも、それでいい。物語の登場人物はその筋書きを知らなくていい。それは、物語を作って、楽しむ自分たちだけが知っていればそれでいい。
そう、それで、いい。
「それにしても、長いなあ……」
 退屈という物に一度捕われてしまうとなかなか逃れられないもので、溜息もそこそこに伸びをしながら言う。
 アルテメネが智の作った球体の中に入って、もう五時間は経った。一応六時間で一度休憩と言って、「何?教えてくれるんじゃなかったの?」と抗議をするアルテメネを押し込んだは良いものの、中では一体どうなっているのか。
 智の創造したこの不気味な球体には一つの特性があった。それは、球体の内部と外部が完全に断絶された瞬間以後、内部における物質の変化、消滅、発生を強力に抑制するというもの。閉ざされた空間の内部のみにおいて全ての新しい創造を否定し、最初の形を保とうとする性質。故に、存在定義の脆弱な創造物はその内部で存在することを許されず、逆にその中でも存在しうる物を創造して見せなければ絶対に内部から脱出することは適わない。
「退屈なら、他所にでも遊びに行くといいさ」
 することもなく、ごろごろとその辺を転がっていた朋が動きを止めた。止めて、声の主、左手の智の方へ眼だけを向ける。
「適当に巡るだけでもまあ、それなりに面白いところはあるだろ」
「う〜ん」
 しばし、思惟。大きな欠伸を漏らしている、智の白い肌を見つめて……。
「や〜めた!」
 『足場』をなくして急降下。『重力』の向きを変えて横向きに急速進。智の真下まできたところで、『重力』を再び変えて急上昇。
 その間、僅かに二、三秒。そのまま、その場に座り込んでいる智の背中に抱きつく。
「僕はいつでも智と居るの。一人でどっかに行かないもんね」
「……ああ、そう」
 締め付けるように腕をまわしてくる朋に肩をすくめてそう言って。
 そのときだった。
 轟音。横向きに飛んでいく赤い瓦礫、それよりもさらに細かく砕けて粉のようになってしまった欠片は煙のように舞い上がる。伝染するように、赤い球体の表面にひびが走り、砕けた。
「ほう」
 つぶやく智の視線の先には黒いドレス。少女の細い腕の面影がうっすらと見えて、衝撃に軽く靡く白銀の髪。一人の、少女。その右手には、小型の突撃槍。その左手には、彼女の肩の高さほどもあろうかという巨大な、飾り気のない盾。
 アルテメネが、立っていた。
「……行くぞ」
 しかし、智の口から賞賛の声はまだ出ない。発せられるのは、宣戦布告の一言。
 無言のうちに横に突き出した右手。その手を、強く握り締める。そう、軽く爪が掌に痕をつける程度に。
 そして、そのとても僅かな感触、それを媒体に智は蒼いゼリー状の物体。彼の盾であり、武器であるそれを創造する。
 盾としてではなく、刃として創造されたそれは奔り、アルテメネに肉迫する。本来柔らかいその身を自ら押し固め、先端を鋭く、鋭く尖らせて。
 一閃。盾に弾かれる。
 次の一閃。一閃目と寸分たがわず同じ場所に命中したそれは、ややあってから上方にいなされる。
 そして、三の一閃。すかさず下ろされた盾の、またしても同じ場所を狙い打ったその一撃は二撃目同様ややあって……盾を、粉砕した。
「……」
「……」
「……」
 しかし、三人とも、何かを口にするどころか身じろぎすらしない。息を呑むわけでもなく、ただ、その現実を見届ける。
 盾は確かに壊れて、もうアルテメネの身を護るものはなかったはずなのに。最後の一閃は最初の軌道を大きく外れてアルテメネの横の闇にまっすぐ落ちて行っていた。